【保存版】センター試験世界史B 全出題箇所まとめ③(1200年~1500年)

●1200年~1500年の世界

アメリ
アステカ人がメキシコ高原の広域を支配する
 北アメリカのメキシコ高原中央部は,テスココ湖の北西のトゥーラなどの諸都市が栄えます。
 トゥーラは1150~1200年に衰退。
 テスココ湖周辺には,シャルトカン,テスココ,テナユカ,アスカポツァルコ,クルワカン,シコなどの新興国家のほか,ウエショツィンコ,トラスカラ,センポアラなどの以前からの国家などが並び立つ状況でした。

 トゥーラの繁栄の後,14世紀後半にメキシコ高原中央部に進出したのは狩猟による遊動生活を送っていたナワトル語系チチメカ人の一派です。
 彼らはその現住地とされる「アストラン」から,のちにアステカ人【追H26地図上の位置を問う】【本試験H30】と呼ばれるようになりますが,自称はメシーカ(メキシコの語源)です(注1)。彼らの国は一般に「アステカ王国」と呼ばれます。
 アステカ〔メシーカ〕人は,先住のティオティワカンの都市をみて,これを崇めたてまつって「「神々の都市」(テオティワカン)と命名。そして,テスココ湖の無人島に定住しテノチティトラン【追H24ポルトガルの海外拠点ではない,H28アステカ王国の首都か問う】【本試験H11インカ帝国の中心地ではない】【本試験H21,本試験H25,本試験H30】(「サボテンの実る地」という意味)を建設。現在のメキシコシティ【本試験H25】は,このテノチティトランに築かれた都市です。

メシーカ〔アステカ〕人の経済的基盤は農耕です。
 2100mの高山の気候に対応するため,湖に浮き島(チナンパ)をつくることで農地を増やし,その上でトウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】),トマト,カボチャ,豆などが栽培されます。

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◆〈コロン〉(コロンブス)がカリブ海の「西“インド”諸島」に到達する
アラワク人がジェノヴァ人の〈コロン〉と接触する
 1492年【セ試行 ポルトガル船がインドに到達する前か問う】にジェノヴァ上智法(法律)他H30】の船乗り出身の〈コロン〉(コロンブス) 【上智法(法律)他H30】が,スペイン王〈イサベル〉【上智法(法律)他H30ジョアン2世ではない】の支援を受けカリブ海に到達しました。
 現在のバハマにある島をサン=サルバドル島【追H27クックではない】と命名し,キューバ島イスパニョーラ島(現在のハイチ(ハイティ)とドミニカ共和国)を探検しました(第一回航海,1492~93)。

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しかし一方,アンデス地方の中央部では,クスコ周辺に分布していたインカ人が1438年頃から〈パチャクテク〉王(位1438~1463)により,北は赤道付近,南は地理の中部までの広大な領域に活動範囲を広げ,クスコ【本試験H11テノチティトランではない】【本試験H24ポトシではない,H29ポトシではない】に首都を整備しました(◆世界文化遺産「クスコの市街」,1983)。

 1470年代からチムー王国を攻撃して,支配下に加えました。インカ人はこの領域を4つにわけ,タワンティン=スーユ(4つの地方)と呼びました。これがいわゆるインカ帝国【追H26地図上の位置を問う】です。のちにスペイン人は,皇帝が“太陽の子” 【追H26王が太陽の子(化身)として崇拝されたか問う】【本試験H11:太陽神ラーは崇拝されていない。王が「太陽の子として崇拝され」ていたか問う】【本試験H31皇帝が太陽の化身(太陽の子)とされたか問う】として強力な権力でアンデス地方を支配していたと報告したため,「ローマ帝国」のような確固たる領域を持つ国のようなイメージがつくられていきました。

冬至に行なわれる太陽の祭り(インティライミ)は国王の権力を国民に見せ付ける上で,特に重要で盛大な儀式でした【本試験H11亀甲や獣骨を焼いて,そのひび割れによって神意を占ったわけではない】。


人口調査も巡察使に行わせ,それにもとづき徴税し,記録はアルパカやラマの毛から作った縄の結び目で数量を表すキープ(結縄) 【東京H12[2]】 【本試験H11象形文字ではない】【追H24】【本試験H18,本試験H21ユカタン半島マヤ文明ではない,H29共通テスト試行,本試験H30】【中央文H27記】でおこないました。労働による徴税(労務のことをミタといいます)もあり,神殿建設や農作業に従事させました。
 そのために張り巡らせたのが,南北にのびる「インカ道」(四大街道(カパック=ニャン))の整備です。駅舎や倉庫をもち,駅伝方式で情報や貢納品を飛脚(チャスキ) 【東京H12[2]】に伝達させたのです。インカの首都には巨大な倉庫があり,貢納品が各地から大量に輸送されました。インカ人の支配層はこのような方法で1000万人を超えたといわれる領域内の人々を把握しようとしたのです。
 1911年に考古学者〈ハイラム=ビンガム〉(映画「インディ=ジョーンズ」のモデルと言われます)によって発見された,標高2400mの“空中”都市マチュ=ピチュ【本試験H17,本試験H28】(◆世界複合遺産「マチュ=ピチュ」,1983)に見られるように,すき間なく石を積み上げる高度な石造技術も特徴的です。マチュ=ピチュは貴族のリゾート地とも,避難所ともいわれています。ちなみに,標高3400mの首都クスコ【本試験H11テノチティトランではない】【本試験H19マヤ文明ではない】にあった太陽神殿は,スペイン人による破壊により現存しません。
 なお,彼らの言語はルナ=シミ語といい,スペイン人はそれをケチュア語と呼びました。現在のペルーの第二公用語となっています。

 

 

オセアニア
ニュージーランドに移住したポリネシア人マオリ【セ試行 絶滅していない】といい,狩猟・採集・漁労文化を発展させました。彼らは当初から「マオリ」と自称していたわけではなく,ヨーロッパの人々と出会って以降,自分たちのことをそのように区別して呼ぶようになったと見られています(「マオリ」はマオリ語で「ふつうの」「正常の」という意味)

 


●中央ユーラシア
ウイグルがキルギズにより840年に崩壊してからというもの,モンゴル高原には統一政権が存在しませんでした。契丹や金が,遊牧民がまとまり強力な政権が生まれないように画策していたためです。

 モンゴル人の拠点は,黒竜江(アムール川)上流のオノン川。12世紀後半の時点では,周囲のケレイト部(モンゴル高原中央部)や,ナイマン部(モンゴル高原西部)にくらべて弱小勢力でした。

 そこに現れたのが〈テムジン〉【立教文H28記】という男です。彼は有力氏族のボルジギン氏に属し,父はタタル部(モンゴル高原東部)に毒殺されました。
 彼は1200年~1202年にかけてモンゴル部族とタタル部族のリーダーとなり,1203年にはケレイト部を倒しました。さらに,ナイマン部を中心とする連合軍を破って,1206年にクリルタイ【東京H18[3]】【本試験H3】【本試験H26三部会ではない】【追H21】【立教文H28記】と呼ばれた会議で〈チンギス=ハン(カン)〉(位1206~27) 【追H27モンゴル帝国を建てたか問う】 【本試験H4】【H29共通テスト試行 系図】と名乗ることを認められ,モンゴル高原を統一しました。

華北へのモンゴルの進出は1210年代には始まっていました。とき同じくして黄河の大氾濫が起き,混乱に拍車がかかります。
 〈チンギス=ハン〉は巨大な部隊を引き連れ,すでに西遼(カラキタイ) 【本試験H23,本試験H27】を滅ぼしていたナイマン部(10世紀~1204) 【本試験H23ウイグルではない】,トルコ人奴隷(マムルーク)が建国しゴール朝を滅ぼしていたイランのホラズム=シャー朝(1077~1220)【本試験H13滅ぼしたのはガザン=ハンではない,本試験H24,本試験H31チンギス=ハンが滅ぼしたか問う】【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない,追H29滅ぼしたのはアルタン=ハンではない】と大夏(西夏,1038~1227)を滅ぼしました(注1) 。

 〈チンギス=ハン〉は広大な領土を東西に二分し,3人の弟に軍民が与えられ「東方三王家」(左翼三ウルス)となりました。ウルスというのは「土地+人々」を合わせた呼び方で「国民(くにたみ)」と訳されることもあります(注2)。
 また,西方には長男から三男に軍民が与えられ,「西方三王家」(右翼三ウルス)となります。このうちロシア方面に置かれたのは長男の〈ジョチ〉(ジュチ)で,のちにキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)【京都H19[2],H22[2]】と呼ばれることになります。
 中央アジアには〈チャガタイ〉(チャーダイ)と〈オゴタイ〉(オゴデイ)が配置され,末子〈トゥルイ〉はモンゴル高原に置かれます(末子(まっし)相続の風習のため)。

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 〈フビライ〉の後継者は,末子相続の風習にのっとれば〈トゥルイ〉ということになりますが,実際に継いだのは〈オゴデイ〉(オゴタイ,位1229~41) 【本試験H2大都に都を置いていない】【追H25モンケとのひっかけ】でした。彼は,モンゴル高原カラコルム【京都H20[2]】【本試験H2大都ではない,本試験H12匈奴が建設していない】【本試験H19オゴデイのとき,本試験H18黄河上流ではない,本試験H28地図上の位置を問う】【追H30建設者を問う】【中央文H27記】という新都を建設し,駅伝制(ジャムチ【京都H20[2]】【東京H6[1]指定語句,H15[3],H20[3],H27[1]指定語句】)を整備しました【※東大の頻度高い】。
 通行手形(パイザ,牌符,牌子【東京H20[3]】)があれば領内を安全に通行することが可能でした。
 1234年に女真(女直)人の金(きん,1115~1234)を滅ぼしました【本試験H19】【追H25モンケではない】。

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さらに〈バトゥ〉(1207~55) 【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【本試験H31チンギス=ハンではない】【追H25ロシア遠征したか問う】が,ユーラシアの草原地帯を走破して東ヨーロッパに進出し,1241年にワールシュタット(ワールシュタット〔ヴァールシュタット〕とはドイツ語で死体の山という意味です【セ試行 モンゴルは敗れていない】【本試験H3 時期(クビライの「即位後ただちに」ではない)】【本試験H31チンギス=ハンによる戦闘ではない】【追H24オスマン帝国がドイツ・ポーランド連合軍に勝利したものではない】。
 現在はポーランドレグニツァなのでレグニツァ(ドイツ語ではリーグニッツ)の戦いといいます)の戦い【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前かを問う)】で神聖ローマ帝国【本試験H31「ドイツ」】・ポーランド【本試験H31】の連合軍を破ります【本試験H5ヨーロッパに侵攻したモンゴル人の多くは,キリスト教徒となったわけではない】。この遠征に従軍していたの〈モンケ〉は,次代のカアンに即位します。

 また,その〈モンケ=カアン〉(位1251~59) 【京都H20[2]】の命令で,弟の〈フレグ〉(1218~65) 【本試験H21イスラームを国教化していない】が1258年に西アジアバグダードを陥落させ,アッバース朝バグダード政権を滅ぼしました【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前ではない)】。このときにバグダードは100万人の人口を誇る都市でしたが,包囲戦によって数十万人以上の市民が犠牲になったといわれます。

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 〈フレグ〉はその後,エジプトを拠点に1250年に建国されたマムルーク朝のスルターン〈バイバルス〉率いるマムルーク朝(1250~1517) 【追H28モンゴル軍を撃退したのはセルジューク朝ではない】とのパレスチナ北部でのアイン=ジャールートの戦い(1260) で敗れ,〈フラグ〉の与えられた領域はジョチ=ウルスと呼ばれ,イランとイラクの地域にまたがる政権となりました。この政権は,イル=ハン国とも呼ばれます【追H27エジプトは征服していない】【本試験H5,本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】 【本試験H21】。首都はカスピ海南東の都市タブリーズです。

 なお,最後のカリフ〈ムスタアスィム〉(位1242~58)は〈フレグ〉に処刑されましたが,父方の叔父がマムルーク朝の〈バイバルス〉の元に脱出し,〈ムスタンスィル2世〉としてカリフに即位しました。これ以降,カリフはマムルーク朝の保護下に置かれる形で存続します【本試験H16「マムルーク朝支配下オスマン朝のカリフがここに擁立された」かを問う】。したがって,アッバース朝はその後も存続したとみることもできます。

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 モンゴル帝国は広大な領域を,モンゴル文字(パスパ文字【追H19,H25突厥ではない】またはウイグルモンゴル文字)による定型文書によって統治しました。

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第5代の〈クビライ=ハーン〉(位1260~94) 【本試験H3チンギス,オゴタイ,チャガタイではない】【本試験H26ヌルハチではない】【早・法H31】は,大ハーン位に就くと,オゴデイ(オゴタイ)家の〈カイドゥ〉(ハイドゥ,?~1301)による抵抗(カイドゥ(ハイドゥ)の乱【本試験H11「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】【本試験H14時期(ルブルックのカラコルム訪問以前ではない),本試験H30】)の鎮圧に苦慮することとなります。
 一方,現在の北京に進出してこれを大都【本試験H9】【本試験H31チンギス=ハンが定めていない】【追H19】【早・法H31】として,元(1271~1368)という国号に改めました。
 1279年【本試験H3時期(ハイドゥの乱の「最中」か問う)】には,すでに首都の臨安(りんあん)を1276年に失っていた南宋の残党・皇族を厓山(崖山,がいさん)の戦いで完全に滅ぼします【本試験H3】。
 さらに,日本や東南アジア各地に遠征軍を派遣。
 〈クビライ〉の強さの秘密は,降伏した南宋の将軍を,元の軍司令官としてそのまま重用したことにあります。「支配に役に立つ者はすべてモンゴルとして扱う」という,柔軟な対応のあらわれです。実際に,当時の史料中の「モンゴル」というのは民族の名前ではなく,モンゴルの支配層であれば民族の垣根を超える呼び名であったわけです。

 ビルマのパガン朝【本試験H13トゥングー朝ではない,本試験H26地域を問う】はこのとき滅んでいますが,ヴェトナムの陳朝大越国【本試験H16李朝ではない,本試験H19時期】【追H18フランスの侵略を受けていない】は撃退に成功しました。陳朝では民族意識が高まり字喃(チューノム)【本試験H24時期】という民族文字を13世紀頃から作り始め文学作品などで使用されましたが,公用文における漢字の使用は続きました。

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 〈クビライ〉は中国を支配するのに,漢人よりも西域出身の色目人(しきもくじん)【東京H6[1]指定語句】を重用(ちょうよう)しました【本試験H4唐代ではない,本試験H9「色目人第一主義」をとったわけではない】【本試験H19蔑視されていない】。
 金の支配下にあった漢人女真(女直)人や契丹人たちは漢人(北人とも呼ばれました),南宋支配下の住民は南人【東京H25[3]】と呼び待遇にランクをもうけました。
 中央の官制は,中書省が統治機関として置かれ,14世紀初めには尚書省を廃して六部から独立させました。
 地方支配にあたっては,中書省と同格の行中書省を各地に置き,統治しました。これが現在の中国の「省」の起源です。漢民族の土地制度である佃戸制(でんこせい)は,変更されることなく続きました【本試験H14】。

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 たしかに科挙は一時停止され【東京H25[3]「科挙試験を一貫して重視したわけではない」】合格者も少なくなりましたが,科挙は1315年に再開されています。元の支配層にとってみれば,いくら儒教の経典に詳しくても「意味がない」わけです。それよりも即戦力のある人材,専門的な官僚(テクノクラート)がほしいというわけです。
 職を失った士大夫層は,宋の時代に異端とされていた〈朱熹〉(しゅき,1130~1200) 【本試験H11】【慶文H30記】の朱子学【本試験H11陽明学ではない】【慶文H30記】に飛びつきます。理気二元論【慶文H30記】,大義名分論【慶文H30記】を展開する朱子学は,元=異民族よりも漢人のほうが本来は上にあるべきだという読み方を儒教に提供し,支持されたわけです。朱子学は次の明代に官学化されることになります。
 〈クビライ〉は出版事業に積極的で,南宋代から編集のはじまっていた『事(じ)林(りん)広記(こうき)』という百科事典が出版され,元曲【追H18】(『琵琶記』(びわき)【追H18】、『漢宮秋』(かんきゅうしゅう)、『西廂記』(せいそうき))の台本や,明代に完成する『西遊記(さいゆうき)』『水滸伝(すいこでん)』『三国志演義(えんぎ)』【本試験H9[21]】の原型も出回りました。出版ブームに乗って,子供向けの『十八史略』(南宋南宋の〈曾先之(そうせんし)〉作)や,元の政府が出版させた農書『農桑輯(のうそうしゅう)要(よう)』などが多数印刷されました。

 儒学者にとっては元代は「迫害」の時代とみなされますが,後世の “後付け”という面もあります。後世の儒学者は,この時代の儒学の境遇を,「九儒十丐(くじゅじっかい)」と表現し“乞食(丐)が上から10番目のランクなら,儒学者は上から9番目”と表現しましたが,西方の文化を熟知するモンゴル人にとって儒学者の情報が“無用”と映った点はいなめません(九儒十丐(くじゅじっかい)には前置きがあって,「一官二吏三僧四道五医六工七猟八民九儒十丐」のように世の中の職業をまとめた表現です)。

 元【本試験H27清ではない】では,イスラームの暦学・天文学【本試験H19,本試験H23】の影響を受けた授時暦【東京H6,H27[1]指定語句】【本試験H2時期(明末ではない)】【本試験H23イスラーム天文学の影響があったか問う】【追H21、H25】が成立しました。イスラーム天文学【本試験H2ヨーロッパ天文学ではない】で使用されていた観測機器を用いた漢人の〈郭守敬〉(かくしゅけい,1231~1316) 【本試験H6】【本試験H19,本試験H23,本試験H27顧炎武ではない】【追H17宋応星ではない、H21、H25徐光啓・湯若望・宋応星ではない】により,中国の伝統的な暦法によって作成されました(注)。中国では天子である皇帝が,天文台を設置して正確な暦を作成させることが求められていたのです。これは1281年から施行。暦のタイプは太陰太陽暦です。のちに江戸時代の日本に伝わり〈渋川(しぶかわ)春海(はるみ)〉により1684年に貞享暦(じょうきょうれき) 【本試験H6】が作成され,翌年施行されています(のち,清代にイエズス会士〈アダム=シャール〉の時憲暦の知らせを聞き,キリスト教色を排除した宝暦暦(ほうりゃくれき)(1755~98)が制定されましたが粗悪で,幕府天文方〈高橋至時〉により西洋の暦法をとりいれた寛政暦が制定(1798~1844),1844年以降は1873年グレゴリオ暦導入までは天保暦を使用)。

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 〈クビライ〉はチベット仏教【本試験H12イスラム教を国教として保護したわけではない】の僧〈パクパ〉(パスパ,1235~80) 【追H28】 【慶商A H30記】を重用し,パクパ(パスパ)文字【東京H10,H30[3]】【本試験H12漢字をもとにしていない。タングート族の文字ではない】【本試験H14漢字をもとにしていない】【追H25突厥ではない,H30西夏ではない】というモンゴル語【追H28】のための文字をつくらせています。〈パクパ〉は11世紀中頃に西チベットではじまったサキャ派チベット仏教指導者で,〈クビライ〉の支持を背景にして,チベットの支配権を強めました。

 イランのコバルト顔料を用い,白磁に青い着色をした染付(そめつけ)(青花) 【東京H27[1]指定語句】という磁器【本試験H24唐三彩とのひっかけ】も作られるようになりました。染付技術が可能になったのも,モンゴル時代のユーラシアに交流圏が成立したおかげです。

 モンゴル帝国大モンゴル国〕は交通路の安全を確保し,治安維持や駅伝制(ジャムチ) 【本試験H18金ではない】の整備によって,ユーラシア大陸の陸上交通がさかんになりました。例えば,西方からは十字軍を組織してイスラーム勢力と戦っていたキリスト教が,モンゴルと提携することによってイスラーム勢力を挟み撃ちにしようというもくろみもあり,多数の使節を派遣しました。モンゴル人の宗教はシャーマニズム(目にはみえない世界との交信ができる霊能者が,踊りなどによって何かが乗り移ったような状態で我を忘れ,占いやお祓いなどをするものです。)でしたが,〈クビライ=カアン〉の母(〈ソルコクタニ=ベキ〉)がネストリウス派キリスト教徒であったといわれるように,モンゴル帝国でもキリスト教の信仰はありました。〈モンケ=カアン〉もはじめネストリウス派を信仰していたようです。
 その噂もあってか,ローマ教皇〈インノケンティウス4世〉(位1243~54)は〈プラノ=カルピニ〉(1180?~1252) 【追H27世界地図の作成者ではない、H29暦の改定はしていない】を,フランスの〈ルイ9世〉(聖王) 【京都H20[2]】は〈ルブルック〉【京都H20[2]】【本試験H3マルコ=ポーロとのひっかけ】【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前に起きたものを選ぶ)】を〈グユク=ハーン〉(定宗,位1246~48)に送っています。この目的には布教の理由のほかに,当時イスラーム教徒との間で続けられていた十字軍への支援を求める意図もありました。この2人は〈フランチェスコ〉【京都H20[2]】派の修道会士です。
 ほかにも,父【本試験H3】と叔父とともに陸路で旅行したヴェネツィア共和国【本試験H29場所を問う】【本試験H3ルイ9世に派遣されていない,本試験H8ジェノヴァではない(地図上の位置からもわかる)】【追H19】の商人〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324) 【東京H17[3]】【本試験H3,本試験H8】 は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ【本試験H3「南人」ではない】,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を『世界の記述(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』【本試験H3史料が引用・著者を答える】【追H19仏国記ではない】にまとめ,大きな反響をもたらします【本試験H3まだ活版印刷術は発明されていない】。

 たとえば,台湾の対岸にある泉州(ザイトゥン) 【本試験H10マカオとのひっかけ】に立ち寄り,「ザイトゥンには,豪華な商品や高価な宝石,すばらしく大粒の真珠がどっさり積み込んだインド船が続々とやってくる。この都市に集められた商品は,ここから中国全域に売られる」と繁栄ぶりを記しています。杭州(こうしゅう)も「キンサイ」として繁栄ぶりを記録しています。ただ,中国側には記録が残されていないため,疑問視する説もあります【本試験H8マルコ=ポーロの推定移動経路をみて,「メッカ」「カラコルム」を訪ねていないこと,「チャンパ」を経由していることを特定する】。

 13世紀末には〈モンテ=コルヴィノ〉(1247~1328) 【東京H6,H27[1]指定語句】【本試験H8元を訪問したか問う】【追H28,H30】 が,元(大元ウルス)【追H30カラ=ハン朝ではない】【本試験H8】の都・大都(だいと)【追H28】の大司教として中国初のカトリック布教【追H28】を成功させています。
 首都の大都には運河が延長され,長江から海をまわって北上して大都に至る海運も発達しました。従来の大運河も補修され【本試験H19】,大都に通じる運河も整備されました(新運河) 【本試験H9「江南の穀物華北にある首都まで運河で運ばれた」か問う】【本試験H19】。
 商業の発展とともに,元の時代には庶民文化が発展し,元曲【本試験H3】という戯曲が多数つくられました【本試験H3「もっぱら宮廷の舞台で上演されたのではない」】。元曲はかっこつけた仰々しい言葉ではなく,庶民の口語で書かれたところがポイントで,恋愛結婚を題材とした『西廂記(せいしょうき,せいそうき)』【本試験H9[21]】【本試験H21時代を問う】のようなラブストーリーが好まれました。

 〈クビライ〉の晩年には,クリルタイで彼を支持した東方三王家の乱が起きますが,鎮圧。1294年に亡くなっています。跡継ぎを決める際にはクリルタイはひらかれず,大ハーンの位はクビライ家に世襲されることになります。
 しかしその後の元の君主は,チベット仏教(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)に入れ込み【本試験H14ルブルックのカラコルム訪問以前ではない】,交鈔(こうしょう) 【本試験H22,H29北魏の時代ではない】【本試験H8時期(マルコ=ポーロと同時期)】【追H19】という紙幣を濫発したために物価が高騰し,国力を弱めていきました。紙幣が流通するようになると,かさばる銅銭が余るようになり,「銅」そのものにも価値があるので近隣諸国にそのまま輸出されました。例えば,鎌倉大仏は,銅銭によって作られたのではないかといわれています。

 

◆「14世紀の危機」によりユーラシア大陸各地のモンゴル政権の支配は揺らぎ,モンゴル帝国の“跡継ぎ”国家や影響を受けた国家が各地で成立していく
 1310年頃から1370年頃にかけて,北半球は寒冷化し,各地で不作や飢饉がおきました。さらに,モンゴル帝国によってユーラシア一帯の人の移動が盛んになったこともあって,ミャンマーで流行していたとみられるペスト(黒死病) 【追H26天然痘ではない】 【本試験H5ペストの大流行の時期を問う】が,1320年以降西へと広がり,1335年に洛陽→1347年にイスファハーン・ダマスクス→1348年にヴェネツィア・メッカ・ロンドン…と,またたく間にユーラシア大陸一帯に広がります。交易に支障が出てくるようになると,モンゴル帝国各地で支配にゆるみが生じました。

 キプチャク=ハン国では1359年に〈バトゥ〉の血統が途絶え,分裂。東スラヴ系の諸公国・大公国の中から,モスクワ大公国【本試験H3時期(ハイドゥの乱の時期ではない)】が力を付けモンゴル帝国の血統を権威として用いて強大化していきます。なお,キプチャク=ハン国ではイスラーム教【本試験H5】が保護されています。

 チャガタイ=ハン国は1335年に東西に分裂しました。そのうち西チャガタイ=ハン国から,1370年に〈ティムール〉が領域拡大に乗り出し,ティムール帝国【追H26チャガタイ=ハン国出身の武将によって興されたか問う】を建設していきます。

 なお,マムルーク朝も14世紀中頃のペストの流行により,衰退に向かいます。

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中国の元では,末期に1351年~66年に紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H4赤眉の乱・呉楚七国の乱・陳勝呉広の乱ではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事か問う,本試験H12白蓮教系の組織か問う】【本試験H19赤眉・黄巣安史の乱ではない,本試験H21時期】【追H25ウイグルと強力して鎮圧していない(それは安史の乱)】が起きます。紅巾軍は,弥勒仏(みろくぶつ)【本試験H12】が現世を救済するために現れると信じる白蓮教系の組織から成っていました。彼らにより大運河が寸断され,江南と北京を結ぶ海運ルートが紅巾の乱とは一線を画して反乱を起こした有力者〈張士(ちょうし)誠(せい)〉(1321~1367)により遮断されると,補給路を絶たれた元はまさに“一巻の終わり”となります。
 白蓮教徒【本試験H12】の一派である〈朱元璋〉は,まずライバルの〈張士誠〉の反乱を鎮圧し,その上で1368年大都を陥落させました。最後の皇帝〈トゴン=テムル〉(順帝)はモンゴル高原に退却しましたが,帝室は存続したわけですので,厳密にいえば「滅んだ」わけではありません。

 例えば,15世紀初めにはオイラト部【本試験H16】の〈エセン〉【本試験H13アルタン=ハーンではない】【追H29アルタン=ハンではない】が,チンギス家と結婚関係をもつことで勢力を拡大しました。西方では女真(女直)人を,チャガタイ=ハン国の東半(モグーリスタン)を制圧しています。しかし,明との間で貿易をめぐるトラブルが生じ,1449年に中国に進入して明【本試験H20前漢ではない】の皇帝〈正統帝〉(英宗)【本試験H16万暦帝ではない】を捕虜にしました(土木の変【本試験H13,本試験H18地図・靖康の変ではない,H31時期(漢代ではない)】【追H29】)。〈エセン〉は1452年にハーンに即位しましたが,それには批判も多く,1454年に殺害されています。結婚関係だけではダメだというわけですね。

そこでその後,チンギス家の直系である〈ダヤン=ハーン〉(位1487~1524)が,大ハーンとしてようやくモンゴル高原の広範囲を統一することに成功します。ダヤンというのは大元ということで,元(北元)の復興でもあります。明は「モンゴルは1388年に滅んだ」という立場をとったので,この勢力をタタールと呼びましたが,正確にいうとモンゴルに違いありません。
 彼はモンゴルを,直轄地であるチャハル【本試験H31】,ハルハ,ウリャンハンと,間接支配地に分けて統治しました。
 アルタンは現在も内モンゴルの中心になっているフフホタ(フフホト)を建設し,中国との通商を推し進めて発展していきました。フフホトは現在,中華人民共和国内モンゴル自治区省都として発展しています。

 チベットでは,元の時代に〈フビライ=ハーン〉に保護されたサキャ派への批判が高まり,さまざまな派が対立しました。その中から,〈ツォンカパ〉(1357~1419) 【本試験H13・H20,H22時期】がインドから伝わった経典を再編成したゲルク派を開き,黄色い帽子を用いたので黄帽派【東京H12[2]】【本試験H13・H20】【追H29】とも呼ばれました。


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 そんな中,〈チンギス=ハン〉の息子〈チャガタイ〉の千人隊に属していた名門バルラス家に属する〈ティムール〉【本試験H31】【東京H8[3]】は,若い頃に指揮官として名を上げ,〈トゥグルク=ティムール〉に認められて指揮権を与えられました。しかし,その後反乱を起こしチャガタイ=ハン国東部の「モグーリスターン」の撃退に成功。
 サマルカンド【京都H19[2]】【東京H30[3]都市の略図を選ぶ】を拠点にして支配権を確立した〈ティムール〉は,政略結婚で〈チンギス〉家の婿(むこ)となることで,人々から支配者としてふさわしいと納得してもらうことにも成功し,1370年【追H20時期(14世紀)】にティムール朝【本試験H5時期(13世紀末~14世紀初めではない)】【追H20】【H27京都[2]】を樹立しました。サマルカンドには,宮殿,モスク,バザール(ペルシア語で市場。アラビア語ではスーク【本試験H21マドラサではない】)などを建設し,交通路を整備して商業活動を奨励しました。彼は都市の活動を重視し,征服先での不要な略奪は行いませんでした。
 彼は「モグーリスターン」,ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国。首都はヴォルガ川【慶文H29】中域のサライ),デリー=スルターン朝のトゥグルク朝,イル=ハン国(フレグ=ウルス)を次々に攻撃し(イル=ハン国は滅亡【本試験H15 19世紀のロシアが滅ぼしたのではない】),ティムール朝【本試験H18】を都サマルカンド【本試験H2ティムール朝の時代に衰えていない】【本試験H18】を中心に建設していきました。

 1402年にはオスマン朝アナトリア半島アンカラで破り(アンカラの戦い) 【追H17時期を問う(15世紀初頭か),H24ティムールに敗れたか問う,H28アッバース1世は無関係】【本試験H31エィムールがオスマン帝国を打ち破り,そのスルターンを捕虜にした戦いか問う,地図上の位置も問う(プレヴェザとのひっかけ)】ましたが,その後,明遠征を計画し,20万の大軍を出発させました。

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〈ティムール〉の死後,〈シャー=ルフ〉(位1409~47)が政権を握り,安定した支配を実現しました。
 彼は,聖地メッカを保護下におさめていたマムルーク朝の君主から,カーバ神殿の覆い(キスワ)を提供する権利を得ています。そのようにして,イスラーム教徒たちに自分の支配権を納得させようとしたわけです【本試験H31リード文。ただし,認められたのは内側の覆いだけで,外側の覆いはマムルーク朝の君主が提供するものとされた】。

 子の〈ウルグ=ベク〉【追H26リード文】【慶文H29】が後を継ぎました。
 〈ウルグ=ベク〉自身も優れた学者であり,サマルカンド郊外の天文台【追H26リード文】で天文観察を行い,1年を「1年間は365日6時間10分8秒」と恐るべき精度で計算,天文表はアラビア語オスマン語,ラテン語にも翻訳されるほどの精度でした。惑星の運行法則を示したドイツの〈ケプラー〉(1571~1630) 【追H20】の現れるずっと前のことです。

 しかし,しだいに各地で王子たちが独立をするようになり,ウズベク人【追H30匈奴とのひっかけ】【慶文H29】の進入も始まっていました。さらに,イラン方面からはテュルク系遊牧民(トゥルクマーン)の建てた黒羊朝(カラコユンル,1375~1468)や白羊朝(アヤコユンル1378~1508)が進入するようになっていき,サマルカンドとヘラートに拠点をもつ王族の間で内紛も勃発。
 テュルク系のアクコユンル(白羊朝)の〈ウズン=ハサン〉は,1468年にカラコユンル(黒羊朝)の〈ジャハーン=シャー〉を破り,アナトリア半島に進出しています。

 この間ヘラートでは学芸が盛んとなるのですが,1500年にウズベク人【慶文H29】の〈シャイバーニー=ハーン〉(1451~1510)が進入し,ついに滅んでしまいました。

 なお,モンゴル帝国により,中国で発明されていた硝石(硝酸カリウム)をもちいた黒色火薬【本試験H2】は,モンゴル人によって14~15世紀には西アジアやヨーロッパにも伝わります。早速ドイツ人は,15世紀末に,先込火縄式のマスケット銃を開発しています。こうした小銃の導入により,騎士は没落【本試験H2】していくことになり,大航海時代(注)における軍事的な優位を手に入れました。

 


●アジア
●東アジア
 その頃日本では,後醍醐天皇(位1318~39)を中心として鎌倉幕府が倒され,その後南北朝の動乱となります。その混乱に乗じて日本近海では密貿易集団の活動が盛んになり,取締りが厳しくなるとが倭寇(わこう) 【中央文H27記】として沿岸から略奪行為をはたらきました。


 元に服属していた朝鮮の高麗では,この倭寇討伐で名をあげた〈李成桂〉(りせいけい(イ=ソンゲ) 【本試験H23】【セ試行 李舜臣とのひっかけ(豊臣秀吉の海軍を撃破していない)】【追H26明の初代皇帝ではない、H27李世民ではない、H30】,1335~1408)が高麗(こうらい)【追H30百済ではない】を倒し,1392年に王(太祖,在位1391~98)に即位し朝鮮王朝(1392~1910) 【追H9「李氏朝鮮」(ママ)】【本試験H13,本試験H23】を建てます。首都は漢(かん)城(じょう)【本試験H13開城ではない,本試験H22・H27ともに慶州ではない】,現在のソウルです。官学は朱子学【本試験H13】【本試験H8陽明学ではない】【追H19】と定められ,支配層は両班(ヤンバン)【本試験H13】【追H24朝鮮(李朝)のとき政治的実権を握っていたか問う、H30】と呼ばれました。
 同じ1392年には日本でも,南北朝に分かれていた政権が統一されています。
 その後,室町幕府3代将軍〈足利義満〉(あしかがよしみつ1338~1408) 【本試験H7】が,明から「日本国王」【本試験H7】に封ぜられて,勘合(かんごう)貿易【本試験H4鎖国政策をとっていたわけではない,本試験H7「倭寇の鎮圧に協力することを条件に」か問う,本試験H10】【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない】をはじめました。勘合というのは,海賊船ではなく正式な朝貢船であることを確認するために用いられた,割印(わりいん)の押された証明書のことです【本試験H10民間の対外交易を促進するための政策ではない】。


 しかしその後、中国にモンゴル人が進出して宋が倒れると、1274年,1281年に2度にわたって元寇【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】【追H19,H25】(モンゴル襲来;蒙古襲来)が実施されました。
 1274年の文永の役の前,1266年に大元ウルス〔元〕の〈クビライ=カアン〉【追H25オゴタイによるものではない】は,日本に通交を求める外交文書を送っています。この中で,「兵を用ゆるに至るは,夫れそれたれか好むところぞ。王,それこれを図れ」(兵を用いるなんて,誰が好むだろうか。王は,これを考えていただきたい)という内容に狼狽した日本は,死者を殺害。これが遠征の引き金となります。


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明で1402年に靖難の役(せいなんのえき,靖難の変)が起き〈永楽帝〉(位1402~24) 【東京H18[3],H24[3]】が即位すると,〈永楽帝〉は「日本国王之印」の金印と勘合(かんごう)を送りました。こうして〈足利義満〉は,明との貿易独占を可能にしたのです。


琉球
按司は各地に役人(うっち)を派遣し徴税し,農耕の祭祀は姉妹(オナリ)に担当させました。14世紀には複数の按司支配下に置く世の主(よのぬし)が現れ,沖縄本島今帰仁(なきじん)の北山,浦添の中山【本試験H10】,大里の山南の3王国が有力となり,それぞれ1368年に明と冊封関係を結びました。これらを合わせて「三山」の呼び,それぞれの国名は中国から与えられたものです(「山」は島または国という意味)。
 その後,1420年代【本試験H10 時期(15世紀初めか問う)】に中山【本試験H10】の按司である〈尚巴志〉(しょうはし,1372~1439)が三山を統一をし,琉球王国(第一尚氏王朝) 【本試験H4,本試験H10】を建国し,明との朝貢貿易を実現【本試験H10明との間に対等な外交関係を結んでいたわけではない】。東南アジアから商品を中国に流す中継貿易をおこないました。明は海禁政策をとり自由な貿易を禁じたため,福建省の商人は東南アジア各地に移住し華僑となり,琉球王国にも交易ネットワークを張り巡らせていきました。琉球王国は明への入貢回数ナンバーワン(2位は黎朝,3位はチベットです)[村井1988]。
 琉球に来れば,日本からの日本刀,扇,漆器だけでなく,皇帝から琉球王国に授けられた品物や中国商人の品物が手に入るからです。日本の商人は琉球から,中国の生糸や東南アジアの香辛料・香料などを入手しました。
 琉球から明には2隻・300人の進貢使が2年に一度派遣され,初めは泉州のち福州に入港します。一行の一部は陸路で北京の皇帝に向かい,旧暦の正月(2月)に皇帝への挨拶とともに貢物(馬,硫黄,ヤコウガイタカラガイ芭蕉布など)を献上すると,代わりに豪華な物品が与えられます。その間,福州では決められた商人との取引が許可されました。また,琉球王国の国王が代わるたびに冊封使(さくほうし)が中国から派遣され,皇帝から正統性が認められました。皇帝にとってみても,琉球王国が東南アジア(琉球は真南蛮(まなばん)と呼んでいました)にせっせと交易品を獲得しに行ってくくれれば,黙っていても東南アジアの産物が届けられるという好都合がありました。14~15世紀の琉球王国にとっての最大の貿易相手国はシャムのアユタヤ朝【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたわけではない】でした。15世紀にはマラッカ王国【追H17儒教が国教ではない】とも交易をしており,ポルトガルの〈トメ=ピレス〉は16世紀前半の『東方諸国記』で琉球を「レキオ」と表現しています。

 このころの琉球では,のち16世紀の日本で三味線(しゃみせん)に発展する三線(さんしん),紅型(びんがた),タイや福建省醸造法に学んだとされる泡盛(あわもり)といった文化が,日本や東南アジアとの交易関係の中で生まれていきました。日本への貿易は,室町幕府との公式な交易だけではなく,大坂の堺や九州の博多【東京H27[1]指定語句】の商人との間でも行われました。15世紀後半に幕府の権威が弱体すると,前期倭寇が活発化する中,日本人が琉球王国を訪れ交易は続けられました。

●朝鮮
この部隊はのちにモンゴル帝国が1231年以降に高麗に断続的に進出した際,その撃退のために江華島に政権が避難した後も最後まで活躍しました。モンゴル撃退を祈念するため木版印刷による『高麗大蔵経』【本試験H11:活版印刷で刊行されたか問う。活版印刷ではなく木版。大量の版木が現在でも残されています】を作製させたのが先ほどの〈崔?〉(さいう;チェ=ウ、位1219~49)で,彼の時代の1232年に政権は江華島に移されました。
 しかし1258~60年にかけての攻撃で、1258年に〈崔?〉(チェ=ウィ)が殺害されて武臣政権は崩壊。
 高麗の王太子〈?〉(次代の国王〈元宗〉。位1260~74)が〈クビライ〉(フビライ)を直接訪れ,降伏しました【追H21「チンギス=ハン」のときではない、H24モンゴルに高麗が服属したか問う】。


 なお、1279年には高麗軍主体の(東路軍)に加え,旧・南宋の軍主体の(江南軍)が動員され第二回日本遠征が実行されましたが,失敗しています【本試験H11「2度にわたる日本遠征が失敗した」ことは「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】。

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元で紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事か問う,本試験H12】が勃発したことが伝えられると,これをチャンスとみた〈共愍王〉は,朱子学者を取り立てるなど,反元運動に乗り出しました。結局中国では元が倒され,1368年に明が建てられています。

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 朝鮮王朝は,朱子学を国教化し【共通一次 平1:儒教が不振であったわけではない】科挙【本試験H27】を導入して,官僚制度を整えます。官僚になるルートには,科挙のうち,文人を選ぶ文科と,武人を選ぶ武科があって,文人と武人をあわせた両班(ヤンバン,りょうはん)といわれる支配階級は,王族の次に位置づけられ,朝鮮王朝の時期には特権階級として世襲化されていきました。

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また28字(現在は24字)から成る訓民正音(くんみんせいおん(フンミンジョンウム),ハングルは後の呼称) 【東京H16[3]】を学者に作らせ1443年に制定し,1446年にその原理と用法を説明した同名の教科書を発表しました【共通一次 平1:高麗代ではない】【追H9ハングルとも呼ばれるか・15世紀に作られたか,本試験H12高麗代ではない、H19、H27チュノムではない】【本試験H13,本試験H15高麗代ではない,本試験H22・H24ともに時期】【慶商A H30記】。
 訓民正音はアルファベットのように表意文字でありながら,漢字のように「へん」や「つくり」のようなパーツがあるので,子音と母音を組み合わせて一つの音節を表すことができます。また,金属活字による出版【本試験H2唐代の中国で盛んになっていない】もおこなわれました。〈世宗〉の時代には『高麗史』(1451)も編纂され,白磁が生産されました。

 

●中国

中国でモンゴル人のハーン〔カアン〕〈クビライ=ハーン〉〔フビライ〕(1215~1294)は、モンゴル人として初めて中国風の国号(大元【追H19】)を定め、1271年に大都に都を置いて、中国の農耕定住エリアの支配を本格的に開始しました。

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 白蓮(びゃくれん)教徒【本試験H3太平天国ではない,本試験H12】による紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなったか問う,本試験H12】をきっかけに各地で反乱が起き,1368年,貧しい農民出身の〈朱元璋〉(しゅげんしょう,1328~98)は,長江下流域の金陵(きんりょう,現在の南京) 【本試験H2臨安ではない】【本試験H27長安ではない】で皇帝に即位し,国号を明としました。「洪武」という元号を制定し「洪武帝」(洪武帝,ホンウーディ) 【追H9】【本試験H24】と呼ばれました。死後におくられた名は太祖です。これ以降の元号は,皇帝の在位期間と連動することになりました(一世一元)。皇帝は“時間をも支配する”というわけです
 元を支配していたモンゴル人はモンゴル高原に退却し,明からは北元(1371~88) 【追H9】と呼ばれましたが,事実上モンゴル高原で存続し,南方の明(ミン)と併存する状況が続きました。

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 〈朱元璋〉は君主専制体制(注)をはかるため,反対勢力にあった官僚を容赦なく処刑し,従来実権をにぎっていた旧貴族勢力を政府から追放するために,中書省を廃止して,中書省の管理下にあった六部を皇帝直属とし,監察も強化しました。明律【本試験H25】と明令も制定しました。
 また,南宋の〈朱熹〉【本試験H11】が大成した朱子学【本試験H11陽明学ではない】を官学化して,科挙を整備して,明律・明令をつくらせました。


 また,倭寇対策のため,民間人の貿易は禁じられ朝貢貿易のみが許されました。華人の商人は、中国の政権と同伴する場合のみ、海外に渡航することができたのです。「貿易がしたいのなら,朝貢せよ。皇帝が冊封(さくほう)し,臣下となれば,貿易を許そう」と,海禁【東京H14[1]指定語句】【H27京都[2]】した上で朝貢を求めたのです。

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民間人(民戸)の戸籍と軍人(軍戸)の戸籍を分けた軍事組織【追H26】である衛所制【追H26明代か問う】【本試験H17里甲制ではない,本試験H23宋代の地方小都市ではない】を整備します。
 農村では,110戸をあわせて1里とし,そのうちの豊かな10戸を里長戸とし,残りの100戸の甲首戸を10戸ずつにわけました。里長戸と甲首戸には,それぞれ10年1ローテーションで,里長戸から税金をとったり,治安をまもったりする義務を課せられました。これを里甲制【本試験H17】といい,モンゴルの千戸制(せんこせい)の影響がみられます。さらに「六諭」(りくゆ) 【追H9〈康煕帝〉の発布ではない。四書と明律・明令の総称ではない、H21秦代ではない、H26明代であることを問う】【本試験H14唐の太宗が定めたわけではない,本試験H17史料・宗法ではない】という6ヵ条の教えを,里(り)甲制(こうせい)【追H9】の下の村落における里老人(村の中の長老)にとなえさせ,民衆【追H9六部の官僚ではない】が守るべき道徳をゆきわたらせました。どこにどんな土地があって,誰がどこに住んでいるのかを把握するために,土地台帳の魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)【共通一次 平1:人頭税の台帳ではない】【追H30漢の武帝によるものではない】(土地を描いた図柄が魚の鱗に見えることから)と,租税台帳の賦役黄冊【本試験H27北宋代ではない】(冊子の表紙が黄色であったことから)を整備させました。

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 〈洪武帝〉は自分の息子たちを,モンゴル人に対処するために北方の辺境地帯におくって支配させました。現在の北京である北平(ほくへい)【法政法H28記】(元のときには大都と呼ばれていた都市を改称したもの)にいた〈燕(えん)王(おう)〉(朱棣(しゅてい))は,洪武帝の次に即位した〈建文帝〉(位1398~1402)が,辺境の王たちの領土をなくそうとすると,挙兵して南京【早・政経H31北京ではない】を占領,内戦が勃発しました。〈燕王〉は北京【追H26明代か問う】【本試験H4「1402年の遷都」について問う】に遷都して皇帝に即位し,〈永楽帝〉(位1402~24) 【追H24 時期が13世紀か問う、H26北京に遷都したか問う】【東京H24[3]】【H27京都[2]】【早・法H31】を称します。この内戦を靖難(せいなん)の変といいます【早・法H31】【法政法H28記】。

 北京に建設された王宮を紫禁城といい,今後清の滅亡まで使用されました【本試験H28宋の時代ではない】。皇帝の政務を補佐するため,内閣大学士【本試験H4尚書省中書省,軍機処ではない】【法政法H28記】が置かれました【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】。

 〈永楽帝〉は,『永楽大典』【本試験H25時期】【追H21時期】(2万2877巻のさまざまな書物関する書物の大全集),科挙のテキストとなった『四書大全』(全36巻の四書の注釈) 【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない】,唐の『五経正義』を朱子学の立場から書きなおしたテキスト『五経大全』,朱子学の学説を集めた『性理大全』(全70巻)を編纂させることで,思想の統制をはかりました。この思想統制の動きに抵抗したのが,『伝習録』を著して「致良知」【慶文H30朱熹の教えではない】「知行合一」【本試験H7】を唱えた〈王守仁(陽明)〉(1472~1529) 【本試験H7】でした。

 

 〈永楽帝〉は,さらに朝貢貿易【セ試行 民間交易ではない】を推進するため,イスラーム教徒の宦官である〈鄭和〉(1371~1434) 【セ試行 時期(明代初頭か)】 【東京H16[3]】に南海大遠征(「西洋下(くだ)り」ともいいます)を命じました【本試験H21時期】【セA H30】。

 「明と貿易したければ,朝貢せよ」と呼びかけた鄭和はアフリカ東海岸のスワヒリ文化圏にまで120メートルの巨大な船で到達し【セA H30大西洋には到達していない】,インド洋沿岸の諸国までが明に朝貢使節をおくっています。

【本試験H4明の時代の海外への主要な窓口は,上海と香港ではない】

 

 とくにムラカ(マラッカ)王国と,琉球(現在の沖縄)は,明から得た商品を周辺諸国に中継する中継貿易で栄華をきわめます。イスラーム教国【本試験H15】のムラカ(マラッカ)王国【本試験H15】はすでに14世紀末に成立していましたが,発展したのは〈鄭和〉の遠征がきっかけです。マラッカ海峡は,インド洋と南シナ海をつなぐ要所です。

 モンゴル高原では,14世紀末にフビライ家直系が断絶したので,チンギス家の王族が大ハーンの位を継ぎました。モンゴルは,明からは韃靼(だったん)と呼ばれましたが,自らは「大元」【追H19】と名乗りました。
 〈永楽帝〉は,モンゴル高原に遠征【本試験H15】します。
 一方,15世紀半ばにはモンゴル高原北西部のオイラトが〈エセン=ハン〉(?~1454) 【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない,本試験H17時期(16世紀ではない)】【追H25】【H27京都[2]】の指導で強大化。
 当時,朝貢の形式をとらなければ中国との貿易ができず,回数なども厳しく決められていました。そこで彼は通商を要求して明の〈正統帝〉(位1435~49,57~64)を北京北西の土木堡(どぼくほ)で捕虜としてしまいました(土木の変【追H25】)。

 


●東南アジア
 北ヴェトナムでは1225年に内戦を終結させた〈陳太宗〉が陳朝大越国【本試験H12】【追H28骨品制という身分制度はない】をたてました。しかし,ほどなくしてモンゴル人の元の侵攻が始まります(1251,84,87)。東南アジアを狙ったのは,豊かな交易ネットワークを手に入れるためでした。王族の〈陳興道〉(チャン=フン=ダオ,1228~1300)はこのときに必死に抵抗したことから,現在のヴェトナム人にとっての英雄となっています。陳朝では民族意識が高まり漢字を基にした【追H9】チューノム(字喃;チュノム) 【東京H10[3]】【追H9阮朝の時代ではない・漢字をもととしているか問う,H27ハングルとのひっかけ、H19,H31タイではない】【本試験H12】【慶商A H30記】がつくられましたが,公用文における漢字の使用は続き,儒教・仏教が尊重され,科挙も実施されました。

 そんな中,陳朝の末裔をかついで台頭した豪族の〈黎利〉(レ=ロイ)が,陳朝の王族から実権を握って建国したのが黎朝(10世紀の前黎朝と区別して,後黎朝ともいいます,れいちょう,1428~1527,1532~1789) 【本試験H20カンボジアとのひっかけ,H31明軍を破って独立したか問う(正しい)】【追H17イスラム王朝ではない、H21陳朝とのひっかけ,元を撃退していない、H25明から自立したか問う】。首都はヴェトナム北部のハノイ。〈黎太祖(レタイト)在位1428~33〉として即位しました。
 〈黎利〉は明の制度を導入し,ヴェトナムで現存する最古の法典を編纂し,朱子学を導入。陳朝のときに考案されたチューノム文学もつくられました。


 1282年に元は占城(チャンパー) 【本試験H18ビルマではない】を海から攻撃しましたが泥沼化し,84年に撤退します。しかし,その後1312年に陳朝は占城を攻撃し,服属させました。

*

ジャワでは1222年に〈ケン=アロク〉によりクディリ朝(928?929?~1222)が倒され,シンガサリ朝(1222~92)が開かれました。シンガサリはクディリの東部に位置し,どちらも東部ジャワにあります。5代目の〈クルタナガラ〉王(位1268~92)のときに,スマトラ島やバリなど,島しょ部の広範囲に渡って制服活動を行いました。
 しかし時おなじくして東南アジアに南下しようとしていたのは,モンゴル人が中国で建国した王朝の元でした【本試験H26】。元の〈クビライ=ハーン〉(位1271~1294)は,シンガサリ朝の〈クルタナガラ〉王に使節を送りましたが,顔に入れ墨を入れて送り返したことから,〈クビライ〉は激怒。大軍を派遣したときには,すでに〈クルタナガラ〉(?~1292)はクディリ家の末裔(まつえい)と称する〈ジャヤカトワン〉(生没年未詳)の反乱で亡くなっていました(1292年)。〈クルタナガラ〉の娘の夫〈ウィジャヤ〉は,元と協力して〈ジャヤカトワン〉を捉えました。しかし,その後〈ウィジャヤ〉は元軍を攻撃さし,元はジャワ征服を果たせぬまま撤退します。

 その後〈ウィジャヤ〉が〈クルタラージャサ〉王(位1293~1309)としてシンガサリの北部に建国したのが,マジャパヒト王国(1293~1478) 【東京H6[1]指定語句,H25[3]】 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】【追H17ヒンドゥー教国であったか問う、H19】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】です。14世紀半ばには〈ガジャ=マダ〉(?~1364)が,「世界守護」という名の大宰相という立場で,王国を支配し最盛期に導きます。積極的に対外進出し,その領域は現在のインドネシアの領域にマレー半島(ムラカ(マラッカ)を1377年に占領しています)を足して,ニューギニア島西部を引いた領土とだいたい同じくらいになりました。

 その後も,イスラーム教の王国として,15世紀末にスマトラ島【本試験H20地図,H29セイロン島ではない】にアチェ王国(15世紀末~1903) 【本試験H25地図上の位置を問う・扶南の港ではない】,16世紀末にジャワ島中部にマタラム王国(1580年代末ころ~1755) 【本試験H15ジャワ最古のヒンドゥー教国かを問う,本試験H24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】【追H19、H20元に滅ぼされたか問う(されていない)】【上智法(法律)他H30】が建国されています。マタラム王国は,8世紀にもジャワ人による同名の国があり,古いほうを古マタラム王国と区別する場合があります。

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 13世紀に入り,スマトラ北部の人々がイスラーム教に改宗をはじめるようになりました【追H9地図:伝播経路を問う】。1293年にスマトラ島の港市に風待ちで立ち寄った〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324)が言及しているのが,最初の文献です。
 このサムドラ=パサイ王国(1267~1521)が,イスラーム化の中心で,のちに〈イブン=バットゥータ〉(1304~1368) 【本試験H3】【本試験H18宋の時代ではない,本試験H31】【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物であるが、1402~1602年の間ではない)】や〈鄭和〉(1371~1434)も訪れています。

 1368年に成立した明は,海禁【本試験H15明代を通じて海外への移住が奨励されたわけではない,本試験H18】政策をとって,貿易を朝貢貿易に限ろうとしました。
 ジャワ島から急成長したマジャパヒト王国(1293~1478) 【東京H6[1]指定語句,H25[3]】 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】【追H19】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】は,1377年にスマトラ半島南部,マラッカ海峡に接する港町マラッカ(ムラカ)を占領。1420年には中国の明の〈鄭和〉が南海遠征で立ち寄っています。
 マラッカ海峡地域(三仏斉)の諸国は中国とのよりよい交易条件をめぐり,競って朝貢をしました。14世紀後半にジャワとパレンバンや中国人海賊との間で抗争が起きると,パレンバンの王子〈パラメスワラ〉が,マレー半島で建国しました。これが,東南アジア初のイスラーム教【本試験H2上座仏教ではない】の支配者による港市国家であるムラカ(マラッカ)王国(1402~1511)を建国しました【追H9時期、H25】【本試験H2時期(15世紀初めか問う)】【本試験H21イスラームに改宗した時期】。
 マラッカ王国【追H17儒教が国教ではない】は,西方のイスラーム勢力や東方の琉球王国(りゅうきゅうおうこく,1429~1879。同じく明に朝貢していました【本試験H26・H30】)【本試験H19 14世紀に衰退していない,本試験H20時期】とも関係を結び,マジャパヒト王国をしのぐようになっていきます(注)。
 マラッカ王国には西方からイスラーム教の宗教指導者が訪れ,東南アジアでの布教の拠点となっていきました。イスラーム教の拡大に一役買ったのは,スーフィー(神秘主義者) 【本試験H9ウラマーとのひっかけ】の集団です。

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 チャオプラヤー川流域では,クメール王国の〈ジャヤーヴァルマン7世〉(位1181~1218?1220?)が亡くなると,タイ人の活動が盛んになりました。タイ人とは,インドシナ半島北部の山地を中心に,現在はタイとラオスを中心に分布し,合わせて8000万人を超す人口を誇る民族です。山地には13世紀頃からタイ人の諸王国が成立するようになっていましたが,クメール人の支配を脱した最もタイ人の一派は,〈シー=インタラーティット〉(位1238?~70)のもとで1240年頃にスコータイ朝共通一次 平1:時期を問う】【本試験H4地域がタイか問う】【本試験H19時期】【追H21元に滅ぼされたパガン朝とのひっかけ】を建国しました。


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 1351年に,現在のタイのアユタヤでアユタヤ朝共通一次 平1:時期を問う】【本試験H4時期(7世紀ではない),本試験H11:時期は14~18世紀にかけてか問う。地域はフィリピンではない】【本試験H14・H18・H21ともに時期】をおこした〈ウートーン〉はもともとスコータイ朝に仕えており,反乱を起こして〈ラーマーティボーディー1世〉(1351~1369)として即位しました。〈鄭和〉の遠征もあり,中国の明との朝貢貿易をおこない,栄えました。1438年にはスコータイ朝の継承者が断絶したため,これを吸収しました。チャオプラヤー川の広大名水田地帯を抱えつつ,交易ルートを押さえることで,王は“商業王”として君臨しました。
 15世紀半ばに明が貿易を制限するようになると,アユタヤ朝マラッカ海峡の支配権を狙い,一時マラッカにも遠征しましたが,イスラーム教【本試験H15】の信仰されたマラッカ王国【本試験H19】【追H17儒教が国教ではない】は西方のイスラーム世界との貿易関係を結び強大化し,海上交易による利益【本試験H27】でアユタヤ朝【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたか問う】を圧倒していきました。アユタヤ朝のマラッカに対する進出は止まりましたが,マラッカはアユタヤにインドからの商品(綿布など)を,アユタヤはマラッカに米を輸出するという貿易関係は続きました。

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 ビルマでは,イラワジ川中流域にビルマ人がパガン朝(849~1312) 【本試験H26地域を問う】【追H21「モンゴル」が「進出した」か問う】を建てていました。この王朝はセイロン島から伝わった上座仏教を保護。このころにはすでに,南インドの文字の系統に属し,モン人の文字に由来するビルマ文字(タライン文字)が使われています。
 パゴン朝には次第にシャン人が政権に介入するようになり,1287年にはモンゴル人の元の遠征軍に敗れて服属【追H21「モンゴル」が「進出した」か問う】。そのゴタゴタの最中(さなか)に内紛が起こり1299年にパガン朝の王は宰相に殺害されました。宰相によりたてられた新国王は一時的に元を撃退しましたが,1312年には王権がシャン人に譲られ,パガン朝は完全に滅びます【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30問題文ちゅうに「元の攻撃を受けて滅亡した」とあるが,直接的原因ではない】。

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・イラワジ川上流 →アヴァ朝(1364~1555)をシャン人が建国。
・イラワジ川中流 →タウングー朝(14世紀~1752) 【本試験H3イギリスにより滅ぼされていない(それはコンバウン朝),本試験H4タイではない】【追H19、H20 ジャワではない。16世紀成立ではない】【慶文H30記】をパガン朝の残存勢力(ビルマ人)が建国。

 

●南アジア
 1206年に,〈ムハンマド〉が帰路で暗殺されると,武将でマムルークの〈アイバク〉(?~1210) 【本試験H3バーブルではない】【本試験H23シャー=ジャハーンではない】【追H24デリーにイスラーム王朝を建てたか問う、H25ティムールとのひっかけ】はデリー【共通一次 平1:商業・文化の中心はボンベイではない】【本試験H22】【追H18モンゴル帝国の領域には入っていない】にとどまり,王朝を始めました。
 彼の政権を奴隷王朝共通一次 平1:デリー=スルターン朝の初めか問う】【本試験H3】【本試験H13デリーを首都にした最初のイスラーム王朝かを問う,本試験H22時期,H29カージャール朝ではない】【追H30ムガル帝国とのひっかけ】【名古屋H31何世紀か問う】と呼び,インド初の本格的なイスラーム教徒による政権となりました。
 彼の配下の将軍は,パーラ朝により建設され,インド最後の仏教教学の拠点であったヴィクラマシーラ大学を破壊しています。
 また彼【追H25ティムールではない】はデリー南郊に高さ72.5mものクトゥブ=ミナール【本試験H30】【追H25クトゥブ=ミナール(クトゥブ=ミナレット)】という石塔を建てています。それから,ハルジー朝トゥグルク朝,サイイド朝【慶文H29】,ロディー朝【早政H30問題文「アフガン系の王朝」】にいたるまで,ガンジス川【早政H30】に注ぐヤムナー川河畔のデリーを首都とするイスラーム政権がつづきます。どれもカイバル峠の向こう側,中央アジアとのつながりが強い政権です。
 これをまとめてデリー=スルターン朝【共通一次 平1:この諸王朝はマラータ王国との間で戦争を続けていない】といいます。デリーはガンジス川の支流であるヤムナー川沿いの都市です。

 ちなみに,ゴール朝は,1215年に新興のホラズム=シャー朝によって滅ぼされています。アム川下流域のホラズム地方でおこった国で,一時的にシル川からイランにかけて広大な領土を支配しました。
 しかしその直後,西征に出ていた〈チンギス=ハン〉によって,ホラズム朝【本試験H21滅亡時期】はブハラとサマルカンドを占領され,1231年に滅亡します。モンゴル人は,その後もチャガタイ=ハン国やイル=ハン国(フレグ=ウルス)が北インドに進入しています。

 一方,北方からは,今度はティムール朝の進入を受け,1398年にはデリーに入城し,略奪を受けました。〈ティムール〉は翌年サマルカンドに帰りましたが,彼の派遣した〈ヒズル=ハーン〉はトゥグルク朝を滅ぼして,1414年デリーでサイイド朝【慶文H29】を建てています。この政権の中央アジアとのつながりのつよさがうかがえます。
 そのサイイド朝が弱体化したので,1451年にアフガンの諸部族がロディー朝を建てました。


ムガル帝国は,モンゴル帝国(大モンゴル国)の“跡継ぎ”国家を自任していた
 〈ティムール〉の子孫【追H26ティムール帝国の末裔がムガル帝国を建設したか問う】である〈バーブル〉(1483~1530) 【セ試行 死後にムガル帝国が分裂したわけではない】【本試験H3奴隷王朝を建てていない,本試験H12】【本試験H20・H22時期・ムガル帝国を滅ぼしていない】【H27京都[2]】は,アフガニスタンから来たインドに入って【本試験H12経路を問う】,1526年,デリー=スルターン朝最後のロディー朝を滅ぼし,ムガル帝国【本試験H12】【本試験H22】を建てることになります。
 〈バーブル〉は,ティムール朝で使われていたチャガタイ=テュルク語で回想録『バーブル=ナーマ』を著しているように,その建国にはティムール朝の“復興”という意図がありました【本試験H7インド亜大陸の南端までは統一できていない】。

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南インドではヴィジャヤナガル王国などのヒンドゥー教の諸王国が,海上交易で栄えました
【本試験H7バーブルはインド亜大陸の南端までは統一していない】
 チャールキヤ朝とチョーラ朝に代わり,13世紀以降の南インドでは,セーヴナ王国,カーカティーヤ王国,パーンディヤ王国,ホイサラ王国が抗争する時代となりました。
 そんな中,デリー=スルターン朝のうち,ハルジー朝トゥグルク朝が,デカン高原まで支配地域を広げましたが,デカン高原ではそこからヒンドゥー教徒が自立し,ヴィジャヤナガル王国(1336~1649) 【本試験H22・H23ともに世紀を問う,H31】【名古屋H31宗教を問う】が成立しました。こうして南インドの分裂状況は,一旦終わりました。インド南部は草原が少ないために馬の飼育に適さないため,特産の米と綿布をサファヴィー朝下のホルムズに輸出し,軍馬【東京H17[3]アラビア半島から買い付けられていた軍用の動物を答える難問。答えは「ウマ」】【本試験H31ウマを輸出していたわけではなく,「輸入」していた】を買い付けていました。

 

 


西アジア
 12世紀になると,東方からモンゴル人が押し寄せてきました。1258年【慶文H29】にはアッバース朝の首都バグダードが占領され,最後のカリフは殺害され,その親族がマムルーク朝の保護を求めました。
 アッバース朝【本試験H16セルジューク朝ではない】を滅ぼしたモンゴル人〈フレグ〉はイランとイラク(都はカスピ海南西のタブリーズ【本試験H16・H18サライではない】)にイル=ハン国(フレグ=ウルス) 【追H27エジプトは征服していない】【本試験H5,本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】 【本試験H21】【京都H19[2]】を建て,すでに1250年,エジプトのファーティマ朝をクーデタで倒していたマムルーク朝【本試験H3時期(16世紀初めか問う)】【本試験H20世紀を問う】と敵対します【本試験H9アイユーブ朝マムルークのクーデタにより倒されたか問う】【追H24エジプトの王朝か問う、オスマン帝国が滅ぼしたのではない】。
 イル=ハン国(フレグ=ウルス)は,はじめネストリウス派キリスト教を保護し,〈ラッバーン=バール=サウマ〉(?~1294)を西欧に使節として送り,フランスの〈フィリップ4世〉やローマ教皇〈ニコラウス4世〉(位1288~92)に謁見させています。しかし,〈ガザン=ハン〉(位1295~1304) 【東京H6[1]指定語句】【本試験H5イル=ハン国の指導層がイスラームに改宗したことを前提とする史料問題(難問である),本試験H11「歴史書の編纂を命じ」「イスラム教に改宗した」人物の名を問う。フラグ,バトゥ,オゴタイ=ハンではない】【本試験H13ホラズムを滅ぼしていない,本試験H16ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国)ではない】のときに(イル=ハン国が)イスラーム教を国教化しました【本試験H14,本試験H21フレグのときではない,H28ガザン=ハンが建国したわけではない,H31ユダヤ教ではない】。彼は,遊牧民としてのこだわりを捨て,イスラームの税制を導入して農業を振興したほか,文化も保護した名君です。
 彼の宰相〈ラシード=アッディーン〉(1247?~1318) 【追H24イル=ハン国の人物でありキプチャク=ハン国の人物ではない】は,『旧約聖書』のアダムとイヴから,イスラーム教の時代,そしてモンゴル人のチンギス家までの世界史(『集史』(ジャーミア=ウッタワーリーフ。歴史を集めたもの,という意味) 【本試験H11】【本試験H30】) 【追H21、H24『歴史序説(世界史序説)』ではない、H28 『歴史序説(世界史序説)』とのひっかけ】を,イランの言語のペルシア語で書くという壮大なスケールを持った歴史家でもありました。
 歴史家といえば,北アフリカチュニスに生まれた〈イブン=ハルドゥーン〉(1332~1406) 【東京H22[3]】【本試験H3 史料をよみ「14世紀にインドを訪れた人物」を答えるがイブン=バットゥータのことである,本試験H6スーフィズムを体系化した神学者(ガザーリーなど)ではない,本試験H8中国の元を訪問していない】【本試験H31】【追H19、H21ラシード=アッディーン(ウッディーン)ではない、H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う)、H28『集史』を著していない】は,『歴史(世界史)序説』【本試験H26、H31】【追H21『集史』ではない】【中央文H27記】において,人間の歴史には「定住」と「遊牧」の2つの過程がある。物資が乏しいが血気は盛んな沙漠の遊牧民が農耕定住国家を征服→都市型の定住生活に慣れる→新たな遊牧民勢力が都市を襲う→都市型の定住生活に慣れる→新たな遊牧民勢力が都市を襲う…の繰り返しだ,と主張しました。ある集団の「連帯意識」(アサビーヤ)に注目した彼の筆致は,実に客観的です。

 エジプトでは1249年にはアイユーブ朝のスルターンが,第6回十字軍の戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ばれマムルーク朝(1250~1517)【本試験H20世紀を問う】をおこしました。長年に渡る十字軍の過程で,テュルク(トルコ)系のマムルークらの軍隊の力が強まっており,〈アイバク〉が暗殺されると内紛が激化。

 そんな中,モンゴル帝国(大モンゴル国;イェケ=モンゴル=ウルス)の〈フラグ〉(フレグ) 【追H9オゴタイ・フビライチャガタイではない,本試験H12ロシアに遠征していない、H18、H19,H25チャガタイ=ハン国を建てていない】【セ試行】【本試験H28ガザン=ハンではない】【H27京都[2]】がバグダードに入城してアッバース朝【セ試行 滅ぼされたか問う。バグダードを都とするか問う】のカリフを殺害し,多数の住民が犠牲となります(1258年、アッバース朝の滅亡【追H25】)。

 しかし,シリアに進出した〈フラグ〉は〈モンケ=ハーン〉の死の知らせを聞いて退却を始めたため,マムルーク朝はアイン=ジャールートの戦いで勝つことができました。この勝利に貢献した将軍〈バイバルス〉がスルターンの〈クドゥズ〉を暗殺し,1260年にスルターン(位1260~77)として即位しました。1261年にはアッバース朝の末裔(まつえい)〈ムスタンスィル〉をカリフとして保護しています。
 その後,メッカやメディナ【本試験H22】【追H18モンゴル帝国の支配領域ではない】も支配領域に入れて,すでに1258年にモンゴルの〈フレグ〉により滅んだアッバース朝バグダードに変わり,イスラーム世界の中心地として栄えました。
 マムルーク朝の君主は,毎年「巡礼のアミール」という役職を任命して巡礼者の警護に当たらせるとともに,聖地のカーバ神殿を飾る覆い(キスワ)を運ぶ任務を担わせました【本試験H31リード文】。そのように「イスラームの保護者」としてのイメージを広めることで,支配される側の人々を納得させようとしたわけです。

 マムルーク朝の時期にはカイロを中心に経済も栄え,アラビア半島南部イエメンの港町アデンで,インド商人から東南アジアやインドの物産を受け取る中継ぎ貿易を行ったカーリミー商人が各地の物産を大量に運び込みました。カーリミー商人は,アデンから紅海に入ると,ナイル川上流に運び,ナイル川を下って下流アレクサンドリア港【本試験H12】で,イタリア諸都市(ヴェネツィアジェノヴァ)に売り渡していたのです。

 1世紀のインドに始まったサトウキビからの砂糖の生産は,7世紀頃イラン・イラク,そしてシリア・エジプトに広まっていました。この時期になると,エジプトではサトウキビからの砂糖生産が盛んにななります。甘くておいしいアラブ菓子も,断食明けのエネルギー補給やお祭りなどのために作られるようになりました。
 この時期のカイロの繁栄を目の当たりにした人物として,メッカに巡礼の旅【本試験H31】をし『三大陸周遊記』【追H27アウグストゥスとどちらが古いか】をあらわした〈イブン=バットゥータ〉(1304~68?69?77?) 【本試験H3史料をよみ14世紀にインドを訪れた人物として答える】【本試験H31】【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物であるが、1402~1602年の間ではない)】がいます。彼はモロッコのタンジェ(タンジール)生まれで,アフリカからユーラシア大陸をまたぐ大旅行をした人物です。
 また,ファーティマ朝時代に設立された,カイロ【東京H14[3]】【本試験H27アレクサンドリアではない】のアズハル=モスクにもうけられた学院【東京H14[3]】【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない,本試験H21】は,はじめはシーア派の中のイスマーイール派教育機関として設立されましたが,アイユーブ朝の時期にはスンナ派イスラームの教義研究の名門となり,イスラーム世界各地から学者(ウラマー) 【本試験H9スルターン,バラモンスーフィーとのひっかけ】が留学にやって来るようになっています。

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アナトリア半島では,セルジューク朝が地方政権(ルーム=セルジューク朝)を建てて以降,急速にトルコ人の住民が増え,群雄が割拠しました。オスマン帝国(1299~1922) 【本試験H8時期(1295年の「直後」に建国)】もその一つでした。都はアナトリア半島西部のブルサ【本試験H8サマルカンドではない】。勢力を固めたのち,バルカン半島に進出し,この地のキリスト教の有力者と戦ったり,同盟を結んだりしながら,領土を拡大していきました。

 〈バヤジット1世〉は,アナトリア半島の中部・東部に勢力を広げようとしましたが,1402年に〈ティムール〉(位1370~1405)に敗れて捕虜になり,それ以降,オスマン朝は一時混乱します。
 〈ティムール〉の出身であるチャガタイ=ハン国【慶文H29】は,当時,2つの政権に分裂していました。
 タリム盆地を含む東部のモグーリスタンにある,東チャガタイ=ハン国と,アム川・シル川流域の西部(マー=ワラー=アンナフル)にある西チャガタイ=ハン国です。〈ティムール〉はこのうちの西チャガタイ=ハン国から自立し,サマルカンド【東京H30[3]都市の略図を選択する】を中心にしてイラン高原イラクにまで領土を広げた人物です。

 その後,〈メフメト2世〉(位1444~46,1451~81) 【Hセ10スレイマン1世とのひっかけ】 【本試験H23】【追H18】は,再びバルカン半島への進出をねらいます。すでにビザンツ帝国は,〈アレクシオス1世〉(位1081~1118)の頃から地方分権化が進み,皇帝は高級軍人や官吏に国有地を管理する権利やその土地からの全収入,さらに軍事権を与える制度(プロノイア制)【本試験H29】が導入され,皇帝の権力は衰えていました。
 また,ペルシア高原方面からは,テュルク系のアクコユンル(白羊朝)が,カラコユンル(黒羊朝)を破り,アナトリア半島に進出。

 一方,〈メフメト2世〉はバルカン半島への進出を決意し,1453年にコンスタンティノープルを占領して【本試験H23スルターンと時期】,ビザンツ帝国を滅ぼし【追H18】,オスマン帝国の首都としました。これ以降はしだいにイスタンブル(イスタンブール)と呼ばれるようになっていきます(◆世界文化遺産イスタンブルの歴史地区」,1985)。

 かつて〈ユスティニアヌス大帝〉が6世紀にビザンツ様式(ドームとモザイク絵画【本試験H13,本試験H25ステンドグラスではない】が特徴)で再建したギリシア正教【本試験H12(下記の注を参照)】のハギア=ソフィア聖堂には,4本のミナレット(光塔)が加えられ,アヤ=ソフィアと呼ばれるイスラーム教のモスクに転用されました【東京H30[3]「モスクがキリスト教の教会に転用された」ことを答える】【本試験H17モスクに改修されたかどうかが問われる】。塔にはキリスト教の教会のような鐘はなく,人の声で礼拝時間を知らせます。モスクにはメッカの方向を示すミフラーブという空間,ウラマーが説教をするミンバル(説教壇)が備え付けられました。〈メフメト2世〉は,トプカプ宮殿【本試験H23チベットのラサではない】の建設も開始しています。
 宮殿にはハレムがおかれ,バルカン半島小アジア,さらにカフカース地方の有力者の娘や女奴隷たちを住まわせ,オスマン帝国における上流階級の文化・芸術の拠点となった一方,のちに政治に介入する女性も現れています。
(注)【本試験H12】「(1897年に)オスマン帝国で実施された人口調査によると,イスタンブルの人口は90万人であり,その宗教・宗派別割合は次の図のとおり(円グラフ)である」という問い。円グラフには,イスラム教徒(58%),( a )のキリスト教徒(18%),アルメニア教会のキリスト教徒(17%),その他のキリスト教徒(2%),ユダヤ教徒(5%)とあります。( a )に入る語句を「①プロテスタント ②ローマ=カトリック教会 ③ギリシア正教会 ④ネストリウス派」から選ばせるもの。解答は③ギリシア正教会。オスマン帝国による支配以降も,コンスタンティノープル(イスタンブル)はギリシア正教会の拠点であり続けます。

 この頃からバルカン半島側に都が置かれ,今までのトルコ系の騎士に代わり,イェニチェリ【本試験H6スーフィズムを信仰するインド人の教団ではない】という歩兵が重視されるようになっていきます。バルカン半島(のちにエジプト)は間接統治される領土で,総督が派遣され,常備軍としてイェニチェリ【京都H19[2]】【本試験H21常備軍であることを問う】が用いられました。大音響で有名なオスマン帝国の軍楽隊(メヘテルハーネ)は,吹奏楽のルーツと言われ,ヨーロッパ諸国にも影響を与えました。なお,イェニチェリとして育成するために,バルカン半島の男子を強制的に徴発する制度をデウシルメ(デヴシルメ)【慶文H29】といいます。


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アルメニアはモンゴル人の支配下に置かれますが,支配下では反乱も起きています。14世紀以降,キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)とイル=ハン国(フレグ=ウルス)【本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】がアゼルバイジャンの草原地帯をめぐって対立。アルメニアは,14世紀半ばにはペストの被害も受けています。
 その後,テュルク系の白羊朝,黒羊朝の支配,のちオスマン帝国支配下に置かれます。1461年にはアルメニア人がオスマン帝国の〈メフメト2世〉により総主教に任命され,「エルメニ=ミッレト」という宗教的な自治組織をつくることが許可されたといいます(注1)。
 〈スレイマン1世〉は国内を35の州(エヤレット),下位区分として軍管区(県;サンジャク),郡(カザー)に編成して統治しました。このときアルメニアにはエルズルム=エヤレットが置かれています(注2)。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.62 
 オスマン帝国ではキリスト教ユダヤ教など非イスラーム教徒の宗教的な自治組織がつくられ,「ミッレト」【京都H19[2]】【追H30アッバース朝で認められたものではない】と呼ばれましたが,実態には不明な点も残されています。

 

●アフリカ

15世紀末にかけ,モガディシュ(現④ソマリアの首都モガディシオ(イタリア語読み)),マリンディ【本試験H27】(現⑤ケニアの港町。モンバサの北東約100km),モンバサ【本試験H30】(現⑤ケニア南東部。大陸部分とサンゴ礁島のモンバサ島から成ります)といった港市国家が,イスラーム教徒【本試験H27】(ペルシア商人やアラブ商人)との交易で栄えます。東アフリカ沿岸にはバントゥー系の言語にアラビア語をとりいれつつ変化したスワヒリ語による文化圏が広がり【本試験H19インド西海岸のカリカット周辺ではない,本試験H21】【H30共通テスト試行インドネシアの言語ではない】,イスラーム教。アラブ人とペルシア人のほか,ザンジュと呼ばれる黒人が住んでいました。

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 マリンディではインドからやってきた商船4隻に遭遇し、彼らがキリスト教徒であることに歓喜した(インド西南のケララ海岸にいるキリスト教徒である)(注2)。
 そして、現地の水先案内人を雇って4月後半にインド南西岸のカリカット【セ試行 オランダの拠点として建設されたのではない】【同志社H30記】【セA H30西インド諸島ではない,アメリカ合衆国の20世紀末の拠点ではない】に向かいます。どうして4月後半かというと、4月~9月半ばまでが、東アフリカからインド亜大陸への航海に最適な季節風を利用できたからです。香辛料【追H18グラフ読み取り】の直接取引をねらったのです(南アジアはコショウの原産地)【追H9ポルトガルがインド洋に進出した理由を問う。インド亜大陸の支配・イスラム教徒からの聖地の解放・プロテスタントの布教の支援が目的ではない】。

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ニジェール川流域では,1230年頃,イスラーム教に改宗したマンデ人の王〈スンジャータ〉(位1230?~55)がマリ王国【本試験H3「黒人王国」か問う】【本試験H31ソンガイ王国とのひっかけ】【追H21】を建てました。その支配領域は,西はサハラ沙漠南縁から大西洋に注ぐセネガル川,東はニジェール川【追H26ティグリス川・ユーフラテス川流域ではない】の中流域のトンブクトゥ【追H26交易都市として栄えたか問う】【本試験H3「黄金の都」】【東京H9[3]】【H30共通テスト試行 金と岩塩の貿易が行われたか問う(生糸と銀、毛皮と薬用人参、香辛料を求めてヨーロッパ人が進出は、いずれも無関係)】(現在の⑭マリ共和国中部の都市)以東にまでおよびました。

 最盛期の〈マンサ=ムーサ〉(マンサは王の意。在位1312~37) 【本試験H31ソンガイ王国ではない】は,メッカを500人の奴隷とともに巡礼し,大量の金をロバ40頭で運んだ結果,マムルーク朝の首都カイロ【本試験H12首都はアレクサンドリアではない】の金相場が下落したほどだったといいます。伝説によれば使節の総数は77000人だったともいわれます。彼は帰国後に,トンブクトゥにモスクを建設しました。巡礼は,サハラ沙漠の横断ルートを開拓するためだったとも言われています。1353年には,〈イブン=バットゥータ〉(1304~1368?69?)がマリ王国の首都を訪問し,半年ほど滞在し,その様子を『三大陸周遊記』に報告しています。
 1464年に,稲作と漁労に従事していたソンガイ人【共通一次 平1:新大陸の民族ではない】は水軍を組織してニジェール川中流域のガオ(現在の⑭マリ共和国の中等部)を中心にソンガイ帝国【本試験H3「黒人王国」か問う】【本試験H31マンサ=ムーサ王はその王ではない】を築き,サハラ沙漠の交易ネットワークを支配【本試験H3】して栄えました。


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現在の①エジプトでは1249年にはアイユーブ朝のスルターンが,第6回十字軍の戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ばれマムルーク朝(1250~1517) 【京都H20[2]】【本試験H20世紀を問う】を,首都カイロ【本試験H12アレクサンドリアではない】に築きました。長年に渡る十字軍の過程で,テュルク(トルコ)系のマムルークらの軍隊の力が強まっており,〈アイバク〉が暗殺されると内紛が激化。そんな中,モンゴル帝国の〈フラグ〉(フレグ) 【本試験H11ガザン=ハンではない,本試験H12ロシアに遠征していない】【本試験H28ガザン=ハンではない】【追H21チンギス=ハンではない】がバグダードに入城してアッバース朝カリフを殺害し,多数の住民が犠牲となります。
 しかし,シリア【本試験H31】に進出した〈フラグ〉は〈モンケ=ハーン〉の死の知らせを聞いて退却を始めたため,マムルーク朝はアイン=ジャールートの戦いで勝つことができました【本試験H31マムルーク朝がシリアでモンゴル軍を撃退したか問う】。

その後,聖都であるメッカ(マッカ)やメディナ【本試験H22】(マディーナ)も保護下に入れ,すでに1258年にモンゴルの〈フレグ〉により滅んでしまったアッバース朝バグダードに代わって,イスラーム世界の中心地として栄えました。

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 1世紀のインドに始まったサトウキビ【本試験H11原産地はアメリカ大陸ではない。ニューギニア島原産】からの砂糖の生産は,7世紀頃イラン・イラク,そしてシリア・エジプトに広まっていました。この時期になると,エジプトではサトウキビからの砂糖生産が盛んになります。甘くておいしいアラブ菓子も,断食明けのエネルギー補給やお祭りなどのために作られるようになりました。この時期のカイロの繁栄を目の当たりにした人物として,『三大陸周遊記』をあらわした〈イブン=バットゥータ〉(1304~68?69?77?)がいます。彼はモロッコのタンジェ(タンジール)生まれで,アフリカからユーラシア大陸をまたぐ大旅行をした人物です。

 また,ファーティマ朝時代に設立された,カイロ【本試験H27アレクサンドリアではない】のアズハル=モスクに970年にもうけられた学院【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない,本試験H21】は,はじめはシーア派の中のイスマーイール派教育機関として設立されましたが,アイユーブ朝の時期にはスンナ派イスラームの教義研究の名門となり,イスラーム世界各地から学者(ウラマー)が留学にやって来るようになっています。“入学随時・出欠席随意・修業年限なし”がアズハル学院の売り文句。現在では世俗教育もおこなっています。

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 イベリア半島の北部~中央部のカスティーリャ王国【追H25】と,北西部のアラゴン王国【追H25】は,イベリア半島を支配していたムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)】との戦いを進めていました。

 現在の④モロッコマラケシュに都を置くムワッヒド朝では,ベルベル人を中核とした初期の軍事力が衰えをみせ,1212年にラス=ナーヴァス=デ=トローサ(イベリア半島コルドバ(現在のスペイン)の東)で敗北し,13世紀後半には滅びました【追H24 時期(13世紀に滅亡したか)を問う】。

 


●ヨーロッパ


 第四回十字軍【追H17、H19】は,聖地までの物資輸送の資金が足りず,ヴェネツィア商人の資金力や櫂船・帆船を借りて実施されることになりました【本試験H25ウルバヌス2世ではない】。
 時の教皇は,〈インノケンティウス3世〉(位1198~1216) 【慶文H30記】のときで,教会法(カノン法)を根拠として教皇権を強化させていました(教皇権の絶頂【本試験H25】)。イングランドの〈ジョン王〉,フランスの〈フィリップ2世〉を破門し,「教皇は太陽,皇帝は月」という言葉を残したほどです。


第六回十字軍(1248~49)・七回十字軍(1270)は,フランス王国の〈ルイ9世〉(位1226~70) 【本試験H18シャルル7世ではない】がファーティマ朝,のちにマムルーク朝【本試験H20世紀を問う】に対して起こしました。チュニス【本試験H18イェルサレムではない】に派兵する現実的な案でしたが失敗しました。

 ドミニコ修道会の〈トマス=アクィナス〉(1225?~1274) 【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】【追H9】は,師〈アルベルトゥス=マグヌス〉(1193?1200?~1280)による「キリスト教思想を〈アリストテレス〉の書いたテキストに即して,理性的に理解しなおそうとする」試みを受け継ぎ,〈アリストテレス〉の思想を批判的に読み砕くことでキリスト教の教義を組み立て直していきました【本試験H12「〈アリストテレス〉哲学がキリスト教の哲学に取り入れられ,これを体系化した書物が著された」か問う】。その成果である『神学大全』(1273) 【共通一次 平1】【追H9、H19アウグスティヌスの著作ではない、H21】【本試験H17】は,教皇キリスト教の正しさを説明するときの重要な柱となっていきます。

 十字軍の期間には,イェルサレムに本拠地のあるテンプル騎士団,病院での医療奉仕を重視した聖ヨハネ騎士団【追H30リード文】のように聖地巡礼者を保護したり病院を設立する宗教騎士団【東京H6[3]】が活躍しました。バルト海東岸のケーニヒスベルクを中心とするドイツ騎士団領【本試験H21レコンキスタと無関係】のように,国家を形成したりキリスト教を東ヨーロッパや北ヨーロッパに布教したりする集団も現れました。

 また,十字軍の失敗によって,言い出しっぺの教皇の権威は低下し,実際に遠征を指揮した国王の力が高まりました。逆に,火砲の導入もあって,騎士は没落に向かいます【本試験H8「長期にわたる十字軍とその失敗は,彼らの没落の一因となった」か問う】。

 一方,宗教的な情熱のあまり,ユダヤ人に対する迫害も起きています。とくに14世紀中頃に黒死病(ペスト) 【追H26天然痘ではない】 【東京H27[1]指定語句】【本試験H15時期(10世紀半ばではない),本試験H19時期(12世紀ではない)】が流行した際には,「ユダヤ人が井戸に毒を入れたのだ」などの根も葉もない噂がヨーロッパ中に広まり,特に神聖ローマ帝国内部では虐殺なども起こりました。


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キエフ(大)公国(キエフ=ルーシ)がモンゴル人の〈バトゥ〉【京都H20[2]】【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【追H18】に服属すると,東方のスラヴ人地域にも拡大するようになっていきました。1387年にローマ=カトリックを国教としましたが,スラヴ人の人口が多いため正教会の信仰も認められました。実際,リトアニア大国国の支配層は,スラヴ語派のルーシ語(ベラルーシ語の元)を話しており,貴族の多くがルーシ人(のちのベラルーシ人)でした。
 ドイツ騎士団に対抗するため,1386年にリトアニア大公国の〈ヨガイラ〉は,ポーランド王国の娘と結婚します。
 これにより,ポーランドリトアニアは同君連合(ヤギェウォ(ヤゲロー)朝【追H27ノヴゴロド国ではない】【東京H6[3]】)となり,東ヨーロッパの強国,いや,ヨーロッパ最大の強国に発展していきます。最大領土は,黒海沿岸のウクライナにまで及び,1410年にはグルンヴァルト(ドイツ語ではタンネンベルク)の戦いでドイツ騎士団を撃退することにも成功しました。

 東スラヴ人キエフ(大)公国(キエフ=ルーシ)は,13世紀にはモンゴル人の〈バトゥ〉【京都H20[2]】【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ】【追H25ロシア遠征したか問う】が遠征隊の攻撃を受け,約240年にわたるモンゴル人の支配下に置かれることになりました。

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 1453年に東ローマ帝国が滅亡すると,最後の皇帝の姪(めい)〈ゾエ(ソフィア)〉が,モスクワ大公に嫁ぎました。〈イヴァン3世〉【本試験H20世紀を問う】は,「滅んだ東ローマから,ローマ皇帝の位がわれわれモスクワ大公に移ったのだ!」と主張し,自らをローマ皇帝(ロシア語でツァーリ【本試験H28】【追H21 13世紀ではない】)と自称しようとしたという説もあります。ただ実際には当時のロシアにおける「ツァーリ」には「王」程度の意味合いしかなく,どちらかというと「ハーン」(モンゴル人(この地域のモンゴル人はタタル人といいます)の君主)の意味が強いものでした(ツァーリ=皇帝ではないのです) 【本試験H31ツァーリ(皇帝)の称号を用いたか問う(大学入試センターによると「用いた」が正解)】。
 こうして1480年には,モンゴル人の支配から完全に脱却したのです【本試験H7ノヴゴロド公国(ママ)ではない】。
 彼はイタリア人の建築家を招き,モスクワにギリシア正教の壮麗な聖堂(ウスペンスキー大聖堂)を建てさせました(◆世界文化遺産「モスクワのクレムリン赤の広場」,1990)。

 〈イヴァン3世〉の孫である〈イヴァン4世〉(雷帝,在位1533~84) 【京都H22[2]】【本試験H6】【本試験H18聖職者課税問題とは無関係】は,モスクワのウスペンスキー大聖堂で戴冠式をおこない,さらに中央集権化をすすめていきました。1547年には公式にツァーリの称号(「偉大なる君主,全ルーシ,ヴラディミル・モスクワ・ノヴゴロドツァーリにして大公」)を使い【本試験H6】,貴族を抑える恐怖政治をおこない権力を拡大させていきました。


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「ドイツ人」の拡大運動が,ドイツ王により推進へ
 ここでいう「ドイツ」は,ほぼ神聖ローマ帝国【追H30「14世紀中頃~15世紀末の神聖ローマ帝国の版図」を選ぶ問題】の領域のうちイタリアを外した地域のこと。かつての東フランク王国の領域です。
 「神聖ローマ帝国」というおおげさな名前を付けた以上,この皇帝はローマのあるイタリアに進出しようと必死。しかし,これがなかなか難しい。ドイツでは皇帝の権力は強くなく,諸侯の独立性も強まっていきました【本試験H3神聖ローマ帝国の権力が次第に弱体化していき,次第に諸侯の独立性が強まったか党】。

 そんな中,中世温暖期を迎えていたヨーロッパでは人口が急増し,外へ外へ拡大する必要が出てきます。
 神聖ローマ帝国の領内のドイツ語を話すドイツ人の受け入れ先として,シチリア島が設定されましたがうまくいかず,ついにエルベ川【H30共通テスト試行】を東【H30共通テスト試行】に越えた「東方」への植民計画が実行に移されていきます。これが「ドイツ植民運動」です【H30共通テスト試行 移動経路はヨーロッパから西アジアにかけてではない。エルベ川以東でドイツ騎士団が中心となって行ったか問う】。

 さて,神聖ローマ帝国ローマ教皇との間に引き起こされていた叙任権闘争【追H17叙任権闘争の結果東西教会の分裂が起きたわけではない】は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に結ばれたヴォルムス協約で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみていました。
 〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙でホーエンシュタウフェン家の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派のギベリン(教皇党【本試験H3】)と,教皇派のヴェルヘン家によるゲルフ(皇帝党【本試験H3】)との間に内乱が勃発しました。

◆フリードリヒ1世
 しかし,〈コンラート3世〉の甥〈フリードリヒ1世〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか,第三回十字軍(1189~92)にも参加しました。しかし,彼も和平を撤回してイタリア政策【本試験H8】を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それに対し,ミラノ【追H26北ドイツ・バルト海沿岸都市ではない】を中心にロンバルディア同盟【追H26】【本試験H19】が結成されます。彼はローマ法を整備し君主国の体制を強化しようとしましたが,あまりにイタリアに首を突っ込みすぎたため,国内の諸侯の力をじゅうぶんに押さえることはできませんでした【本試験H8「イタリア政策は,ドイツにおける集権化を促進した」わけではない】。

◆フリードリヒ2世【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】
 しかし〈ハインリヒ6世〉は,若くして死去。シチリア島民の抵抗も起こる中,〈コンスタンツァ〉は孫〈フェデリコ〉とともにシチリア島ローマ教皇〈インノケンティウス3世〉の保護下に置いてもらう戦略をとりました。こうして,アラビア語など多言語に堪能(たんのう)となった〈フェデリコ〉は〈フリードリヒ2世〉(皇帝在位1215~50)【本試験H27ハプスブルク家ではない】【慶文H29】としてシチリア島を相続し,神聖ローマ皇帝にも選出されます。
 彼はシチリアの宮廷で官僚制を整備するとともに,ドイツ騎士団【H30共通テスト試行】を支援しました(騎士団総長の〈ザルツァ〉(任1209~1239)を支援)。彼らはバルト海沿岸に侵入し,先住のバルト系プルーセン人の支配とキリスト教化に成功します。これがのちのプロイセンのもととなります。その開拓のためにドイツ植民運動【H30共通テスト試行 移動方向を問う】が盛り上がっていったわけです。
 〈フリードリヒ2世〉はイタリア北部への拡大政策をとったため,諸都市はロンバルディア同盟を結成しています【本試験H30】。

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 ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると,皇帝不在の“大空位時代”(1256~73)【本試験H19】が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。

 1273年には,しかし,当時シチリア王に即位していたアンジュー家の〈カルロ1世〉が,フランスの王を神聖ローマ皇帝に就任させてローマ帝国を復活させようともくろんだことに対して,1273年に「フランス王が神聖ローマ皇帝につくよりは,もっと弱いハプスブルク家【本試験H26ホーエンツォレルン家ではない】の〈ルドルフ1世〉についてもらったほうがマシだ」ということで,ドイツ王神聖ローマ皇帝に就任させることを決定しました。

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 ハプスブルク家【本試験H4ヤゲウォ朝とのひっかけ】は11世紀にスイス北東部に“鷹の城”(ハビヒツブルク)を築いたことが発祥の弱小貴族でした。しかし,〈ルドルフ1世〉(位1273~91)は,ベーメン(ベーメンはドイツ語。ラテン語ではボヘミア) 【本試験H13オスマン帝国最盛期の領域には含まれない】の〈オタカル2世〉(当時オーストリア公にも就任していました)からオーストリアを奪うと一気に強大化します。これ以降,ハプスブルク家の拠点はオーストリアとなります。
ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉であり,神聖ローマ皇帝に即位していた〈カール4世〉(位1355~1378)【東京H18[3]】【追H27 時期を14世紀か問う】【本試験H23】によって1356年に出されたのが「金印勅書(黄金文書(おうごんもんじょ))」【東京H18[3]】【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】【本試験H8】【追H27時期が14世紀か問う、H30】【立教文H28記】です。7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました【追H30世襲されることになったわけではない】【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】。


 14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の〈ジギスムント〉(位1411~37)は,混乱収拾のためにコンスタンツ公会議(1414~18) 【東京H18[3]】【追H27アリウス派を異端としていない】【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】を開催し,ローマ教皇の権威を確認して教会大分裂(シスマ)(1378~1417) 【セA H30】を終結させるとともに,〈フス〉派【東京H18[3]】【本試験H29】や〈ウィクリフ〉派【追H27イギリスの人ではない、時期が14世紀か問う】【本試験H22 15世紀ではない,本試験H30】を異端として,〈フス〉【追H19】を火刑【本試験H29】としました【H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】。このとき祭壇に掲げられていたのは,『聖書』と〈トマス=アクィナス〉(1225?~74) 【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】の『神学大全』【共通一次 平1】でした。

 ベーメンにおける〈フス〉【追H19】【東京H18[3]】の教会批判は,ドイツ人(神聖ローマ帝国)の支配に対する批判の意味も込められており,〈フス〉支持者が反ドイツのフス戦争(1419~36) 【追H26ポーランドではない】【本試験H17時期・地域,H22】【セA H30時期】を起こします。チェック人の民族運動の側面もあったということです。

 1438年の〈アルブレヒト2世〉(ドイツ王在位1438~39)以降,神聖ローマ皇帝は,ハプスブルク家が事実上世襲するようになっていきました【本試験H26時期,ホーエンツォレルン家ではない】【本試験H8プロイセン王ではない】。「汝,結婚せよ」の家訓のもと,ハプスブルク家はヨーロッパの名門家系に一族を嫁がせまくり,ヨーロッパの支配階層の乗っ取りを初めていきます。
 なお,神聖ローマ皇帝の〈フリードリヒ1世〉と〈2世〉のころ,ドイツ人の東方植民が盛んになりました【H30共通テスト試行 人の移動方向を問う(ヨーロッパから西アジアへの移動ではない)】。12世紀にはブランデンブルク辺境伯領が成立【本試験H30キエフ大公国とのひっかけ】,13世紀にはドイツ騎士団が成立しました。ブランデンブルク辺境伯は,1356年の金印勅書により選帝侯国となり,神聖ローマ皇帝を選ぶ権利を獲得し,のちに南ドイツの名門によるホーエンツォレルン家【追H29スペインの王位を獲得したことはない】の支配を受けるようになりました。


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 西スラヴ人ポーランド人,チェック人【本試験H30ハンガリー人とのひっかけ】,スロヴァキア人は,ローマ=カトリック【慶文H30「10世紀にポーランドが受容したキリスト教の宗派」を問う】に改宗し,ラテン語の文化圏に入っていました。


 10世紀初めにピアスト朝を建国したポーランド人は,内紛により分裂していました。

 そんな中,モンゴル人の〈バトゥ〉【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【追H25ロシア遠征したか問う】の侵攻を受けます。

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リトアニア大公国【慶文H30】の〈ヨガイラ〉と結婚させるため、1385年にリトアニアのヴィリニュス(ポーランド名はヴィルノ)近郊のクレヴァ(ポーランド名はクレヴォ)に集まって、〈ヨガイラ〉(ポーランド名はヤゲウォ)をカトリックに改宗させました。
こうして,リトアニア大公国【本試験H13】はポーランド王国と合同してヤゲウォ(ヤゲロー)朝【東京H6[3]】【本試験H4ハノーヴァー・ハプスブルク・ロマノフではない,本試験H7イヴァン4世は無関係】【本試験H14ポーランド分割によって滅亡したわけではない,本試験H30ハノーヴァー朝ではない】のリトアニア=ポーランド王国【本試験H20世紀を問う】を立ち上げ,共同してドイツ騎士団に立ち向かう体制を整えたのです。


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 ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉は,1355年に〈カール4世〉(位1355~1378)【東京H18[3]】【本試験H23】として神聖ローマ皇帝に即位。彼によって1356年に出されたのが「金印勅書(黄金文書(おうごんもんじょ))」【東京H18[3]】【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】【本試験H8】【追H30】【立教文H28記】です。
 7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました【追H30世襲されることになったわけではない】【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】。

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ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402) 【早・政経H31スレイマン1世ではない】に惨敗し,オスマン帝国バルカン半島の支配は決定的となりました。

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第四回十字軍【追H17,H19】のときに,ヴェネツィア共和国【本試験H12フィレンツェではない】の商人がイェルサレム奪回の目的からそれ,商圏獲得のためにコンスタンティノープル【追H17イェルサレムではない】を攻略してしまったため,ビザンツ帝国はニケア帝国(1204~61)という亡命政権を建てました。

 一方のヴェネツィア主導の十字軍は,コンスタンティノープル【本試験H30】にラテン帝国【本試験H29第七回十字軍ではない】を樹立しましたが,その後東ローマ帝国は1261年にジェノヴァの支援を受けてコンスタンティノープルを奪回して復活します。

 のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国バルカン半島の支配は決定的となりました。
 しかし,1453年にオスマン帝国の〈セリム2世〉の攻撃でコンスタンティノープルが陥落し,東ローマ帝国ビザンツ帝国〕(395~1453)は約1000年の歴史に幕を下ろします。


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イベリア半島の北部~中央部のカスティーリャ王国と,北西部のアラゴン王国は,イベリア半島を支配していたムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)】との戦いを進めていました。ムワッヒド朝ベルベル人を中核とした初期の軍事力が衰えをみせる中,1212年にキリスト教諸国の同盟軍によってラス=ナーヴァス=デ=トローサ(コルドバの東)で敗北し,13世紀後半には滅びました。

 一方,イベリア半島南部のグラナダを都に,1232年に〈ムハンマド1世〉がナスル朝(グラナダ王国) 【本試験H31セルジューク朝とのひっかけ】【H30共通テスト試行 スペイン王国接触した可能性があるか問う】【追H19ヒンドゥー教の影響は受けていない、H25マムルーク朝ではない】【東京H24[3]】【立命館H30記】が建国されます。グラナダ【東京H11[1]指定語句】【本試験H6バルセロナではない,本試験H8】に残る,アラベスクの美しいイスラーム建築【本試験H21ロココ様式ではない】のアルハンブラ宮殿【本試験H6】【本試験H16コルドバではない,本試験H31セルジューク朝によるものではない】【追H9スペイン王国が造営していない】【立命館H30記】(アラビア語の「赤い城」(al-Kalat-al Hamrah)に由来)は,〈ムハンマド1世〉により建造が開始され,ナスル朝の繁栄を今に伝えています【本試験H28ビザンツ様式ではない】。

ポルトガル王国は,イベリア半島の他のキリスト教国に先駆けてイスラーム勢力の駆逐に成功していました。1249年に南端の都市ファロをイスラーム政権から取り返した〈アルフォンソ3世〉(位1248~79)のときのことです。レコンキスタの終了後もイスラーム教徒との交易は活発に行われたほか,フランドル地方,イギリス,フランスとの貿易も盛んに行われました。1255年には都がリスボン【本試験H8】となり,13世紀に開通していたイタリアとフランドルを結ぶ定期航路の中継点として,ポルトとともに商業で栄えました。ポルトガルはイタリアのジェノヴァ商人と提携し,資本,技術,軍事力を導入していきます。ポルトガル王国は,すでに1340年代までには,北東の風に乗りモロッコ沖のカナリア諸島に上陸。しかし,1348年には黒死病【東京H27[1]指定語句】が猛威をふるい,総人口の3分の1が失われました。
 〈エンリケ航海王子〉(1394~1460) 【本試験H15,本試験H18時期(17世紀ではない)】【追H20フランスではない】は,ジェノヴァ共和国の支援も受けて航海学校を設立し,西アフリカの黄金を直接手に入れるルートを開拓しようとし【本試験H15アフリカ西海岸の探検を行わせたかを問う】,1427年には大西洋の沖合のアゾレス諸島を発見させています。

こうしてポルトガル王国の都リスボン【セ試行 16世紀前半に世界商業の中心の一つであったか問う】【本試験H30】【同志社H30記】は繁栄の時代を迎えるのでした。


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 こうして王権が強化され勢力を増していたカスティーリャ王国と,衰えをみせるようになったアラゴン連合王国の支配層は,「互いに争っていては,イスラーム政権のナスル朝にとって有利になるだけだ」【追H25中世後期に互いに対立していたためナスル朝は「漁夫の利を得て延命した」(問題文)】と考え,政治的な統一を目指すようになっていきます。一方ナスル朝では王位継承をめぐる内紛が続き,両国による攻撃も激しさを増していきました。もともと小国であったナスル朝の経済は,ジェノヴァ商人を介する北アフリカやヨーロッパからの輸入頼みであり,ポルトガル王国の南下により北アフリカとの交易がしにくくなり,ジェノヴァ商人が交易から撤退すると大きな打撃を受けることになります。
 そんな中,カスティーリャ王国王女〈イサベル〉【本試験H6イギリスにジプラルタルを譲っていない】【本試験H15,本試験H23,本試験H27】と,アラゴン連合王国王子の〈フェルナンド〉が1469年に結婚。1474年に〈イサベル〉はカスティーリャ女王(位1474~1504)に,〈フェルナンド〉は1479年にアラゴン国王(位1479~1516)に即位し,ポルトガルを除くイベリア半島を共同統治しました。一般に,この2人の王国の領域をもってスペイン王国(モナルキーア=イスパニカ) 【H30共通テスト試行 ナスル朝接触した可能性があるか問う】が成立したとされますが,2王国の立法・行政・司法・軍隊は別々であり,あくまでも2人は別々の国の王の肩書きを維持する複合的な王国でした。
 1492年には,スペイン王国イベリア半島におけるイスラーム教徒による最後【本試験H16イベリア半島最後の政権かを問う】の政権であるナスル朝(グラナダ王国) 【本試験H3ムラービト朝ではない】【本試験H16,本試験H21時期】の首都グラナダを陥落させ,最後の〈ムハンマド12世〉が北アフリカに逃亡すると,足掛け800年近くかかったレコンキスタがようやく幕を閉じました。

 レコンキスタの完了した1492年には,〈イサベル〉と〈フェルナンド〉の“カトリック両王”は,ユダヤ教徒追放令を発布。スペイン【本試験H13フランスではない】を追放されたユダヤ人やイスラーム教徒のなかには,オスマン帝国領内に移住した者もいました。

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その労働力として連行されたのが,アフリカ大陸(ギニア湾岸)の住民です。サトウキビの植え付けと刈り取りには,労働力が大量に必要になるのです。こうして,ヨーロッパ人によるギニア湾沿岸(西アフリカから中央アフリカにかけて)から大西洋を超える黒人奴隷貿易【本試験H24】が本格化していきます。産業革命(工業化)以前の社会では,奴隷と家畜は,重要な“動力源”だったのです。

 ポルトガルはその後,アフリカ大陸の西端のヴェルデ岬沖に浮かぶ,カーボヴェルデでも同じようにプランテーション奴隷貿易を行いました。また,スペインもカナリア諸島で同様の栽培・奴隷貿易を行いました。1488年には〈バルトロメウ=ディアス〉(1450?~1500)【本試験H14】が喜望峰【本試験H14地図(ディアスの航路を選択する)】(注)を発見しています【追H29時期(マゼラン世界周航,クックの太平洋探検との並べ替え)】。


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 スペインは1492年,ジェノヴァ上智法(法律)他H30】出身の〈コロン〉(コロンブス,1451?~1506) 【本試験H15イサベルの援助を受けていたかを問う,本試験H27カブラルではない】【上智法(法律)他H30】に投資し,大西洋に船隊を向かわせました。大西洋を西にすすめば,インドや日本(マルコ=ポーロは黄金の国「ジパング」と伝えていました)に近道で着けると考えたからです。〈コロン〉の弟は地図職人で,かつてポルトガルリスボンに住んでいたときには,アイスランドにまで航海をしています。さらに,リスボン時代に地理学者〈トスカネリ〉(1397~1482) 【本試験H4大航海時代の始まった要因か問う】【本試験H15】との運命的な出会いを果たし,彼の主張する「地球球体説」【本試験H15】の正しさを確信しました。
 1484年,〈コロン〉はポルトガルの〈ジョアン2世〉(任1481~95) 【上智法(法律)他H30 支援は受けられなかった】に西回り航路への資金援助を打診しますが,断られます。すでにポルトガルは,アフリカ南端から東回りでインドをめざす航路開拓の事業をすすめていたからです。
 がっかりした〈コロン〉はスペインの港町パロスに移り,地元の貴族に資金提供をつのり快諾。さらにそのつてで,1486年スペインの〈イサベル〉女王【本試験H23】と〈フェルナンド〉王への謁見がゆるされたのです。しかし,またなかなか許可がおりません。

満を持してインドを目指した〈コロン〉。ですが,彼が到達したのはカリブ海に浮かぶサン=サルバドル島【本試験H23】でした。たしかに地球は球体だったのですが,「アメリカ大陸」の存在を前提にしていなかったので,地球を実際よりも1/3の大きさに見積もっていたのです。
 その後の3度の航海中に,住民のアラワク人を奴隷として連れ去ったり,現地でプランテーションをはじめたりした〈コロン〉は,最後までこの地の住民を「インド人」【上智法(法律)他H30】と考えていましたので,住民は“インド人”(スペイン語インディオ)ということになりました。
 1492年には,〈イサベル〉女王のスペインの要請を受けたジェノヴァ生まれの〈コロン〉が,第一回航海に乗り出し,カリブ海サンサルバドル島に到達しました。〈コロン〉は実はコンベルソ(改宗ユダヤ人)で,迫害を逃れユダヤ人の新天地を探していたのではないかという説もあります。当時のイベリア半島では,隠れユダヤ人や改宗ユダヤ人に対する異端審問が厳しくおこなわれていたのです。

 〈コロン〉は,ユーラシア大陸・アフリカ大陸になかった多くの新しい植物・動物を持ち込みました【本試験H14時期】。ジャガイモ【本試験H14時期,H29共通テスト試行 新大陸原産かを問う】,トウモロコシ【本試験H18】,トマト【本試験H18】,トウガラシ(南アメリカにおける総称は「アヒ」(注)),カカオ【本試験H18コショウ・ブドウではない】は,〈コロン〉以前は南北アメリカ大陸にしかなかったものです。

この知らせを受け,1493年に教皇〈アレクサンデル6世〉(スペイン出身,在位1492~1503)が,大西洋上にスペインとポルトガルの境界線を引いた。これが教皇子午線です。
 しかし,スペインのライバルであった〈ジョアン2世〉は,「スペインに有利な引き方だ。ずるい! もっと西に引かせてほしい」と,〈イサベル〉女王に話を持ちかけ,境界線を教皇子午線よりも西に引き直した。これが1494年のトルデシリャス条約【本試験H23すべてがスペイン領になったわけではない,本試験H27,H31オランダとスペイン間の取り決めではない】【追H20スペインとイギリスの間の条約ではない】です。

 なお,のちにフィレンツェ【セ試行 イタリア人か問う】の〈アメリゴ=ヴェスプッチ〉(1454~1512) 【セ試行】【上智法(法律)他H30】が〈コロン〉の到達した地がアジアではなく「新世界」(“新大陸”とは言っていません)【本試験H18】であることを指摘したことから,ドイツの〈ヴァルトゼーミュラー〉(ヨーロッパ初の地球儀をつくった人物)が〈アメリゴ〉の名(ラテンゴ名はアメリクス)をとって,新大陸を「アメリカ大陸」と命名しました。これがアメリカの語源です【セ試行】【本試験H23先住民の言語由来ではない】。


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 西まわりをとった〈コロン〉に対し,ポルトガル喜望峰まわりでのインド航路を開拓しようとします。1498年には〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉(1460?~1524)が,喜望峰をまわって,東アフリカ沿岸のスワヒリ文化圏の都市国家マリンディに寄り,その地の航海士〈イブン=マージド〉のガイドでインド洋を渡り,西南インドカリカットに到達しました【H29共通テスト試行 地図資料と議論(ヴァスコ=ダ=ガマの航海以降にインドと東アフリカの交流が始まったわけではない)】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】【名古屋H31記述(1500年前後のヨーロッパ人とインドの関わり)】。

 カリカットは,香辛料【東京H23[3]】【H29共通テスト試行 ジャガイモではない】貿易の中心地で,コショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】とシナモンを積荷として持ち帰りました。これだけで航海費の60倍の価値があったそうです。

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中世の前期,つまり5世紀の西ローマ帝国滅亡から,ノルマン人の移動が激しかった10世紀くらいまでのヨーロッパは,不安定な情勢が続きました。しかし,11世紀~12世紀くらいになると,農業生産力が向上して村落共同体が生まれ【本試験H15 11~12世紀にかけて封建社会が崩壊したわけではない】,停滞していた商業が復活します。

12世紀までの修道会は農村に大土地を所有して定住し,祈りや労働を主体とした生活を営むのが一般的でした。6世紀に設立されたベネディクト修道会が代表例です。
 ヨーロッパの社会が安定し人口が増大すると,12~13世紀にはシトー修道会【追H30托鉢修道会ではない】などの修道院が,当時はまだヨーロッパ内陸部一帯に広がっていた森林を伐採し,耕地を広げる運動を起こすようになりました。この動きを大開墾運動【本試験H17リード文】ともいいます。

 ネーデルラントの工業地帯フランドルでは修道院が中心となって干拓(海の水を抜いて,陸地をつくること) 【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】を積極的にすすめ,運河も建設されるようになります。また,土地を持った農民は協力して堤防を築き【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】,開墾をすすめました。アムステルダムロッテルダムなど,現在のオランダに残る地名の「ダム」は,堤防のことです。

 地中海周辺の二圃制農業を夏に雨の降るアルプス山脈以北の気候向けにアレンジし,農地を大きく3区分(大麦・ライ麦の春耕地,小麦・えん麦の秋耕地,休ませる休耕地)し,年ごとにローテーションさせる三圃制【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】が,9世紀にフランク王国の一部,12世紀にはロワール川以北の西ヨーロッパで見られるようになりました。こうすれば,ライ麦やえん麦を家畜のエサにしつつ,休耕地を設けることで土地を休ませることができるため,生産力がアップしました。三圃制が導入された地域では,城主が広い土地を一円的に支配する動きがみられます。
 これら農具や家畜の共同管理,共同の農作業【本試験H7】の必要から,農民たちは団結して農村共同体をつくるようになります【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した結果,農民相互の結びつきが強くなったか問う】。


人が集まりやすいところというのは決まっています。川と川が交わるところとか,交通の便のよいところです。例えば12~13世紀の北フランスのシャンパーニュ地方【追H28】【本試験H23,H30】では,4つの都市で開催されていた6つの市場をつないだ「大市」(大規模な定期市) 【追H28】 【本試験H23】が開かれていたことで有名です。

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(1) 南から北へ …地中海に面するイタリアの港町や内陸都市から,東方の物産や工業製品がアルプスを越えて贅沢(ぜいたく)品が運ばれて来る。
(2) 北から南へ …バルト海沿岸の木材・海産物・穀物や,フランドル地方(現在のベルギー)の羊の毛織物【東京H17[3]】が運ばれてくる。

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 ちなみに,地中海に面するイタリアの港市としては,ヴェネツィアジェノヴァ,ピサが有名です。ビザンツ帝国などの東方から,香辛料・絹織物などのぜいたく品(奢侈品(しゃしひん))が運び込まれます。ピサには14世紀の教会大分裂の時期に,教皇庁が置かれたこともあります【本試験H24フィレンツェではない】。


 イタリアの内陸都市としては,フィレンツェやミラノ,シエナが有力で,11世紀以降,水車を利用した毛織物工業【本試験H24,本試験H30フィレンツェで栄えたのは綿織物工業ではない】や,それでもうけたお金を個人や外国政府に貸し付ける金融業(きんゆうぎょう)で栄えます。工業というのは,「物を作ること」だと思ってください。金融業は,「お金を貸して,利子でもうけること」です。
 フィレンツェ【追H28アウクスブルクではない】で金融業により栄えた一族を,メディチ家【追H28】といい,のちに市政を牛耳るだけでなく,〈レオ10世〉(ジョヴァンニ=デ=メディチ)のように教皇になる者も現れました。
 また,イタリアからドイツ方面を結ぶルートにあたる南ドイツでは,アウクスブルク【追H28フッガー家が栄えたのではない】や,その北のニュルンベルク【追H20地図問題】が発達しました。アウクスブルク【本試験H24フィレンツェではない】の銀山を支配し,金融で栄えたのはフッガー家【追H28メディチ家ではない】【本試験H7新大陸の銀を利用したわけではない】【本試験H22・メディチ家ではない・地図上の位置,本試験H24】です。神聖ローマ帝国に資金を貸し付けて,皇帝を手のひらで転がすようにもなっていきます。
領主は所領でとれた収穫物を「市場に売ってお金に変えたい」と考えるようになりました。領主は生産物ではなく,貨幣によって地代(貨幣地代)をとるようになっていきます【本試験H5 「14~15世紀に領主の貨幣需要の増大,戦費の増加などにより,領主財政は危機に見舞われた」か問う(正しい)】。

 都市の起源はさまざまで,ローマ帝国に軍隊が駐留していた都市もあれば,ローマ教会の司教座都市(司教が置かれた教会のあるところ)を起源とするものもありました。しかし,商人にとってみれば「汗水たらして手にした財産を,支配者に税として取られるのは嫌だ」と思うのが自然です。
 領主は,自分の領地の中に商人の集まる商業都市ができると,商人から税金がたんまりとろうと画策します。当初都市は領主に従っていたものの,商工業の発達によって力をつけていくと,だんだんと領主から自治権【本試験H14不輸不入権・叙任権ではない】が与えられる動きがみられるようになります。こうして,11~12世紀以降に領主の支配を脱した都市を,自治都市といいます。都市は行政と立法の機能をもつ市参事会や,裁判・軍事・外交の機関を持っていました。
 北イタリアでは,司教を倒して自治都市(コムーネ) 【追H30】となる例が多く,周辺の農村も含めて【追H30「周辺の農村を支配に組み込んで」】完全に独立した都市国家となりました。
 フィレンツェでは平民層が都市の支配権を握ります。

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リューベック【本試験H22,本試験H26地図上の位置,本試験H29フィレンツェではない】を中心とする諸都市の通商同盟であるハンザ同盟(13世紀~17世紀) 【追H26ロンバルディア同盟とのひっかけ】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】は,14世紀になると北ヨーロッパ商業圏(北海からバルト海にかけての商業圏)を支配するようになりました。互いの都市に支店や倉庫を置くことで,無用な争いを避けたのです。ハンブルク【本試験H19アントウェルペンとのひっかけ】やブレーメンのほか,遠隔地のロンドン,ブリュージュノヴゴロド,ベルゲンにも商館が設置されました。リューベックには西方からは毛織物が,東方からは小麦,コハク,毛皮や木材・樹脂が運び込まれ,北ヨーロッパにおける東西貿易の中心部として栄えました。


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イングランドでは,諸侯〈シモン=ド=モンフォール〉(1208頃~65) 【追H26ヘンリ8世に対して反乱を起こしたのではない】【立教文H28記】の反乱により,都市の代表が議会にはじめて招集されるようになりました【共通一次1989イギリス最初の議会ではない】。彼はのちに内戦で敗死しています。
 中世の自治都市【本試験H9城壁で囲まれていたか問う】の中には,ギルド【追H26自由競争を促進していない】【本試験H9】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】という同業組合がありました。

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 商人もギルドを作りました(商人ギルド【本試験H14時期(15世紀以降ではない)】)。遠く離れた場所に共同で使える旅館や休憩所,資金を借りることができる場所や,商品を置いておく倉庫が設置され,お互い助け合ってビジネスをする関係を築いていました。

 しかし,商人の輸出する商品をつくらされているのは手工業者です。手工業者が丹精込めて作った靴の値段を決めるのは,商人ギルド。
 それに対して,不満を持った手工業者は,組合(同職ギルド(ツンフト)【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない,本試験H10時期(古代ギリシアではない),本試験H12「自由競争を保証し,生産統制を撤廃した」か問う】【本試験H23自由競争を保障する組織ではない】)をつくって商人ギルドから分離し,商人ギルドの持っている市政に参加する権利を求めて争いました。これをツンフト闘争【東京H26[3]用語の説明】といいます。
 しかし,同職ギルドの組合員には,独立して自分の店を持つ親方しかなることができませんでした【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない】【本試験H28職人・徒弟が加入できたわけではない】。

なお,「都市の空気は自由にする」(Stadtluft macht frei,都市の空気は「その人を」自由にするという意味)【東京H23[3]】【慶文H29】という言葉のように,領主の支配下から逃亡された農奴や手工業者は,1年と1日,が経過すれば都市の住人として自由になれるとする法もありました。


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 さて,これだけ商業が発達すると,その経済力を背景に各都市には,天高くそびえ立つゴシック様式【本試験H23】【追H19】の聖堂が建てられるようになります。最初の例は1135年頃にフランスに建てられたサン=ドニ大聖堂(フランス王が埋葬される教会)です。尖ったアーチ(尖頭アーチ) 【追H25ゴシックの特徴か問う】と,太陽光がカラフルで幻想的な光となって入り込む仕掛けとなっているステンドグラス【本試験H25ビザンツ様式の特徴ではない】【追H25ゴシックの特徴か問う】,石積みの壁の重みを分散させるためのフライング=バットレスが特徴。
 以下の大聖堂が特に有名です。

・現在のフランス:パリのノートルダム大聖堂シャルトル大聖堂【本試験H17】【追H30ロマネスク様式ではない】,アミアン大聖堂,ランス大聖堂
・現在のドイツ:ケルン大聖堂(ケルン司教座聖堂)【追H25ビザンツ様式ではない】(◆世界文化遺産「ケルンの大聖堂」1996,2008範囲変更)
・現在のイギリス;カンタベリ大聖堂

 ステンドグラスに表現されたのは,聖書の話や都市にまつわる聖人の物語です。聖堂には鐘楼が付けられており,鐘の音が都市の時間を支配していました。
 特にシャルトル大聖堂のステンドグラス「美しき絵ガラスの聖母」は,青を基調とした幻想的な仕上がりで有名です【本試験H17宗教改革を記念して建設されたわけではない(時期が異なる)】。この時期には聖母〈マリア〉のモチーフが,ノートルダム(=我々の貴婦人)という名前からもわかるように,広く信仰を集めます。

 ゴシック様式以前の,1000年頃から1200年頃には,厚い石壁と小さな窓を特徴とするロマネスク様式(【東京H24[3]】【本試験H10ロマネスク様式ではない】【本試験H23】【追H25尖塔・ステンドグラスが特徴ではない(ゴシック様式とのひっかけ)】斜塔のあるピサ大聖堂【本試験H10ビザンツ様式のサン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】【本試験H30】【追H19】が有名)が有名でした。採光が弱いので,中に入ると薄暗く,重厚な雰囲気に包まれています。

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神聖ローマ帝国ローマ教皇との叙任権闘争は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に締結されたヴォルムス協約で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみました。
 〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙でホーエンシュタウフェン家の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派のギベリンと,教皇派のヴェルヘン家によるゲルフとの間に内乱が勃発しました。
 しかし,〈コンラート3世〉の甥〈フリードリヒ1世〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか,第三回十字軍(1189~92)にも参加しました。
 しかし,彼も和平を撤回してイタリア政策を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それにたいして,ミラノを中心にロンバルディア同盟【本試験H19】が結成されました。
 〈フリードリヒ1世〉の孫〈フリードリヒ2世〉(皇帝在位1215~50)【本試験H27ハプスブルク家ではない】はシチリア島を相続し,宮廷をもうけて官僚制を整備しました。〈フリードリヒ2世〉に対しても,イタリア北部の都市はロンバルディア同盟を結成しています。【本試験H30】。

 13世紀になると,イタリアの諸共和国では都市の貴族と民衆(武装した民衆。ポポロといいます)との対立が表面化し,紛争につけこんだ有力者(地方の地主貴族)によって市政が乗っ取られることもありました。この有力者はシニョーリ(領主)となって,都市の安全を保障するかわりに,一族により市政を牛耳るようになりました【本試験H2イタリアでは富裕な市民たちが政権を握る共和国が成立したか問う】。


ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると,皇帝不在の“大空位時代”(1256~73)【本試験H19】が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。

 14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の〈ジギスムント〉(位1411~37)は,混乱収拾のためにコンスタンツ公会議(1414~18) 【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】を開催し,自体の収拾を図ります。

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 フィレンツェ共和国【本試験H22地図上の位置】は交易により栄え,1252年にフローリン金貨を鋳造し,国外でも使用されています(◆世界文化遺産フィレンツェの歴史地区」1982,2015範囲変更)。
 1378年に毛織物業者のチョンピの反乱が暴動を起こしています。毛織物をつくる過程のなかでも特に大変な工程である「梳毛(そもう)」を担当していたのは,都市のなかでも特に下層の職人。数ヶ月ではあるものの,下層労働者による政権がフィレンツェに樹立されますが,直後に上層労働者により崩壊しています。
 その後は上層市民への資本の蓄積がすすみ,1434年に銀行家のメディチ家【本試験H22・H24フッガー家ではない,本試験H15・H27ともに芸術家を保護したか問う】が支配的となっていました(#漫画 〈惣領冬実〉による漫画『チェーザレ 破壊の創造者』はこの時代を扱っています。〈マキャヴァッリ〉〈コロン〉なども登場)。

キリスト教の登場する前のギリシアやローマの思想を研究する学者を保護した〈コジモ=デ=メディチ〉【慶文H30記】は,古代の〈プラトン〉の私塾アカデメイアに憧れたてプラトン=アカデミーを開き,学者の活動を支援しました。例えば〈ピコ=デラ=ミランドラ〉(1463~1494)は,『人間の尊厳について』で人間には自由な意志があるのだことを主張。〈フィチーノ〉(1433~1499) 【慶文H30問題文】は〈プラトン〉研究をおこなっています。
 〈コジモ〉はほかにも,新しい技法を美術に導入していた〈ブルネレスキ〉【本試験H24】【慶文H30記】(1377~1446,フィレンツェ出身,フィレンツェのサンタ=マリア大聖堂【本試験H10ビザンツ様式ではない。サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】のドームを設計【本試験H24ハギア=ソフィア聖堂ではない】),〈ドナテッロ〉(1386~1466,フィレンツェ出身,線遠近法を開発)を保護しました。


〈ロレンツォ〉は和平に持ち込みます。
 彼は,ギリシア神話をモチーフとした「春」「ヴィーナスの誕生」を生み出した〈ボッティチェリ〉(1445~1510)【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】を保護し,「ダヴィデ像」で有名な〈ミケランジェロ〉の才能も発掘しました。


 ヴェネツィアでは1284年にドゥカート金貨が鋳造されています。この金(きん)は西アフリカからエジプト経由でもたらされたものです。当時の西アフリカではマリ帝国が栄えています。
 この頃,父と叔父とともに陸路で東方に旅行したヴェネツィア共和国【本試験H29場所を問う】の商人〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324) は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を『世界の記述(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』にまとめ,大きな反響をもたらします。


 ナポリシチリアにノルマン人によって1130年に建国されていた両シチリア王国(ノルマン=シチリア王国)です【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】はのちに断絶し,神聖ローマ皇帝〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたります。

1494年にフランスの〈シャルル8世〉がナポリ王国の継承を要求して始まったのが,第一次イタリア戦争なのです【セ試行 時期(1558~1603年の間か問う)】。こうして,1454年に成立していたイタリア半島の5大国によるローディの和は破られ,イタリア半島は衰退の時代を迎えます。


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イタリアの都市国家の人々は,オスマン帝国との東方(レヴァント)貿易によって都市が商業的に栄えるとともに,イスラーム教徒を通して,キリスト教文化とは異なる文化に接するようになっていました。12世紀に始まるイスラーム教徒を通した【共通一次 平1】,古代ギリシア共通一次 平1】などのキリスト教以前の文化の流入を12世紀ルネサンスといいます。
 ヨーロッパに羅針盤(らしんばん)【本試験H4】【本試験H27中国で生まれたことを問う】【セA H30発祥はポルトガルではなく中国】・火器【本試験H2「火薬」が中国で発明されたか問う】・活版印刷術が伝わり,改良,発達されていくのもこの時期です。羅針盤大航海時代を刺激【本試験H4】,火器は騎士の没落を促進,活版印刷術は情報伝達により宗教改革などの新しい思想の伝達に威力を発揮しました。製紙法の伝播【本試験H27モンゴル人による伝播ではない】もこの頃でした。

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 こうした革新的な情報の交流を背景に,「人間らしさ(人間性)」を我慢せずに自由に表現しようとする運動が,14世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起きます。これがいわゆる“ルネサンス”です。
 その大きな特色は,ギリシア文化・ローマ文化【本試験H26ゲルマン文化】のように人間に中心を置く考え方である人文主義(ヒューマニズム) 【本試験H17スコラ学とのひっかけ】です。この考え方をとった知識人をヒューマニストと呼びます。

 中世ヨーロッパはキリスト教カトリック教会の権威が絶対で,それに歯向かうことが許されていませんでした。しかし,いざ国家が宗教の束縛から自由になると,「自分の国のことだけ」を考えて,国家どうしが血も涙もない戦争に明け暮れる時代に突入したのです。これからの時代の君主たるもの,権謀術数(相手をだましたりはめたりしようと策をめぐらすこと)が必要だと解き,キリスト教に代わる新たな「正義」について考えたのが,フィレンツェの〈マキャヴェッリ〉【東京H22[3]】【本試験H7史料が引用。モンテーニュエラスムス,トマス=モアではない】【本試験H14ホッブズではない】です。「キツネのずる賢さと,ライオンのどうもうさ」というフレーズで有名な『君主論』【東京H22[3]】【本試験H14『リヴァイアサン』とのひっかけ】は,「権謀術数」のほうが強調されて広まりましたが,時代の変化に対応した国家運営について,この時期にもっとも深く考えていた人です。

 〈ダンテ〉(1265~1321) 【本試験H4時期(15~16世紀ではない)】 【本試験H15・H17】【追H28、H30】はフィレンツェで『神曲』【本試験H15・H17】【本試験H8時期(14~15世紀)】【追H28,H30】を口語【追H28ラテン語ではない】で書き,カトリック教会を物語の中で批判しています。物語の中には,古代ローマの詩人〈ウェルギリウス〉(英語名はヴァージル,前70~前19) 【追H30】が登場し,〈ダンテ〉本人とともに地獄・煉獄・天国をめぐるという内容です。中世のキリスト教の世界で使われていたラテン語はヨーロッパ文化圏の共通言語でしたが,教育を受けていない一般の民衆は読むことができませんでした【本試験H12「(12~13世紀の西ヨーロッパの)大半の人々は,ラテン語で書かれた聖書が読めなかった」か問う】。親しみのある口語(フィレンツェ地方のトスカナ語【本試験H15】)で記されたところが,今までになかった革新的な特徴です。
 〈ダンテ〉の影響を受けた〈ボッカチオ〉(1313~75) 【共通一次 平1〈ラブレー〉ではない】【本試験H8時期(14~15世紀)】【本試験H15画家ではない】【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】は『デカメロン』【共通一次 平1】を書いています。またボローニャ大学で法律を学んだ〈ペトラルカ〉(1304~74)【本試験H24時期】は,古典の研究をしながら,人間の内面を深くとらえた多くの恋愛抒情詩【本試験H24】を残し,“最初の近代人”ともいわれます。
 彼らの影響はヨーロッパの他の地域にも広がり,イングランドでは〈チョーサー〉(1340?~1400) 【共通一次 平1【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】が『カンタベリ物語』【共通一次 平1『ユートピア』ではない】【本試験H8時期(14~15世紀),本試験H12騎士道物語ではない】をロンドンの俗語【共通一次 平1:英語か問う】で書き“イギリス文学の父”と称されました。ネーデルラントでは〈エラスムス〉(1469~1536) 【本試験H4時期(15~16世紀か)】【本試験H24時期・H28,H31ラブレーではない】【追H20スコラ学(スコラ哲学)とは関係ない】が『愚神礼賛』【本試験H24,H28,H31(ラブレーではない)】【追H19モンテーニュの著作ではない】を書き,社会を風刺しています。イングランドでは16世紀末~17世紀初に〈シェイクスピア〉(1564~1616)が戯曲を発表しています。
 絵画では,15世紀前半に遠近法が確立され,「より本物らしく描く」ことが重要視されるようになります。古代ローマの建築が導入されて,大きなドームが印象的なルネサンス様式【本試験H10ロマネスク様式とのひっかけ】【追H20ロマネスク様式ではない】がつくられます。
 16世紀には,「ダヴィデ像」の作者の〈ミケランジェロ〉(1475~1564)らにより,ローマでサン=ピエトロ大聖堂【本試験H10サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】【追H20ロマネスク様式ではない】が新築されました(◆世界文化遺産「ヴァチカン市国」,1984)。
 「最後の晩餐(ばんさん)」【追H28遠近法を駆使したか問う】、肖像画「モナ=リザ」を描いた「万能の天才」〈レオナルド=ダ=ヴィンチ〉【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】【追H9 ガリレオ=ガリレイとのひっかけ,H20、H28「最後の晩餐」を描いたか】もこのときの人で(注),聖母子像を描いた〈ラファエロ〉【本試験H14イエズス会の宣教師ではない(カスティリオーネとのひっかけ)】【大阪H30図版「アテネの学堂」】とともに,ルネサンスの三大巨匠といわれます。

 なお,美術の影響は他の地域にも広まります。
ネーデルラントでは,〈ファン=アイク兄弟〉(兄1370?~1426,弟1380?~1441)が油絵技法を改良しフランドル派の祖となりました。ただし,兄の実在には疑問もあります(兄は「ヘント祭壇画」,弟「アルノルフィニ夫妻の肖像」が代表作)。「四使徒」(四人の使徒)【追H20図版(解答には不要)】【慶文H29問題文】で有名なドイツの〈デューラー〉(1471~1528) 【追H20リード文】【慶文H29】は版画を制作し,ルターの考えに共感して〈ルター〉の訳した新約聖書からドイツ語の聖句が抜き出され「四使徒」の絵の下部に刻まれています【追H20リード文】。ザクセン選帝侯の宮廷画家〈クラナッハ〉(1472~1553)も,宗教改革を支持し「磔刑図」(たっけいず)や〈ルター〉の肖像画を残しています。

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カペー朝フランス王国の9代目〈ルイ9世〉(位1214~1270年)は,ローマ教皇のお墨付きを得て,南フランスへの進出を強めます。12世紀半ばからフランス南部のトゥールーズカルカッソンヌなどのラングドック地方で一大勢力を築いていたアルビジョワ派(カタリ派【追H27】【本試験H16オランダではない,本試験H29】)退治が名目です(アルビジョワ十字軍【本試験H29】)。カタリ派の教義は不明な点も多いですが,現世=汚い=悪,来世=汚れがない=善という善悪二元論に基づき,ブルガリアで始まったボゴミル派(10世紀中頃)との関連があるようです。結婚(生殖=汚い)をしないことや厳しい菜食主義(肉=汚い)が理想とされ,腐敗していたローマ=カトリックと比べ魅力的と写ったようです。

前後しますが,〈ルイ9世〉は,イスラーム教勢力を挟み撃ちにできる相手を探すために,1253年にローマ=カトリック内部にあるフランシスコ会の修道士〈ルブルック〉【京都H20[2]】をモンゴル帝国へ派遣しています。さらに行政官や裁判官を整備して,国内の統治も強化していきました。

 一方,フランス南部の異端に対するアルビジョワ十字軍は,第11代の〈フィリップ4世〉(位1268~1314年) 【追H27ユーグ=カペーではない】のときに終わります。


 フランス王国の拡大を進めたカペー朝フランスの王には,増加していた宮廷費や軍事費を確保するために,国内の諸身分の合意を得ようとしました。商業の発達にともない生まれていた新興勢力の都市住民の代表を1つのグループ(第三身分【追H26平民は第二身分ではない】)として,今までの貴族(第二身分)や聖職者(第一身分)とともに,フランス王国を構成する重要な身分の1つに位置づけ,この三身分のバランスを考えてコントロールしようとするようになります。
 その例が〈フィリップ4世〉【東京H8[3]】【共通一次 平1】【本試験H18・H23・H26】【追H30三部会を招集したか問う】です。彼は,ノートルダム大聖堂の3つの身分を集めて,「これからローマ教皇〈ボニファティウス8世【共通一次 平1:グレゴリウス7世ではない】【本試験H25レオ3世ではない】【追H29インノケンティウス3世とのひっかけ】【立教文H28記】と争うことになるけれどもいいか」と意見を聞いたんですね。ばらばらに一人ひとりの意見を聞いて回っていては収拾がつきませんから,これは効率のよい方法です。

 フランスの身分制議会を三部会【共通一次 平1:フロンドの乱の拠点となった高等法院とのひっかけ】【本試験H12】【本試験H16,H23】【追H28フランスで封建的特権の廃止が決議されたか問う,H30】といい,初めての招集は1302年です。三部会の支持をとりつけた後で,〈フィリップ4世〉【追H27フィリップ2世ではない、H29】は教皇〈ボニファティウス8世〉をアナーニで捕らえようとして失敗(アナーニ事件【追H27】),〈ボニファティウス8世〉はショックのあまり3週間後に亡くなっています(しばしば「憤死」と表現します)。のちに新たに就任したフランス人の教皇(クレメンス5世)は,ローマの都市貴族同士の派閥抗争から逃れるためフランス南部のアヴィニョン共通一次 平1 グレゴリウス7世をアヴィニョンに幽閉したわけではない】【本試験H17 12世紀ではない,本試験H22 15世紀ではない】【追H29パリではない】に教皇庁を移動させました。〈ダンテ〉(1265~1321)などのイタリアの詩人らは,これを『旧約聖書』の事件になぞらえ「教皇のバビロン捕囚」(1309~77)と呼びましたが,教皇をフランス人に移動させられた”被害者”とみるのは後のローマ教皇庁の見解に過ぎません。

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 このように〈フィリップ4世〉のもとで一気に強大化したカペー朝ですが,1328年に跡継ぎがなくなり断絶。当時はフランスとイングランドの国としての違いは明確ではなく,支配者は血筋によってヨコにつながっていましたので,フランスの国王が亡くなったら,次は自分に王を継ぐ権利があると,イングランド王〈エドワード3世〉【本試験H4王権神授説を唱えていない】【本試験H27ハプスブルク家ではない,H29共通テスト試行「母方の血筋を理由として」継承を主張したかを問う】が主張したのです。彼は,〈フィリップ4世〉の娘と,〈エドワード2世〉の間に生まれた息子です。

 フランスではカペー家の傍系(遠い親戚)にあたるヴァロワ家から〈フィリップ6世〉が即位しており,ヴァロワ朝【本試験H2プランタジネット朝とのひっかけ】が成立。しかもフランスでは伝統的に女系の王は認められていませんでした(フランク王国サリカ法典(6世紀頃)が起源)。
 フランスとイングランド【本試験H13神聖ローマ帝国ではない】は工業地域のフランドル地方【本試験H2】をめぐっても対立し,百年戦争【本試験H5時期を問う】が始まりました。
 フランドル地方の都市は,イングランドの羊毛輸出先【本試験H31】として経済的に重要視されたのです。
 〈エドワード3世〉が挑戦状をおくったのが1337年,実際に戦闘がはじまったのは1339年のことです。

 百年戦争中にはペスト(黒死病)が大流行し,多くの犠牲者が出ました。労働力不足から農民の待遇が改善され,解放される農奴も現れました【本試験H5 14~15世紀に領主直営地において賦役が廃止されたことを問う】。しかし,黒死病もおさまったころ,手のひらを返したように農民に対する待遇をまた厳しくする領主が現れます(いわゆる封建反動)。百年戦争の被害もあり,厳しい負担をかけられていたフランス北東部の農民が1358年にジャックリーの乱【追H26】【本試験H2時期(百年戦争中か),本試験H5「農民に対する収奪の再強化に反抗」したものか問う,本試験H8ジェントリのひっかけ,本試験H10デカブリストではない】【本試験H17時期・地域・ジョン=ボールが引き起こしたわけではない,本試験H19時期,本試験H22・H30ともにイギリスではない】【慶文H29】を起こすなど混乱は続きます。

 百年戦争は,序盤では,長弓兵【本試験H17】【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いで用いられたわけではない】を武器にしたイングランド軍が,フランスの弩(石弓,いしゆみ)兵に対して優勢を誇り,〈エドワード黒太子〉(1330~76) 【本試験H17時期】はフランス南西部の大陸領をクレシーの戦い【本試験H27】とポワティエの戦い【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いとのひっかけ】に勝利して,守り抜きました。

そんな中,ドン=レミ村の農民出身の〈ジャンヌ=ダルク〉(出現当時16歳,1412~31) 【本試験H2時期(百年戦争末期か)】【本試験H15・H17】が現れて,イングランド軍に包囲されていたオルレアンを包囲から解放し【本試験H15・H17ともにバラ戦争ではない,H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】,戦局を逆転させたといい,結果的に〈シャルル7世〉(位1422~61)がランス大聖堂で戴冠することができました。

 

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 プランタジネット朝4代目の〈ヘンリ3世〉(位1216~72) 【本試験H14星室庁を利用していない】がマグナ=カルタを無視して政治をおこなったため,1265年フランス貴族のシモン=ド=モンフォールの乱【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H22デンマークではない,本試験H30】がおきました。彼の招集した身分別の議会がイングランドの議会の起源とされ,5代目の〈エドワード1世〉(位1272~1307) 【本試験H31模範議会を招集したか・時期を問う(17世紀ではない)】による聖職者・貴族・都市の代表による身分制議会(1295年。模範議会といわれる【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H4「王権に忠実」ではない】【本試験H29フランスではない,H31時期を問う(17世紀ではない)】)に発展しました。

 7代目の〈エドワード3世〉(位1327~1377)のときに,二院制議会(上院と下院) 【共通一次 平1:最初から二院制だったわけではない】のしくみが整いました。ただ,選挙権は現在のように広く国民にひらかれていたわけではありません【共通一次 平1:中世末期には国民代表的正確を強めていたわけではない。それは19世紀以降】。
 この〈エドワード3世〉の母が,フランスの王〈フィリップ4世〉の娘だったため,当時断絶していたカペー朝の王位を主張して始まったのが,百年戦争ということになります。しかし戦争の最中にペスト(黒死病)が流行し,労働力が不足(人口の約3分の1が死亡するという未曾有の事態!)。農村では,人手を必要とする従来の穀物生産から,ヒツジの放牧へと土地利用が転換されていきました。
 従来からイギリスの農奴解放はかなり進んでいて,自分の土地を保有した農民はヨーマン(独立自営農民) 【本試験H19ジェントリではない】【本試験H8ジェントリのひっかけ】【追H25時期を問う(穀物法廃止、第二次囲い込みとの時系列)】と呼ばれるようになっていました。しかし,黒死病の流行で労働力が不足すると,領主もさらに農奴を解放して待遇を良くせざるを得なくなりました。
 しかし,この傾向が進むと,領主の暮らしが悪化。黒死病もおさまったころ,手のひらを返したように農民に対する待遇をまた厳しくする領主が現れます(封建反動)。
 イングランドでは1381年に起こり,身分制度を批判する動きが起きましたが,これらの農民一揆は鎮圧されてしまいます。〈ワット=タイラー〉の乱では,教皇権を批判し1378年(注1)に聖書の英訳を初めておこなった神学者ウィクリフ〉【追H27オランダの人ではない】を支持していた聖職者〈ジョン=ボール〉(1338?~81)【本試験H17ジャックリーの乱は引き起こしていない,本試験H22イタリアではない】が『アダムが耕しイヴが紡いだとき,誰がジェントリ(貴族)【慶文H29】だったのか』と説教をして農民軍を勇気づけたとされます(注2)。


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 14世紀後半には,イングランドのオックスフォード大学神学部教授〈ウィクリフ〉(1320?~84) 【追H27オランダの人ではない】【本試験H22 15世紀の人ではない】や,〈ウィクリフ〉の影響を受けたベーメン(現チェコ)のプラハ大学神学部教授〈フス〉(1370?~1415)が,「救いのへの道は,教会を通してではなく,聖書を通して得られる」と主張し,教会や教皇の批判を公然をおこなうようになります。〈ウィクリフ〉はロラード派という,聖職者の存在に反対する運動に参加していた人物です。

 

百年戦争を通して,フランスとイングランドは明確な領域に分離した
 百年戦争は,序盤では,長弓兵【本試験H17】を武器にしたイングランド軍が,フランスの弩(石弓,いしゆみ)兵に対して優勢を誇り,〈エドワード黒太子〉(1330~76) 【本試験H17時期】はフランス南西部の大陸領をクレシーの戦い【本試験H27】とポワティエの戦いに勝利して,守り抜きました。
 フランスでは黒死病がはやったり,戦争と重税に耐えかねた農民一揆のジャックリーの乱(1358) 【慶文H29】が起こったりと,政も危機にありました。

 1399年には,プランタジネット朝が〈リチャード2世〉(位1377~99,エドワード黒太子の息子)の下で断絶すると,かつての王〈エドワード3世〉(位1327~77)の子どもの一人でランカスター公の〈ジョン=オヴ=ゴーント〉(~1399)の子どもが〈ヘンリー4世〉(位1399~1413)として国王に就任。
 ランカスター朝【本試験H2プランタジネット朝とのひっかけ】を開きます。

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戦後【本試験H2時期(百年戦争の末期ではない)】は,ランカスター家とヨーク家によるバラ戦争(1455~85) 【本試験H4有力貴族が弱体化したから絶対王政が始まったか問う】が起こります。


そんな中,ヨーク家の国王の娘の婿(むこ)である,テューダー家の〈ヘンリー〉がこれを収め,1485年に〈ヘンリ7世〉(位1485~1509)として即位し【本試験H30ジェームズ2世ではない】【追H27ジョージ1世界ではない、H30ルイ14世ではない】,テューダー朝【追H27】【本試験H2プランタジネット朝ではない】を創始しました。
 彼は,バラ戦争の戦後処理のために1530年代から星室庁(せいしつちょう,The Court of Star Chamber) 【本試験H14ヘンリ3世のときの利用ではない】【追H30】を整備して,国王大権下で司法権を掌握するなど,急速に中央集権化を進めていきました。本格的に星室庁裁判所が利用されるのは〈ヘンリ8世〉の1540年代のことになります。

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11世紀頃からはイングランドから輸入した羊毛から毛織物【東京H17[3]】を生産し,ブルッヘやヘントといった都市を中心に先進工業地帯として栄えるようになりました。

 北ヨーロッパデンマークは王母〈マルグレーテ〉(1353~1412)を中心に1397年にスウェーデンノルウェーとともにカルマル同盟(カルマル連合)【本試験H17時期,本試験H27ポルトガルとのひっかけ】【追H19】【立教文H28記】を形成し,デンマークの女王〈マルグレーテ〉を中心とする同君連合の王国が成立しました。バルト海【本試験H2地中海ではない】で交易活動を活発化させていたドイツ人のハンザ同盟【本試験H2】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】に対抗するために結成されましたが,スウェーデンノルウェーは,デンマークによる支配に次第に反発するようになっていきました。

 

 


●1500年~1650年の世界

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【保存版】センター試験世界史B 全出題箇所まとめ②(200年~1200年)

●200年~400年の世界

●中央ユーラシア
 中国の西晋【本試験H18前漢ではない】で八王の乱(291~306) 【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H18,本試験H31時期(漢代ではない)】が起きると,匈奴(とその一派の羯(けつ))や鮮卑チベット系の諸民族(?・羌)が中国に進入して,中国風の王朝を建てました。この時代を中国史では五胡十六国時代(またはそれに先立つ三国時代と,後の南北朝時代と合わせ,三国五胡・南北朝時代とすることもあります)といいます【本試験H19五代十国時代とのひっかけ,H29時期】。
 漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H12北魏を建てた民族を問う】【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。
 拓跋部【追H21問題文】を率いる〈拓跋珪〉(たくばつけい)は,386年に北魏【本試験H12】【本試験H28】【追H21】を建国します。北魏の首長は,すでに「可汗(かがん)」と呼ばれていおり,それに対抗して次にモンゴル高原に追いやられた柔然【本試験H7突厥を破っていない,本試験H12時期(漢の西域経営の進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】も,北魏に対抗するために「可汗」の称号を使うようになったとみられています。


●東アジア
後漢末の混乱の引き金となった黄巾(こうきん)の乱は184年に勃発。後漢の滅亡と,皇帝の位をゆずりうけた魏の建国は220年。その後,華北に本格的に北方の諸民族が進出するのは,4世紀初めのことです。311年に匈奴は,長安を占領しています(永(えい)嘉(か)の乱)。
 北方の諸民族は華北一体に16の国を建国(漢民族の建国した国家も一部含まれます)していき,漢民族の王朝は現在の南京【本試験H4明(みん)の遷都先ではない】(当時は建(けん)康(こう)【追H30】【H27京都[2]】)に逃れて東晋【追H30 東周ではない】を建てて王朝を存続させました。
 同時代のローマ帝国をみてみると,やはり同時期にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々進入が加速し,395年の東西ローマ帝国への分裂につながっています。

 184年に勃発した黄巾の乱により,中国各地に私兵をひきいる軍事集団がはびこります。やがて華北で勢力をかためた〈曹操(そうそう)〉(155~220)は,
 ・南方の軍事集団の長である,四(し)川(せん)(長江上流域の盆地)の〈劉備〉(161~223) 【東京H8[3]】と,
 ・江南(長江下流域)の〈孫権〉(182~252) 【H27京都[2]】 【追H9前漢の後をうけた王朝を建てていない】 と対立する構図(いわゆる「天下三分の計」)ができあがっていきます。

 後漢末期の208年,長江中流域の赤壁(せきへき)で,天下分け目の戦いがおこなわれました。四川の〈劉備〉につかえた軍師〈諸葛亮〉(しょかつりょう,〈諸葛孔明〉(しょかつこうめい)は字(あざな),181~234)のすすめで,〈劉備〉は〈孫権〉と同盟を組み,〈曹操〉との決戦に勝利しました。これを赤壁の戦いといいます。映画「レッド・クリフ」は,この戦いを題材にしています。
 〈曹操〉は後漢最後の皇帝〈献帝〉(位189~220)を迎え入れ,ライバルだった大土地所有者(豪族)の〈袁紹〉(えんしょう,?~202)が従えていた黄巾の乱の残党や少数民族の勢力も破っていきました。

 しかし,その後〈献帝〉に譲位をせまって皇帝に就任し,「魏(220~265年)」という王朝を創始します。それを認めない〈劉備〉【東京H8[3]】【本試験H30】は四川の成都【本試験H9】【本試験H22洛陽ではない】【中央文H27記】を都にに蜀(しょく,221年~263年) 【本試験H9】【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】を,〈孫権〉は長江下流域の建康(現在の南京) 【セA H30華北ではない】を都に呉(ご,222年~280年) 【追H9】を建国したため,3分裂の構図が固定化されました。

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 このへんまでの流れは,蜀(しょく)の目線で元代以降にまとめられることになる『三国志演義』(さんごくしえんぎ) 【本試験H9[21]】に詳しく,さまざまなゲームや映画,漫画となり,東アジアで人気があります。勝者の余裕と栄華よりも,敗者の奮闘と悲劇のほうが,民衆には受けるわけです。

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魏の〈曹丕〉(文帝)(位220~226)は,豪族の力をおさえるために,中央から派遣された中正官【本試験H11】が,人物を評価し9段階にランク付けして官僚に登用する九品中正(九品官人法)の制度【本試験H8時期(7世紀ではない),H11呉ではない】【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】【追H24時期(党錮の禁、呉の滅亡との時系列)、H29「有力豪族による高級官職の独占を招いた」か問う】も整えられていきました。

 しかし,豪族の中には中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れ,最高ランクの9品が代々就く貴族や,その中でも特に優遇された家柄である門閥貴族【本試験H26明代ではない】【本試験H8】が生まれるようになっていきます【本試験H11人物本位の評価が行われたわけではない,「豪族はこの制度により,官僚になる道を閉ざされたので,不満を持った」わけではない】。皇帝の官僚として仕えることには,貴族にとって自分の地位を示すという重要な意味がありました(注)。なお「貴族制」は中国では「士族制」「門閥制」と呼ばれることが普通です。
(注)中村圭爾「六朝貴族制と官僚制」『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997。

 〈文帝〉の次の〈明帝〉(位226~239)のときに魏は,四川盆地の蜀を263年に破りました。しかし手柄を上げた魏の将軍〈司馬懿〉(しばい)の勢力が増し,クーデタを起こして実権を握りますが,皇帝位にはつかず,子孫の〈司馬炎〉(武帝)【本試験H16司馬睿ではない,本試験H30】のときに帝位を迫り禅譲によって新たな王朝である晋を建国しました。晋はのちに江南に遷都するので,この遷都前の晋を西晋,遷都後を東晋と区別します。

 この西晋が江南の呉をほろぼした【追H24時期()】ことで,三国時代は統一されました。この頃には〈王叔和〉(おうしゅく「か」,生年不詳)が。麻酔術を含む『傷寒(雑病)論』という中国最古の医学書を,後漢の医師・官僚の〈張仲景〉(150?~219)の医書を参考に編集しています。

 しかし,すでに北方遊牧民華北への移住も加速しており,「遊牧民が人口の半分になっているのはやばいのではないか。警備に遊牧民を使うのではなく,故郷に帰らせたほうがいいのではないか」と〈江統〉が『徒戎論』(しじゅうろん)で主張していたそんな矢先に,〈武帝〉(司馬炎)(位266~290)が亡くなり〈恵帝〉(位290~306)が即位すると,西晋の帝位をめぐる一族が争い (290~306年,八王の乱) 【京都H20[2],H27[2]】【本試験H3この結果諸侯の力が弱体化し郡県制が強化されたわけではない】【本試験H14秦代ではない】が勃発。各王が兵力として招いた北方諸民族がここぞとばかりに華北に進入し,八王の乱が306年に終結した後も各地で反乱を起こすようになりました。

 西晋には,南匈奴の末裔〈劉淵〉(りゅうえん)が本格的に侵攻し,漢が建国されました。なぜ「漢」を名乗れるかというと,前漢のときに当時の匈奴単于が漢の公主をめとっていたからです。311年に洛陽が陥落し〈懐帝〉が殺害し実質滅亡しますが,西晋の王族は313年に長安で〈愍帝〉(びんてい)が擁立され存続をねらいました。
 このとき,鮮卑の拓跋部は西晋【京都H20[2]】を援助して匈奴とたたかい,拓跋部の首長は315年に代(だい)の王に任ぜられています。しかし316年に長安が占領され〈愍帝〉が殺害されると,316年西晋は滅亡しました。
 大混乱の中,西晋漢人たちは大挙して南に逃れました。江南にたどり着いた西晋の王族は,建康【本試験H2】(呉の首都の建業と同じ地点,現在の南京)【本試験H22地図】を首都として東晋を復興。〈愍帝〉が殺害されたことを聞くと,317年に〈司馬睿〉(元帝,しばえい,在位317~322) 【本試験H16司馬炎ではない】が皇帝に即位しました。ちなみに,睿(えい)という字は難しいですが,右側に「又」を付けると,日本の「比叡山(ひえいざん)」の「叡」になります。
 東晋には華北から多数の漢人が逃げてきましたが【本試験H26時期】,彼らから税を取り立てようとすると「自分の戸籍は華北にあるから,払いたくない」と言われてしまいます。そこで,363年には「現住地を戸籍にしなさい」という土断法(どだんほう)を施行して,税収アップをはかりました。東晋以降,江南の開発がさらに進んでいきました【本試験H15時期】。有力豪族は農牧業・漁業・手工業を合わせた総合的な開発を進め,自給自足の経済圏もみられました。戦乱が中国を覆う中,山奥に隠れて悠々自適と自給自足を営む理想郷の姿は,詩人〈陶潜〉(とうせん)の『桃花源記』(とうかげんき)にもうたわれました。

 華北には,おもに5つに分類される諸民族が16の王朝をたてたため(一部漢民族の王朝も含む),異民族を示す「胡」(差別的な意味合いがあります)という字をつかって,五胡十六国(ごこじゅうろっこく) 【本試験H3】といいます。五胡【東京H6[3]】は,(1)匈奴【本試験H3五胡十六国の一つか問う】【早・法H31】、(2)羯(けつ,匈奴の別種)、(3)鮮卑、(4)?(てい) 【東京H6[3]】、(5)羌(きょう) 【東京H6[3]】。(4)・(5)はチベット系のことですが,5というのはキリがいい数字のために使われているだけで,実際には多様な民族が含まれていました。
 このようにして,華北五胡十六国,華南は東晋という構図が生まれました。

*

 386年には,鮮卑人【セA H30】のうち拓(つぶせ)跋(ばつ)【京都H20[2]】という集団の指導者〈拓跋珪(けい)〉は,「魏」を建国していましたが,398年に〈拓跋珪〉は山西省の平城(へいじょう) 【京都H20[2]】で北魏【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】【セA H30元ではない】の初代皇帝〈道武帝〉(どうぶてい北魏皇帝在位398~409)となり,権力を強化していきます。さらに孫の〈太武帝〉(在423~452) 【本試験H12】がモンゴル高原柔然【本試験H12時期(漢の西域経営に進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】に対抗して支配領域を広げていき,439年に華北を統一【追H21「江南の併合」ではない、H28「中国の統一」ではない】して五胡十六国の分裂状態を収拾しました【本試験H12「五胡十六国の分裂状態を収拾した」か問う】。

 一方、中国南部で建康を都としていた宋は,北魏に遠征しましたが,敗北します。〈太武帝〉は道教を保護して国教化し【本試験H12道教を禁止したわけではない】,仏教を弾圧しましたが,次の〈文成帝〉のときに雲崗(うんこう)の石窟寺院【本試験H31道教の寺院ではない】【追H18,H20漢代ではない】の建設が始まりました。仏教を保護するようになったのは,仏教が階級や民族による差別を否定したため,漢民族ではない鮮卑人の支配を正当化するのに都合がよかったからとみられます。仏教の教義の編纂・教団の組織に対抗し,道教の教義の編纂・教団の組織も進んでいきました。

 次の〈献文帝〉のときには,〈文成帝〉の皇后(〈馮(ふう)太(たい)后(こう)〉【立教文H28問題文】)が実権を握りました。皇后は〈献文帝〉に迫り,我が子を即位させました。これが〈孝(こう)文帝(ぶんてい)〉【追H9前漢のあとをうけた王朝を建てていない,H19,H30唐代ではない】です。
 〈孝文帝〉のとき,国家が保有する土地を農民に与えて耕作させ,徴税をさせるしくみ(均田制)が実施されています【本試験H15農耕社会の統治に消極的ではない,本試験H16北斉代ではない,本試験H24漢代ではない,H29元で始まったわけではない】【本試験H8】【追H19宋代ではない、H21北魏で始まったか問う】【大阪H31論述(導入の背景と後代へ与えた影響)・時期】。
 大土地所有者(豪族)が土地を失った農民を吸収して巨大化しているのを防ぐために実施したのです。しかし,土地は成年男子だけではなく,その妻や奴婢,耕牛にまで支給されたので,多くの奴婢・耕牛を有する大土地所有者に有利な内容でした【本試験H8支給対象は成年男子だけではない】。

〈献文帝〉が殺害され皇后も死ぬと,〈孝文帝〉は洛陽に遷都して混乱を収めようとしました。文化面でも,鮮卑の服装や言語を禁止し,中国の文化を積極的に導入していきました(漢化政策) 【本試験H15漢民族の文化を排除していない】。

北魏の時代には〈?道元〉(れきどうげん,469~527)が地理書の『水経注』(すいけいちゅう) 【京都H21[2]】を,〈賈思?〉(かしきょう,不詳) 【本試験H22昭明太子ではない】が中国最古の農業書である『斉民要術』(せいみんようじゅつ【本試験H22】)を著すなど,学問も盛んでした。

漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。


●朝鮮
前1世紀に鴨緑江中流部の貊(ハク)人が高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668) 【セA H30府兵制は実施されていない】を建国し,2世紀初めには勢力を拡大させていきました。
高句麗は〈広開土王〉(こうかいどおう;クヮンゲトワン;好太王(こうたいおう),在位391~412) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代ではない)】のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し【本試験H21時期】,朝鮮に進出した倭も撃退したということが,現在の中国東北部にある集安【慶・法H30】にある広(こう)開土(かいど)王(おう)碑(ひ)【本試験H9[13]4世紀末の東アジアの動向が記されているが,そこに現れる国はどれか(後漢,魏,隋,百済)。百済以外は4世紀末に存在しないので,百済が正解】という碑文に刻まれています。
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帯方郡は?,韓,倭の窓口となり栄えましたが,3世紀前半に中国の魏により〈公孫〉氏が滅ぼされ,魏による直接支配がはじまりました。このような帯方郡における政変に対応する必要から,倭の邪馬台国の〈卑弥呼〉【本試験H7「倭の女王」】【追H18】は「景初2年」(238または239年)6月に〈難升米〉(なしめ)を魏【本試験H7派遣先は建康ではない】【追H18】に朝貢させています。
 しかしその後,中央集権化を果たした高句麗が313年には楽浪郡を滅ぼし【本試験H21時期】,【追H19時期】遼東半島にも進出し,当時分裂状態にあった華北の五胡政権(前燕)とも戦っています(高句麗はのちに朝鮮半島で最も早く,五胡十六国のひとつ前秦(ぜんしん)から仏教を受け入れました)。その後体制を立て直した高句麗では〈広開土王〉(クヮンゲト;こうかいど)王(位391~412)【本試験H9[13]】によりで朝鮮半島南部へ領土を急拡大させていきます。なお,372年には儒教教育機関である太学が設立されたほか,道教も伝わっています。

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馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,のちの百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】につながっていきます。

●日本
 2世紀後半の「倭(わ)国(こく)大乱(たいらん)」(注)の後,西日本を中心とした小国の連合邪馬台国(やまたいこく)は,〈卑弥呼〉(ひみこ) 【本試験H24・H27】を中心として統一を進めていました【H29共通テスト試行 奴国の時代ではない】。邪馬台国の支配層はみずからの権威付けのために,中国の魏【本試験H24,本試験H27北魏ではない】に239年に朝貢使節を送り「親魏倭王」(しんぎわおう) 【本試験H27】の称号をもらい,冊封(さくほう)を受けました。冊封されれば,その地域における支配が認められ,支援を受けたり交易をしたりすることもできるようになるからです。

●東南アジア
3世紀になると季節風(モンスーン)を利用した航海【本試験H30】が普及するようになり,中国やインド方面との貿易はますます加速します。
 それにともない,港町の人口密度が高くなって都市(港市)が形成されるようになると,利害を調整する権力者が現れるようになっていきました。 その際,東南アジアではインドから伝わってきた文化や品物が,権力者の権威を示すもの(威信材)として利用されるようになっていきました。
 北ヴェトナムは,紅河の河口の三角州(デルタ)を中心に,港市(こうし,港町を中心に発展した都市のこと)が栄え,さまざまな特産物が輸入・輸出されました。
 中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えました。

 イラワジ川流域のビルマは,西部・北部・東部の山岳地帯,上流域の上ビルマ下流域の下ビルマに分かれ,変化に富んだ地形をしています。季節風の影響から,最多で4000ミリの雨をもたらしますが,中央部は乾季の影響で灌漑による畑作,下流部では稲作が行われています。中国の史料によると,ここにはピューという民族が都市を築き,銀貨を発行して交易にも従事していたことがわかっています【本試験H22オケオは関係ない】。文字史料はわずかですが,3世紀の中国の文献では「驃国」として登場します。


●南アジア
インド北部では,3世紀末にガンジス川中流域のグプタ家が勢いづき,4世紀になると,北インドグプタ朝(320~550)が再統一します【本試験H20】【本試験H8エフタルとのひっかけ】【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのはマウリヤ朝ではなくグプタ朝】。地方独特の文化が洗練されていき,ヒンドゥー教が形をととのえてくるのもこの時代でした。

 「最高のヴィシュヌ信者」の称号を持つ王は,ヒンドゥー教を熱烈に信仰していました。ヴィシュヌ【本試験H7ヒンドゥー教えの主神の一つとなったか問う】は宇宙を創造し維持する神とされ,化身(けしん,アヴァターラ)としてさまざまな形をとり地上に現れ,人々を救うとされました。例えば,『ラーマーヤナ』のラーマも,ブッダもヴィシュヌの化身とされました。バラモン教が,インド各地の地元の神様を取り込んでいく過程で,ヴェーダの中の神々が変化していったものです。地方にもともと存在した様々なアーリヤ人由来ではない神々への信仰が,ヴィシュヌ【本試験H21マニ教の神ではない】のほかにブラフマーという神や破壊神シヴァ【本試験H24,H30】という神に結び付けられていったものがヒンドゥー教です。

 グプタ朝にマヌ法典【本試験H12「支配者であるバラモンが最高の身分」か問う】【本試験H15,本試験H24,H28時期】【追H19旧約聖書とのひっかけ】という,バラモンを頂点とする各ヴァルナ(種姓)の権利や義務がまとめられました。
 絶対的な聖典というよりは習わしに近く,ヒンドゥー教には特定の教祖も経典もありません。
 そこではヴァルナ制度は「人類の起源にさかのぼる神聖な制度」とされています。
 ただ現実的には自分のヴァルナに従っていては生活できない場合もありえます。その場合は例外的に下のヴァルナの仕事に就くこともゆるされるなど、ある程度の柔軟性がゆるされていました(注1)。

 現在のインドの人口の約8割がヒンドゥー教と言われています。仏教は,発祥の地でありながら,ヒンドゥー教に押され,現在では人口の1%を割っています。デカン高原のアジャンター石窟寺院【本試験H26時期】【追H20】やエローラ石窟寺院のグプタ様式の仏教【追H20】建築も,さかんに建造されるようになっています。仏像にもインド独自の特徴が見られます【本試験H4ギリシア,ローマなどの西方系美術の影響は強く受けていない】。

 サンスクリット語【東京H10[3]】【共通一次 平1:7世紀のインドでサンスクリット文字が使用されていたか問う】【追H19ウルドゥー語ではない】をサンスクリット文字〔梵字(ぼんじ)〕(注2)で記した文学もつくられ,〈カーリダーサ〉【追H19ウマル=ハイヤームではない】は戯曲『シャクンタラー』【追H19】をつくり,古代から伝わる叙事詩マハーバーラタ』【東京H10[3]】『ラーマーヤナ』の編集もすすみました。ゼロ(0)が文字として表わされたのも,この時期のことです【本試験H2シュメール人により発達されたのではない】。

 父〈ガトートカチャ〉を継いで即位したのは〈チャンドラグプタ〉(〈チャンドラグプタ1世〉,在位320~335頃) 【本試験H20玄奘は訪問していない】で,かつてマウリヤ朝の首都であったパータリプトラは繁栄を取り戻しました。彼は由緒正しい出ではなかったようで,有力なクシャトリヤ階級から妻をめとることで,人々を納得させました。

 第2代〈サムドラグプタ〉(位335頃~367頃)は,インド南端まで兵を進め,諸王を服属させたり,友好関係を築いたりしました。一方,ガンジス川流域の諸国は滅ぼされ,グプタ朝の領土となりました。広大な領土を直轄支配することはせず,間接統治をおこなったのです。

 第3代〈チャンドラグプタ2世〉(位375頃~414頃) 【本試験H15北インド全域を支配したか問う,本試験H19アンコール=ワットは建てていない】が全盛期で,西インドのシャカという中央ユーラシアから南下したスキタイ系の民族(インド=スキタイ人)が建国していた王国を滅ぼし,その土地や海外交易で栄えていた港を支配下に収めました。彼の宮廷には詩人・劇作家〈カーリダーサ〉がつかえ『メーガドゥータ』や『シャクンタラー』【本試験H12ジャイナ教聖典ではない】【本試験H26時期】を著しました。また,中国の東晋時代(東晋の僧ではない)の399年に長安から出発した〈法顕〉(ほっけん)【本試験H5中央アジアのオアシスとしを経由したか問う,本試験H12】【本試験H27孔穎達ではない】というお坊さんは,王に謁見したと『仏国記』(ぶっこくき)【本試験H27】【追H19マルコ=ポーロの著作ではない、H24小説ではない】に記しています(414年に執筆)。彼は行きは西域を経由して陸路【本試験H12「西域経由」か問う】,帰りは海路【本試験H12海路かを問う】を利用し,412年に帰国しました


西アジア
東方の思想の影響はマニ教にとどまらず,グノーシス主義ミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】,エジプトのイシス信仰なども流行し,キリスト教会は『聖書』のストーリーが正統性を失うことに,危機感を覚えていました。

そこで,ニケアに教会の指導者をあつめて,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H31教皇の至上権が再確認されたわけではない】を開かせたのです。ブッダの死後にひらかれた,仏典結集と似ています。このときに正統(正しい教義)とされたのは,アレクサンドリア教会の〈アタナシオス〉の主張したアタナシウス〔ニカイア〕派【本試験H29アリウス派ではない】の三位一体(さんみいったい,トリニタス,トリニティ)説です。


一方,異端となったのは,イエスを人とするアリウス派。こちらはライン川を北に越え,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に広がっていくことになります【本試験H29】。


ローマ帝国が東西に分裂すると,西ローマ帝国東ローマ帝国も,それぞれの地域の有力な教会を管理しようとしました。当時,ローマ,コンスタンティノープル,アンティオキア,イェルサレムアレクサンドリア【本試験H12】の五本山(五大教会)【本試験H12】に,教会組織を代表する大司教が置かれていました。
 特にローマとコンスタンティノープルには,東西ローマ帝国の都がおかれたわけですから,それぞれの教会が,自分の教会のほうが優位に立っていることを主張するようになったわけです。
 はじめはローマ教会が,イエスの最初の弟子でありリーダー的存在であった〈ペテロ〉(?~64?)の墓があるから「ローマ司教が五本山の中で一番えらいのだ」と主張しました。

 遊牧民パルティア人によるアルシャク(アルサケス)朝パルティアを倒した【本試験H26アケメネス朝ではない,本試験H27】のが,農耕に従事するイラン人によるササン(サーサーン)朝です(注) 【追H9スルターンの称号を得ていない】【本試験H3時期(6世紀のイランか),本試験H4王の道を整備していない,本試験H8ソグド人ではない】。
 建国者は〈アルダシール1世〉(位224~241頃)で,アケメネス朝の復興をめざし,ローマ帝国と争いながら,ペルシア文化を発展させていきました。彼はゾロアスター教を国教とします【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「ササン朝ペルシア」で国教とされたか問う】。インダス川方面【本試験H25ガンジス川ではない】まで進出し,北インドクシャーナ朝を衰えさせました。

それに対して3世紀の【本試験H251世紀ではない】〈マニ〉(216?~276?)による善悪二元論をとるマニ教【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「アケメネス朝ペルシア」で生まれていない】【本試験H21ヴィシュヌは主神ではない】【本試験H25】は弾圧の対象となりました。その後,東は中央ユーラシアを通って中国に伝わったり,西は北アフリカやローマに伝わったりしていきました。北アメリカのカルタゴでは,のちにキリスト教の教父(きょうふ,初期の教会におけるキリスト教教義の理論家)【本試験H17ストア派ではない】として有名になる〈アウグスティヌス〉(354~430) 【東京H22[3],H30[3]】【本試験H6時期(同時代の出来事を選ぶ)】【本試験H17ディオクレティアヌスではない】【追H19『神学大全』を著していない,H21、H25アウグストゥスではない】が青年時代に影響を受け,そこからキリスト教に改心した話が『告白(録)』【本試験H17】に記されています。
 ちなみに,ゾロアスター教も,中央ユーラシアを通って長安から長江下流域まで広がり,ローマやインドのボンベイ(現在のムンバイ)にまで拡大しました。現在でもインドでは,ムンバイを中心にゾロアスター教のグループが分布しています。中国ではマニ教摩尼教ゾロアスター教は?教(けんきょう) 【追H25イスラーム朝ではない】と呼ばれ,唐代(618~907)に流行しました。

 第2代の〈シャープール1世〉(位241~272) 【東京H29[3]】【本試験H3ハールーン=アッラシードとのひっかけ。アッバース朝最盛期の君主ではない,本試験H10時期を問う】【本試験H25】は,現在のトルコでローマ軍と戦い(エデッサの戦い),軍人皇帝時代のローマ皇帝〈ウァレリアヌス〉【本試験H25ネルウァではない】【早政H30】を捕虜にしました。領土はインダス川にも及びました。

 現在のシリア周辺には,3世紀後半に女王〈ゼノビア〉の統治下でパルミラ【追H26リード文、H30ソグド人と無関係】【京都H22[2]】が繁栄し,東西交易で栄えました。これは260年代には事実上ローマ帝国から分離しています。


●ヨーロッパ
 ローマ帝国では皇帝〈カラカラ帝〉(位198~217) 【本試験H3,本試験H7カエサルではない】が,妻・弟らを次々に殺害して実験を掌握。カラカラ浴場(カラカラ帝の大浴場)を建設し,だんだんと政治をおろそかにするようになりました。
 212年には「世界中のすべての外人(帝国内の全自由民【本試験H3,本試験H7】)にローマ市民権を付与する」法(アントニヌス勅法)を発布しました。これにより,ローマ市限定の法として出発したローマ市民法と,万民法(帝国内の外国人や異民族との関係を規定していた法) 【本試験H8「しだいにその対象を拡大していった」か問う】との違いはなくなりました。彼は,アルシャク(アルサケス)朝パルティアやインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対して遠征軍を派遣しています。

*

 そんな中,現在のクロアチアで生まれた〈ディオクレティアヌス〉(位284~305) 【追H28全自由民にローマ市民権を与えたわけではない】は,軍人として活躍後,小アジアのニコメディアで皇帝に即位しました。ですから彼も“軍人皇帝”です。ローマからニコメディアに遷都した理由は,「異民族の進入を防ぎ,広い帝国を安定して支配するためには,帝国の比重を東に移す必要がある」と考えたからです。

*

 このように,元老院の権威はほとんど失墜した状態で,事実上〈ディオクレティアヌス〉1人に権力が集まる仕組みができあがります。これを専制君主政(ドミナートゥス) 【本試験H3アウグストゥスのときではない,プリンケプスとのひっかけ】 【追H25テオドシウスのときではない】【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】といいます。

 

コンスタンティヌス帝は,帝国の統一にキリスト教を利用する
ローマはキリスト教会を,住民の把握に利用へ
 〈ディオクレティアヌス帝〉が自分から皇帝の位をしりぞくと,帝国は内乱状態になりました。
 〈コンスタンティヌス帝〉(大帝,在位306~337)は【Hセ10コンスタンティノープルに遷都したか問う】【H29共通テスト試行 史料読解(クローヴィスの洗礼に関する)】【追H25テオドシウスとのひっかけ】【セA H30アウグストゥスとのひっかけ】は「ローマ帝国をまとめるためには,増えすぎたキリスト教徒たちを管理する教会を支配に利用するほうが,都合がいい」と考え,313年にもう一人の正帝〈リキニウス〉(位308~324)と連名(注1)でミラノ勅令【本試験H3】でキリスト教を公認しました【本試験H3国教としたのではない】【本試験H18アリウス派を異端にしていない,本試験H27,本試験H29帝政を始めたのはアウグストゥス】【追H25テオドシウス帝ではない】【セA H30アウグストゥスではない】。

 最終的に内戦に勝利した〈コンスタンティヌス〉は、東西に分けられていたローマ帝国を再統一し,テトラルキアを終わらせます。

 324年には,ギリシア人の植民市であったビザンティウム〔ビュザンティオン〕【東京H14[3]位置を問う】に新たな都市コンスタンティノープル【Hセ10】【追H30 6世紀ではない】を建設を開始。みずからの名を付けた都市にふさわしく、城壁、キリスト教的な建造物や競技場・浴場・広場・記念柱・大通りを建設していきました。
 ただそれは単に慣例にならった戦勝記念事業にすぎず、当初から「第二のローマ」(アルテラ=ローマ)を建設する意図があったか、はっきりとはわかりませんが、国防目的に加えキリスト教に反発する保守的なローマの元老院を嫌ったのだといわれます(治世末期にはこの都市の元老院を議員の人数を300人から約2000人に増員しています)(注2)。
 またローマ【追H30アテネではない】市内にはコンスタンティヌス凱旋門(がいせんもん)【本試験H17】【追H27コンスタンティヌス大帝が建てたか問う、H30】を建設し,18世紀ベルリンのブランデンブルク門【本試験H17直接は問われていない】や19世紀パリの凱旋門のモデルにもなっています。

 また,軍の強化と税収の確保のため,農民の移動を制限する勅令を出しました。土地を割り当てられ,収穫の一部を納める農民を小作人(こさくにん)といいますが,この頃の,移動の自由が認められていない小作人のことをコロヌスと呼びます。奴隷よりも待遇は良く家族は持てました。そのほうが,農民のやる気も出て収穫量も増えるし,支配がラクだと考えられたからです。このように,奴隷ではなくコロヌス(移動の自由のない小作人) 【追H20奴隷ではない】を使用した大土地経営のことをコロナートゥス(コロナトゥス) 【追H20】といいます(彼らの身分自体をコロナートゥスということもあります)【本試験H29共和政ローマの時代には始まっていない】。のちに中世ヨーロッパ(ローマ帝国滅亡後)では農奴と呼ばれることになります。

 キリスト教を公認するからには教義の統一が必要となったため,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H18ミラノ勅令とのひっかけ,本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】【追H21時期を問う、H27コンスタンツ公会議ではない】で教義を統一させました。正統となったのはアレクサンドリア教会の指導者〈アタナシオス〉(298~373,ギリシア語読み。ラテン語読みではアタナシウス【東京H6[3]】)によるアタナシウス(ニカイア)派の三位一体(さんみいったい)説です。
  アリウス派【追H21、H27】【H27名古屋[2]記述(内容を説明)】は異端(いたん。正しい教義ではないとされた説)とされました。「異端」というのは多数はからのレッテルであり,自分のことを「異端」と主張する教派はもちろんありません。
 異端とされたアリウス派【本試験H25ネストリウス派ではない】はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の世界に広がっていくことになります。

 このころのキリスト教会の指導者として『教会史』を著した〈エウセビオス〉(260?265?~339) 【東京H22[3]】【早政H30】がいます。〈エウセビオス〉はキリスト教の由緒正しさを主張するため,「キリスト教の説明する『聖書』に基づく歴史のほうが,エジプトの歴史よりも古いのだ」と,史料を操作して主張しています。

*

このゴタゴタを切り抜けた〈ユリアヌス〉(位361~363)は皇帝に即位すると、〈コンスタンティヌス〉大帝以降のキリスト教を保護する支配スタイルを抜本的になくし、伝統行事(ローマの神々に犠牲獣をささげる儀式など)を重んじます。もともとローマ帝国では,古来からローマでは多神教【本試験H3】が支配的で、エジプトの神イシス【本試験H25リード文】や東方のミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】なども信仰されていました。

375年にフン人【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】が東から黒海北岸に出現したのも、まさにこういった事態が進行していたときだったのです。

〈テオドシウス1世〉【本試験H3コンスタンティヌスではない】【追H25】は392年にキリスト教ローマ帝国の国教と定めました【追H25】。

しかし、大帝が395年に突然死去すると,すでに共同皇帝であった息子の2人に広大な領土を分けて継承することになります (西→次男〈ホノリウス〉,東→長男〈アルカディウス〉)。
 帝国を東西の皇帝により分割統治することには先例があり、4世紀後半には普通となっていましたから珍しいことではありませんでしたし、法制度上分離しているわけでもありませんでしたが、その後〈コンスタンティヌス〉大帝や〈テオドシウス〉大帝のように,1人で全土を統一できた者はついに現れることはなく,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制は固定化されてしまいました。
このことを,後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂といいます【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【本試験H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】。

 その後,コンスタンティノープル【Hセ10】を首都とする東方領土の正帝(以後東ローマ帝国(またはビザンツ(ビザンティン)帝国【Hセ10】)といいます)は,唯一のローマ皇帝として西方領土の奪回に努めるようになっていきます (最終的に東半は1453年に滅亡します)。

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 ローマ帝国は,〈アレクサンドロス〉の大帝国の後継国家を飲み込んで拡大していきましたから,ローマ文化はヘレニズム文化の影響を強くうけました。共和政末期から帝政初期にかけては「古典時代」ともいって,さまざまな分野で特徴的な作品がうみだされました。特に散文と詩歌,歴史学にすぐれたものが多いです。また,哲学はヘレニズム文化の成果が受け継がれ,ストア学派が活躍しました。自然科学も,天動説【本試験H2,本試験H8地球の公転・自転説ではない,本試験H12地動説ではない】を体系化した〈プトレマイオス〉(100頃~170頃) 【追H26地動説を体系化していない】【本試験H15天動説を体系化したかを問う,プルタルコス・エウクレイデス・ピタゴラスではない】【本試験H2原子論・『博物誌』ではない・ムセイオンを創設していない,本試験H8】などが有名です。ギリシア人も多く活躍しました。

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ドナウ川ライン川よりも北側の森林地帯には,狩猟や農耕・牧畜【本試験H7農耕を行わなかったわけではない】によって生活をしていたインド=ヨーロッパ語族のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が生活,キヴィタスと呼ばれる部族国家を形成していました。
 キヴィタスには,貴族・平民・奴隷の区別があり【本試験H7】,貴族中心ではありますが,成年男子全員【本試験H7女性は参加していない】が民会で重要な事柄を決めました。
 有力な貴族には,平民を保護する義務があり,そのかわりに配下に入れて兵士としました(従士制)。彼らの様子については,〈カエサル〉【追H29】の『ガリア戦記』【本試験H15『ゲルマーニア』とのひっかけ】【追H29キケロが著していない】を,〈タキトゥス〉の『ゲルマニア』(98年)などから知ることができます。

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212年に皇帝〈カラカラ〉(188~217)【追H28ディオクレティアヌスではない】により全ローマ帝国自由人【早政H30】に市民権が与えられて以降,異民族の防衛の必要もありローマ帝国の重心は東方に移っていました。238年にはゴート人がドナウ川流域に進出。彼らはスカンディナヴィア南部を現住地とし,3世紀には黒海北岸に移動していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派です。

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その頃、黒海北岸からテュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされるフン人【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【追H30】がバルカン半島方面【追H30ブリタニアではない】に移動していました。
 360年に黒海沿岸のゴート人を征服し【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【H27名古屋[2]】アラン〔アラニ〕人も含む多数の民族を巻き込んで、ドナウ川下流地帯に迫って来ました。

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 ゴート人はさらに海岸線の低地をつたいながら,アテネ(アテーナイ)やスパルタを占領しつつイタリア半島に進入し,410年にローマに進入して占領。さらにかれらはイベリア半島に移動し,定住して建国します(西ゴート王国【東京H11[1]指定語句】【H30地域を問う】)。なすすべのないローマ帝国は,混乱を防ぐために彼らを軍団として認め,ローマ帝国を防衛させようとしたわけです。

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●400年~600年の世界

●中央ユーラシア
中央ユーラシア東部のモンゴル高原では,鮮卑(せんぴ)の拓跋部(たくばつぶ)から自立した柔然(じゅうぜん)【京都H20[2]】の勢力が強まりました。柔然は東胡(とうこ)の末裔か,匈奴の別種といわれます。402年に北魏は初代〈社崙〉(しゃろん)の率いる柔然(じゅうぜん)を討伐し,柔然モンゴル高原の高車を併合し,北匈奴の残党を討伐。天山山脈東部に至るまでの広範囲を支配して,君主は「可汗」(かがん)の称号を名乗りました。のちの「ハン(カン)」や「ハーン(カーン)」といった遊牧民の君主の称号の起源です。しばしば中国に進入し,農民を略奪して北方で農耕に従事させることもありました。

 542年に高車は滅びましたが,その頃から同じくテュルク系の鉄勒(てつろく)や突厥(とっけつ) 【本試験H7柔然に滅ぼされたのではない,本試験H9モンゴル系の柔然を滅ぼしたか問う】【本試験H19時期】が中国の史書に登場します。カスピ海北岸からモンゴル高原北部に至るまで,テュルク系の民族はユーラシアの草原地帯に広く分布していました。突厥はもともと鉄勒に属していた一派(阿史那(あしな)氏)が建てた国家とされ,阿史那氏はシャーマンだったのではないかという説もあります。シャーマンとは,儀礼によって天の神(テングリと呼ばれました)や自然界の聖霊とコミュニケーションをとることができ,予言や治療ができた人たちのことです【本試験H9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】。
 中国で北朝西魏東魏に分かれて争っていた頃に,突厥イラン系でアム川上流域のソグディアナ地方出身【本試験H12地図(ソグド人の出身地域を問う) ティグリス川・ユーフラテス川の下流域,コーカサス地方モンゴル高原(バイカル湖の南西)から選択する】【追H30パルミラではない】のソグド人【追H30】【本試験H4,本試験H8】【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】【大阪H30論述:ソグド人の遊牧民地帯における政治・宗教・文化面での貢献】を仲介役として,絹馬(けんば)貿易(中国に馬を売り,絹を得る貿易)に従事していました。ソグド人は各地にコロニー(植民市)を建設し,遊牧民や定住農牧民の国家に接近して外交【大阪H30論述】面で活躍。また,西アジアゾロアスター教マニ教などの諸宗教を東方に伝える【大阪H30論述】とともに,アラム文字【大阪H30論述】を持ち込んで,突厥文字やウイグル文字(ユーラシアの遊牧民の文字【大阪H30論述】)の成立に影響を与えました。

 580年頃,突厥【本試験H20鮮卑ではない】は隋の攻撃によってアルタイ山脈あたりで東西に分離【本試験H9 6世紀に分裂したか問う】し,630年には東突厥【本試験H18匈奴ではない】は唐により滅んでしまいます。

◆エフタルの遊牧帝国は,サーサーン朝と突厥によって挟み撃ちにあい滅亡
当時,5世紀半ばから,カスピ海北岸にまで勢力を広げていたイラン系またはテュルク系の遊牧連合エフタル【本試験H7中国には勢力を伸ばしていない】【本試験H23,H30大月氏ではない】【追H18】が,ササン(サーサーン)朝を圧迫していました。ササン朝突厥と連携してエフタルを挟み撃ちにし,558年に滅ぼしました【本試験H21・本試験H23・H24,H27時期】

 アム川とシル川に挟まれたソグディアナ地方では,オアシス都市に拠点を持つソグド人【東京H20[3],H30[3]】が,活発に交易に従事しました。広域の支配を目指した遊牧民や農牧民の国家は,彼らの識字能力や情報能力を高く評価し,活動を保護しました。彼らはオアシスに植民して都市を築き,農業も行っています。ソグド人はもともとゾロアスター教を侵攻していましたが,マニ教も伝わり,6世紀末にはソグディアナの中心都市サマルカンドに教団がありました。

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その 【本試験H4匈奴ではない】王〈ブレダ〉(390?~445?)と〈アッティラ〉(406?~453) 【セ試行 オドアケルではない】 【本試験H4匈奴の建国者ではない】【本試験H27時期】【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない】の兄弟が434年に東ローマ皇帝に貢納を倍増するように要求しました。

その翌年453年にみずからの結婚の祝宴の夜に〈アッティラ〉が亡くなると,翌年には服属していた諸民族が反乱して“アッティラ帝国”は崩壊し,残った人々はのちにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々,ブルガール人(テュルク(トルコ)系)やアヴァール人(モンゴル系もしくはトルコ(テュルク)系) 【本試験H21 カール大帝に撃退された世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】に吸収されていきました。なお,フン人の正体が「匈奴(北匈奴)」ではないかという説には,真偽の決着がついていません。


●日本
 5世紀を通じて〈讃〉,〈珍〉,〈済〉,〈興〉,〈武〉(さん・ちん・せい・こう・ぶ,倭の五王【本試験H7時期】)が,中国の南朝の宋(420~479)に朝貢したことが中国の歴史書に記されています。彼らは朝鮮王朝に南下していた高句麗への対抗上,中国に冊封されることで国内の権威を高めようとしたのです。

6世紀には大陸の混乱を背景にして中国や朝鮮の人々(渡来人(とらいじん))が日本に移住し,仏教・儒教律令制度【本試験H18時期】といった大陸の文化を伝えました。


●東アジア
北魏は,五胡【本試験H21・H29】の一つである鮮卑人の王朝ですが,皇帝主導の急激な漢化政策に対する反発もありました。かつての首都の近くの防備に当たっていた軍団(六鎮)が,523年に反乱にを起こすと,北魏無政府状態に陥り,534年に〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉(位532~534)を殺害しました。
 同年,反乱を起こした〈高歓〉(496~547)が実権を握り,〈孝静帝〉(こうせいてい,孝武帝のいとこの子,位534~550)を擁立して534年に東魏を建国しましたが,これに対抗して〈宇文泰〉(うぶんたい, 505~556)が〈文帝〉(孝武帝のいとこ)を擁立し,長安を首都として535年西魏を建国(注)。こうして北魏は東西に分裂【追H25時期が梁の武帝の在位期間中かを問う】したのです。

図式 〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉を暗殺。
    〈宇文泰〉は〈文帝〉を擁立→【西魏
    それに対して,
   〈高歓〉が反乱し〈孝静帝〉を擁立→【東魏
(注)535年をもって北魏の分裂の年とする。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120

 さらに,550年に東魏北斉(550~577) 【京都H20[2]】に,西魏北周(556~581)にそれぞれ取って代わられました。
 このように華北は,五胡十六国 → 北魏が統一 → 東魏西魏 → 北斉北周 というように移り変わっていきます。これらはすべて鮮卑系の王朝ですが,このうちの北周外戚だった〈楊堅〉【本試験H16】は,北周の皇帝から禅譲をうけ,581年に隋【本試験H16】を建国することになります。

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建康(けんこう)【追H28長安ではない】を首都とする東晋【追H28】は,420年に武将の〈劉裕〉(りゅうゆう)により倒され,①宋が建国されました(960年に始まる宋と区別するため劉宋という場合もあります)。

 その後短期間のうちに②斉(せい)。北魏討伐で活躍した寒門(階級の低い一族)出身の軍人〈蕭道成〉(しょうどうせい,在位479~82)が〈高帝〉として即位。

 ③梁(りょう) 【追H25】。軍人〈蕭衍〉(しょうえん)が〈武帝〉【追H25在位期間中に東西に分裂した華北の王朝を選ぶ(○北魏、×北元、×北周、×北斉)】として建康を占領して即位。

 ④陳のように建っては滅び,建っては滅びました。華北を支配していた遊牧民たちの勢力が強く,常に臨戦態勢であることが求められたため,華北を奪回しようとする将軍の力が強まり,作戦に成功した将軍が皇帝に即位することが多かったためです。

 梁の時代は比較的平穏な時代であり,〈武帝〉の皇太子〈昭明太子〉(しょうめいたいし)【本試験H22】【名古屋H31】が四六駢儷体【本試験H31韓愈は復興を唱えていない】【名古屋H31】で書かれた作品を集めた『文選』(もんぜん)【本試験H22斉民要術ではない】【追H24元代に原形ができた小説ではない】【名古屋H31】【中央文H27記】を代表として文化が栄えました。九品中正(九品中正法) 【本試験H3】は南朝でも続けられましたが,貴族たちは華北時代の家柄にしがみつこうとし,高いランクが付けられた家柄から高級官僚が決められる仕組みは,依然として残りました。

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陳は,589年に北朝の隋【本試験H6北周ではない】に滅ぼされ,こうして中国は統一され,南北朝時代は幕を閉じます。

 なお,ここで,この時代の中国の時代区分についてまとめておきましょう。
 三国時代は,魏の建国から蜀の滅亡まで(220~263年)。長くとれば,西晋による呉の滅亡まで(220~280年)。
 五胡十六国時代は,匈奴による華北での「漢(前趙)」の建国から北魏の統一まで(304~439年)をさします。
 南北朝時代【本試験H19五代十国時代ではない】というときは,北魏の建国から隋の統一まで(439~589年)をさします。
 魏晋南北朝時代というときは,魏・西晋から隋の統一まで(220~589年)をさし,これがもっとも長い時代区分のとり方です。
 六朝(りくちょう)時代という呼び方もあります。これは,現在の南京に首都を置いた6つの王朝の時代をまとめたものです。
 すなわち,呉【追H25】(当時の地名は建業【追H18】)→東晋(以降は建康)→宋→斉→梁→陳の時代です。

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古くから根付いていた民間信仰が,神仙思想(仙人や不老不死をめざす考え方) 【本試験H2】や道家の考え方が体系化されていきました。〈寇謙之〉(こうけんし,363~448) 【京都H20[2]】【追H19時期、H28道教は「仏教の普及に刺激されて」成立したのは確かだが、その時期は明代ではない】【本試験H2北魏の人であることを問う】【本試験H22唐代ではない】【中央文H27記】は北魏の〈太武帝〉【本試験H12道教を禁止したわけではない】に接近して保護を受け,道教の教団(新天師道) 【本試験H19時期】をつくっています(のちに宋代に正一教と呼ばれるようになり,現在に至ります) 【本試験H2中国仏教が道教の体系化に大きな影響を与えたことを問う】。

 政治的に不安定な時代であったことを反映し,政治に関する直接的な発言は避けつつ,老荘思想などについて議論を交わしつつ遠まわしに語り合う「清談(せいだん)」【追H19時期、H24清代ではない】というスタイルが流行しました。
 〈阮籍〉(げんせき,210~263)に代表される,竹林の七賢【本試験H17時期(春秋戦国時代ではない)】が有名。

 道教に対して,インドから伝来した大乗(だいじょう)仏教【本試験H4中央アジアを経て中国に伝わったか問う】は,4世紀後半から栄えはじめます。インドの言葉ではわからないので,〈仏図澄〉(ぶっとちょう,?~348) 【本試験H18・H24時期】や〈鳩摩羅什〉(くまらじゅう,344~413) 【京都H20[2]】 【本試験H4前漢の人物ではない,本試験H12時期(鳩摩羅什隋王朝に招かれたわけではない)】【追H19,H27仏典の翻訳・布教をしたか問う、H30五胡十六国時代ではない】 が布教や仏典の漢訳【本試験H12鳩摩羅什が訳経事業に従事したか問う】で活躍しました。
 インドの〈ナーガールジュナ〉(150頃~250頃)の『中論』を漢訳したのは〈鳩摩羅什〉です。石窟寺院も多数作られました。
 北魏の時代につくられた,平城近郊の雲崗(うんこう。インドのグプタ朝(320~550)美術の影響を受けています) 【中央文H27記】や洛陽近郊の竜門【追H27唐代の長安ではない】【本試験H22地図・後漢代ではない】が重要です。竜門の石窟寺院は,〈孝文帝〉の漢化政策の影響もあり,中国風の衣装をまとっていいます。ただ,それでも仏教は中国人にとっては”外国思想”ですから,理解するのが難いものでした。そこで,老荘思想道教などの中国の考え方を混ぜた格義仏教の形で信仰されることも多かったのです。
 しかし,仏教に対する政策は支配者によって様々でした。例えば,北魏の5人の皇帝は,雲崗石窟の仏像を自分たちの姿に似せて作らせました。「皇帝=仏」ということを,人々に知らしめそうとしたのです。南朝で梁を建てた軍人出身の〈武帝〉(〈蕭衍〉(しょうえん))は,仏教を厚く信仰したことで知られます。一方,北魏の〈太武帝〉(位423~452) 【本試験H12】や北周の〈武帝〉(位560~578)は,仏教を厳しく弾圧しました(唐の〈武宗〉(位840~846)),後周の〈世宗〉(位954~959)の迫害と合わせ中国の仏教界では”三武一宗の法難”と呼びならわされています)。

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 政治の世界から一歩引く風潮は,詩文の世界にも見られます。憧れだった都は荒れ果て,豊かさが“うわべ”だけのものだったことに気づいた人々は,時間のたっても変わらない素朴な「自然」の姿に,一度きりの人生の“理想”を求めたのです。例えば,東晋の〈陶潜〉(とうせん,〈陶淵明〉(とうえんめい),365?~427) 【本試験H3長恨歌の作者ではない】【京都H20[2]】【名古屋H31人名と「東晋」代の人ということを問う】。なお,このように2つの呼び方があるのは,中国人が,人の名前を軽々しく呼ぶことを嫌がったためで,陶潜の場合,「潜」は名であり,これをむき出しにするのは失礼と考え,代わりに「淵明」という通り名で呼んだことによります。前者を諱(いみな),後者を字(あざな)といいます。〈陶潜〉は官僚の職を辞して辞,故郷の田園生活に戻る決断をします。他に同じく,山水詩で有名な宋の〈謝霊運〉(しゃれいうん,385~433) 【名古屋H31人名と「宋」代の人であることを問う】がいます。彼は,霧につつまれた,うら寂しく深い山や険しい谷を眺めながら「官僚としての生活を送るなかで,若い頃の自分ではなくなってしまった」と嘆く,そんな詩を読みました。陶潜と謝霊運をあわせて「陶謝」ともいいます。

 南朝に移動した門閥貴族(高い家柄の貴族)たちの間には,自分たちにしかわからないような絶妙で繊細な文化を尊ぶことで,庶民との違いを見せつけようとする文化が発展しました。
 例えば,美しい文章の書き方として,四六駢儷体がもてはやされます。梁の時代の〈昭明太子〉(501~531)による『文選』(もんぜん)が有名です。

 また,『女史箴図』(じょししんず) 【追H29】 【立教文H28記】という女性のマナー書の挿絵を書いた〈顧愷之〉(こがいし,344?~405?) 【本試験H15王羲之とのひっかけ,本試験H22顧炎武とのひっかけ】や「蘭亭序」(らんていじょ)【追H29】で有名な〈王羲之〉(おうぎし,307?~365?) 【本試験H15「女史箴図」の作者ではない,本試験H17唐代ではない,本試験H22】【追H27仏典の翻訳・布教をしていない、H29リード文】【早・政経H31蘭亭序の作者か問う】が,それぞれ絵と書をきわめます。彼の子〈王献之〉(344~388)も書画で有名です。

●朝鮮
 朝鮮半島西南部の馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,6世紀には百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【追H9朱子学と書院は栄えていない】【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】として統一が進みます。

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倭(日本)のヤマト政権は,彼らの持っていた高い技術力や先進的な文化を歓迎し,渡来人(とらいじん)として受け入れました。こうして日本にも漢字や仏教・儒教律令制度【本試験H18】が伝えられることになったのです。

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 541年と544年には百済が主導し,倭も参加する形で加耶の復興会議が開かれましたが,562年に加耶地域は新羅支配下となりました。これをもって朝鮮半島高句麗新羅百済三国時代【本試験H31 高句麗新羅百済が並び立ったか問う】【追H19時期】となります。


●東南アジア
中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えています。5~6世紀頃から,サンスクリット語の碑文が見つかるようになり,中国側の史料によるとインド風の宮廷・ヒンドゥー教の僧侶などの特徴を備えるようになっていたようです。研究者はこのことを,東南アジアの「インド化」といいます。

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 メコン川下流域の扶南は,6世紀前半で中国に朝貢使節を覇権しなくなりました。マラッカ海峡を通るルートが東西ルートのメインになり,シュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】などの勢力に圧倒されたためと見られます。

 中国の東晋時代に,長安から西域を経由して陸路【本試験H12「西域経由」か問う】でインドのグプタ朝に渡った僧〈法顕〉(ほっけん,337~422) 【本試験H12】は,「海の道」【本試験H12帰路は海路か問う】を通って中国に帰ってきます。

イラワジ川流域では,ピュー人の国が栄えていたことが,中国の史料から明らかになっています(朱江と呼ばれていました)。6世紀後半~7世紀初めには,東のチャオプラヤー川にまで勢力を広げ,クメール人【本試験H5チャム人ではない,ヴェトナム中部ではない】のカンボジア(中国名は真臘【本試験H5,本試験H11:時期を問う(6~15世紀かどうか)・地域を問う(マレーシアではない)】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】)と争っていたといいます。

 


●南アジア
 5世紀に入ると中央ユーラシアの遊牧民エフタル(フーナ)が,グプタ朝【本試験H29ムガル帝国ではない】に進入するようになりました。
 5世紀末の進入により,グプタ朝はインド西部を失い,同じ頃から諸侯や地方長官の独立が始まりました。
 こうして,6世紀半ばまでにはグプタ朝は多くの領土を失い(注),7世紀【共通一次 平1:当時(7世紀)のインドでサンスクリット語が使用されていたか問う(パスパ文字,アラム文字,インダス文字ではない)】後半に残存勢力が盛り返したものの,8世紀に入ると消滅しました。
 グプタ朝亡き後,西インドにはマイトラカ朝,北インドにはマウカリ朝,プシュヤブーティ朝,東インドにはベンガルなどが並び立ちました。
 このうち,プシュヤブーティ朝から,7世紀初めに〈ハルシャ〉【本試験H20・H27】が出て,ヴァルダナ朝【本試験H20玄奘が訪問したか問う,本試験H19時期(アンコール=ワット建設と同時期ではない)】【追H24】を開き,北インド【本試験H27,H30南インドではない】【追H24南インドではない】を統一することになります。

 

西アジア
 そんな中、〈テオドシウス2世〉(位408~450)の呼びかけで431年に現在のトルコ共和国の西部にあるエフェソスでエフェソス公会議が開かれ,イエスには神の部分と人の部分があるが,それらは完全に別物として存在しているとするネストリウス派が異端とされます。「マリア」の扱いについては,異端のネストリウス派が,マリア=人としてのイエスの母という立場をとったのに対して,“マリア=「神の母」”説が正統とされました。のちにイラン高原のササン(サーサーン)朝を通過し,唐代【本試験H29漢代ではない】の中国で景(けい)教(きょう)【京都H20[2]】【本試験H21拝火教ではない】【追H19、H30】として大流行します。
 なお,エフェソスは歴史の長い都市で,ヘレニズム時代やローマ時代の遺跡(図書館やローマ劇場,アルテミス神殿)が残されています。5世紀からは,ここで余生を送ったとされる聖母マリアの家が巡礼地の一つとなっていました(◆世界文化遺産「エフェソス」,2015)。


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 沙漠が大部分を占めることから,周辺の国家による支配は難しく,オアシスの周りで農業をおこなったり,遊牧をしたりする集団がいくつもの共同体を形成していました。商業を行う集団も少なくなり,地中海沿岸のシリア方面と,紅海やインド洋を結ぶ中継貿易で栄えた部族もいました。沙漠という過酷な環境下で,アラブ系遊牧民(ベドウィン)の諸部族は多神教を中心とする宗教によって連帯し,共存するとともに争い合っていました。のちにイスラーム教の聖地となるメッカでは,泉(ザムザムの泉)やカーバ神殿【追H20ヒンドゥー教との信仰の中心ではない】【セA H30メッカで「カーバ神殿が造られた」か問う】が遊牧民の信仰を集め,5世紀中頃には遊牧民クライシュ族支配下に置きました。
 アラビア半島にはユダヤ人やキリスト教徒も分布していました。

 5世紀後半には,中央ユーラシアから遊牧民エフタル【本試験H8グプタ朝ではない】が進出し,ササン(サーサーン)朝【本試験H8ソグド人ではない】は危機的状況となりました。しかし,〈ホスロー1世〉(位531~579) 【本試験H5ヒッタイトの王ではない】が,モンゴル高原のトルコ系遊牧民突厥(とっけつ,とっくつ) 【本試験H8】と同盟して挟み撃ちにしました。


●アフリカ
 北アフリカ西部には、インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ヴァンダル人【東京H23[3],H30[3]】【H27名古屋[2]】がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島方面からアフリカ大陸に進出し,現在のチュニジアにあるカルタゴを占領して429年にヴァンダル王国立命館H30記】を樹立しました。カルタゴから穀物を輸入していたローマ市民は打撃を受けました(注)。
 しかしヴァンダル王国【追H28滅亡された時期を問う。~379年~479年~642年~のいずれの時期か】は〈ユスティニアヌス〉帝の治世のビザンツ王国に滅ぼされ,647年までその支配下に置かれます。


●ヨーロッパ
 その後〈アラリック〉は死去し、弟の〈アタウルフ〉が率いて西に移動したゴート人(西ゴート人)は、412年にガリアに入ります。〈アタウルフ〉は西ローマと友好関係を保ちますが、その後西ローマの総司令官の圧迫を受け本拠をスペインに移動。〈アタウルフ〉は殺害されますが、次の〈ウァリア〉のときにヴァンダル人を攻撃する代わりに食糧援助を約束され、ゴート人がガリア南西部(アキテーヌ)に定住することを認めました。
 この西ゴート王国【H30地域を問う】の建国年は415年で、承認されたのは418年です

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東ゴート王国バルカン半島ドナウ川以北に進出しましたが,488年に〈テオドリック〉(位474~526)がイタリアに進出し,のち493年にイタリア北部で東ゴート王国(493~555)を再建します【追H24成立時期が13世紀か問う】。

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アヴァール
 また,騎馬遊牧民アヴァール人【本試験H21 カール大帝に撃退された世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】が黒海北岸から493年にバルカン半島に移動し,ドナウ下流域からハンガリー盆地にも進出してアヴァール=カガン(可汗)国を建国しました。可汗の称号を使用したことから,モンゴル高原を中心とする騎馬遊牧民柔然(じゅうぜん)(⇒柔然:400~600中央ユーラシア)の一派ではないかともいわれます。アヴァール東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス1世〉(位527~565)に対して558年に使節を派遣し同盟を結びましたが,ササン朝とも組んでビザンツ帝国を圧迫し続けました。しかし,のち内紛で衰退していきます。

*

 しかしイベリア半島に移動したゴート人(西ゴート人)が415年に西ゴート王国を建国すると、押し出される形となったヴァンダル人はジブラルタル海峡を越え,〈ガイセリック〉王(389?~477)のもと,北アフリカ【本試験H14】のカルタゴ近くにヴァンダル王国を建設します。
 これによりローマ市民の生命線である穀物の供給がストップ。ローマはますます衰退していきます。
 ヴァンダル人にカルタゴ(ヒッポ)が包囲される中,神学者アウグスティヌス〉(354~430) 【本試験H3】【追H9,追H21、H25】 は息を引き取りました。のちにローマ教会が「正しい」(正統)とする説を生み出した神学者ということで,「(ラテン)教父」(きょうふ)とも呼ばれます。主著は『神の国』【本試験H3】【追H9,追H21、H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)】で,青年時代にマニ教を信仰していたことを『告白』に綴(つづ)っています。

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 〈イシドールス〉は当時非常に大きな影響力を持っていた人物で,古代ギリシアの思想を学びTOマップ【追H24,H27リード文】(世界の中心はイェルサレム,その周りにある3大陸は,3つの河川・海洋で区切られ,いちばん周りは大きな海が取り囲んでいるという世界観)として知られる世界地図を作成し,『ゴート人・ヴァンダル人・スエヴィ人の歴史』という民族移動から625年までの年代記も残しています(彼のもたらした学芸の発達を「イシドールス=ルネサンス」ということもあります)。

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そんな中、東ローマに推戴された皇帝が、軍の総司令官の抵抗を受けて逃亡。この総司令官はフン人の〈アッティラ〉の元部下だったのです。総司令官は自分の子を皇帝に即位させると、外部の部族の傭兵団の司令官〈オドアケル〉(433~493)【追H25アッティラとのひっかけ】が反乱を起こし、この皇帝を殺害。次の皇帝となっていたその息子(〈ロムルス=アウグストゥルス〉(位475~476))を廃位し、年金をわたして追放しました(注3)。
 〈オドアケル〉は皇帝位を東ローマに返上し、イタリアに皇帝を送り込む必要はないと通告。
 これが世に言う「西ローマ帝国」の滅亡【追H25】です。


●ヨーロッパ
ブルグンド人
 ブルグンド人【本試験H14】は5世紀初めにガリアに進出し、ローマ皇帝から「同盟部族」として認められます。その後、定住することになったのはガリア【本試験H14北イタリアではない】の南部でした。ガリア南部でブルグント王国を建国したのは443年のことです。だいたい今のフランスのリヨンあたりの地域です。

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フランク人
 一方、フランク人はガリアの北部【本試験H8黒海北岸から西進したわけではない】【本試験H14イベリア半島ではない】にフランク王国を建国しました。ただし○○人といってもこれらは統一的なエスニック・グループではなく、さまざまな小集団からなる混成部族にすぎず、彼らだけでなく呼んでいたローマ人もそのような認識でした(注1)。
 皇帝〈ユリアヌス〉帝のときに帝国内への定住がゆるされ、ローマ軍の有力指導者にも抜擢されるようになっていたのは、小部族のひとつ「サリ=フランク人」でした。
 サリ=フランク人の〈クローヴィス〉(位481頃(注2)~511) 【セ試行】【本試験H7】【本試験H19時期,H29共通テスト試行 ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠は受けていない,H30】【H29共通テスト試行 レコンキスタとは無関係】は、ローマ帝国の役人でもあった父から位を継いで強大化しました。
 
 〈クローヴィス〉は西ゴート王国の上手(うわて)をねらい,支配下に置いていたローマ人(ラテン人【東京H6[3]】) 【本試験H7】との同盟関係を強化するため,ローマ教会が正統な教義と認めていたアタナシウス 〔ニカイア〕 派に496年に改宗【本試験H7アリウス派ではない】【本試験H19時期,本試験H23ネストリウス派ではない,H29共通テスト試行 王妃に改宗を拒否されていない他(史料読解),図版(クローヴィスの洗礼を描いた図を選ぶ)】し,フランク人の支配層も集団改宗しました。

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 6世紀になると,ローマの南東の山地モンテ=カッシーノ【追H17時期(6世紀か問う(正しい))、H19,H30】で〈ベネディクトゥス〉【追H30グレゴリウス1世ではない】【慶文H30記】により修道院が開かれます。イエスの時代の生活をモデルとし,自給自足を基本とする信仰生活をおくるための団体です。モットーは「祈り,かつ働け」。

 教皇〈グレゴリウス1世〉(位590~604) 【追H30モンテ=カッシーノを創立していない】も,〈イエス〉などの聖画像(イコン)や聖歌(現在にも伝わるグレゴリオ聖歌の発案者です)を効果的に用いて,文字を読むことができない西ゴート人やアングロ=サクソン人への布教を成功させていきます。

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 4世紀末以降のローマ帝国は,〈テオドシウス〉大帝を最後に1人で全土を統一できた者はついに現れず,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制が固定化されていました。このことを後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂と呼んでいます【H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】。その後,ローマの東半の正帝は,唯一のローマ皇帝として西半の奪回に努めるようになっていくのです。

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皇帝位をめぐる争いに外部の部族の傭兵団の隊長〈オドアケル〉(433~493) 【セ試行 フン族の王アッティラではない】【本試験H29】が介入し,西ローマの正帝となっていた幼少の〈ロムルス=アウグストゥルス〉(475~476)【本試験H29フランク国王ではない】を退位させ,西ローマ帝国を滅ぼしました。すでに皇帝には権力がほとんどない状態であったわけですが、この事件を後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶわけです。

その手柄が認められた〈テオドリック〉大王(位471~526) 【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない、オドアケルとのひっかけ】は,北東イタリア【本試験H14シチリアではない】のラヴェンナを都として東ゴート王国を建国することが許され,「イタリア王」(位493~526)を称します。この「イタリア王」という称号は,その後もローマの西方領土の支配者によって伝統的に使用されていくことになります。
 ラヴェンナは,ポー川の河口近くに位置する豊かな土地であり,東ゴート王国はローマ文化を受け入れながら発展していきました。ビザンツ様式【本試験H10】のサン=ヴィターレ大聖堂【本試験H10,ピサ大聖堂,サンタ=マリア大聖堂,サン=ピエトロ大聖堂とのひっかけ】【追H25ビザンツ様式か問う】がラヴェンナに建設されるのもこの頃です。

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 しかし,東ゴート王国ヴァンダル王国【本試験H30】【H30共通テスト試行 ヴァンダル王国東ローマ帝国接触した可能性があるか問う】は,かつてのローマ帝国の広大な領土の“回復”をねらう東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス帝〉によって滅ぼされることになります。

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東ローマ帝国はつかの間イタリア半島を支配しますが,そこへ進出していった民族がランゴバルド人【本試験H6】です。
 イタリア半島に進出したランゴバルド人は推定30万人。
 568年に東ゴート王国を倒しイタリア半島の付け根,北東部をミラノの南方のパヴィーアを都にランゴバルド王国【本試験H27】を建てます。

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 395年のいわゆる「ローマ帝国の東西分裂」後、476年以降西ローマ帝国の皇帝が立たなくなると、東側のローマはローマを中心とする世界秩序の中心に躍り出るようになります。
 都市コンスタンティノープルは、もともと前660年頃にギリシア植民市のビザンティオン【東京H14[3]位置を問う】〔ビュザンティオン〕としてに整備されたものです。

東ローマの皇帝は、当初はかつてのローマ帝国の西半の領域やキリスト教会に対する支配を目指しましたが,住民の多くはギリシア語を話していましたし,6世紀前半の『ローマ法大全』【本試験H17オクタウィアヌスは編纂していない,本試験H25】【本試験H8西ローマ帝国ではない】もギリシア語で発布されました。7世紀以降はギリシア語【東京H10[3]】が公用語となり【本試験H13時期(「東西教会が最終的に分離した後」ではない),本試験H15・H27ともにラテン語ではない】,正教会を保護して発展していきました。コンスタンティノープルは,第四回十字軍【追H19】のときにヴェネツィア共和国【本試験H12フィレンツェではない】に占領されたこともありましたが,1453年にオスマン帝国に攻撃されるまで,帝国の重要な拠点として名を馳せました。

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コンスタンティノープルを無敵の都とした防壁は〈テオドシウス2世〉(位408~450)により建設されました。彼はテオドシウス法典の編纂を始めさせ,エフェソス公会議【本試験H25ニケア(ニカイア)公会議,コンスタンツ公会議,トリエント公会議ではない】を招集してネストリウス派を異端【本試験H19ワッハーブ派のひっかけ】【本試験H25】としました。

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 527年に即位した〈ユスティニアヌス大帝〉(位527~565) 【本試験H21西ローマ皇帝ではない】【追H19】は,ローマ帝国を復活させようとして,増税をしたために,国民の反乱を招き,532年には「ニカ!(勝利を!)」と叫びながら暴動を起こす事態(ニカの乱)となったのですが,この時,サーカスの踊り子出身の皇后〈テオドラ〉(位527~548)が威勢よく励ましたお陰で,ユスティニアヌスは鎮圧に成功したと伝えられます。
 このころ,旧・西ローマ帝国の領内にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の国家が多数建てられていたのですが,東ローマはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入の被害が少なく,地中海や黒海バルト海,またはさらに東の内陸ユーラシアやインド洋を結ぶ交易の中心地として経済が栄え,ノミスマ【早政H30】という金貨が発行されました。ラテン語ではソリドゥス硬貨と呼ばれ,ドルマーク($)の由来となっています。
 ユスティニアヌスはその後,534年に北アフリカヴァンダル王国【本試験H21】【法政法H28記】,555年にイタリア半島東ゴート王国を次々と滅ぼします【本試験H21イタリア半島の領土を失っていない】。戦闘で活躍したのは名将〈ベリサリウス〉(500?565?~565)です。
 554年には西ゴート王国にも遠征しています。こうして,かつてのローマ帝国の最大版図に近い範囲に領土を広げることに成功しました。また彼はコンスタンティノープルに,ビザンツ様式のハギア=ソフィア大聖堂【京都H20[2]】【本試験H13レオン3世の命ではない,本試験H19ウィーンではない,H21】【追H27ユスティニアヌス帝が建てたか問う、H29ユリアヌス帝による建立ではない】を再建(537年竣工(注))しています。
 〈ユスティニアヌス〉西方に領土を拡大しようとしている間,531年に即位したササン(サーサーン)朝【本試験H13コンスタンティノープルを占領したことはない】の最盛期の王〈ホスロー1世〉(位531~579)【本試験H30】も西方に進出。両者は戦争の結果,〈ホスロー1世〉がアンティオキアで東ローマ帝国に勝利しメソポタミアを死守しています。

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 また,法学者〈トリボニアヌス〉に,従来のローマ法の集大成をつくるよう命じ,『ローマ法大全』【本試験H21・H30】が編纂され,534年に皇帝はこれをギリシア語で発布しました。特に,元首政(プリンキパトゥス) 時代の学説がまとめられた『学説彙纂(ディゲスタ)』が重要で,法律のはじめに「総則」を置き,そのあとで具体的にしていくスタイルは,現在の日本の民法を含む各国の法律に影響を与えています。
 経済的には,中国の独占していた養蚕(ようさん)技術【東京H26[3]】が伝わり,絹織物産業が盛んになりました【本試験H27】。

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 さらにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の進出がはじまると,ブリトン人【東京H6[3]またはケルト人】の地という意味の「ブリタニア」という呼称は,しだいに大陸からインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の移住が進むと,「アングロの地」という意味である「イングランド」へと変わっていきました。

 中世の騎士道物語や年代記(『カンブリア年代記』『ブリトン人の歴史』など)にみられる「アーサー王」伝説は,アングロ=サクソン人と戦ったブリトン人の伝説的な指導者をモチーフにしていると考えられています(俗にいうように大陸の「ケルト文化」との関連はないといわれています)。アングロ=サクソン人【本試験H14】は,今後 600年頃から9世紀までに7つの王国(七王国ヘプターキー) 【本試験H14・H30】を建国していくことになります。

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●600年~800年の世界

●中央ユーラシア
 580年頃,突厥【大阪H30史料:629年当時の中央アジアの遊牧地帯の国家を問う。西突厥が適当か】はアルタイ山脈あたりで東西に分離し,630年には東突厥は唐の支配下に入ります。
 唐は遊牧民の支配層を破壊せず,温存させたまま支配する「羈縻支配(きびしはい,羈縻政策)」【本試験H20王朝を問う、H24日本の植民地朝鮮での武断政治とのひっかけ】【追H18】をとりました【大阪H30論述:どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し,または外交関係をむすんで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に】。遊牧民の側も唐の〈太宗〉(位626~49)を「天可汗」(テュルク語でテングリカガン)と呼び,「可汗」の支配として統治を受けました。


 鉄勒(てつろく)の部族のなかに,「トグズ=オグズ」という部族がおり,そのうちの一つがウイグル(回鶻(かいこつ)) 【追H18】と呼ばれていました。


 唐に保護されていた商業民族ソグド人の本拠地(アム川とシル川に囲まれたソグディアナ地方)が,イスラーム軍による進入を受けていた影響も少なくありません(751年にはタラス河畔の戦いで唐【本試験H14ウイグルではない】【追H19,H20・H30隋のときではない】がアッバース朝【本試験H14ウマイヤ朝ではない】に敗北しています)。

 


 ウイグルは,モンゴル高原のオルホン川流域に宮殿を築き,オルドゥ=バリクなどと呼ばれる都市を建設しました。遊牧民がこれだけの大都市を草原地帯につくり,上層部が定住するようになるというのは,珍しいことです。また,突厥文字の影響を受けたウイグル文字【本試験H15遊牧民最古の文字ではない】を作成しました。

 

チベット高原を7世紀に統一したのは,〈ソンツェン=ガンポ〉(位629~649) 【本試験H4,本試験H7】【本試験H20】【追H30中国東北部ではない】【慶商A H30記】です。中国はこの王国を吐蕃(とばん;チベット帝国,7~9世紀中頃) 【京都H21[2]】【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)・地図上の位置を問う(タリム盆地ではない)】【Hセ3唐代に和蕃公主が嫁がされていない,Hセ7鮮卑ではない,本試験H9[14]ヴェトナム北部ではない,イスラム文化と中国文化は融合していない,フビライの攻撃で滅んでいない】【本試験H17成立の時期】【セA H30】と呼びました。インドの文字からチベット文字【本試験H9】【本試験H17】をつくり,インドから伝わった密教(みっきょう)と,チベット民間信仰(ボン教)が合わさった神秘的なチベット仏教(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)を吐蕃(とばん;チベット帝国)の国教として採用しました。

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アヴァール
 中央ユーラシア西部では,モンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされるアヴァール人【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】が,ビザンツ帝国の〈ユスティニアヌス1世(大帝)〉(位527~565)のときにカフカス山脈の北に現れ,黒海を通ってドナウ川中流域のパンノニア(ハンガリー平原)に進入しました。のちに,バルカン半島に進入します。623~24年にはコンスタンティノープルを包囲しますが,ビザンツ帝国の〈ヘラクレイオス1世〉(位610~641)が撃退しました。その後,8世紀末~9世紀初めにフランク王国カール大帝〉【追H25】により撃退され,その後の消息はわかりません。アヴァール人は柔然(じゅうぜん)と関係があるのではないかという説には確証はありません。

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ブルガール人の一派は,ドナウ川方面に移動し,680年にビザンツ帝国を打倒して,スラヴ人の農牧民を支配しました。しかし,やがてスラヴ人と同化し,864年にはキリスト教を国教としました【追H29北イタリアで王国を建てていない(それは東ゴート人やランゴバルド人)】。

 

●東アジア

●東北地方
中国東北部黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 西方からの騎馬遊牧民の東突厥(ひがしとっけつ)による圧迫を受ける中で,特に女真(女直,ジュルチン)人【追H27】が台頭していきます。

 ツングース語族系の高句麗(紀元前後~668)は668年に唐と新羅の攻撃により滅び,その遺民【追H28タングート族ではない】により渤(ぼっ)海(かい) 【追H28地図上の位置を問う(西夏とのひっかけ)】【京都H21[2]】(698~926)が建国された。北方の沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)にも拡大して女真を圧迫し,唐の制度を導入して台頭していきます。


●日本

 〈孝徳天皇〉にかわって即位した〈斉明天皇〉(さいめいてんのう,位655~661)は,朝鮮半島百済が唐と新羅【追H24「宋と金」ではない】の連合軍により滅ぼされる(百済の滅亡【追H24】)と百済の救援に向かい,663年の白村江(はくそんこう;はくすきのえ)の戦いで大敗しました。

人々には田租・庸【共通一次 平1:資産税ではなく人頭税】・調などの税や,雑徭(ぞうよう)・兵役(へいえき)などの労役が課されました【追H27時期を問う】。なかには都の警備である衛士(えじ)や,九州北部の防備のため防人(さきもり)として徴用されることもありました。人口の多くは良民(その多くが農民)でしたが,数%は官有または私有の賤民(せんみん)として扱われました。


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 8世紀以降,新羅との関係悪化にともない,遣唐使のルートは朝鮮半島沿岸部を航行する北路から,東シナ海を横断し明州(現在の寧波(ニンポー)【早政H30】)に到る危険な南路に移っていきました。


●中国

 581年に隋を建てたのは,北朝の軍人であった鮮卑系の〈楊堅〉(ようけん,在位581~604)でした【本試験H17軍機処は設置していない】。 前漢時代から都とされていた都市・長安は老朽化も進んでおり,その南東に新たな都城の大興城(だいこうじょう) 【追H27隋代ではない】を建設します。城とは中国語では壁で囲まれた「都市」のことです。これがそのまま次の唐代には長安城として利用されることになります。
諡(おくりな,死後与えられる名)は文帝です。589年に南朝最後の陳【本試験H17宋ではない】を滅ぼし,約300年ぶりに中国の領域が統一されました。


北朝の流れをくむ隋では,均田法(農民に国家が土地を与え耕作させる)・租調庸制(均田法で田畑を与えた農民から税を取る)・府兵制【追H25玄宗の時代ではない】(均田法で田畑を与えた農民から兵をとる)といった制度が受け継がれました。


(1)均田法
 まず,均田法は北魏によって創始されました。(参考魏・蜀・呉→西晋五胡十六国北魏)。北魏では穀物を栽培させる一代限りの土地(露田(ろでん)),蚕(カイコという絹の原料がとれる蛾)のエサとなる桑(くわ)を栽培させる世襲の土地(桑田(そうでん)),繊維のとれる麻(あさ)を栽培させる一代限りの土地(麻田(までん))が支給されました。奴婢(ぬひ)や耕牛(こうぎゅう)や妻にも支給されたため,奴婢や耕牛,妻をたくさん持っていれば持っているほど土地の支給があるということになり,大土地所有者(豪族)に都合のいい制度のようにも見えます。しかし,実際には北魏は三長制【本試験H15宗族とは関係ない】【中央文H27記】によって豪族支配下にあった奴婢に戸籍を与えていき,土地を与えることで,国家の管理下に置こうとしたのです。
 隋の時代には奴婢・耕牛への支給がなくなり,唐の時代には妻への支給もなくなります。

(2)租調庸制
 租調庸制は,魏の屯田制を受け継いだ,西晋の占田・課田法(詳しい実施内容は不明)に由来しています。

(3)府兵制
 府兵制は,西魏の府兵制が元になっています。(参考北魏東魏西魏北斉北周)

(4)科挙
 さらに,魏【本試験H11呉ではない】のはじめた九品中正(九品官人法) 【本試験H3武帝の始めた制度ではない,本試験H11】【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】【追H29】の制度は,地方に中正官を派遣し,人材の将来性を見込んで9段階にランク付けし,中央に報告するものでした。しかし,だんだんと中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れるようになり,意味のないものになっていました。
 そこで,隋【追H29元ではない】は九品中正に代えて,科挙(当初は「選挙」と呼ばれた) 【本試験H11】【本試験H18殿試は実施していない】【名古屋H31実施目的も問う(記述)】を実施し,ペーパー試験によって儒学の素養をためすことにより有能な人材をとろうとしました。統一試験によって,地方分権的なしくみを中央集権的なしくみに変えようとしたのです。科挙では詩を作る能力や文を書く能力が重んじられました。詩をつくらせれば韻(いん)を踏んでいるかどうかで,漢字を正しく読めているかがわかりますし,内容が五経(ごきょう)などの古典に基づいた文を書かせれば,それを正確に覚えているかがわかります。広大な領土を支配する官僚にとって,話し言葉は違えど共通の文字である漢字による文書管理能力が,何よりも求められたのです。


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 〈文帝〉の子は,〈煬帝〉(ようだい(楊広(ようこう)) 【追H24高句麗に遠征し攻撃したか問う】,在位604~618) 【セA H30漢の建国者ではない】です。彼は各地で掘削されていた運河を連結し大運河(だいうんが)【追H26漢代ではない】【本試験H9,本試験H12始皇帝による政策ではない】【本試験H19明代ではない,H29地図が問われる,H29共通テスト試行 時期は唐末五代(755~960)ではない】を整備し,江南【追H26】と華北【追H26】を結合させました。大運河の建設は,この時期に物流の流れが“東西”から“南北”に移動していったことが背景にあります。つまり,季節風交易の確立にともなって,ユーラシア大陸全体の物流の流れが,陸上輸送から海上輸送に変化していったわけです。中国南部の港町に効率的にアクセスするために,中国を南北に貫く大運河が求められたのです。
 また,長江下流の江南(こうなん)は,呉【追H25】が都を建業に置いて以来,東晋~陳の建康を通して開発がすすみ,経済の一大中心地へと重要性が増していたのです。彼は長江下流の江都(現在の揚州)に,大規模な龍舟(りゅうしゅう)という船にのって視察し,力を見せつけたといわれます(◆世界文化遺産「京杭大運河」,2014)。

 〈煬帝〉は対外的には,南はヴェトナム南部のチャンパー(林邑) 【東京H30[3]】【共通一次 平1】,西は西域への入り口周辺を支配していたチベット系の吐谷渾(とよくこん)に遠征し,北は東突厥の可汗に大して大規模な訪問をするなど,軍事力と派手な儀式で周辺民族のいうことをきかせようとしました。また,倭は彼のもとに遣隋使を派遣しています。
  しかし,大運河(永済渠(えいさいきょ)【H27京都[2]問題文】)を現在の北京(?(たく)郡(ぐん)【H27京都[2]問題文】)に向けて開削しつつ3度にわたって実施した高句麗遠征【本試験H17】【本試験H7百済ではない】【追H24】【H27京都[2]】(612,613,614)は大失敗に終わり,それをきっかけに反乱が起きました。反乱には〈煬帝〉の側近の一族や将軍らも加わり、各地で火の手が上がります。また北方の突厥南匈奴の勢力も迫っていました。


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 〈李淵〉はもともと孫に跡を継いでいましたが,その孫から禅譲される形で,〈李淵〉は618年に唐を建国【本試験H17軍機処は設置していない】。煬帝に対して「煬」(“天に逆らい,民を虐げる”という意味)という字を付けた諡号(しごう,おくりな)を贈ったのは,勝者である〈李淵〉です。〈李淵〉も隋と同じく鮮卑系のルーツを持っており,皇帝支配に正統性を持たせるため,漢人の王朝としての意識を強めていきます。

 唐の都は隋の大興城をほぼそのまま引き継ぎ,長安【追H25鎬京ではない,H27大運河と黄河の接点ではない】【本試験H22地図】に置かれました。東西(左右)【本試験H16南北対称ではない】対称に碁盤の目状に街路が配置され【本試験H22】、その構造は周辺諸国に模倣されました【追H25】。周辺諸国からさまざまな民族の商人・留学生・芸人【本試験H6】が訪れる国際的な都市でした。

 長安には多数の仏教寺院【本試験H16】のほかに,エフェソス公会議(431年) 【京都H20[2]】【本試験H25】で異端となったネストリウス派キリスト教(景(けい)教(きょう)と呼ばれました【本試験H5ヒッタイトの宗教ではない】【本試験H21拝火教ではない,本試験H30】)や,イランの民族宗教であるゾロアスター教(?教(けんきょう,拝火教【本試験H14】【追H29中国からイランにつたわったのではない】)と呼ばれました),さらに,その異端であるマニ教(摩尼教) 【本試験H12中国に影響が及んだか問う】【追H30】の寺院も立ち並んでいました。
 651年にイラン高原のササン(サーサーン)朝が滅亡すると,イラン人が難民となって唐に移住し,ゾロアスター教【追H29中国から伝わったのではない】を始めとするイランの宗教・文化や,保護されていたネストリウス派が中国に流れ込むとともに,政治家としての手腕を発揮する者も現れました。なお,この時期に流行した,馬にのってボールを打つ「ポロ」(ポロシャツはポロの競技のときに着る服がもと) 【追H28これが都で流行したのは明(みん)代のことではない】もイラン【追H28】由来です。こうした西方の人々は「胡人」【本試験H6】と呼ばれ,その風俗が流行しました。

 イラン系の言語を話すソグド人【本試験H4】【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】が,シルクロード各地に拠点をつくり,遠く長安まで商業活動を展開していたことも重要です。
 彼らは当初はゾロアスター教を信仰し,のちマニ教に改宗する者が増えました。ソグド人は子どもの手にニカワ(動物由来の接着剤)を握らせ(お金がくっつくように),甘い言葉が出るように氷砂糖をなめさせたという言い伝えが,『旧唐書』(くとうじょ)にあります。のちに唐に対して安史の乱【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】を起こす〈安禄山〉(あんろくさん) 【本試験H7】は,父がソグド人の有力者で,母は突厥でした。
 ほかにも,イスラーム商人【本試験H4】も多数往来し,東西交易に従事しています。

 唐の時代には唐三彩(とうさんさい)【本試験H24彩陶,染付,黒陶ではない】という陶器がさかんに作られましたが,ソグド人がラクダの上に乗っているデザインが有名です。


食生活の面では、都市でうどんなどの粉食が普及し、農業用の灌漑用水を動力とする大規模な石臼を用いた製粉事業(碾磑(てんがい))がさかんとなり、王族・大寺院・富裕な商人が担い手となりました【追H26リード文、唐代に華北で小麦栽培がさかんになったか問う(正しいが難問)】。

 さて,7世紀前半といえば,610年にアラビア半島イスラーム教が生まれます。イスラーム教は商業活動を肯定し,多くのムスリム商人が中国にも海路でなだれこみます。とくに長江よりも南にある,揚州(ようしゅう。長江の下流)や広州(こうしゅう。中国の南部。長江の下流,大運河の南端に位置する杭州【東京H8[3]】という,日本語だと同じ読みの都市もあるので注意)のような港町には,アラブ人の居住地(蕃坊(ばんぼう))が設置されるほどでした。ちなみにモスクのことを清真寺(せいしんじ)といいます。


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二代目の〈太宗〉(李世民,在位626~649) 【追H27李成桂ではない】【本試験H4】は,626年に玄(げん)武門(ぶもん)の変というクーデタで兄を殺害,一代目の〈李淵〉(高祖)を閉じ込めてに皇帝に即位した人物。やってることは隋の〈煬帝〉とたいして変わらないですね。しかし,〈太宗〉の治世は,後世の歴史家が「いい時代だった」と絶賛する時代で,『貞観政要』(彼の言行録)によれば,「貞観の治(じょうがんのち)」【本試験H4太宗の治世か問う】【本試験H21開元の治ではない・時期】とうたわれます。逆にいえば,即位時の埋め合わせを“良い情報”を後世に残すことで穴埋めしようとしたようにもみえます。


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いまだ周辺諸国が不安定だったこの時期に,出国の禁止を破って「本当の経典を手に入れる!」という野望のもと,629年にインドに旅立ったのがのちに“三蔵法師”として知られる〈玄奘〉(げんじょう) 【セA H30】です。彼は「上に飛鳥(ひちょう)なく,下に走獣(そうじゅう)なし」と言われた過酷なゴビ沙漠を通り,天山山脈を超える際には10人のうち3~4人を凍死で失ったものの,なんとかアフガニスタンを回ってインドに入ることができました。
 インド【セA H30ビルマではない】のヴァルダナ朝では〈ハルシャ=ヴァルダナ王〉(位606~647) 【東京H8[3]】に謁見し,ナーランダ大学(僧院。ナーランダとは“蓮のある所”という意味) 【本試験H17墨家とのひっかけ】【追H20ジャワにはない,H25教義研究が行われたか,H30仏教が研究されたか問う】でも学びました。彼の学んだ「唯識」(ゆいしき)という仏教思想は,日本にも伝わり,奈良の薬師寺が継承しつづけています。彼の旅行記大唐西域記』【本試験H12義浄の著書ではない】【大阪H30史料】(だいとうさいいきき)は,かつて仏教が栄えたアフガニスタンバーミヤンを含む当時の様子が生き生きと描かれた,一級の史料です。

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三代目の〈高宗〉(こうそう,在位649~683) 【本試験H17徽宗とのひっかけ】は,積極的な対外進出により最大領土を獲得した皇帝です。


 朝鮮半島で唐【京都H21[2]】は,新羅【京都H21[2]】の〈武烈王〉と同盟して,663年に百済【本試験H21滅亡時期】【本試験H7】,668年に高句麗【京都H21[2]】【本試験H17,本試験H21滅亡時期】を滅ぼしました。日本は,百済を救援するために663年に水軍を派遣しましたが,白村江(はくすきのえ,はくそんこう)の戦いで敗北してしまいます【本試験H20唐は敗れていない】【追H19時期】。唐は,新羅朝鮮半島で強い勢力を維持したことから,日本へのさらなる攻撃は行いませんでした。
 日本は,唐が再び襲ってこないように防衛拠点を築きつつ,天皇を中心に国内の集権化に集中するようになっていきました。唐の進出に備え,中国東北部新興国渤海【追H21中国が元の時代ではない】や新羅【本試験H7】は,日本に使節を派遣しています。

 唐は,征服した先に「都護府(とごふ)」【本試験H6理藩院ではない】【追H18】【京都H20[2]】を設け,その地の支配者にいわば中国の「官吏」として支配を任せる間接統治をとりました。これを羈縻(きび)政策といいます。羈は馬の手綱(たづな)・縻(牛の鼻につなぐ綱)を指し,家畜を縄でつないでおくという意味です)。
 〈高宗〉の時代にインド【本試験H21グプタ朝ではない】にわたった仏僧は,〈義浄〉(ぎじょう,635~713) 【本試験H3史料中の「帆を挙げて」というところから,陸路で向かった〈玄奘〉ではなく〈義浄〉であると判断する】です。
 彼がインドに入った時点で,すでにヴァルダナ朝は分裂していました。帰路はスマトラ島に寄って,シュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】のパレンバンという都市で大乗仏教上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】の理論を研究しています。行き帰りともに陸路だった〈玄奘〉と違って,〈義浄(ぎじょう)〉【本試験H27仏図澄ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】は行きも帰りも海路です。旅行の様子は,『南海寄帰内法伝』(なんかいききないほうでん) 【本試験H12『大唐西域記』ではない】【本試験H27】にまとめられています。
 彼ら渡印僧(といんそう。インドに渡った僧侶)の活躍によって,仏教の原典を主体的に中国人が訳し直したことで,だんだんと仏教に中国的な要素が入り込んでいくようになります。
 そうしてできていったのが,念仏を重んじる浄土宗(すでに東晋の〈慧遠〉(えおん,334~416)が白蓮社(びゃくれんしゃ)を開いていました)や,坐禅を通した瞑想(めいそう)を重んじる哲学的な禅宗【本試験H18中国に伝えられたわけではない,H21時代を問う】であり,ともに日本の仏教にも大きな影響を与えました。

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中央には中書・門下・尚書の三省(さんしょう)が置かれ【本試験H19前漢武帝の代ではない,時期(漢代ではない)】【追H21秦ではない】,それぞれ各2名の長官,合計6人が宰相に就任します(のち尚書省の長官は,特別に任命されたときのみになりました)。宰相にまで上り詰めることができるのは,ひと握りの門閥貴族です。彼らがいなければ,大多数の官僚を動かすことは難しいわけで,皇帝も彼らの意見を無視できなかったわけです。
 尚書省(しょうしょしょう)の下に吏・戸・礼・兵・刑・工(り・こ・れい・へい・けい・こう)の六部(りくぶ) 【本試験H31時期(漢代ではない)】 【追H21時期(秦代ではない)】が設けられました。科挙を実施するのは礼部でしたが,吏部(りぶ)は吏部試という二次試験において「誰を官僚にするか」を決める権力(人事権)を持っていたので,門閥貴族の根城になります。
 三省と六部はあわせて三省六部【追H27前漢のときではない】【本試験H4】と呼ばれます。

 なお,これらの活動を監察(チェック)するのが,御史台(ぎょしだい)の役目です。
 詔勅(しょうちょく)をつくるのは中書省【本試験H24清朝は設置していない】でしたが,門下省にはその案をボツにする権利(封駁(ふうばく)権)がありました。

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 もちろん官僚になるためには科挙に合格することが必要でした。科挙のために,〈孔頴達〉(くようだつ,こうえいたつ。574~648) 【本試験H7】【本試験H17,本試験H27】【追H19董仲舒とのひっかけ】らが『五経正義』(ごきょうせいぎ) 【本試験H7】【本試験H14韓愈らによる編纂ではない,本試験H17リード文,本試験H27仏国記ではない】【追H19】という五経の注釈書をつくりました。五経の解釈のスタンダードを示した【本試験H7】,いわば教科書です。また,試験科目に詩作があったことから,漢詩が流行します。

・“詩仙”(しせん)とよばれる〈李白〉(りはく,701~762) 【本試験H8則天武后の時代ではない】は一時〈玄宗〉につかえましたが,のちに皇子の側についたため反乱軍として流罪となりました。
・“詩聖”(しせい)とよばれる〈杜甫〉(とほ,712~770) 【本試験H8】【本試験H17孔頴達とのひっかけ】【セA H30】
・〈白居易〉(はくきょい(白楽天(はくらくてん)),772~846) 【本試験H3長恨歌の作者か問う】


 自然詩人としては〈王維〉(おうい,701?~761(注))【本試験H17南宋ではない】【慶文H30記】が有名で,水墨画にも優れ南宗画(なんしゅうが)(文人画) 【追H30秦代ではない】の祖とたたえられています。もいずれも唐が傾いていく時期にあたるのですが,いずれも暗い現実を,見事な芸術に高め,人々の共感を呼んだ人物です。
 また,古文を復興【本試験H17王朝,H31四六駢儷体ではない】した〈韓愈〉(かんゆ)【本試験H17王朝・H22,H31】や〈柳宗元〉(りゅうそうげん)【本試験H17王朝】【追H19】の文章も,人気を博しました。


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唐の支配下にあった人々は,土地の支給を受けることができる良民と,誰かの支配を受けている賤民(せんみん)に分けられていました。税の負担があるのは良民のみです。
 税の種類としては,穀物税(租),布の税(調),さらに庸【本試験H7明代ではない】という強制労働がありました(都で年に20日働き,故郷で年に40日働くことになっていました。地方での労働を雑徭(ぞうよう)といいます)。土地のうち,穀物(粟(ぞく))を植えた土地(口分田(くぶんでん) 【本試験H8】)は死んだら国に返還することになっています【本試験H8世襲はされない】。しかし,麻畑・桑畑は永業田(えいぎょうでん)といい,息子に世襲できました。ほかにも,府兵制によって徴兵を受けたり,国境地帯の警備(それぞれ衛士(えじ)と防人(ぼうじん))の任務を義務付けられたりしていましたが,兵役のある者は租調庸は免除です。それでも,大切な人手を兵役にとられてしまうのは,痛手です。

 だったら,貴族の私有地(荘園)で小作人(佃戸(でんこ) 【本試験H8宋代かどうか問う】【追H19両班ではない】)になったほうがいいと,逃げ出す者も出てくる。それに,国にもらわずに,自分で土地を開墾して新興地主(形勢戸(けいせいこ) 【本試験H8時期(11世紀には「新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていた」か問う)】)となる者もいました。この動きは宋代にかけて,特に生産力の上がった長江流域の江南(こうなん)で見られるようになっていきます。
周辺諸国は,中国と対抗関係や協力関係を結びつつ,程度の差はあるものの,中国の文化的な要素をしだいに受け入れていくことになりました。例えば,文字としての漢字,宗教としての仏教・道教,国家の制度としての儒教律令制度(刑法の律【本試験H4】,行政法の令【本試験H4】,追加規定の格【本試験H4】,施行細則の式【本試験H4】)のことです。この時期に成立した,唐を中心とする中国の文化を通した結びつきを共有する地域のまとまりのことを,東アジア文化圏といったりします。


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モンゴル高原【本試験H4西アジアではない】では,テュルク系の突厥(552~744年) 【本試験H4】が隋~唐中期までさかんでした。オルホン碑文とまとめて呼ばれる石碑群には,遊牧騎馬民族の使用したものとしては最古【共通一次 平1】の文字 突厥文字【共通一次 平1:鮮卑文字,ウイグル文字ではない。匈奴文字はない】【本試験H15内陸ユーラシアの遊牧騎馬民族としては最古の文字かを問う(ウイグル文字ではない)】が残されています。アラム文字が起源と考えられてきましたが,文字系統は不明です。

 突厥は6世紀末に東西に分裂してすいた衰退し,同じくトルコ系のウイグル(回?,744~840年) 【本試験H4西トルキスタンに国家を建てていない・中国を征服していない】【京都H20[2]】の支配下に入ります。ウイグル【本試験H20烏孫ではない】は840年にキルギス(キルギズ) 【京都H19[2]】【本試験H14・H24】に敗れて西に移動し,タリム盆地を拠点としました。
 ウイグルは,安史の乱【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】に介入したときにマニ教【本試験H9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】を信仰するようになりましたが,その後イスラーム教→仏教→イスラーム教と,何度も信仰を変えつついまに至ります。現在でも中国北西部で自治が認められていて人口は1,000万人以上もいます(スウェーデンよりも多い)。

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このように7~8世紀の騎馬遊牧民のさかんな活動は,西方の南ロシアでも同じでした。西方ではアヴァール人(のちにカール大帝が撃退しました) 【本試験H21 世紀を問う、本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】やトルコ系ブルガール人【セ試行】がビザンツ帝国を圧迫しています。またハザール人は黒海北岸に建国し,イスラーム勢力がカフカス山脈を超えて北上をするのを防ぎました。

 長江上流の雲南(うんなん)【本試験H4チベットではない】地方では,チベット=ビルマ系の南詔(なんしょう,?~902) 【本試験H4】が唐の文化を導入して栄え,朝鮮では新羅が同様に栄えました【本試験H11:新羅では活版印刷は実用化されていない】。新羅は仏教を保護し【本試験H19仏教は朝鮮王朝時代に伝わったのではない】,慶州(けいしゅう)【本試験H22高麗の首都ではない,H27現在のソウルではない,H30】に仏国寺【本試験H20新羅の時代か問う,H30】が建立(こんりゅう)されました。律令制を導入しましたが,実際に支配階層にあったのは骨品制(こっぴんせい) 【追H28陳朝ではない】【本試験H16北魏ではない,セ18唐代ではない,本試験H22朝鮮王朝ではない,本試験H30】にもとづく高い家柄の氏族でした。

 唐に滅ぼされた高句麗の遺民〈大祚栄〉(だいそえい,大祚榮) 【京都H20[2]】【本試験H30〈衛満〉ではない,H31高麗を建国していない】が,中国東北地方に建国したのは渤海(ぼっかい,698~926) 【京都H21[2]記述(建国の経緯を説明)】【追H19時期,H21時期(中国が元の時代ではない)】【本試験H31高麗ではない】です。渤海使という使節を34回も日本におくり,律令制を導入し中国の長安をモデルにした都を建設するなどして栄えました【追H27渤海都城構造に影響を与えたか問う】。
 渤海新羅との対抗関係から,日本との同盟関係を求めたのです(日本の敵=新羅新羅の敵=渤海。日本の“敵の敵”(=渤海)は味方)。都は5つありましたが,最も栄えたのは上京龍泉府【追H27「上京竜泉府」】【慶・法H30】です。

 東南アジアのうち,メコン川中流カンボジア,現在のヴェトナム中・南部に位置する港市国家チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】,義浄の立ち寄ったシュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】も,中国に朝貢しています。


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 ほかにも,〈玄宗〉【慶文H30記】の厚い信任を得て,安南都護府で働き,安南節度使にまで登りつめ,帰国を希望しながらも中国で亡くなった〈阿倍仲麻呂〉(あべのなかまろ,698~770) 【慶文H30記】も,故郷である奈良を思う歌(天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも)とともに有名です。

 

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690年に自身が〈則天武后〉(そくてんぶこう、在位690~705)【本試験H4則天武后以来の混乱をおさめたのが玄宗か問う,本試験H8】【本試験H15,H29共通テスト試行 西太后ではない】【追H18】として皇帝に就任しました。みずからを弥勒菩薩の生まれ変わりとして,各地に大雲(だいうん)経(きょう)寺を建てる鎮護(ちんご)国家(こっか)政策をとります(この影響が日本の〈聖武天皇〉による国分寺の建立政策です)。龍門の石窟にある毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)は,このとき彼女に似せてつくられたといわれています。
 国号を「周」【本試験H4新ではない,本試験H8】【本試験H15,本試験H28新ではない,H29共通テスト試行】【立教文H28記】としたため,「唐」は一時滅亡しました。


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 この激動の時期を目の当たりにした〈睿宗〉の子,〈李隆基〉(りりゅうき,玄宗。在位712~756年) 【本試験H4】【本試験H15】【追H25】は,712年に即位すると,混乱した政治の立て直しを図りました。彼の治世の前半は,実態はともあれ後世の歴史家によって“開元の治” 【本試験H6同治中興ではない】と讃えられています。世界的に温暖な時期にあたる当時,唐では長安を中心に国際色豊かな文化が展開されました。彼に仕えた山水画家に“画聖”とも称される〈呉道玄〉(ごどうげん)【本試験H17孔頴達とのひっかけ】【追H20「唐の時代…山水画を描いた」か問う】がいます。

 一方,制度の崩壊もはじまっていました。
 均田法により土地を与えられた農民の中には,税を逃れるために逃げ出すものも現れていました。すると租調庸制による税の取り立てがままならなくなるだけでなく,府兵制による徴兵もできなくなります。そこで〈玄宗〉【本試験H15前漢武帝ではない】【追H25】は傭兵をもちいる募兵制【本試験H29時期】【追H25府兵制ではない】を採用しするとともに,辺境防備を節度使【追H21秦代ではない】【本試験H15】にまかせました。節度使には,中央ユーラシアの広範囲で交易活動をしていたソグド人も任命され,ソグド人も各地に設置された植民市どうしの活動を唐に保障され,活発に活動していました。
 しかし〈玄宗〉は,62歳のときに息子の妃を取り上げて“貴妃”とした〈楊貴妃〉(719~756,このとき27歳) 【本試験H15】【立教文H28記】に夢中になるあまり,彼女の一族による政治への介入を受けるようになります。
 また,突厥ウイグルによって襲われるようになり,またソグド人の本拠地がイスラーム軍による進入 (751年にはタラス河畔の戦い【セ試行】で,唐【セ試行ササン朝ではない】【本試験H14ウイグルではない】【追H30唐ではない】【立教文H28記】【慶商A H30記】がアッバース朝【本試験H14ウマイヤ朝ではない】に敗北しています) を受けるようになると,今まで中央ユーラシアで力を持っていた遊牧民突厥と,商業民のソグド人の立場が揺らいでいました【本試験H5中央アジアのオアシス都市の住民が,アラビア語を話す人々になるのは,この頃からのこと】。

 そんな中,ソグド人の父と突厥人の母をもつ節度使の〈安禄山〉(あんろくさん,705~757) 【本試験H7東北地方東部の震国の人物ではない】と武将の〈史思明〉(ししめい,?~761)とともに,中央ユーラシアの突厥人やソグド人を集め,唐から独立しようとする安史の乱(755~763年) 【本試験H4ウイグルが鎮圧したか唐・〈玄宗〉が退位するきっかけではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】【本試験H14,本試験H15黄巣の乱ではない,本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H29共通テスト試行 年代(グラフ問題)】が起こされました。

 これには唐の軍事力だけでは鎮圧しきれず,遊牧騎馬民族ウイグル【本試験H4】【本試験H14,本試験H21月氏ではない,本試験H23】【セA H30春秋・戦国時代に勢力拡大したわけではない】に鎮圧を要請するほかありませんでした。書家で有名な〈顔真卿〉(がんしんけい,709~785)【本試験H21宋代ではない】【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】も義勇軍を派遣しています。


 ウイグルの支援によってようやく反乱を鎮圧できた唐を見て,「なんだ,唐なんてたいしたことないじゃないか」と,節度使たちが唐から独立する勢いをみせるようにもなります。特に,中央のいうことをきかなくなった節度使のことを,藩鎮【本試験H8則天武后の時代ではない】【本試験H17春秋戦国時代ではない】といいます。


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また,安史の乱が起きると,チベット人吐蕃(とばん)も長安に進出し,占領しました。9世紀になると,ウイグルの他部族に対する支配は弱まり,遊牧国家は崩壊します。このときの戦争で捕虜になったり,戦乱を逃れて傭兵となったりしたトルコ人は,西アジアに流れ込んでいき,奴隷軍人(マムルーク) 【追H27アイユーブ朝で用いられたか問う、H28ウマイヤ朝で採用されたわけではない】としてイスラーム世界で活躍することになっていきます。
 ウイグルは,同じトルコ系のキルギス【京都H19[2]】に敗れると,タリム盆地に移動しました。これ以降のタリム盆地トルコ語【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】が広まったためトルキスタンと呼ばれるようになります。
 均田法により土地を与えた農民から税をとる仕組みは,すでに破綻していました。そこで「あげたはずの土地に農民がいないというのだから,もう仕方がない。現に土地を持っている人から,その資産に応じて税をとるしかない」と考え,宰相〈楊炎〉(ようえん)【本試験H16,本試験H26司馬光ではない】によって780年に両税法【共通一次 平1】【本試験H7明代ではない】【本試験H16,本試験H24時期,H26・H30,H29共通テスト試行 春秋戦国時代後漢代ではない】が租庸調制【本試験H16基になった均田法が始まったのは北斉代ではない,本試験H26】に代わって採用されます。徴税は夏・秋の年2回で,現住地の資産【共通一次 平1:人頭税ではない】に対して課税されました。これにより,余剰生産物が商品として売買されるようになり,商業の発達を促しました。

 


●朝鮮
しかし今度は新羅【本試験H4】【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)】が唐の勢力を朝鮮半島から排除しようとし,676年に唐を破って半島を統一し,安東都護府も北に移動させました(新羅朝鮮半島統一【追H18時期】)。
 朝鮮半島を統一した新羅は,唐との関係維持に努め【本試験H4】,律令制【本試験H4】や儒教の思想を取り入れつつ伝統的な官制をアレンジし,官位制を整備しました。これにより百済高句麗の支配層を,新羅中心の官僚体制に取り込んでいったのです。

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新羅は初期の頃は唐への対抗の必要から倭との外交関係を重視していましたが,8世紀に唐が衰退し,沿海州に震国【本試験H7】(渤海(ぼっかい) 【本試験H7】)が建国されると日本との関係は悪化していきました。
 震国【本試験H7】(渤(ぼっ)海(かい))は高句麗の遺民で粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)部に属する〈大祚栄〉(テチョヨン;だいそえい) 【本試験H7安禄山ではない】が唐に反乱を起こし,現在の中国吉林省に698年に建てられた国家です。指導者は「渤海郡王」として,唐によって冊封(さくほう)されました。
 都は現在の中華人民共和国黒竜江省寧安市に位置する上京龍泉府【追H27「上京竜泉府」】【慶・法H30】におかれ,各地の重要ポイントに5つの都が置かれました(一時,そのうちの中京・東京に拠点をうつしています)。

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隋の時代,604年にハノイに交州総管府が置かれ,唐も622年に同盟の政庁を置きました。679年には安南都護府【本試験H6現在でも大乗仏教道教儒教が入り混じった宗教が広く信仰されているか問う】が設置され,東南アジアの特産物を中国にもたらす上で,きわめて重要な役割を果たしました。
しかし,8世紀後半になると,マラッカ海峡を握るシャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】やシュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19仏教国か問う】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】の勢力が伸び,安南都護府も攻撃を受けたと見られます。
 また,雲南【本試験H4チベットではない】地方の南詔【本試験H4】【本試験H16・本試験H18大理に代わって南詔がおこったわけではない】の勢力が伸び,国王〈異牟尋〉(いぼうじん)は,ベンガル湾に進出するためにビルマのモン人のピュー王国を攻撃,メコン川流域に進出するためにクメール人の陸真臘【本試験H11:マレーシアの国家ではない】を攻撃するようになります。

 中南部共通一次 平1】のヴェトナムでは,チャンパー(林邑) 【東京H30[3]】【共通一次 平1】が強盛を誇っていましたが,8世紀後半になると,南部を拠点とする港市に勢力が移り,それにともない中国側の呼び名も環王に変化しました。この時期にメコン川を下って南シナ海に進出したクメール人の国カンボジア(中国名は真臘(しんろう) 【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】)と結ぶためと考えられます。


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マラッカ海峡ルートの繁盛にともない,島しょ部では,ジャワかバリには婆利という国が,スマトラ島パレンバンにはマラユ国がありました。大陸部にはヴェトナム中部の林邑(りんゆう),メコン川中流クメール人上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】によるカンボジア(中国名は真臘(しんろう)) 【本試験H11:マレーシアの国家ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】がありました。


また,670年にはマレー半島東岸で室利仏逝(しつりぶっせい,シュリーヴィジャヤ王国)国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が栄え,マラユ国を2万以上の軍で滅ぼし,パレンバンを奪いました。シュリーヴィジャヤはサンスクリット語ですから,インドの文化を取り入れていることがわかります。当時の島しょ部では,上座仏教が主流であった中,王は大乗仏教をあつく保護し,観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像が出土しています。この頃687年に中国の唐【本試験H22前漢の時代ではない】の仏僧〈義浄〉(635~713) 【本試験H19,H23】が,シュリーヴィジャヤ王国に占領されたばかりのパレンバンを訪れます。彼は694年までパレンバンに滞在し,インド式の教育方法で1000人以上の僧侶とともに学問に打ち込みました。このことは『南海寄帰内法伝』(なんかいききないほうでん)【本試験H12『大唐西域記』ではない】に記されています。
 シュリーヴィジャヤ朝は,8世紀後半から9世紀後半まで,ジャワの訶陵(かりょう)による支配を受けました。おそらくジャワ島のシャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】のことだと考えられます。


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シャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】も大乗仏教を保護し,ジャワ島【東京H24[3]】【本試験H20地図】【本試験H22マレー半島ではない】にボロブドゥール【東京H24[3]】【共通一次 平1:時期】【本試験H6,本試験H9[19]図版・アンコール=ワットとのひっかけ,ヒンドゥー教イスラム教の寺院ではない】【本試験H16イスラーム教徒の寺院ではない,本試験H18,本試験H20地図,本試験H22】【H30共通テスト試行 インドネシアか、大乗仏教の寺院か問う】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】という巨大建築物を残しています【本試験H28ヒンドゥー教の寺院ではない】。
 なんのために作られたのかははっきりとしていませんが,9層のピラミッド状の建造物(高さ42m,底辺の長さ120m)で,たくさんの仏塔(ストゥーパ)が備え付けられています。仏教の世界観を立体的に表現し,王の権威を示そうとしたと考えられます。

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 タイでは6~7世紀から11世紀頃まで,モン人【追H25ビルマ人ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】によるドゥヴァーラヴァティー(ドヴァーラヴァティー)王国【追H25ビルマ人の国ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が,海上交易によって栄えていました。
 タイのアユタヤ北方にあるロッブリーでは,スリランカに由来すると見られる上座仏教【本試験H6タイで広く上座仏教が信仰されているか問う】関係の遺物が見つかっています。ただ「王国」といっても,いくつかの権力者がそのときどきに応じて支配範囲を伸縮させるような状態であったと考えられています。

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南インドにも地方国家が立ち並び,海上交易がさかんにおこなわれました。南インドでは大規模なヒンドゥー教寺院を建設し,その権威をもとに農業開発・海上交易を推進するチョーラ朝【本試験H31】のような国家も栄えます。

 商業が衰退するにつれ,農村を中心とする分権的な社会が生まれていきました。それに合わせてこの時期には,上から3番目のヴァルナであるヴァイシャは,商人のヴァルナとなり,農民や一般の庶民はシュードラに位置づけられるようになりました。代わって,5番目のヴァルナとして不可触賎民への差別が強まりました。各ヴァルナの中には,「生まれを同じくする集団」という意味の「ジャーティ」【本試験H26ヴァルナ制度ではない】が無数に形成されていきました。のちに南アジアにやって来るポルトガル人は,ジャーティのことをカーストと呼んだことで,ヨーロッパ人はこの制度のことをカースト制度【セA H30メソポタミアの制度ではない】と呼ぶようになりました。


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このうち,現在のデリー北方のプシュヤブーティ朝の王族だった〈ハルシャ〉(位606?607?~646?647?) 【追H24】【東京H8[3]】が,北インドを統一【追H24南インドではない】し,ヴァルダナ朝【追H24】【大阪H30 629年頃のインドの王朝】を建てました。彼はシヴァ神を信仰していましたが,仏教も保護していた様子は,彼に謁見した中国(唐【本試験H19】)の僧〈玄奘〉(600?602?~664)【本試験H12玄奘は「上座部の開祖」ではない】の『大唐西域記』に書き留められています【本試験H12義浄の著書ではない】【本試験H19時期,本試験H20玄奘が訪問したか問う】【大阪H30史料】。彼は首都のカナウジを中心にガンジス川の上・中流域を直轄支配とし,それ以外の諸王は諸侯として,地租と貢納を取り立てました。グプタ朝よりも,さらにゆるやかな支配方式です。

先述のように,〈ヴァルダナ王〉と謁見した中国(唐【本試験H19】)の仏僧に,法相宗(ほっそうしゅう)の開祖〈玄奘〉(げんじょう,600?602?~664) 【本試験H12】 がいます。『西遊記』では女性の三蔵法師(さんぞうほうし)として描かれていますが,実際には男性です。629年にインド【本試験H12インドで学んだかを問う】に向けて出発し,645年に帰国。多数のお経を唐に持ち帰り,漢訳をおこないました【本試験H12「上座部の開祖」ではない】。「漢訳されたお経には間違いがあるおそれがある。インドの言葉で書かれた本当の経典が見てみたい」という強い思いがあったのです。


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それに対し,726年に東ローマ帝国イウサロス朝の創始者〈レオン3世〉(在位717~741,教皇レオ3世とは別人) 【追H27ウラディミル1世ではない】【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18,H31】が聖像禁止令【東京H7[1]指定語句】【追H27】【本試験H18,H31レオン3世の発布か問う】を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会とローマ教会との間のケンカにエスカレートする…(聖像崇拝論争)というのが、従来よく語られてきたストーリーです。

 そもそも東ローマ帝国の皇帝は,コンスタンティノープル【追H19ビザンツ帝国はラテン帝国の占領を除き遷都していない】のキリスト教教会(正教会)を保護し,そのトップである総主教(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられていました。

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ビザンツ帝国とササン(サーサーン)朝が抗争を繰り広げた影響で,陸上ルートが廃(すた)れ,代わってアラビア半島を南に回る海上ルートが栄えました。すると,ペルシア湾に面するアラビア半島のメッカ【本試験H27】(アラビア語ではマッカ)が,沙漠をラクダで超える隊商(キャラヴァン)【本試験H27】の拠点となり商業都市として栄えるようになりました。
 当時,交易の拠点となっていたメッカの部族クライシュ族【H29共通テスト試行 家系図】に,〈ムハンマド(本人の名)=(イ)ブン(~の息子という意味)=アブドゥッラー(父の名)=ブン=アブドゥルムッタリブ(父の父の名)〉(570?571?~632(注1)) 【本試験H12「イスラム教」の「開祖」かを問う】という男性がいました。アラブ人(注2)を含むアフロ=アジア語族セム語派の人々は「父系」といって,父方の血のつながりを大切にしてきたので,フルネームはこのような長い名前になるのです。


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啓示は彼の死後20年をかけて『クルアーン』(コーラン) 【本試験H18,本試験H25】【立教文H28記】【立命館H30記】としてアラブ人の言語であるアラビア語でまとめられることになります。「クルアーン」とは「読まれるもの」という意味です。文字の読み書きのできない者の多かった〈ムハンマド〉や信者にとっては,クルアーンは「読み上げられる」ものだったのです。翻訳は奨励されてはいますが,正式なバージョンはあくまでもアラビア語で書かれたものとされています。
 クライシュ族の大半は以前から「アッラーが世界の創造主で,最後の審判のときに人類を裁く」【本試験H24輪廻からの解脱を説いてはいない】と信じていましたから,〈ムハンマド〉の考えは突飛(とっぴ)なものではなく,彼の教えの重点は,その神の啓示がついに“アラブ人にも”もたらされたのだ,という点にありました。クライシュ族がまずおこないを改め,神の定めに従って平等な社会をめざして社会改革をするべきであり,そうでなければ社会は滅んでしまうと訴えたのです。彼の伝えた教えはやがてイスラーム(唯一神アッラーへの服従という意味)と呼ばれるようになります【本試験H18一神教かを問う】。


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 〈ムハンマド〉を通して人々に伝わったイスラームの教えには,6つの信じるべきこと(六信)と5つの行うべきこと(五行(ごぎょう))があります。六信としては,神(アッラー),天使(マラーイカ),啓典(キターブ),預言者(ナービー),来世(アーヒラ),天命(カダル)があります。五行とは,信仰告白(シャハーダ),礼拝(サラート),喜捨(ザカート),断食月(ラマダーン)における日の出から日没までの断食(サウム),メッカ【東京H20[3]】への巡礼(ハッジ) のことです。

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立場が危うくなった〈ムハンマド〉に保護の手を差し伸べたのは,622年【本試験H2年号】にメッカ北方のオアシス都市ヤスリブ【本試験H23,本試験H25メッカではない,本試験H26地図上の位置を問う】の住民でした。当時,都市内で起きていた部族の争いを丸く収める形で指導者として迎えられ,初のウンマ【大阪H30論述:指定語句】を建設します。この出来事を,聖遷(ヒジュラ) 【本試験H2,本試験H5ジズヤではない,本試験H6】【本試験H19地図,H23内容を問う,H30】といい,イスラーム暦(ヒジュラ暦) 【追H17ムハンマドの生誕年が元年ではない,H26】では,この622年を紀元とします(注2)。部族のしがらみから逃れ,別の部族に加わった〈ムハンマド〉の行為は,部族が“全て”だった従来のアラビア半島では考えられない行為でした。


太陰暦【追H26】のため各月は新月の出る日から始まり,太陽暦の1ヶ月よりも短い月の周期に基づいています。


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 〈ムハンマド〉は平和的な終戦にこだわっていました。638年にメッカにハッジ(巡礼)をおこなうと宣言。巡礼者は武器を持ってはいけないことになっており,クライシュ族に狙われる危険もありましたが,これに約1000人のイスラーム教徒が同行することになりました。クライシュ族による攻撃の危険もありましたが,イスラーム教徒たちの実力を見込んだ遊牧(ベドウィ)民(ン)の支持を背景に,630年にはメッカのクライシュ族のほうが折れて〈ムハンマド〉と和議が結ばれました。630年にはクライシュ族が和議を破りますが,〈ムハンマド〉側の大軍を前にクライシュ族はメッカの城門を開き,メッカは無血征服されることになりました(注1) 【追H9アッバース朝の都ではない】。
 このとき,メッカで古くから神殿として用いられていたカアバ神殿(聖殿) 【本試験H18】【追H20ヒンドゥー教の聖地ではない】の偶像が破壊され,ここはイスラーム教の聖殿とされました。

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ムハンマド〉自身が商人であったこともあり,イスラーム教では商業が奨励されたため,イスラーム商人(ムスリム商人【追H19海上交易への進出時期】【東京H7[1]指定語句】)の活動は活発化していきます。

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632年にはメッカ巡礼(ハッジ)を行った直後に,最後の預言者ムハンマド〉が亡くなると【本試験H23ヒジュラとは関係ない】,彼に男子の跡継ぎがいなかった(3男4女のうち,3人の男子はいずれも亡くなっていました)ことから、信徒を誰が引き継ぐべきかをめぐって主導権争いが起きます。

 結局、〈ムハンマド〉の親友で長老であった〈アブー=バクル〉(位632~634) 【追H30バグダードを建設していない】が、自分のほうがイスラームの信仰に入ったのが早いとして、〈ムハンマド〉の移住以前からメディナにいた人々たちを説き、両者が妥協したことで分裂は回避されました。


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さらに、次の〈ウマル〉(位634~644) 【H27京都[2]】は「ハリーファ=ハリーファ=ラスール=アッラーフ」(アブー=バクル)の代理として、メディナイスラーム教徒(イスラーム教徒の男性をムスリム,女性をムスリマといいます)の間の集会で初代「正統カリフ」に選ばれます。
 〈ムハンマド〉の役目を引き継ぐ人 (カリフ【大阪H30論述:指定語句】」が選挙で選ばれました。カリフとは,「神の使徒の後継者」というアラビア語(ハリーファ=ラスール=アッラーフ)の「ハリーファ」がヨーロッパでなまった言葉です。
 信徒による選挙で選ばれた【追H9】カリフを「正統カリフ」【東京H30[3]】【追H9ムハンマドの直系の子孫ではない・アッバース朝初代~第4代までのカリフではない・異教徒の戦いで殉教した英雄ではない】【本試験H7オスマン帝国により倒されていない,本試験H12「宗教的にも政治的にも最高の権限を有していた」か問う(注)】【H29共通テスト試行 系図の読解】といい、その後〈ウスマーン〉、〈アリー〉まで続きます(注1)。

 ただ、どちらかというと〈ウマル〉は「カリフ」より「信徒の長」(アミール=アルムーミニーン)のほうを称し,軍事指揮官として「大征服」活動を本格化させていきます。
 632年のニハーヴァンドの戦い【本試験H25】【追H18、H30】でササン(サーサーン)朝【大阪H30史料:629年当時の西アジアの王朝を問う】【追H30】の〈ヤズデギルド3世〉を倒し,これを事実上滅ぼしています(サーサーン朝の滅亡)。古代ギリシア・ローマの情報の“リレー”は,ビザンツ帝国からサーサーン朝になされていましたが,ここでサーサーン朝に逃れていた古代ギリシア・ローマの系譜を継ぐ研究情報はイスラーム勢力に引き継がれていくこととなりました。

 イスラーム勢力はシリア,パレスチナを通って北アフリカにも進出し,西へと移動していきます【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】。
 シリア,パレスチナ【本試験H15時期(正統カリフ時代かを問う)】とエジプトを奪われたビザンツ帝国では,テマ(セマ)制と屯田兵制を整備するようになりました(注2)。
 征服した各地の都市郊外にはアラブ人ムスリム【追H25】によって軍営都市(ミスル) 【追H25】が建設され,ミスルごとにアミール(総督)が任命されて集団で移住が実施されました。
 征服先の都市にはたいていユダヤ教キリスト教の商人がいますから,新たに移住してきたイスラーム教の軍人との無用な対立を避けたわけです。
 ミスルにはディワーン(役所)が置かれ,登録された戦士に対して俸給(アター)が支給される仕組みでした。代表例は,イラクのバスラ(638年,〈ウマル〉により建設された),エジプトのフスタート(643年) 【東京H13[1]「エジプト史」を論じる問題。指定国は「エジプト」】,チュニジアのカイラワーン(670年)。現在イスラーム教の信仰やアラビア文字の使用がみられる地域は,この時期にアラブ人の急拡大があった所がほとんどです。

 

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混乱の中で即位した第4代カリフ〈アリー〉(位656~661) 【本試験H17】【追H20アッバース朝全盛期のカリフではない、H27ウマイヤ朝を開いていない】は,〈ムハンマド〉の父方の従弟で,〈ムハンマド〉の娘〈ファーティマ〉(606?614~632)と結婚していました。彼は混乱をおさえるためにイラクのクーファに遷都しましたが,「ウマイヤ家が正統カリフになるべきだ!」と主張する前シリア(注1)総督〈ムアーウィヤ〉(?~680) 【本試験H20インドではない】【H27名古屋[2]】【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う)、追H26アッバース朝をひらいていない,H29】が挙兵し,最後はハワーリジュ派によって暗殺されてしまいます。
 ハワーリジュ派は,はじめは〈アリー〉派だったのですが,〈ムアーウィヤ〉に敗れた後で和約を結んだ〈アリー〉を裏切り者として攻撃しました。

 一方,〈アリー〉派はシーア派【本試験H17ワッハーブ派ネストリウス派スンナ派ではない】と呼ばれるようになります(注2)。
 カリフは「イマーム」とも呼ばれ,シーア派の最高指導者は「イマーム」と呼ばれることが一般的です。シーア派では「イマーム」は〈アリー〉【H27京都[2]】の子孫が担うべきだと主張します(注3)。


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 総督の〈ムアーウィヤ〉【追H29】は,661年にシリアのダマスクス(かつてアラム人の拠点でした) 【セ試行】【本試験H2ウマイヤ朝の首都か問う】【本試験H15イェルサレムではない,本試験H19地図】【H27名古屋[2]】【追H29イベリア半島ではない】にウマイヤ朝を開き【本試験H3時期(8世紀後半ではない)】【本試験H21インドではない,本試験H25時期,H29共通テスト試行 系図の読解】【追H27アリーが開いたのではない、H28トルコ人が奴隷軍人として採用されたわけではない,H29後ウマイヤ朝ではない】,玉座(ぎょくざ)に座ってカリフを称しました【大阪H30論述:7世紀後半に西アジアに成立した帝国では,社会や国家のあり方がどのように変化したか(指定語句:シャリーアウンマ,カリフ)】。

 彼に従った多数派をスンナ派【本試験H17シーア派とのひっかけ,H29共通テスト試行 アリーの子孫が指導者と主張したのではない】と呼びます。

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イェルサレム(アラビア語ではクドゥス(聖地という意味))にある金の装飾の輝く岩のドームは,ウマイヤ朝のカリフ【本試験H15キリスト教徒ではない】により建てられました。建設地は,ユダヤ人のソロモン神殿があった場所のため,問題はゆくゆく複雑になっていきます。
 権力者は,寺院(モスク)や隊商宿(キャラヴァンサライ【本試験H30】)などの公共建築を建てるなどの寄進(ワクフ(ワクフ制度)) 【追H25・H27ワクフ(ワクフ制度)がモスクなどの宗教・公共施設の運営を支えていたか問う】をすることで,イスラーム教徒にふさわしい支配者として,人々から認められようとしました(注)。
(注)ワクフは宗教的な行為に見えて《交換を前提としたうえで,互酬を目的とし,そのパフォーマンスとして再分配の機能を果たした制度》であると見ることもできます(加藤博『イスラム世界の経済史』NTT出版,2005年,p.190)。
 ウマイヤ朝はまた,インド西部にも進出しています【本試験H3インドのほぼ全域を征服していない】。

 7世紀後半~8世紀初めには,ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを何度か包囲し,海上封鎖して襲撃しようとしましたがいずれも失敗。ビザンツ帝国が,「ギリシアの火」というアスファルトを用いた火炎放射器で,ウマイヤ朝の艦隊を焼き払ったと見られています。その秘密は長い間謎につつまれていました。

 ベルベル人立命館H30記】を主力とするウマイヤ朝【本試験H6時期(イベリア半島への進出がウマイヤ朝時代か問う)】の軍隊は北アフリカの海岸線をなぞりながら征服してイベリア半島に進出し,711年西ゴート王国を滅ぼしました【H30共通テスト試行ウマイヤ朝が征服した地図上の経路を問う(北アフリカ西部からイベリア半島に向かう矢印かどうか)】。このときの武将〈ターリク〉の上陸地点は「ターリクの丘」(ジャバル=アル=ターリク)と呼ばれ,これがジブラルタル海峡の語源になりました。

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ウマイヤ朝【追H25】【H30共通テスト試行マムルーク朝ではない】のイスラームの軍はのちに,732年メロヴィング朝フランク王国【H30共通テスト試行 マムルーク朝接触していない】の宮宰〈カール=マルテル〉【追H25】の騎兵軍によりトゥール=ポワティエ間の戦い【セ試行 メロヴィング朝の成立に重要な意味を持っていない】【東京H29[3]交戦勢力のウマイヤ朝メロヴィング朝を答える】【追H9アッバース朝ではない,H17(世紀を問う)、H25,H29ポワティエの戦いとのひっかけ】【立命館H30記】で敗れたものの,ピレネー山脈の南までを支配下におさめました。

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 このホラーサーン軍が中心になって747年にウマイヤ朝に対する武装蜂起が起こります。749年にカリフに選ばれた〈アブー=アル=アッバース〉は,750年にウマイヤ朝最後のカリフ〈マルワーン2世〉(位744~750)を倒し,アッバース朝【東京H23[1]指定語句】が始まりました。結局シーア派の指導者はカリフにつくことができず終(じま)いでしたが【追H9シーア派の教義を採用しスンナ派を弾圧したわけではない】,アッバース朝ではイラン人【追H20】が官僚に登用【追H20】され,民族間の不平等は解消されていきます。この一連の政治変動をアッバース革命といいます。

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 〈アッバース〉は内陸ユーラシアにも進軍し,751年にタラス河畔の戦い【本試験H14ウイグルは関わっていない,本試験H25時期】で〈高仙芝〉(唐につかえた高麗人の武将)率いる唐【セ試行 ササン朝ではない】とトルコ系遊牧民のカルルクとの連合軍に勝利をおさめています(唐・宋のころの中国人は,アラビア人のことを大食(タージー)と読んでいました)。唐軍が総崩れとなったのはカルルクの裏切りによります。

 アッバース朝の捕虜になった唐の紙すき職人を通して中国の製紙法【追H28活版印刷ではない】【本試験H27】【セA H30「中国からイスラーム世界に伝わった」か問う】が西方に伝わることになったといわれてきました。

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 759年にはサマルカンド【本試験H2タリム盆地のオアシス都市ではない】に,中国以外では初の製紙工場が作られています。そのことは,今後サマルカンドが文化や科学技術の中心となっていく前提をつくりました。793年にバグダード,10世紀にはダマスカス,カイロを通り,1151年にスペインを経由して→1348年フランス→1494年イギリス・1586年オランダ→1635年デンマーク→1690ノルウェーアメリカ合衆国。イタリアを経由して,1276年→1390年ニュルンベルク→1491年ポーランド→1498年ウィーン→1576年モスクワのように西方に伝わっています。なお,朝鮮半島に伝わったのは600年頃,日本には610~625年頃の伝播です(注2)。
 イスラーム世界の各地では,ビザンツ帝国→サーサーン朝を介して継承されてきた,古代ギリシア・ローマの情報が,アラビア語に翻訳されていきました。これを大翻訳運動【東京H23[1] アラブ=イスラーム文化圏をめぐって生じた異なる文化間の接触や交流についての論述】ともいいます【追H19】。

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 なお,アッバース朝の時代になると,カリフは“ムハンマド代理人”というよりも,“神の代理人”としての性格を持つようになっていきます。
 アッバース朝【本試験H22】第2代の〈マンスール〉(位754~775) 【追H30アブー=バクルではない】は,3重の城壁に囲まれた円形の新都バグダード【京都H22[2]地図上の位置】【本試験H3アッバース朝の首都か問う,本試験H6長安とならぶ大都市であったか問う】【本試験H22】【追H9メッカではない,追H20カイロではない,H25アッバース朝によって築かれた「円城」か問う、H30】(マディーナト=アッサラーム(平安の都))を現在のイラクを流れるテ
ィグリス川【本試験H22】河畔に計画的に建設しました。イスラーム政権はヨーロッパを圧迫したイメージが先行しがちですが,領域を接していたビザンツ帝国とは対立していたものの,その西方のフランク王国との外交関係は良好で,交易も盛んにおこなわれます。


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 税制については,アッバース朝ではイスラーム教徒ならだれでも地租(土地にかける税,ハラージュ) 【共通一次 平1:人頭税ではない】を納めるようにし,イスラーム教徒ではない征服された人々【共通一次 平1:イスラーム教徒には課されない】からは地租に加えて人頭税(ジズヤ) 【本試験H5】【東京H21[1]指定語句】【共通一次 平1:資産税ではない】【本試験H13】【名古屋H31記述(説明)】を納めさせました。なお,ユダヤ教徒キリスト教徒は,違った考え方によって信仰しているものの,同じ神を信仰し,その神によって創造された人間には変わりないということで,「啓典の民」(けいてんのたみ)【本試験H5「…啓典の民に〔ジズヤ〕を課すこともない…」という史料中で使用】に位置づけられ,人頭税(ジズヤ)を払う代わりにその信仰は保障されました【共通一次 平1:土地を持っている場合はハラージュも払う】。

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 また,革命に参加したイラン人は,軍隊や官僚(書記)として採用され,アッバース朝の要職にも就任するようになっていきます。混乱が収拾すると,「イスラーム法(シャリーア)」【本試験H19 6世紀には成立していない(イスラーム成立よりも前なのだから),本試験H26ジハード,バクティスーフィズムではない】【大阪H30論述】に基づき,力でねじ伏せるのではなく制度と文書によって適切に統治が実現するようになっていきました。


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〈ハールーン=アッラシード〉(位786~809) 【本試験H3シャープール1世ではない】【追H9アッバース朝と関係あるか問う】のときに最盛期を迎え,バグダードは人口100万の大都市となりました。彼は,9世紀に原型ができていたといわれる『千夜一夜物語』(“アラビアン=ナイト”) 【追H28イラン起源の物語を含むか問う(正答だが、難しいだろう)】【東京H8[3]】にも登場しています。


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ウマイヤ家の多くはアッバース革命のなかで殺害されてしまいましたが,シリアからモロッコに脱出したウマイヤ朝のカリフの孫〈アブド=アッラフマーン1世〉(位756~788)はイベリア半島【本試験H21小アジアではない】で,北アフリカベルベル人【本試験H29イスラーム教への改宗が進んだことを問う】からの支持を得ました。そして,756年にイベリア半島コルドバ【東京H18[3]】【本試験H30】を都に後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝) 【東京H18[3]】【追H9スルターンの称号を得ていない、H18カール大帝が滅ぼしてはいない、H25アッバース朝後ウマイヤ朝に滅ぼされたのではない】【本試験H16】【立命館H30記】を建国します。
 首都コルドバは,アッバース朝の首都で発達したイスラーム固有の学問(イスラーム教に関する神学・法学・歴史学など)や外来の学問(ギリシア【本試験H3】・ローマやインド【本試験H3】,イラン【本試験H3】で発達した自然科学・数学・哲学など)を取り込むことで,文化の中心地になっていきました【本試験H3イスラーム文化は「多様な民族を担い手とする国際的文化である」か問う】。
 イスラーム教では偶像崇拝が禁止されているので,人物や動物の絵画は避けられます【本試験H3神像や礼拝像が盛んに制作されたのではない】。そこで,アラビア語に装飾を施したイスラーム書道(ペンには,かつて古代エジプトパピルスに記入するのに使われた葦ペン(カラーム)が使われました)や,植物や図形をモチーフにした幾何学文様(アラベスク【本試験H5ジズヤではない】【追H18】)が発達していきました。

 

 

●アフリカ
 8世紀のアラビア語史料の中に,ニジェール川流域のガーナ王国【東京H9[3]】【本試験H8サハラ縦断交易で栄えたか問う,本試験H9[24]地図上の位置を問う】に関する情報が初めて現れます。「黄金がニンジンのように土地から生える」という伝説が,地中海地方に伝わったというほど,金を産出することで知られていました。


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イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得てコルドバを占領し,アミール【追H9スルターンの称号を得ていない】を称して後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)が建国されました(注)。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
 〈アブド=アッラフマーン3世〉(位912~961)は929年にカリフ【追H9スルターンの称号を得ていない】の称号を名乗り,支配の黄金時代を迎えました。コルドバにはキリスト教の教会に隣接して,壮麗なモスク(メスキータ)【立命館H30記】も建てられます。


●ヨーロッパ
726年に東ローマ帝国イウサロス朝の創始者〈レオン3世〉(在位717~741,教皇レオ3世とは別人)【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18】が聖像禁止令【東京H7[1]指定語句】【本試験H18】を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会と,ローマ教会との間のケンカにエスカレートしてしまいました(聖像崇拝論争)。


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ローマ教会が正統とするアタナシウス(ニカイア)派に改宗していた初代国王〈クローヴィス1世〉が亡くなるとフランク王国は分裂し,メロヴィング家【H30共通テスト試行 メロヴィング朝マムルーク朝と同時代ではない】は弱体化していました。
 一方で,フランク王国の東部を支配していたカロリング家は勢力を増し,687年には宮(きゅう)宰(さい)〈ピピン2世〉(大ピピンとも,位680~714)がメロヴィング朝の実権を掌握します。宮宰(マヨル=ドムス)というのは実質的にナンバー2の役職であり,フランス全体に支配権を広げていきます。
 〈ピピン2世〉の子,宮宰(国王ではありません)〈カール=マルテル〉(686~741)は,軍事力で732年にウマイヤ朝イスラームの小規模な部隊を追いかけて撃退。「自分はイスラーム教徒を殲滅し,キリスト教世界を救ったのだ!」と話を盛りまくって,一気に名声を高めます。自分自身の出自の低さをカバーするための意図もあったとみられます。ローマ教会はこの功績を聞きつけ,「フランク王国カロリング家は守護者として期待できる」と,フランク王国への注目を高めていきました。
 この戦いをトゥール=ポワティエ間の戦い【東京H29[3]交戦勢力を答える】【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】といい,カロリング家が台頭する上で重要な事件ではあるものの,戦闘の規模は決して大きなものではありませんでした。

 とはいえ〈カール=マルテル〉は家来たちに獲得した領地を与えて,メロヴィング家に対抗できるだけの軍事力を育成していきます。
 こうして彼の子〈ピピン3世〉(小ピピンとも,位751~768) 【セ試行 カール大帝ではない】【本試験H7】【本試験H19時期】【追H29】は,ときの教皇〈ザカリアス〉(位741~752)の許可を得て,メロヴィング朝【H27名古屋[2]】の王を武力で排除し,ついにフランク王国国王に就任することができたのです【本試験H7コンスタンティノープル教会との関係を強化していない】。
 こうしてカロリング朝【追H29ピピンがひらいたか問う】(〈カール=マルテル〉が由来です)をひらくことに成功した〈ピピン〉は,教皇を圧迫していたランゴバルド王国を倒し【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】【追H30トゥール=ポワティエ間の戦いは無関係】,彼らが東ローマ帝国から奪い取っていたラヴェンナ地方を教皇に贈与します。
 宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このことをピピンの寄進【本試験H31時期を問う】といいます。このときの領土が,のちのちまで続く教皇領の元となります。教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったのがヴァチカン市国ということになります(ローマ市内にあります)。


 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】【本試験H6】【追H18後ウマイヤ朝を滅ぼしてはいない】【セA H30】です。

 

さらに799年,暴動が起きたためローマから避難した教皇〈レオ3世〉【追H24グレゴリウス7世ではない】の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。


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 ローマ帝国の東方領土(東ローマ(ビザンツ)帝国)には,7世紀に入ってイスラーム教徒による領土拡大が始まりました。イスラーム教徒への対策として,〈ヘラクレイオス1世〉(位610~641)は帝国をいくつもの軍管区(テマ)に分ける制度を拡充し(注),地方の軍団の指揮官に,軍事権と行政・司法権を与え,間接支配させました(テマ制度(軍管区制度) 【追H28「軍管区の司令官に軍事・行政権を与えた」か問う】【本試験H14エンコミエンダ制とのひっかけ,本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う,本試験H21フランク王国ではない,H31オスマン帝国のティマール制とのひっかけ】),兵士には土地が与えられ,平和なときには農業に従事し,戦争のときには土地を守るために戦わせました(屯田兵制) 【本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う】。しかし,636年にはヤルムークの戦いで正統カリフ時代イスラーム軍に敗れ,シリアやエジプトを失いました。

 なお、〈ヘラクレイオス1世〉は,東地中海の国際共通語であったギリシア語を公用語に定めたほか【追H19】,キリスト教の教会を統一するために教義を定めました【本試験H16ビザンツ帝国では政教分離が徹底されたわけではない】。


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8世紀のイウサリア朝を創始した皇帝〈レオン3世〉(位717~741)以降,東ローマ帝国は再び勢力を回復するように成り,726年の聖像禁止令【本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う】で聖画像(イコン)を禁止しました【本試験H18叙任権闘争とは関係ない】。この政策をイコノクラスム(聖画像の破壊)といいます。イコン(イエスなどの聖像)を使ってヴィジュアルの助けを借り,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対してせっせと布教をしていたローマ教会は,聖像禁止令の押し付けには反対の立場をとり,東ローマ帝国の保護する正教会との聖像崇拝論争に発展します。のちにローマ教会は,東ローマ帝国に見切りをつけて,教会の新たな保護者としてフランク王国の〈カール大帝〉を選ぶことになります(800年,カールの戴冠【東京H7[1]指定語句】【セA H30】)。

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西ヨーロッパを中心に,ローマ由来の恩(おん)貸地(たいち)制度【本試験H3,本試験H6】と,ゲルマン由来の従士制(じゅうしせい)【本試験H3】が組み合わさり,隷属的な農民と土地を支配する制度と,その支配圏を認める階層的な支配構造が結びついた社会制度(荘園(しょうえん)制)【本試験H3】が組み上げられていきました【本試験H3最初から発達した官僚制がみられたわけではない】【大阪H31論述(「イスラム教徒、領主、軍事」の指定語句を用いて、荘園制が形成された背景、当時の政治制度全般との関係について)・時期】。

 この時期(中世前期一般的には西ローマ帝国の崩壊した5世紀から10世紀)のヨーロッパは,農業(小麦,大麦,えん麦,ライ麦など)を中心とした生産が農民により行われていました。自由な農民もいましたが,領主の経済的・人格的な支配下に入った農民も多く,後者は移動の自由【本試験H6】が認められず農奴(のうど) 【本試験H3】【本試験H23】といいます。
 経済的な支配とは,収穫物を納めたり(貢租(こうそ),貢納【本試験H23】ともいいます),領主の土地を耕したり(賦役(ふえき)【本試験H23】)する義務があったこと,人格的な支配とは移動の不自由のほかに,領主による裁判権(領主裁判権【本試験H8】)に従わなければいけないことや(領外)結婚税・死亡税【※以外と頻度低い】の支払いなどが挙げられます。農奴は家族を持つことでできましたが,家族も含めて領主の大切な“労働力”なので,娘が隣村に嫁いだり,誰かが亡くなると,その“補償”として結婚税・死亡税を納める義務があったのです。その代わり農民たちには,小麦粉をひいたり,きれいな水場を利用したり,お祭りに参加したりなどさまざまな保障が与えられていました。

 7世紀になると,現在のフランス北西部のフランク王国王領地では,古典荘園制が始まりました。土地を,領主直営地【本試験H5】と農民保有地に分け,前者は領主が経営し,後者は農民・農奴に小作地として貸し出されました。領主は農奴賦役【本試験H5】をおこなわせたり,自由な農民を労働者として働かせ収穫を貢租としておさめさせたりしたのです。

 こういった領主の土地には,農民たちの集落が散らばって分布していて,集落のまわりに耕地が広がっていました。このころのヨーロッパにはまだ十分に森林が広がっていましたが,森は共有地(入会地(いりあいち) 【追H26】。農民が共同で利用する牧草地や森のこと【追H26】。中世ヨーロッパに限らず「誰のものでもない」土地は,近代以前の社会では広くみられました【本試験H17】)とされ,森で採れるドングリを冬に備えて豚に与えたり,薪(たきぎ)を拾って燃料にしたりと農民たちで共同利用されました。また,畑を耕すのための牛や,毛を刈り取る羊が飼育され,家畜の飼料に用いられる草の刈り取りも,共同作業でおこなわれました。
 このように土地と農民が組み合わさった土地制度を,土地領主制ともいいます。このような領地は,城を構える主君(封主(ほうしゅ))が,戦士・騎士として戦ってくれる人々に与えられることが多くなりました。土地(封土【本試験H3】)をもらった人は家臣(封臣(ほうしん))となり,主君に軍事的に仕える義務【本試験H3】を持つかわりに,その土地が得られる特権を得ることができました【本試験H8領主の「主たる経済基盤は,国王の宮廷での勤務による報酬」ではない】。


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 フランク王国カロリング朝の時代になると,国王に任命された伯や大公といった役職に応じて,こうした特権付きの所領が,軍事奉仕と引き換えに与えられるようになっていきました。家臣のほうが国王よりも力関係が上である場合も多かったため,不輸不入権(国王の役人が立ち入って徴税をしたり,裁判をしに立ち入ったりすることを防ぐ権利)【本試験H14自治・叙任ではない】が与えられていました。また,こうした所領を“功徳”(くどく)を得るためにローマ教会や修道院に寄付(寄進(きしん)といいます)することも,広く行われました。その代表例が,756年の〈ピピン3世〉によるラヴェンナ地方の寄進です。
 ローマ教会と提携をした〈カール大帝〉は,『旧約聖書』を根拠に勅令を定め,十分の一税【追H30】の徴収を法的に規定しました。これにより,農民からの税は教区ごとに徴収され,集めたうちの4分の1が最終的に司教のもとにわたることになりました。

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ローマ教会が正統とするアタナシウス(ニカイア)派に改宗していた初代国王〈クローヴィス1世〉【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない、オドアケルとのひっかけ】が亡くなると,フランク王国は分裂し,メロヴィング家は弱体化していました。一方で,フランク王国の東部を支配していた勢力(のちのカロリング家)が勢力を増していきました。

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メロヴィング朝フランク王国に仕えた,王国ナンバー2の宮(きゅう)宰(さい)(国王ではありません)の職にあった〈カール=マルテル〉(686~741) 【本試験H7】は,ローマ教会の領土や当時拡大していた修道院の領土を没収し,それを収入源として戦士団を養成。騎兵を導入してインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々やガリア南部を従えました。
 フランク王国【追H30ランゴバルド王国はない】が,732年にイスラーム教徒のウマイヤ朝の進出に対してトゥールとポワティエの間で勝利したのは,この軍事力によるものです(トゥール=ポワティエ間の戦い) 【東京H29[3]交戦勢力を答える】【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】【追H30】。

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 〈カール=マルテル〉の子〈ピピン3世〉(位751~768) 【本試験H19時期】は,今度は教皇を圧迫しているランゴバルド王国に着目【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】。彼らは,ラヴェンナにあったローマ帝国総督府を占領していましたが,ここにいた東ローマ(ビザンツ)帝国の軍隊はそこから撤退していたのです。

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宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このことをピピンの寄進【本試験H31時期を問う】といいます。このときの領土が,のちのちまで続く教皇領の元となります。ローマ教皇も「領域国家」を持ち,みずからの収入源を確保するようになったわけです。
 教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったのがヴァチカン市国ということになります(ローマ市内にあります)。

 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】【本試験H6】です。〈カール大帝〉は799年,暴動が起きたためローマから避難していたローマ教皇〈レオ3世〉【本試験H6】【H27名古屋[2]】【セA H30「ローマ教皇」】の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。ローマ教皇によって「西ローマ皇帝」に任命され,西ヨーロッパの大陸部の分裂状態は一時的に終わりを迎えます。


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インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派のアングロ=サクソン人は,ブリテン島にわたって,600年頃から9世紀までに7つの王国(七王国ヘプターキー) 【本試験H30】を建国していました。

 キリスト教アイルランド教会は,ローマ教会と競うようにイングランドに布教活動を行いました。アイルランドからは学芸が書物や学者を通じてイングランドに伝わり,カンタベリやヨークでノーサンブリア文化が栄えました。〈ベーダ〉(673?~735)は『イングランド教会史』を著しています。

 9世紀末~10世紀初めにかけて七王国のなかのウェセックスの王が中心になり,統合が進んでいきました。ウェセックス王の〈アルフレッド〉大王(位871~899)【本試験H14・H27】【追H29デーン人の王国を建てたわけではない】がデーン人【本試験H14,本試験H27アヴァール人ではない】の襲来を防ぎ,973年には〈エドガー〉(位959~975)が,カンタベリ大司教のもとで「全ブリテン島皇帝」を称したことを,イングランド王国の成立とみることができます。ちなみに〈アルフレッド〉は歴史書アングロサクソン年代記』の編纂を命じています。

 国王は各地を移動しながらその声と体と豪華な儀式や奇跡(手で触れると病気が治るなど)【本試験H16リード文(アンリ4世の触手儀礼について)】で人々に権威を示し,現地で議会や裁判所を開いて回りました(移動宮廷。中世ヨーロッパで広く見られた支配方式です)。また,地方には州(シャイア,現在のイギリスのヨーク「シャー」などにも残る言葉です)が設置されました。

 なお,793年にはヴァイキング(ノルマン人【東京H6[3]】)の一派が,イングランド北部の大修道院を襲撃しています。彼らに関する初の記録です。次の時期に入ると,彼らの活動は一層本格化していくことになります。

 

●800年~1200年の世界

 中国南部では新たな米の品種(占城稲(せんじょうとう) 【追H26時期は9世紀後半~13世紀だが、黄河流域ではない】 【東京H19[1]指定語句,H26[3]】)が導入されました(米の品種改良)。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地で酒楼(しゅろう)や喫茶【追H20宋代の中国に江南で広く栽培されるようになった作物を問う。トウガラシではない、H27時期を問う】がにぎわいをみせました。農業用の鉄器や陶磁器の生産量も増加し,その窯で用いられていたコークス(石炭を蒸したもの)を鉄鍋料理の高火力に用いたことが,現在につながる“中華料理”のルーツとなります。


 三圃制(さんぽせい) 【本試験H19時期(6世紀ではない)】が導入され,馬の首あてが改良され,重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき) 【追H26】【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】【本試験H17】が発明されました。特に重量有輪犂によってより深く固い土を耕すことができるようになり,農業生産性がぐんと上がります【追H26】。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地にゴシック様式の教会が建造されました。


アフリカのサハラ沙漠以南の地域でもサハラ沙漠を越える塩金貿易【追H30】が活発化し,ニジェール川流域では農耕も栄えます。

 

●800年~1200年の中央ユーラシア
チベット高原では,7世紀初め,〈ソンチェンガムポ〉(ソンツェン=ガンポ,在位593~638,643~649) 【本試験H16】が氏族を統一し,吐蕃(とばん)王朝【京都H21[2]】【本試験H9[14]ヴェトナム北部ではない,イスラム文化と中国文化は融合していない,フビライの攻撃で滅んでいない】を建国しました。彼はネパールから王女として〈ティツゥン〉を招き,インド方面から学問を取り込みました。また,当時仏教の盛んだったカシミールからサンスクリット文字を学び,チベット文字【本試験H4南詔でつくられたのではない,本試験H9】がつくられました。

吐蕃【追H29唐に侵入したのは吐蕃であって,西夏ではない】は唐が安史の乱で混乱しているところを狙い,長安を占領し(848年まで),790年には亀茲の安西都護府を陥落させ,ウイグルと対抗し,東西貿易ルートを支配下におさめるにいたります。

 840年にキルギス【京都H19[2]】の進出によって,ウイグルモンゴル高原を追われます【追H28中央アジアでは「匈奴」の分裂をきっかけとしてトルコ化が進んだのではない】【H29共通テスト試行 地図(「トルコ系の勢力は,モンゴル高原から西方に広がった」ということの読み取り)】。

 モンゴル高原を出たウイグルは,天山山脈あたりで国家(天山ウイグル王国)を形成し,別の部族はさらに西でカルルクという遊牧民と合流して建国しました。
 後者はおそらく突厥の有力氏族(阿史那)の血を引くと首長する者が「カガン」を名乗り,940年にカラ=ハン(カラハン)朝【京都H19[2]】【追H19時期、H21イラクの王朝ではない】を建国したといわれますが,定説はありません。

 カラ=ハン朝【京都H19[2]】はテュルク系民族として初めて,(1)タリム盆地周辺と(2)アム川・シル川上流部を合わせた地域を支配しました。また,〈サトゥク=ボグラ=ハン〉の代に,西から伝わったイスラーム教に王や住民が一斉に改宗したという伝説が残されています。999年にはブハラを攻撃して,サーマーン朝【本試験H24】【追H19時期、H21】を滅ぼしました。

(1)と(2)を合わせた地域は,テュルク系の言語を話す人々が増えたこと(注1)からトルキスタンと呼ばれるようになり,(1)を西トルキスタン,(2)を東トルキスタンと呼ばれます。 (1)の中心都市としてはカシュガルやベラサグン(注2),(2) の中心都市にはサマルカンド【本試験H2ソグド人の中心都市であったことを問う】やブハラがあります。

カラ=ハン朝【京都H19[2]】は,1132年ころ,中国から西に逃げてきた契丹人の建国した西遼(カラキタイ) 【本試験H27】によって間接支配を受けることになります。


●800年~1200年のアジア

○800年~1200年のアジア  東北アジア
 中国東北部沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)では,ツングース諸語系の渤海が,モンゴル諸語系とみられる契丹(きったん)の建てた遼(916~1125)【東京H6[3]】に926年に滅ぼされ,代わってツングース諸語系【追H27モンゴル系ではない】の女真(女直,ジュルチン)人【追H27半猟半農生活を行っていたか問う】が拡大していきます。

 

○800年~1200年のアジア  東アジア
 朝鮮半島では新羅末期の混乱(後三国時代)を経て,〈王建〉(位918~943) 【追H9朱子学は栄えていない,H29高麗を建てたか問う,H30王莽ではない】が都を開城【本試験H22慶州ではない】【追H30】【慶・法H30】に定め高麗【追H24モンゴルの服属を受けたか問う,H29】を建て,935年には新羅を吸収し,936年に朝鮮半島を統一しました。高麗は科挙【本試験H21】により官僚を登用しましたが,新羅以来の貴族の力がまだ強く,科挙の合格者 (両班(ヤンバン))【本試験H8明の制度を取り入れていない】が実権を握る体制とはなっていませんでした。
 儒教も研究されましたが,仏教も盛んで,経典をまとめた『高麗版(こうらいばん)大蔵(だいぞう)経(きょう)』【本試験H17墨家とのひっかけ】が編纂されました。中国以外の磁器としては初となる高麗青磁(こうらいせいじ) 【東京H9[3]記述(特徴を説明する)】【共通一次 平1:赤絵ではない】が有名です。また,世界最古の金属活字【追H19高麗か問う,H28高麗で「金属活字が作られた」か問う】【共通一次 平1:銅活字であったか問う】【本試験H11:15世紀初めに実用化されたか問う,新羅ではない】【本試験H22朝鮮王朝ではない】が発明されましたが,広く普及はしませんでした(ちなみに銅による活字は15世紀初めの朝鮮王朝の時代)。漢字は種類が多く,活字には向かなかったのでしょう【共通一次 平1:訓民正音は高麗時代には用いられていない】。
 1170年以降は武人(武班)が政権を握り,文人(文班)は迫害を受けるなど,科挙官僚が実権を握る仕組みは作られませんでしたが,次第に宋代の中国で確立され13世紀に朝鮮半島に伝わった朱子学も普及していきました。

 ヴェトナム北部では中国からの独立政権ができ,1009年には李朝(りちょう)が国号を大越国【追H18】として独立しました。

 雲南地方では,南詔(なんしょう)にかわって,チベット=ビルマ系のペー族の大理(937~1254) 【東京H6[1]指定語句】【本試験H18大理→南詔の順ではない】が支配権を握ります。雲南というのは,チベット高原方面から,中国の南部にかけて高原地帯が続いているところで,長江とメコン川の上流地域です。“高原地帯の勢力は,なかなか落としにくい”の法則通り,独立を保ったまま,唐から冊封(さくほう)されました。ペー人は現在でも200万人足らずいて,米が主食でワサビを食べるなど,日本と似通った文化を持つ方々です。

 

 日本では,784年に長岡京,794年に平安京に遷都され律令制に基づく国家が建設されていましたが,しだいに天皇の実権は失われ,貴族・院・武家や寺社勢力が荘園(しょうえん)を財政的な基盤として同時に存在する分権的な体制が生まれていきました。
 漢字を参考にした仮名文字や,『源氏物語絵巻』のような大和絵(やまとえ)がつくられ,国風文化が栄えます。しかし〈平清盛〉(たいらのきよもり,1118~81)【本試験H30】が,武士として初めての太政大臣に就任し,日宋貿易で宋銭を輸入することによって貨幣経済を活発化させようとしました。彼の政権(平氏政権【立命館H30記】)は,日本初の武家政権です。しかし12世紀末に源氏と平氏の抗争が勃発し,平家は滅亡。勝利した〈源頼朝〉(みなもとのよりとも,1147~99)は鎌倉幕府を開いています【本試験H21時期】。

●中国
結局9世紀後半の黄巣の乱(塩の密売商人の〈黄巣〉による反乱) 【本試験H19紅巾の乱とのひっかけ,本試験H22北宋代ではない,本試験H26呉楚七国の乱とのひっかけ】により混乱しました。彼は,何度も科挙にトライして不合格となった人物で,同業者の〈王仙芝〉とともに挙兵しました。当時最大の貿易港であった広州の節度使就任を要求しましたが拒否されると,879年に広州に侵攻し,外国人居留地(蕃坊(ばんぼう))でイスラーム教徒のアラブ人やペルシア人(大食(タージー))を初めとする多数の外国人が殺害されました【本試験H3アッバース朝の頃,ムスリム商人の活動範囲が「遠く東南アジアや中国にまで及んだ」か問う】。
 その後は,北に反転して長安を占領。長安の皇帝一族は四川に避難します。反乱は884年に鎮圧されたので革命には至りませんでしたが,その頃の唐はもはや“風前の灯火(ともしび)”。
 907年に節度使の〈朱全忠〉(892~912年)によって滅ぼされることになります【本試験H26張角とのひっかけ,H29文字の獄は行っていない】。
 権力をにぎった〈朱全忠〉は,大運河【本試験H16】が黄河【本試験H16】とまじわる地点にある?州(べんしゅう【早政H30】,開封(かいほう) 【本試験H2地図上の位置を問う,北宋時代に「空前の繁栄期」を迎えたか問う】【本試験H16】)で即位し,後梁(こうりょう) 【H27京都[2]】を建国しました。従来の黄河流域から大運河の結節点への遷都は,〈朱全忠〉の現実主義的な政策を示しています。

 というわけで,この時代を華北【本試験H6建康が首都ではない】で五代が興亡,江南で呉越・南唐などの十国が並び立った時代ということで,五代十国時代というのです【本試験H19戦国時代,五胡十六国時代南北朝時代ではない】。10の国が戦国時代のように興(おこ)っては滅び,興っては滅んだわけではありません。


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この時代、宋の周辺では、さまざまな民族による国家が建設されていきます。
 まずはキタイ人です。
 モンゴル高原では,東南部の契丹(きったん。キタイ。モンゴル系です)に主導権が移ります。916年に即位した〈耶律阿保機〉(やりつあぼき,太祖,位916~926) 【本試験H31金の建国者ではない】 【京都H20[2]】は大契丹(だいきったん,のち「大遼」と改称。「遼」【東京H6[3],H10[3]】と呼ばれることが多いです) 【追H27燕雲十六州を加えたか問う、H28二重統治体制の内容を問う】 【共通一次 平1:地図上の領域を問う(淮河付近までは支配していない)】【本試験H14地図(最大領域の範囲を選ぶ),本試験H15,本試験H18匈奴ではない・唐代ではない】を建国しました。
 彼らは渤海(ぼっかい)を滅ぼしモンゴル高原にも進出。彼らの大帝国は「キタイ」として西方にも知られ「中国」の代名詞ともなり,現在では香港の航空会社「キャセイ」パシフィックにその名を残します。
 第2代〈耶律堯骨(太宗)〉のときには,五代の一つである後晋の建国援助した見返りに,河北地方・山西地方の一部燕雲十六州【東京H30[3]】【共通一次 平1:地図上の領域(もっと南の淮河付近までは支配していない)】【追H25地図上の位置,H27契丹が領土に加えたか問う】【本試験H15時期(10世紀),本試験H23ウイグルではない,本試験H29,H30東京】【中央文H27記】を獲得しました。また946年には国号を中国風の“大遼”に変更。同時に“遼”の国号も残し,中国とモンゴル高原をまたにかける支配をねらっていきました。
 遼【本試験H7突厥ではない】の第6代〈聖宗〉【本試験H13耶律阿保機ではない】のときには,のちに宋【本試験H29秦ではない】の第3代〈真宗(しんそう)〉(位997~1022)【本試験H7】との間に1004年,?淵(せんえん)の盟【本試験H7】【本試験H13史料・耶律阿保機の代ではない,本試験H15唐代ではない,本試験H30】が結ばれました。宋と兄【本試験H7】,遼を弟をみなしすもので,宋は安全保障のために,毎年銀【本試験H13金・鉄・馬ではない】と絹【本試験H13金・鉄・馬ではない】を契丹に贈りつづけることにしました。“お金で平和を買う”作戦です。契丹は宋から贈られた銀により貿易赤字を穴埋めしようとしたのです。
 契丹(きったん)は中国本土の支配にも積極的で,遊牧民と農牧民を同時に支配する二重統治体制を目指しました【追H28「遊牧民と農耕民とを、異なる制度の下で支配した」か問う】。
 遊牧民は北面官が部族制【本試験H14】により,農牧民は南面官が州県制【本試験H14,本試験H16前漢ではない】により支配しました。支配下漢人は初めは手工業・農業に従事させましたが,のちに参謀などとして中国支配のために利用する場合もありました。
 契丹文字【東京H6[3],H10[3]】【本試験H8満洲文字ではない】【本試験H24時期,H28キリル文字ではない,H30東京(図版)】は太祖がつくったとされる民族文字です。中国の影響を受けた絵画や陶磁器も発達しました。また仏教が信仰され,中京大定府には74mの高さを誇る仏塔(大明塔)が建造されました。

 2つ目はタングート人【本試験H12】【追H21、H28渤海を建国していない】。
 中国からシルクロードへの入り口にあたる,陝西(せんせい)や甘粛(かんしゅく)の地方には,チベット系のタングート人【追H21】が勢力を拡大させていました。982年にはタングート人のうち平夏部の〈李継遷〉が北宋から自立し,1038年に孫の〈李元昊〉(りげんこう,在位1038~48)が西方の寧夏や甘粛にまで支配圏を広げ,皇帝を称して大夏(西夏)(注) 【共通一次 平1:時期(12世紀ではない)・地図上の位置(甘粛の周辺かどうか)を問う】【本試験H3唐は和蕃公主を嫁がせていない】【追H21バクトリアではない,H28地図上の位置(渤海とのひっかけ)、H29唐に侵入していない】を建国しました。宋代には海上交易の比重も高まっていきますが,大夏(西夏)は依然として内陸ユーラシアとの陸上交易を保護して栄えました。
 大夏(西夏)は漢字の影響を受けて複雑な部首やつくりを持つ西夏文字共通一次 平1:甲骨文字,満州文字楔形文字の写真と判別させる】【本試験H8満洲文字ではない,本試験H12「漢字を模して,パスパ文字」をつくっていない】【本試験H15モンゴル語を表すための文字ではない】を駆使して公文書を作成し,仏教の経典を翻訳しました。また中国に対して圧力をかけ,1044年に中国から毎年の贈り物を送ることを交換条件に,慶暦の和約を結んでいます【本試験H13】。西夏は1036年に敦煌を占領しましたが,このときに大量の仏典が莫高窟(ばっこうくつ)の秘密のスペースに隠され,入り口が塞がれました。これがのち1900年に発見されることとなる敦煌文献です。
(注)10世紀後半~13世紀前半。大夏という正式な国号の代わりに西夏【本試験H22】といわれることが多いのは,漢人中心の歴史観の影響によるものです。ちなみに遼,金と異なり,西夏には正史が作られていません。

 3つ目はジュシェン人。
 渤海が滅んだあとの中国東北地方には,女真(女直)(じょしん;ジュシェン,女直(じょちょく;ジュルチン) 【追H27】【本試験H6】)が強大化しました。ツングース系【追H27モンゴル系ではない】で,唐代には靺鞨(まっかつ)と呼ばれ、半農半猟生活【追H27】をおくっていました。靺鞨のうち,黒水靺鞨からおこったのが女真(女直)人【本試験H5契丹人ではない】という民族です。1115年に〈完顔(ワンヤン)部の阿骨打(アクダ)〉(位1115~1123) 【本試験H31金の建国者か問う。耶律大石とのひっかけ】【追H19西遼の建国者ではない】が独立し,金(きん)(1115~1234) 【本試験H3唐の時代に和蕃公主が嫁いだ国ではない,本試験H5渤海を滅ぼしていない,本試験H11この女真清朝満洲族と「同じ系統」か問う】 【本試験H18中国全土に駅伝制を設けていない】を建国しました。都は中都(のちの北京)です。女真人は契丹文字と漢字をもとにして,女真文字をつくっています【本試験H5西夏文字ではない,本試験H12西夏の文字ではない】【本試験H31満州文字ではない】【追H21】。


女真(女直;ジュシェン)人は,契丹(キタイ)人をタリム盆地に追いやった
契丹タリム盆地へ,女真淮河まで南下
 女真(女直)人は遼には鷹狩用の鷹を輸出しており,特に遼の王には最高級のハルビン産の鷹が献上されていました。『遼史』によると,遼王〈天祚帝〉(任1101~1125)のもとで1112年に宴が催されたとき,参加した各部族の長は踊るよう命じられます。そのとき,女真の〈完顔阿骨打〉(ワンヤンアグダ)は踊ることを拒否。しかしそれにに対し,〈天祚帝〉は「礼儀は知らないが,狩りは上手い」と許します。その3年後,〈完顔阿骨打〉は金【本試験H11この女真人が清朝を建国する満洲人と「同じ系統」か問う】を建国し,宋と協力して遼を挟み撃ちにして滅ぼすことになるのです(注)。

 遼の王族であった〈耶律大石〉(やりつたいせき,在位1132~43) 【本試験H21,本試験H24時期,本試験H31金を建国していない(耶律阿保機とのひっかけ)】【追H21,H29】はタリム盆地に逃げて,ベラサグンを都に西遼(カラ=キタイ) 【本試験H4唐の高宗によって討たれていない】【本試験H14?淵の盟により国力が増したから西に移動したわけではない,本試験H21,セ23ウイグルに滅ぼされていない,本試験H27時期】【追H21完顔阿骨打ではない,H29カラ=ハン朝ではない】という国家を形成しました。

金では,お札(ふだ)や不老長寿薬を使ったり,大土地を持ち農民から金をふんだくったりするようになった今までの道教を改革する全(ぜん)真(しん)教(きょう)【本試験H22西夏ではない】【追H30】がうまれ,流行しました。

また,宋代に大型のジャンク船【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】が開発されたことを背景に,海の守護神である媽祖(まそ)を祀った媽祖廟(まそびょう)は中国南部や香港・台湾・日本にみられます。


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交易ブームを背景として,宋も首都を開封に置く
 五代期の政治は「武断政治」といわれ,武力がものをいう時代でした。最後の後周の〈世宗〉は禁軍(皇帝直轄の舞台) 【早・政経H31解体していない】【中央文H27記】を強化し,959年には燕雲十六州(936年に後晋の〈高祖〉が割譲していました)を遼から一部奪回しています。
 しかし,彼により強化された禁軍の総司令官〈趙匡胤〉(ちょうきょういん(太祖),在位960~976) 【本試験H18,H29共通テスト試行 建国の年代(グラフ問題)】【追H27王安石ではない、H29南宋を建てた趙高ではない】は,部下の支持を集めて皇帝に即位します。〈世宗〉の子が幼すぎたため,支配層によって推挙されたのです。これが,禅譲によって王朝が代わった最後の例となります。

 新たな王朝である宋(960~1127の北宋【京都H21[2]】と1127~1276(1279に皇族が全滅)の南宋に分ける)の首都は,五代と同じく開封(かいほう)です【本試験H25長安,咸陽,建康ではない】。宋が商業による収入増を見込んだことがわかります。この時代の開封【早・法H31】の反映は、北宋から南宋にかけての宮廷画家であった〈張択端〉(ちょうたくたん)によるとされる「清明上河図」【早・政経H31解答に直接必要なし】に描かれています(北京の故宮博物院に所蔵)。

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また,科挙に合格した文人官僚を重用し【本試験H18】文治主義(ぶんちしゅぎ)を推進。中央では貴族の根城(ねじろ)であった門下省中書省に吸収して中書門下省とし,貴族の合議によって政策を決定する形から皇帝専制への道をひらきました。六部を従える尚書省は残しましたが何度か廃止・復活され,財務については三司(塩鉄・度支・戸部)が独立して設けられています。
 軍人が政治の実権をにぎる習わしをなくすため,官僚が枢密院によって皇帝直属軍(禁軍)を管轄する制度をつくります。節度使にも軍人ではなく文官をあてるようにし,軍事権をとりあげました。科挙を整備し,最終試験に皇帝の直接試験である殿試(でんし) 【本試験H9宰相が試験官ではない,本試験H11宋代以降に行われ「皇帝と官僚の結びつきが強化された」か問う】【本試験H18隋代ではない,H21元代ではない】【追H26時期を問う、H30唐代ではない】【早・法H31】【明文H30記】が導入されました。
 こうして,隋唐代に栄華を極めた貴族が没落し,科挙に合格した官僚と,皇帝直属軍の禁軍が皇帝独裁体制を支える存在になっていったのです.
 科挙の合格者は,新興地主層(形勢戸(けいせいこ)) 【追H18】が中心でした。彼らは唐末・五代の混乱のなかで,特に江南(長江流域)で新たに土地を占有し,小作人の佃戸(でんこ) 【本試験H6「奴婢」ではない】【本試験H26時期,H29共通テスト試行 戦争捕虜を奴隷としたわけではない(755~960の時期について)】の労働力によりのし上がった人々です。

 朝貢貿易は唐の時代よりも縮小しましたが,大規模なジャンク船【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】の改良により民間貿易がさかんになって,広州・泉州【H27京都[2]】・明州(現・寧波(ニンポー【追H29地図】【早政H30】)) が繁栄し,市舶司(しはくし) 【東京H8[3]】 【本試験H20節度使ではない,本試験H23,本試験H25時期】【追H29地図(天津には置かれていない)】【立命館H30記】が貿易を管理していました【本試験H7 絹を海外輸出し,大量の銅銭が流入した事実はない】。

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 なお、「海の道」(海のシルクロード)を通って中国産の陶磁器【東京H20[3]】が西の海域に輸送されたことから,この海上の交易ネットワークのことを「陶磁の道(セラミック=ロード)」と呼ぶこともあります。


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◆宋代には商品経済が発達した
商業都市が生まれ,紙幣が刷られ,新技術が出現
 宋というのはいよいよ商業が盛んになる時期です。唐代には商業は都市のなかだけで認められていたのですが,宋になるとその規制もゆるみ,あちこちに商業都市(草市や鎮)が整備されていきます。草市(そうし) 【本試験H16都市の城壁外や地方農村の交易場のことか問う,本試験H23衛所ではない,本試験H25同業者組合ではない】【立命館H30記】というのは,はじめは都市の城壁の外で馬のエサ(まぐさ)を売る市場のことをいったのですが,やがて粗末な市場というニュアンスになったものです。鎮(ちん) 【本試験H23衛所ではない】はもともと軍隊の駐屯地を指す言葉でしたが,宋の時代には交通の要所に自然発生的にできた商業都市のことをいうようになります。
 商業や手工業の同業者組合として,以前からあった行(こう)【本試験H16】【立命館H30記】や作(さく)の活動が積極的になりました。これらは隋・唐の時代には城壁の中に区画された市の限定された場所で活動していましたが,宋代になると都市の枠を越え,活動の場を広げていきます。ただし,国家による規制は強く,官僚への物資の納入を担当するようになる行(こう)も出ていきます。また,客商売をする商人である客商(きゃくしょう)に物資をおろす,仲買人や問屋である牙行(がこう)と呼ばれる大商人の力も強まっていきました。
 取引が増えれば,貨幣が用いられるようになり,銅銭が大量発行され,この時期には日本にも輸出されています。また,遠距離間の支払手段として,銅銭をジャラジャラ持ち運ぶのは大変不便なので,信用を保証するしくみをつくって,民間の手形【本試験H10遼や西夏に毎年贈るために用いられたわけではない】である交子(こうし)【本試験H5 18世紀の米価騰貴はこの大量発行によるものではない,本試験H10交鈔ではない,宋の紙幣かを問う】【本試験H22交鈔ではない】【追H29唐が銀の地金に加えて,交子を使ったか問う】【立命館H30記】や会子(かいし【本試験H10宋の紙幣かを問う】【本試験H22交鈔ではない】)が使われるようになり,やがてそれ自体が紙幣として価値をもつようになっていきました。また,唐~宋の時代の送金手形は飛(ひ)銭(せん)【立命館H30記】とよばれ,盛んに用いられています。
 取引された商品としては,白磁青磁という磁器があります。シンプルですらっとした美しさが特色です。飾りを削ぎ落とそうとする姿勢は,当時発展した新しいタイプの儒学も関係しています。磁器とは,カオリンという珪酸塩鉱物を含む土から作られる陶器で,1300度の高温で焼き上げた半透明のうつわのことです。陶器よりも厚めで,ツヤのある白いボディが特徴です。カオリンという名は,磁器【本試験H7茶ではない】の一大産地である景徳鎮(けいとくちん) 【東京H9[3],H17[3]】【本試験H7】【本試験H16絹織物生産地ではない,本試験H27(陶磁器の産地かどうか問う),H30】にある地名「高陵」からとられ,磁器のことを英語ではchina(チャイナ)といいます。
 なお“三大発明”と称される,火薬【追H25中国からイスラーム世界に伝播されたか問う】,活版印刷【追H28唐代の中国からイスラーム世界に伝わったのではない(それは製紙法)】【共通一次 平1:元ではない】【本試験H2唐代に金属活字による印刷術は普及していない】,羅針盤(らしんばん)【本試験H2】【東京H9[3]】の技術は,宋代【東京H9[3]】におこりました(羅針盤はのち【本試験H2時期(明代にヨーロッパに伝わったのではない)】にイタリア【東京H9[3]】【セA H30】で改良)。


◆新儒教(朱子学)が新たな支配階層の間に広まった
木版印刷の発展で,科挙が完成し,思想が栄えた
 北宋の〈周敦頤〉(しゅうとんい,1017~73) 【慶文H30記】や〈程顥〉(ていこう)と〈程頤〉(ていい),の兄弟,従来の儒教を哲学的に高め,南宋の〈朱熹〉(しゅき,1130~1200) 【本試験H9,本試験H11】 【本試験H13四書を重視し宋学を大成したか問う,本試験H14】【立命館H30記】が大成した宋学(朱子学) 【本試験H9官学とされたのは陽明学ではない,本試験H11陽明学ではない。内容も問う「宇宙の原理や人間の本質などの探究を目指す」】です【本試験H13,本試験H27】。新儒教(ネオ=コンフューショニズム)ともいわれます。
 すでに手垢のついた五経よりも四書【本試験H17墨家とのひっかけ,H31朱子学で重んじられたか問う】(『大学』,『中庸』,『論語』【本試験H13,本試験H14五経には含まれない】,『孟子』)を重んじ,科挙官僚になった知識人(読書人ともいいます)である士大夫(したいふ)層に支持されました。宋代以降の科挙は皇帝が最終試験を自ら行うようになったため,官僚と皇帝の結びつきが強くなり,唐代の支配階層であった貴族は没落し,代わって科挙に合格した士大夫層に代わりました。
 科挙受験には特別な資格は必要ありませんでしたが【本試験H11「特別な受験資格が必要」ではない】,科挙合格者を出した家柄は官戸【本試験H4,H9(11世紀に新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていたか問う),H11】とされ,特権【本試験H4役(えき)などの負担が免除されたか問う】が与えられます。木版印刷【明文H30記】によって印刷されやすくなった科挙のテキストは,科挙の試験対策として使用されていきます。
 宋学は「大義名分論」【本試験H14】といって,中華⇔夷狄(いてき),君主⇔家臣の区別を重視した【本試験H9平等を説いたわけではない】ため,実際には遊牧民に取り囲まれていた宋の人々を勇気づける考えでもあったのです。
 〈朱熹〉の「性即理」を唱える朱子学に対抗して【本試験H7】,「心即理」(しんそくり)【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】を論じたのが,同時代の〈陸九淵〉(りくきゅうえん) 【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】です。彼の説はのちに儒教の1ジャンルとして独立し,陽明学として体系化されていきます。

 唐代には漢詩が盛んにつくられましたが,宋代には〈欧陽脩〉(おうようしゅう,『新唐書』『新五代史』が主著) 【本試験H11『資治通鑑』ではない】【本試験H21唐代ではない,本試験H25】時期】や〈蘇軾〉(そしょく,「赤壁の賦(ふ)」で有名) 【本試験H3長恨歌の作者ではない,本試験H11:宋代の文化か問う。散文の代表的作者か問う】【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】といった古文のスタイルをみならい復興させた,散文【本試験H3】の名文家も現れます。すぐれた8人は「唐宋八大家」(はちだいか,はちたいか。唐の〈韓愈(かんゆ)〉【本試験H3宋代ではない】【本試験H22古文を復興したか問う】と〈柳宗元(りゅうそうげん)〉【本試験H3宋代ではない】。宋の〈欧陽脩(おうようしゅう)〉【本試験H11『資治通鑑』の著者ではない】,〈蘇洵〉,〈蘇軾(そしょく)〉,〈蘇(そ)轍(てつ)〉,〈曾鞏(そうきょう)〉,〈王安石〉【追H27】【慶文H30記】)と称されました。現実には周辺民族にすっかり“押され気味”となっていた宋では,歴史上の王朝を振り返り“あのころは良かった”と懐かしむ古典主義的な風潮が流行したわけです。

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貨幣で土地を買い占めた大地主は,小作人として佃戸(でんこ) 【本試験H26時期】を働かせ,なかには奴隷同然の佃戸もいました。

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 また,東南アジアからチャンパー米(まい)(占城稲(せんじょうとう))という収穫量の多い新しい品種も導入されました【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題。春秋戦国時代後漢または清代ではない)】。こうして生産力がアップすると,「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」【追H25時期が宋代か問う】(長江下流域で稲穂が実れば,中国人みんなのお腹を満たすことができる)といわれるようにもなりました。
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 しかし,経済が盛んになればなるほど,人々の間に経済格差が生じます。また,北方の異民族の進入に対処するための軍事費も膨れ上がり,財政のやりくりがたいへんになっていました。
 そこで,1067年に即位した〈神宗〉(しんそう,在位1067~85) 【本試験H22徽宗ではない】のときに,〈王安石〉(1021~86) 【追H27宋を建てていない】 【本試験H21】【慶文H30記】【明文H30】が登用されます。25歳で科挙に4位で合格したエリートです。彼が財政再建のために提案したのは,歳出を減らし歳入を増やすとともに,軍事力を強化するための一連の新法(しんぽう)でした【京都H21[2]】【本試験H21】。例えば,民兵を訓練して治安維持に用いる保甲法【本試験H14秦代ではない】,働くことで税をおさめる力役(りきえき)を免除するために免役銭を集めて働きたい者を雇う募役法,植え付け時に貧農に金銭・穀物を低金利で貸す青苗法(せいびょうほう【本試験H22一条鞭法ではない】),中小商人に低金利で貸し付ける市易法(しえきほう【本試験H24漢代ではない】【追H21北魏の制度ではない】),そして物価安定をめざす均輸法などです。これらの施策によって国家財政は好転し,かなりの効果を収めました。
 しかし,特に市易法(しえきほう)や青苗法(せいびょうほう)は,貸付によってもうけていた大商人や地主【本試験H30】の反発も強く,反対派の旧法党【追H26東林派とのひっかけ】と新法党との間の党争が起きました【本試験H17唐代ではない】。旧法党の政治家としては、歴史家で『資治通鑑』(しじつがん(注)) 【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9,本試験H11】【本試験H13南宋の和平派とのひっかけ】【追H21編年体か問う、H24班固の著作ではない,H28司馬遷による編纂ではない】を編年体【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9】であらわした〈司馬光〉(しば こう1019~86) 【本試験H9】【本試験H26両税法の楊炎ではない,本試験H30】が有力です。


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しかし,科挙の受験勉強には莫大な費用がかかったことから,宋代では経済的に余裕のある新興地主(形勢戸【本試験H11科挙の特別な受験資格を持った家のことではない】)の合格者が多数を占めていました。

画院【本試験H17】という芸術家を集めた官庁を保護した〈徽宗〉(きそう,位1100~25) 【本試験H17高宗ではない】【追H19】のころには,庭を作るためにお好みの奇岩(花石綱)を調達しようとして民衆を酷使したことなどがきっかけで,1120年に方臘の乱(ほうろうのらん)というマニ教徒の乱が起き,各地は大混乱に陥りました。このときの民衆反乱に加わった無頼層(アウトロー)たちの活躍が,物語『水滸伝』(すいこでん) 【追H24元代に原形ができたか問う(正しい)】のモチーフになっているといわれます。

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 そんなときに,1126~27年に金が開封に攻め込んできたために対応が遅れ,上皇徽宗〉(きそう,在位1100~25,生没年1082~1135)と皇帝〈欽宗〉(位1125~27,生没年1100~61)(きんそう)は捕虜となり,華北を失いました。これを靖康の変【東京H8[3]】【H27京都[2]】【本試験H18地図・土木の変ではない,H21 世紀を問う】【早・法H31】(せいこうのへん)といいます。
 〈欽宗〉の弟〈高宗〉(こうそう;趙高,在位1127~62) 【追H29趙匡胤ではない】が江南に逃げて皇帝となって,宋を復活(南宋,1127~1276(1279に皇族が全滅)) 【追H29】し,大運河の終着点である臨安(現在の杭州) 【本試験H2金陵とは呼ばれていない(それは明代の現・南京),本試験H4明の遷都先ではない】【本試験H21】【追H18】を都にしました。

 なお,〈徽宗〉は宮廷の画院(がいん)【早・法H31】を拠点にした院体画(北宗画(ほくそうが)) 【早・法H31】の画家としても有名で,「鳩桃図」(きゅうとうず) 【本試験H11:宋代の文化かどうか問う。文人がの代表作ではない】が代表作です。この絵はのちに〈足利義満〉のもとに流れ着き,日本の国宝になっています。

 こうして宋は,淮河(わいが(淮水,わいすい)) 【本試験H5】【H27京都[2]】以北を金に占領されてしまう事態となり,金に対して臣下の礼をとることとなりました【早・法H31】。
 金【本試験H21元ではない】との和平派【本試験H13旧法党ではない】の〈秦檜〉(しんかい,1090~1155) 【本試験H21】と主戦派の〈岳飛〉(がくひ,1103~41)との対立も起きます。金【本試験H8遼ではない】の南進を不安視した〈秦檜〉は,1141年に〈岳飛〉らを処刑し,1142年に和議を成立させました(紹興の和議)。これは金を臣,南宗を君とする内容で【本試験H8「金の臣下になるという条件」か問う】,銀25万両と絹25万疋を毎年支払うもので,“金で平和を買った”わけです。
 金に勝った英雄〈岳飛〉を,〈秦檜〉が自分の出世のために獄死に追いやったとされ,「中華」のほうが異民族より“上”なのだという大義名分論を説く朱子学の考え方では,〈秦檜〉は“悪者中の悪者”(国賊(こくぞく))です。
 金は猛安・謀克(もうあんぼうこく) 【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】【本試験H16・H27・H30】【追H19】という,遊牧民と定住農牧民とで支配の方式を使い分ける制度を導入しました。
 すでに1276年に首都臨安を失っていた南宋は1279年に,モンゴル人で元の皇帝〈クビライ=カアン(フビライ=ハーン)〉(位1260~94) 【追H9チンギス=ハンではない】に敗れ,逃亡していた南宋の皇族たちが亡くなり,完全に滅びました。


●朝鮮

地方の豪族出身で中央政界に進出し,文官と武官どちらか【本試験H8文官と武官を「兼ねた」わけではない】の官僚として特権を獲得し,「両班」(ヤンバン)階級【追H19佃戸ではない,H26】が形成されていきました。文官と武官は,党派に分かれて争うようになり,しばしば政治の混乱を招くようになります【本試験H8】。
 民衆の大部分は良人(りょうじん) 【追H26リード文】身分の農民で,さらにその下には賤人(せんじん)身分の奴婢(ぬひ) 【追H26リード文】【本試験H6】がいました。


のち,1125年に遼が崩壊し【本試験H12匈奴により滅んだわけではない】,1127年に南宋が成立すると,高麗は1128年に女真(女直)人の金の冊封体制下に入りました。高麗ではその後内紛が勃発し,下級の武臣によるクーデタにより12世紀末に武臣政権が成立しました。


●東南アジア
9世紀初めには,チャンパー【東京H30[3]】王国(環王)の勢力が盛んになり,漢人の王朝である唐(618~907)の設置した安南都護府が攻撃されました。
 防衛のために軍事力を強化すべく,現地の豪族が用いられるようになると,8世紀後半には今度は彼らが安南都護府に干渉するようになります。

 9世紀後半には,雲南南詔が,南シナ海の交易ルートにアクセスしようと,安南都護府を攻撃するようになります。しかし,唐にとって安南都護府は,東南アジアとの交易のための“生命線”です。なんとか維持しようとしましたが,次第に大型のジャンク船【本試験H22三段櫂船ではない】【立命館H30記】が発達・普及していくにつれ,ヴェトナム中部から直接,海上南シナ海沿岸の広州などを結ぶルートが主流になると,ヴェトナム北部の重要性は低下し,勢いは衰えていきました。


しかし,紅河の農耕地帯の拠点を押さえていなかったために国力は弱く,将軍〈李公蘊〉(リ=コウ=ウアン,りこううん,在位1009~28)が李朝【本試験H16時期・元を撃退していない,本試験H20唐代ではない】を建て,国号を大越(ダイベト)としました。

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 シャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】は9世紀半ばにジャワ島で勢力を失うと,9世紀後半にはマラッカ海峡方面に拠点が移動しました。

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インドとの活発な交易を背景に「ヒンドゥー教」や大乗仏教と土着の文化が融合し(⇒800~1200南アジア),ヒンドゥー=ジャワ文化が栄えました。特に,『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』【東京H10[3]】を題材にした影絵芝居のワヤン=クリ(ワヤン,ワヤン=クリット)【本試験H26地域を問う】【追H24ジャワの影絵芝居か問う】は10世紀には上演されていました。

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 1025年にインド南東部のチョーラ朝【本試験H31中国の清に使節を派遣していない(時期が違う)】がマラッカ海峡に大遠征軍を差し向け,交易ネットワークを支配しようとしましたが,1080年頃から支配は弱まります。

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 のちに1113年に東北タイの台地から南下した〈スールヤヴァルマン2世〉(位1113?~50?) 【本試験H19チャンドラグプタ2世ではない】は,アンコールで即位し,1116年には中国の宋に朝貢。東南アジア諸国にとって,中国の皇帝からより高い位(くらい)を与えられることは,中国との衝突を避けつつ,周囲の国家よりも「自分のほうが上だ!」とマウンティングするための重要な手段でした。

乾季にも栽培できるように早生種が導入され,確保した労働力が王の権威を象徴する巨大施設建設に振り向けられました。これが,65mの塔を持つ大規模な寺院(アンコール=ワット) 【本試験H9[19]図版・イスラム教の寺院ではない】【本試験H21大乗仏教の寺院ではない,本試験H19シュリーヴィジャヤ王国ではない・時期,H31クメール人によって建てられたか問う】【追H17地図上と時期(8世紀ではない)】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】です。

 アンコール=ワットは,都城アンコール=トム【本試験H27】の南部に建設されました。
 寺院は当初はヒンドゥー教【本試験H19】の神々を祀(まつ)るために建てられました。なお,アンコール=ワットから東へ60kmのところにはベン=メリア寺院があり,“東のアンコール”と呼ばれます(建設時期はアンコール=ワットより早い)。


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 ビルマでは,ピューが衰えたのち,11世紀に〈アノーヤター〉王(位1044~1077)が即位してパガン朝【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H5,本試験H11:時期(11~13世紀かどうか問う)】【本試験H18スマトラ島ではない,本試験H19インドネシアではない,本試験H26地域を問う】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が開かれました。
 パガンはイラワジ川中流域で,南下したビルマ人【本試験H5モン族の文化を保護していない】により建国され,灌漑を奨励して栄えました。上座仏教【本試験H6ビルマで上座仏教が信仰されているか問う】【本試験H16大乗仏教ではない,本試験H19・H22】を国教とし,多くのストゥーパ(パガン)が多数建立されました。だからパガン朝というのです。


●南アジア
マハーバーラタ』【東京H10[3]】や『ラーマーヤナ』が地方語に訳されていったのもこの時期です。

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イスラーム教徒のインドへの進出もこの時期のことです。
 642年にニハーヴァンドの戦い【追H30】でササン(サーサーン)朝【追H30】を滅ぼしたイスラーム教徒たちは,アラビア海に沿ってインドに向かってきました。


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 アッバース朝が衰退すると,アム川とシル川に挟まれた地域(マーワラー=アンナフル地方) 【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】では,875年にこの地域のイラン系【本試験H10】貴族の〈サーマーン〉がイスラーム教に改宗した後,サーマーン朝【本試験H10】【追H18時期】を建てました。サーマーン朝はアッバース家から自立し,サッファール朝を破りました。首都はブハラです。
 しかし,965年頃,今度はサーマーン朝につかえていたトルコ人マムルークである〈アルプテギン〉が,アフガニスタン【本試験H10ここを本拠とするか問う】のガズナで独立し,ガズナ朝(962~1186) 【本試験H10】【追H19時期,H21時期(10世紀か)】
【追H21】
が自立しました。〈マフムード〉(位998~1030) 【慶文H29】のときに,北インドへの侵攻を開始しました【本試験H31北インドへの侵略を繰り返したのはマムルーク朝ではない】。

*

カリフ以外で初めてスルターンを名乗ったのは,ガズナ朝の〈マフムード〉(971~1030)です。のちのセルジューク朝の〈トゥグリル=ベク〉はカリフにスルターンの称号を要求しましたが,〈マフムード〉はカリフの権威は認めていました。この〈マフムード〉王にペルシア語【追H28サンスクリット語ではない】で『王書』(シャー=ナーメ) 【追H28『王の書』】という叙事詩を書き献上したのは〈フィルドゥシー〉(フェルドウスィー,934~1025)。さらに〈アル=ビールーニー〉(973~1048)は彼の遠征に同行して『インド誌』を記録しています。

 プラティハーラ朝は,1018年に彼にカナウジを占領されて滅んでいます。彼の死後には王朝は弱体化し,1038年にセルジューク朝にホラーサーンのニシャープールを奪われ,1148年頃にアフガニスタンでゴール朝(1148頃~1215) 【追H17仏教国ではない】が自立したため,ガズナ朝はインドのパンジャーブ地方に拠点を移しますが【本試験H219世紀ではない】,1186年に滅びます。

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インド南端部では,南東のチョーラ朝(850頃~1279頃) 【追H20時期(14世紀か)】がカーヴェリ川の三角州でダムや灌漑施設を整備したことで栄え,〈ラージャラージャ1世〉(位970~985)は,南部の諸王国とスリランカを破り,さらにガンジス川や東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国(注) 【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】にまで遠征して,一時マレー半島を支配するまでに発展し,海上交易で栄えました【本試験H29】【追H20東南アジアにまで遠征したか問う,時期(14世紀か)】。東南アジアにはインドの「ヒンドゥー教」文化が伝わり,10世紀頃のジャワ島【追H20】ではインドの神話を題材とした影絵芝居【追H20】ワヤン(ワヤン=クリ;ワヤン=クリット) 【追H20】が上映されていました。ちなみに,現在のインドネシアの国章に描かれるガルーダ(国営航空会社の名でもあります)は,ヒンドゥー教ヴィシュヌ神の乗り物です。]

 

西アジア


お隣のヨーロッパにおいても人口増加を背景として,拡大運動が始まっています。その最たる例が1095年にローマ=カトリック教会の教皇により提唱された十字軍【東京H7[1]指定語句】でした。
 十字軍は宗教的情熱から始まった運動ですが,それと同時に増加したヨーロッパ諸民族の対外拡大運動でもあったのです。少数のキリスト教徒(「フランク人」(注2)と呼ばれました)の支配者がイスラーム教徒の農民を支配する体制となり,軍事力を補うために騎士修道会による移民がおこなわれました。また当時のイスラーム教徒側は十字軍との戦いを必ずしも宗教的な戦いととらえておらず,キリスト教徒に対抗する勢力も一枚岩ではありませんでした。

 なお,この時代はテュルク人が活躍する時期でもあります。彼らはもともとモンゴル高原を拠点としていましたが,西に移住してイスラーム教を受け入れ軍人としての才覚を開花させ,11世紀にはセルジューク朝という大帝国を建設するに至ります。イランのサーマーン朝【慶文H29】はその育成・輸出で繁栄。そこからアフガニスタン方面のガズナ朝【本試験H3】,ゴール朝【追H17仏教国ではない】の北インドへの進出もこの時代です。

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〈ハールーン=アッラシード〉(位786~809) 【本試験H3シャープール1世ではない】【本試験H21時期】の死後,その子〈マアムーン〉(位813~833)のもとで〈フワーリズミー〉が代数学(アルジブラ) 【東京H23[1]指定語句】を発達させるなど学芸が栄えました。フワーリズミーとは「ホラズム地方出身」ということを表した名です。イスラームにおける数学には,インド【東京H23[1]指定語句】【追H28イスラーム世界からインドに伝わったわけではない】で発見されたゼロの記数法【追H19】が影響を与えています。
 アラビア数字【本試験H2バビロニア王国で考案された文字ではない】は,現在,世界で使用されている算用数字のもとです【本試験H2】。

 また,ウラマー(学者)の〈タバリー〉(位838~923) 【追H21リード文に登場】が『預言者たちと王たちの歴史』という長大な歴史書を,一神教世界観に基づく人類史の中に〈ムハンマド〉以降の歴史を位置づけた年代記の形で発表しています。
 カリフの〈マアムーン〉はバイト=アル=ヒクマ(知恵の館)を建設し,学者を招いて古代ギリシア・ローマの文献のアラビア語翻訳【追H18】を奨励しました。


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 ソグディアナ【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】ではブハラ【京都H22[2]】【本試験H30コルドバではない】を都として,イラン系【本試験H10】【追H21トルコ系ではない】の支配者によりサーマーン朝 (874~999) 【京都H22[2]問題文】 【本試験H10】【追H21時期(10世紀ではない)】【慶文H29】が独立しています。ブハラには,医学者(著書『治癒(ちゆ)の書(しょ)』)・哲学者(〈プラトン〉と〈アリストテレス〉の思想をイスラーム教に導入)として有名な〈イブン=シーナー〉(980~1037) 【東京H23[1]指定語句】【本試験H10】【本試験H16イブン=サウードではない】【追H20時期,追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う→正しいが、11世紀から12世紀にかけて生きた〈ガザーリー〉(1058~1111)も選択肢にあるので超難問(センタ―試験史上最高峰?))、H30ラテン語に翻訳されたか問う】をはじめとする学者が集まり,世界屈指の文化・科学技術が発達する街となりました。

 946年にはカスピ海の南西岸の山岳地帯ダイラムのシーア派(ザイド派)に属するブワイフ家が,ダイラム人を率いて軍事的に台頭し,アッバース朝から独立しブワイフ朝【本試験H16地域(西アジア),本試験H22 13・14世紀ではない・南アジアではない】【追H18】を建国しました。
 ブワイフ朝アッバース朝の都バグダードに入城し【本試験H16,本試験H20世紀を問う】ブワイフ家の〈アフマド〉が,アッバース朝のカリフの〈ムスタクフィー〉(位944~946)に迫って「大アミール」(注)の職を授かり,ダウラ(国家)の守護者の称号を与えられるとともに,シャー=ハン=シャー(王の中の王)というイランの伝統的な王の称号も用いました。これはアッバース朝の時代にはカリフの次に重要なポストでした。

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 ブワイフ朝は,配下の騎士に俸給を払うアター制に代わって土地を与え,その地で徴税をする権利(徴税権)まで与えました。徴税権付きの土地,あるいは徴税権そのもののことをイクター【本試験H5ジズヤではない】【本試験H13ラティフンディアとのひっかけ】といい,この制度をイクター制といいます【本試験H27後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)ではない,本試験H29】【追H25オスマン帝国が創始したのではない】【中央文H27記】。イラクでの実施が最初の例ですが,その後のイスラーム諸政権はイクター制に類する制度を採用することになります。

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 ブワイフ朝は,軍人同士の対立やスンナ派シーア派の対立,イクターを授与された軍人の厳しい徴税による農村の荒廃により衰えていきました。そんな中,11世紀にはテュルク人のイスラーム王朝(スンナ派【本試験H23】【追H21シーア派ではない】)であるセルジューク朝【本試験H6タリム盆地は含まない,小アジアパレスティナイラン高原は領域に含む】【本試験H21地図上で進出ルートを問う・アイユーブ朝ではない,本試験H23地図上の位置を問う,H31】【追H25シーア派の学問を振興していない,H29】 (1038~1194)が,マムルークの軍事力により強大化しました。

 〈セルジューク〉(生没年不詳)は,当時シル川よりも北にいた遊牧民オグズ人集団の連合体の指導者でした。オグズは後に「トゥルクマーン」と呼ばれるようになります。その後〈トゥグリル=ベク〉【本試験H16ファーティマ朝の宰相ではない】は,1055年にバグダードに入城し,カリフに「スルターン」【セ試行「ウマイヤ朝で,スルターンの称号がイスラム史上はじめて世襲された」のではない】【本試験H9ウラマーのひっかけ】の位を要求し,希望通り授けられます。

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また,セルジューク朝遊牧民のテュルク【京都H20[2]】系の集団を引き連れ小アジアアナトリア【本試験H31】【追H29モロッコではない】〕にも進出しビザンツ帝国を圧迫【本試験H31】します。

 第2代の〈アルプ=アルスラン〉(位1063~73)1071年にマンジケルトの戦い【京都H20[2]問題文】で勝利しました。セルジューク王族の一人〈スライマーン〉が小アジアのコンヤ【京都H20[2]問題文】を首都として1077年にはルーム=セルジューク朝(1077~1308) 【京都H20[2]】【本試験H8オスマン帝国ではない】【追H17十字軍のきっかけとなったのはブワイフ朝ではない】を建国しています。
 イェルサレムにも支配を拡大したことから「イスラーム教徒がキリスト教の巡礼者を妨害している」という主張が生まれ,第一回十字軍【H30共通テスト試行 移動方向(ヨーロッパから西アジア方向であることを問う)】【追H17きっかけはブワイフ朝小アジア進出ではない】のきっかけとなりました。しかし,セルジューク朝が組織的に巡礼を妨害したという事実は,明らかになっていません。

 第3代〈マリク=シャー〉(位1072~92)のときにはシリアにも進出し,領域を拡大しました。各地に学院(マドラサアラビア語で「学ぶ場所」を指す一般名詞)【追H27イスラーム教の法・神学を学ぶ施設か問う】)を建て学問を奨励し,イラン人の宰相〈ニザーム=アルムルク〉(1018~92)によりバグダードやニシャープールになど9か所にマドラサ(学院)が建設され,ニザーミーヤ学院【東京H14[3]】【本試験H16カイロではない・ファーティマ朝による建設ではない】【追H25シーア派を振興していない】【慶文H29】と総称されました。
 マドラサでは学問的な修練を積んだウラマー(学者)を中心にイスラーム法学が発展する一方,難解な教義を通してではなく神秘的な体験を通してスーフィー【追H17】という聖者の指導で直接的な神との一体化【追H17】を目指すスーフィズム(神秘主義) 【本試験H6「復古主義原理主義的で,「コーランの教えに帰れ」と唱えていた」わけではない(それはワッハーブ派など)】【追H17】が農村部で広がりをみせていました。スーフィズム教団は修行を積んだ師(シャイフ)に率いられ,民衆から聖者(ワリー)として尊敬を集めました。


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 抒情詩『ルバイヤート(四行詩集)』が〈オマル(ウマル)=ハイヤーム〉(1048~1131。オマルはペルシア語読み。ウマルはアラビア語読み) 【追H19シャクンタラーとのひっかけ】によって編まれました。

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 962年には,アフガニスタン【本試験H10】でも,サーマーン朝【追H21時期(成立は10世紀ではない)】のホラーサーン地方(現在のイラン東部)総督だった〈アルプテギン〉(?~963以前?) 【本試験H9[25]マムルークの出身か問う】が自立し,ガズナ朝【本試験H3トルコ系か問う,本試験H9[24],本試験H10】【本試験H28時期,本試験H30】【追H21時期(10世紀か)】をおこし,10世紀末には北インドに進出し始めます【H29共通テスト試行 地図の読み取り(トルコ系の勢力がインドにも進出したことを読み取り)】。ガスナ朝時代の〈フィルダウシー(フィルドゥーシー)〉(934~1025)は『シャー=ナーメ』(『王書』)というイランの神話,伝説,歴史をペルシア語で記録した叙事詩を著し,ガズナ朝の王に献上しています。

 12世紀には,ガズナ朝からゴール朝(1148頃~1215) 【追H17仏教国ではない,H20】が自立して,インドに進入を繰り返し,1192年にはラージプート諸王国を倒して,インダス川ガンジス川を含む北インドに支配を拡大しました。
 
 なお,アム川下流域のホラズムでは,地元勢力がガズナ朝の支配を振り切り1077年に自立します。自立したのはセルジューク朝の総督だった人物で,ホラズム=シャーを名乗り,ホラズム=シャー朝を樹立しました【本試験H7セルジューク朝を滅ぼしたのはオスマン帝国ではない】【本試験H31チンギス=ハンにより滅んだか問う】【追H29アルタン=ハンにより滅んでいない】。
 1215年にはゴール朝を破り【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない】,シル川からイランにかけて広大な領土を一時的に支配しました。ホラズム=シャー朝のもとでは,ペルシア語文学の傑作が〈ルーミー〉(1207~73) 【本試験H24リード文】によって発表されました。彼は,くるくるコマのように回転する儀式で有名なメヴレヴィー教団【本試験H24リード文】の開祖でもあります。


●アフリカ
 この地方では,現地のバントゥー語系の言語にアラビア語の語彙(ごい)が加わってスワヒリ語【H30共通テスト試行 インドネシアではない】が生まれ,独特なスワヒリ文化【セA H30北アメリカではない】が形成されていきました(注1)。

◆塩金交易【追H30】で栄えたガーナ王国は,ベルベル人に滅ぼされた
西アフリカのイスラーム化は主として武力により進む
 ニジェール川流域のガーナ王国【東京H9[3]】【本試験H8サハラ縦断交易で栄えたか問う,H9[24]地図上の位置を問う】【追H25,H30】は,8世紀頃から黄金を産する国として,地中海沿岸の人々に知られていました。
 滅ぼしたのは,北西アフリカに分布するベルベル人です。

 ベルベル人ムラービト朝【追H25】は1076年から1077年にかけてこの地を征服(ジハード)するとともに,この地にイスラーム教を伝えました(注1)。
 現在でも,ニジェール川流域のマリ共和国の人口の80%は,イスラーム教徒です。なおガーナ王国の首都クンビ=サレーは現在の⑭マリ共和国の北部国境地方に位置し,現在の⑤ガーナ共和国の所在地とは別のところにあります。

 9世紀にサハラ沙漠においてラクダを交通手段とした隊商交易が盛んになり,サハラ沙漠で産出される岩塩とサハラ沙漠の南縁(セネガル川上流のバンブク周辺で産出される金(注2))で産出される金(キン)を交換する塩金【追H30】はますます盛んになっていました。そこで,ニジェール川沿岸の人々にとってイスラーム教に改宗することには,交易路の安全を確保し貿易をスムーズに行うというメリットもありました。


*

 10世紀になると地域政権が自立する傾向は一層すすみ,現在のチュニジア【H27京都[2]】でシーア派【本試験H16,本試験H23ともにスンナ派ではない】の中でも過激派にあたるイスマーイール派の布教活動によってファーティマ朝【京都H19[2] ,H27[2]】【追H9スルターンの称号を得ていない】【本試験H23地図上の位置,H29共通テスト試行 セルジューク朝の下でカイロが繁栄したわけではない,H31】が建国されました。主体となった民族はベルベル人【H27京都[2]】です。
 第六代〈ハーキム〉(位996~1021)はカイロに「知恵の館(やかた)」を建設。バグダードを拠点とするスンナ派のカリフに対抗し,イスマーイール派の信仰の拠点とします(彼はのちに姿をくらませますが,その彼の復活を救世主として待望するのが,現在のレバノンで信仰されているドゥルーズ派です)。

 アッバース朝はテュルク系のマムルークなどを派遣して鎮圧しようとしましたが,派遣されたイラン系の軍人がいうことを聞かなくなりファーティマ朝の攻撃を押しのけました。その功績から935年にカリフに認められる形でエジプトでイフシード朝(935~969)を建国しました。事実上の独立です。
 しかしチュニジアファーティマ朝は,エジプトのイフシード朝が弱体化すると,969年にナイル川沿いの交易拠点でもある都フスタートに無血入城し,その北に新都カーヒラ(アラビア語で「勝利」という意味。英語だとカイロ【本試験H2時期(10世紀か),ファーティマ朝の首都になったか問う】【東京H8[3]イスラームの勃興後に建設された都市を地図から選ぶ】)を建設し,さらには「カリフ」を宣言してしまいます【本試験H16カリフを称したかを問う,H31カリフの称号を用いたか問う】。
 後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)の君主も「カリフ」宣言したので,なんとカリフが同時に3人存在する分裂時代となりました。ファーティマ朝のカリフは,シーア派【本試験H16・本試験H23ともにスンナ派ではない】の中でも過激な主張を唱えるイスマーイール派を保護し,アリーの後継者を自任しました。カイロ【追H25】【東京H14[3]】にはアズハル学院【東京H14[3]】【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない・カイロにあるかを問う】【追H25ファーティマ朝時代か問う(アズハル学院(アズハル大学))、H29アッバース朝による創設ではない】というマドラサ(学院)が建設されました。


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 12世紀後半には,クルド人【東京H25[3]】の〈サラーフ=アッディーン〉(サラディン【東京H8[3],H13[1]指定語句】【H27京都[2]】,在位1169~93) 【本試験H16】【追H18、H20】が,スンナ派【本試験H16】のアイユーブ朝【追H27マムルークを用いたことを問う】【京都H19[2]】【本試験H16】を開き,1171年にファーティマ朝を滅ぼしました。
 彼はイェルサレム【東京H8[3]】をキリスト教徒から奪回し【本試験H29,H31マムルーク朝によるものではない】【追H20】,1187年には再奪回しようとした第三回十字軍【本試験H16第一回ではない】をヒッティーンの戦いで撃退しました【本試験H16イェルサレム王国は建国していない】。

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 ハワーリジュ派のルスタム朝,イスマーイール派ファーティマ朝など,非スンナ派が各地で政権を握る中スンナ派を復活しようとする運動が起こり,1056年にベルベル系【本試験H3「ベルベル人」か問う,本試験H8「ベルベル人」か問う】のサーンハジャという遊牧民出身でスンナ派法学者の〈イブン=ヤースィーン〉(?~1059)が聖戦を宣言。モロッコマラケシュ【追H28都はカイロではない】【本試験H25】にムラービト朝【東京H11[1]指定語句】【本試験H3ナスル朝とのひっかけ,本試験H8時期(11世紀),本試験H9マムルークにより樹立されていない,本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】【追H24フランク王国に滅ぼされていない】が建てられました【本試験H16地域,本試験H21建国時期】。ムラービトの由来は,運動の主体となったイスラームの戒律に従う「ムラービトゥーン」(修道士)で,ヨーロッパではスペイン語の影響を受けた「アルモラヴィド朝」と呼ばれます。彼らはカリフを称することなく,あくまでアッバース朝のカリフを中心にスンナ派の信仰を守る政権を建てようとしたのです。この背景には,サハラ沙漠の塩と金を交換する交易ルートをめぐる経済的な争いもありました。
 その証拠に,ムラービト朝【本試験H3】はサハラ沙漠を南に進軍し,ガーナ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】を1076~77年に滅ぼしています(ガーナ王国の滅亡【本試験H3】)。

*

北アフリカ遊牧民を母体とするムラービト朝【本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】は,本拠地がイベリア半島に移ったことで弱体化していき,1147年には同じくマラケシュに都を置くムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)、H24ムラービト朝フランク王国による滅亡ではない】により滅びました。

 ムワッヒド朝は1072年にシチリア島パレルモを占領し,ノルマン人とも戦っています。マグレブ地方東部のハンマード朝とズィール朝ムワッヒド朝に滅ぼされました。さらにイベリア半島にも遠征して支配域を広げ,イベリア半島北部~中央部のカスティーリャ王国【東京H11[1]指定語句】と,北西部のアラゴン王国,西部のポルトガル王国(1143年にカスティーリャ=レオン王国【本試験H21神聖ローマ帝国ではない】から分離) などの推進していた再征服運動(レコンキスタ,国土回復運動)に立ち向かいました【本試験H21ドイツ騎士団によるものではない】【追H25】。

*

これに対し,分裂の進んでいた〈カール大帝〉亡き後のフランク王国には為す術がありません(843年にヴェルダン条約【セ試行】,870年にメルセン条約【セ試行】で三分裂【本試験H3】)。

 また,9世紀にはアッバース朝に対する反乱に失敗しモロッコに逃れたアリー派のアラブ人が,ベルベル人【H27京都[2]】の支持を得てイドリース朝(789~926)を建国しました【H27京都[2]問題文(わからなくても解答可能)】。


●ヨーロッパ
 人口増にともないドイツ人は東方に移動し(ドイツ東方植民),東ヨーロッパ・中央ヨーロッパバルカン半島に拡大していたスラヴ人ポーランドベーメンなどの王権と対立しました。
 この2国をめぐっては,ビザンツ帝国とローマ=カトリック教会との間に“布教合戦”が繰り広げられましたが,東方(ドニエストル川流域から9世紀末にカルパティア盆地に移動)から移住したマジャール人ハンガリー (9世紀初めに建国されていたモラヴィア人の国を滅ぼし,ザクセンバイエルンを圧迫しました) 【本試験H5クリム=ハン国ではない】とともに,最終的にはローマ=カトリックを受け入れました


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民族の大移動を受けて西ヨーロッパの社会は自給自足の分権的な社会に入っていくと,黒海に北から注ぐドニエプル川ヴォルガ川を上流へさかのぼって,北方のバルト海につなげる交易ルートの往来が盛んになっていきました。これに目をつけたノルマン系のスウェード人の一派の首長である〈リューリク〉(位864~879) 【慶文H30】は,バルト海にほど近いノヴゴロドに国家を建設します【追H19、H27リトアニアポーランドの合同によるものではない】【本試験H5ブルガリア人の国家ではない,本試験H7モンゴル人の支配から自立した国ではない】。この地に居住していたのは東スラヴ人の一派です。
 スラヴ人の現住地は,西ウクライナから南ベラルーシの付近といわれています。現在のロシア,ベラルーシウクライナなどの地方に拡大したスラヴ人は,東スラヴ人に分類されます。ノヴゴロドに居住していたのは,東スラヴ人で,彼らの中ではこの地の交易のもうけをめぐって争いが絶えなかったといいます。そこで彼らは,スウェード人(スウェーデンヴァイキングのことで,ロシアではヴァリャーグ人ともいいます)の軍事力を頼ったのだという記録が残されています。
 彼らスウェード人は,ここにいたスラヴ人【東京H6[3]】(正確には東スラヴ人)と交流して,やがて合流します。スウェード人のことを「ルーシ」ともいい,これが今のロシアの語源です(他説もあり)。

 さて,〈リューリク〉の親族である〈オレーグ〉(位882~912)は,交易の拠点をさらに南に移すため,ドニエプル川中流キエフを占領し,各地の公を支配化において,自らは大公に就任しました。これがキエフ公国(キエフ大公国キエフ=ルーシともいいます。9世紀末~1598) 【東京H6[3]】 【追H19,H28成立時期は中国の唐代か問う(正しい)】【本試験H2ビザンツ帝国の商人による建国ではない,本試験H5ポーランド人の国ではない】【本試験H25時期,本試験H30ブランデンブルクとのひっかけ】。各地は公国の支配者(クニャージ)により支配されていましたが,キエフの支配者は,ルーシの公たちを支配化に置き,「ヴェリーキー・クニャージ」の称号を用いました。日本語では公とか大公と訳されますが,王のような存在でした。

 キエフ公国は,黒海方面とバルト海との中継貿易で栄えていましたので,ビザンツ帝国との友好関係を重視するようになります。 980年頃に即位したキエフ公国の王〈ウラディミル1世〉(位980頃~1015) 【本試験H25】【追H19ウィリアム1世ではない】【慶文H30】は,ビザンツ帝国との友好関係を保つため,ギリシア正教に改宗して国教化【本試験H23,本試験H25ユダヤ教ではない,本試験H28ピョートル大帝ではない】【追H19】し,ビザンツ文化を受け容れ,専制君主政治をまねしました。彼は,ビザンツ皇帝の〈バシレイオス2世〉(位976~1025)の妹と結婚しています。さらに農民を農奴にして,貴族による大土地所有が発達していきます。彼の息子〈ヤロスラフ賢公〉(位1019~54)は,ロシア最古の成文法を整備し,11世紀後半にキエフに聖ソフィア聖堂を建てています。
 このようにして,キリスト教文化圏は,東ヨーロッパ方面にも拡大していきました。

 西スラヴ人に含まれるのが,ポーランド人,チェック人【本試験H30ハンガリー人とのひっかけ】,スロヴァキア人です。彼らはローマ=カトリックに改宗し,ラテン語の文化圏に入りました。

*

チェック人も10世紀にベーメン(ボヘミア)王国として統一【本試験H30ハンガリー王国ではない】しましたが,地理的にドイツ人の支配を受けやすく,11世紀に神聖ローマ帝国支配下に入りました。


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 民族の大移動を受けて西ヨーロッパの社会は自給自足の分権的な社会に入っていくと,黒海に北から注ぐドニエプル川ヴォルガ川を上流へさかのぼって,北方のバルト海につなげる交易ルートの往来が盛んになっていきました。これに目をつけたノルマン系のスウェード人の一派の首長である〈リューリク〉(位864~879) 【慶文H30】は,バルト海にほど近いノヴゴロドに国家を建設します【追H19、H27リトアニアポーランドの合同によるものではない】【本試験H5ブルガリア人の国家ではない,本試験H7モンゴル人の支配から自立した国ではない】。この地に居住していたのは東スラヴ人の一派です。

 スラヴ人の現住地は,西ウクライナから南ベラルーシの付近といわれています。現在のロシア,ベラルーシウクライナなどの地方に拡大したスラヴ人は,東スラヴ人に分類されます。ノヴゴロドに居住していたのは,東スラヴ人で,彼らの中ではこの地の交易のもうけをめぐって争いが絶えなかったといいます。そこで彼らは,スウェード人(スウェーデンヴァイキングのことで,ロシアではヴァリャーグ人ともいいます)の軍事力を頼ったのだという記録が残されています。
 彼らスウェード人は,ここにいたスラヴ人【東京H6[3]】(正確には東スラヴ人)と交流して,やがて合流します。スウェード人のことを「ルーシ」ともいい,これが今のロシアの語源です(他説もあり)。

 さて,〈リューリク〉の親族である〈オレーグ〉(位882~912)は,交易の拠点をさらに南に移すため,ドニエプル川中流キエフを占領し,各地の公を支配化において,自らは大公に就任しました。これがキエフ公国(キエフ大公国キエフ=ルーシともいいます。9世紀末~1598) 【東京H6[3]】 【追H19,H28成立時期は中国の唐代か問う(正しい)】【本試験H2ビザンツ帝国の商人による建国ではない,本試験H5ポーランド人の国ではない】【本試験H25時期,本試験H30ブランデンブルクとのひっかけ】。
 各地は公国の支配者(クニャージ)により支配されていましたが,キエフの支配者は,ルーシの公たちを支配化に置き,「ヴェリーキー=クニャージ」の称号を用いました。日本語では公とか大公と訳されますが,王のような存在でした(注1)。

 キエフ公国は,黒海方面とバルト海との中継貿易で栄えていましたので,ビザンツ帝国との友好関係を重視するようになります。 980年頃に即位したキエフ公国の王〈ウラディミル1世〉(位980頃~1015) 【本試験H25】【追H19ウィリアム1世ではない】【慶文H30】は,ビザンツ帝国との友好関係を保つため,ギリシア正教に改宗して国教化【本試験H23,本試験H25ユダヤ教ではない,本試験H28ピョートル大帝ではない】【追H19】し,ビザンツ文化を受け容れ,専制君主政治をまねしました。彼は,ビザンツ皇帝の〈バシレイオス2世〉(位976~1025)の妹と結婚しています。さらに農民を農奴にして,貴族による大土地所有が発達していきます。彼の息子〈ヤロスラフ賢公〉(位1019~54)は,ロシア最古の成文法を整備し,11世紀後半にキエフに聖ソフィア聖堂を建てています。

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11世紀にビザンツ帝国【セ試行 神聖ローマ帝国ではない】は,ブルガール人【セ試行 時期(11世紀か問う)】の第1次ブルガリア帝国を滅ぼしますが,内紛や地方反乱が勃発。さらにテュルク系のセルジューク朝【京都H19[2]】の〈アルプ=アルスラン〉が小アジア東部に進入し,1071年にマンジケルト(マラズギルト)の戦いで東ローマ皇帝〈ロマヌス4世〉を捕虜としました。身代金の支払いを条件に釈放されましたが,その後の東ローマ帝国小アジアを喪失し,勝利したセルジューク朝の一派は小アジアにルーム=セルジューク朝を建国しました(1077~1308,首都コンヤ)。この時期にテュルク系のグループが小アジアに進出するようになり,小アジアイスラーム化・テュルク化(注)が進展していきます。
 セルジューク朝の進入により,東ローマ皇帝アレクシオス1世(位1081~1118年)はローマ教皇の〈ウルバヌス2世〉に救援を要請し,その結果第一回十字軍【本試験H25第四回十字軍ではない】【H30共通テスト試行 移動方向を問う】が組織されました。

 しかし,ヴェネツィア商人【本試験H12フィレンツェではない】がイェルサレム奪回をタテマエにして第四回十字軍【追H17、H19】を主導し,商圏獲得のためにコンスタンティノープル【追H17イェルサレムではない】を攻略したため,ビザンツ帝国はニケア帝国(1204~61)という亡命政権を建てました。


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 7世紀にバルカン半島北部のドナウ川下流域(右岸)でブルガール人の一派により建国されたドナウ=ブルガール=カン国(第一次ブルガリア帝国)では9世紀初頭に皇帝(ハーン)〈クルム〉(位803~814)により中央集権化が進められ,官僚にスラヴ人が用いられ「スラヴ化」が推進されました。彼はビザンツ帝国皇帝〈ニキフォロス1世〉(位802~811)に勝利し,バルカン半島東部のアドリアノープルを陥落させたものの休止。
 のち〈ボリス1世〉(位852~889)の時代に東フランク王〈ルートヴィヒ2世〉(位843~876)とローマ教会の進出に対抗するためビザンツ帝国に接近し,国家統一に利用しようと正教会に改宗【本試験H25】しました。バルカン半島においては,ローマ教会と正教会のどちらの側に付くかはその時々の政治状況により絶妙なバランス感覚が要求されたのです。〈ボリス1世〉はビザンツ帝国皇帝の〈ミカエル3世〉(位842~867)に主教の派遣を要求しましたがかないませんでした。

 皇帝は,862年に西スラヴ系のモラヴィア王国に〈メソディオス〉と弟の〈キリロス〉を派遣してスラヴ語による聖書と典礼書(てんれいしょ,儀式に関する書物)の翻訳にとりかからせていました。兄弟はスラヴ人【追H30ケルト人ではない】への布教を目指して,スラヴ語訳のためにギリシア文字からグラゴール文字を考案しましたが難解で普及せず,ローマ教会の圧力もあって失敗に終わりました。
 10世紀後半にブルガリアの〈ボリス1世〉は〈メソディオス〉の弟子を招き,ギリシア文字をベースにキリル文字【本試験H28契丹文字ではない】【追H30】が考案されました(つまり,キリル文字は〈キリロス〉(キリル)にちなんでいるものの,〈キリロス〉がつくった文字ではありません)。

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セルビアには10世紀に第一次ブルガリア帝国が西進し,皇帝〈シメオン1世〉(位893~927)に征服されました。セルビア人は正教会を信仰しています【追H27バルカン半島に定住後、ローマ=カトリックに改宗していない】【本試験H25ローマ=カトリックではない】。

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フィン=ウゴル語系ウゴル語派の騎馬遊牧民マジャール人は,ウラル山脈周辺のヴォルガ川下流域を現住地とし,9世紀頃から黒海北岸の草原地帯から東ヨーロッパへの移動を開始し,ドナウ川中流域のパンノニア平原で半農半牧の生活に切り替え,10世紀末にハンガリー王国【本試験H5クリム=ハン国ではない】【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】を建国しました【本試験H30チェック人ではない】。西方のローマ教会を受け入れ,大司教座が設置されました。

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クロアチアには常に周囲の情勢をみながら,ローマ教会側と正教会側のどちらに付くべきかの選択が迫られていました。初め部族連合が成立していましたが,879年にローマ教会により国家と認められて独立【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】。

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フランク王国の〈カール〉大帝が亡くなると,王国は3分裂。そのうち東フランク王国【本試験H8】のカロリング家は断絶し【本試験H8】,911年に有力な諸侯の選挙で王が決められるようになりました【本試験H26】【本試験H8「大諸侯」の選挙】。
子の〈オットー1世〉【セ試行】【早・政経H31論述指定語句】は,マジャール人【セ試行】を955年にレヒフェルトの戦いで撃退【セ試行  時期(10世紀か)】したことで,名声を高めました。しかし国内に目を向けるとドイツには大諸侯が多く,いうことを聞いてくれるとは限りません。
 〈オットー〉はカール大帝と同様,異民族の進入をブロックし,教皇のご機嫌をとりました。「ようやくまた守ってくれる人があらわれた!」とばかりに,教皇ヨハネス12世〉(位955~964)は,東フランクの〈オットー1世〉【本試験H19時期】【セA H30】にローマ帝国の冠を授けます。962年のことです。今後は,ドイツ王に就任した人物が,このローマ帝国の皇帝となる習わしとなっていったため,この王国は後に「(ドイツ人の)神聖ローマ帝国」【セA H30オーストリア帝国ではない】といわれるようになります。
やがて12世紀になると,この両者に叙任権闘争(じょにんけんとうそう) 【本試験H22 15世紀ではない】が勃発,〈ハインリヒ7世〉が,教皇〈グレゴリウス7世〉との間に1077年に“カノッサの屈辱”事件を起こしています。


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スラヴ人のうち西スラヴ系のチェック人は,10世紀にベーメン(ボヘミア)王国として統一【本試験H30ハンガリー王国ではない】してました。
 プラハは973年にはローマ=カトリック教会司教座が置かれています【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】。
 しかし,地理的にドイツ人の支配を受けやすく,11世紀に神聖ローマ帝国支配下に入っています。

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 もともとはベルベル人の分布地域でしたが,アラブ人が移動して以来,同化が進んでいきました。ベルベル人という民族名は,ギリシア語の「バルバロイ」(訳の分からない聞き苦しい言葉を話す人々) 【本試験H24】に由来しており,彼ら自身は「イマージゲン(自由人)」と名乗ります。

 711年にはウマイヤ朝支配下のアラブ人やベルベル人イベリア半島に上陸し,西ゴート王国を滅ぼしました。このときに上陸したイベリア半島南部の小さな半島は「ターリクの山」(ジャバル=ターリク)と呼ばれるようになり,のちになまってジブラルタルと呼ばれるようになりました。現在でも地中海の入り口にあたる重要な地点を占め,スペインの領土に囲まれる形でイギリスの領土となっています。
 その後,イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得てコルドバ【東京H11[1]指定語句】を占領し,アミールを称して後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)を建国しました(注)。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
 この動きに対し,北西部のアストゥリアス王国の王〈アルフォンソ2世〉は,797年に〈カール大帝〉に使節を派遣しています。
 フランク王国は801年にバルセロナ【本試験H8】を占領し,ここにスペイン辺境領を建てました。
 なお,814年にはイベリア半島北西部のサンティアゴ=デ=コンポステーラ【本試験H31古代ローマの時代に巡礼熱が高まったのではない】【東京H20[3]】で〈ヤコブ〉の墓が発見されたといわれ,のちに爆発的な巡礼ブームを生むことになります。


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イスラーム教徒の小王国が互いに覇権を争う中,キリスト教徒の諸王国が北部から国土回復運動(レコンキスタ【追H25】)の攻勢を強めていきます。

 1137年にはバルセローナ伯領がイベリア半島東部のアラゴン王国と同君連合の国家「アラゴン連合王国」を樹立します。アラゴン連合王国は,バルセローナやバレンシアを中心都市として,イベリア半島中央部のカスティーリャ王国,西部のポルトガル王国(1143年成立)とともに,イベリア半島ではキリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動) 【本試験H30地域を問う】【追H25】を本格化させていきました。

 また,トレドではキリスト教徒たちがユダヤ人やコンベルソ(ユダヤ人からキリスト教徒への改宗者)の強力を得て,イスラーム世界【共通一次 平1】でアラビア語【東京H10[3]】に翻訳されていた古代ギリシア共通一次 平1】の文献を積極的にラテン語【東京H10[3]】に翻訳していきました。この動きを「12世紀ルネサンス」【立命館H30記】といいます。なかには〈エウクレイデス〉や〈アリストテレス〉といった古代ギリシアの文献のアラビア語訳【本試験H12】も含み,西ヨーロッパ世界にそうした情報を伝える上で重要な役割を果たしました。

 一方,北アフリカベルベル人は〈アブー=バクル〉を中心に1056年にムラービト朝(1056~1147) 【本試験H9】を建国し,モロッコを占領して1086年にイベリア半島に上陸。
 1085年にトレドを占領【立命館H30問題文】していたカスティーリャ立命館H30記】=レオン王の〈アルフォンソ6世〉(位1065~1109)に対し,イベリア半島イスラーム教の小政権(タイファ)が救援を求めたことから,ムラービト朝が進出。

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 ムラービト朝ムワッヒド朝イベリア半島【本試験H29アナトリアではない】に進出したほか,サハラ沙漠より南にも遠征し,イスラーム世界をアフリカのサハラ以南に拡大させました。例えばムラービト朝は,アフリカのガーナ王国を滅ぼし,この地にイスラームを伝えています。

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お,西ゴート王国の首都トレド【東京H23[1]指定語句】では,古代ギリシアやローマのアラビア語訳文献が,せっせとラテン語に再翻訳されていました。ギリシア語→アラビア語【追H28】【東京H10[3]】→ラテン語【追H28】【東京H10[3]】ですから,再々翻訳といったほうがよいかもしれません。特に,トレドをおさえたカスティーリャ=レオン王の〈アルフォンソ6世〉は,学者を招いて翻訳運動をバックアップしました。
 この頃のコルドバに生まれた〈イブン=ルシュド〉(1126~98) 【本試験H6幾何学研究ではない,本試験H8元を訪問していない,本試験H10】【本試験H25パン=イスラーム主義者ではない】【追H20イブン=サウードではない,サウジアラビア王国を建設していない、H28ギリシア哲学を研究したか問う】【法政法H28記】【立命館H30記】は,〈アリストテレス〉【本試験H10】【追H20】の『オルガノン』『形而上学』『自然学』といった著作の研究を深め,イスラーム神学をより緻密なものにするためにギリシア哲学【追H28】を用いて,ヨーロッパのスコラ哲学(スコラ学) 【共通一次 平1】【追H20、H25自然哲学ではない】にも影響を与えます。

 トレドでの翻訳運動【追H28】の積み重ねは,西ヨーロッパにおける12世紀ルネサンスへとつながっていきました【本試験H6「イベリア半島イスラム文化」が,「中世ヨーロッパの文化」に影響を与えたわけではない】。
 たとえばこの頃の教皇(〈シルウェステル2世〉(位999~1003))ですら、即位前にコルドバにおもむき、数学や天文学を修めたと伝えられます。フランスやイタリアの学校でイスラーム世界に由来する高度な知識を広め、後に彼の見識を評価する神聖ローマ皇帝の支持を得て教皇となったのです【追H28リード文(第3問)】。


 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【東京H11[1]指定語句】です。フランスの教科書ではフランス読みでシャルル1世。ドイツの教科書ではドイツ読みで〈カール1世〉と表記されるこの王。現在のフランス,ドイツ,さらにはイタリアにまたがる広大な領土を支配したことから,ローマ教会に頼りにされることになります。
 まず教皇領を圧迫していたランゴバルド王国を滅ぼしました。
 北ドイツのザクセン人と戦争をして,キリスト教を信仰していなかった彼らをアタナシウス(ニカイア)派に改宗させ,エルベ川まで拡大します。この戦争はカールのおこした戦争のなかでも特に過酷なものでした。
 また,かつてフン人が定着したパンノニアに移動していたモンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされる騎馬遊牧民アヴァール人を撃退しました【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】。なお,すでにフン人はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々などに同化しており,見る影もなくなっています。

 さらに,イベリア半島では,アッバース朝によって滅ぼされたウマイヤ家の遺臣の建てた後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)を攻撃して,ピレネー山脈を乗り越え795年に複数の伯領からなるスペイン辺境領を設置しています。のちにバルセローナ伯が成長して,カタルーニャ地方の中心となっていきます(987年にカペー朝に対抗してカタルーニャ君主国として独立しました)。

 イベリア半島での戦いぶりは,騎士道物語(武勲詩(ぶくんし))『ローランの歌』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H30】にうたわれています【本試験H12『カンタベリ物語』は騎士道物語ではない】。

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 中世の騎士道物語には,他にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ブルグント人【本試験H15「インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の英雄伝説に基づく」は○,本試験H23スラヴ人ではない】の伝説に基づく『ニーベルンゲンの歌』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H2中世に英訳されていない】【本試験H23】『アーサー王物語』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H15カール大帝の活躍が描かれているわけではない】などがあり,各地を渡り歩く吟遊詩人(ぎんゆうしじん)【本試験H15】によって歌われました。

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 〈カール1世〉は急拡大した領土を支配するために,キリスト教徒のネットワークを利用しました。もともと司教の監督するエリアである司教区は,大司教の監督下に置かれていました。彼はこれを行政単位として利用したのです。支配を確実なものとなるよう,各地方に国王の役人(伯(はく))【追H28】が任命され,毎年聖俗の大物を国王巡察使として派遣しました。

 学者を招き,ローマ文化・キリスト教について研究をさせました。とくにブリタニアの聖職者〈アルクイン〉(735?~804) 【本試験H23】の研究が有名です。

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 しかし,いよいよ800年,クリスマスのミサのためにローマのサン=ピエトロ大聖堂を訪れた〈カール大帝〉に,教皇〈レオ3世〉(位795~816) 【本試験H18インノケンティウス3世ではない】は不意打ちでローマ帝国の冠を授けたんですね。〈レオ3世〉は前年に反対派により襲撃されていて,〈カール大帝〉の後ろ盾が必要だったわけです。


フランク人にはもともと,親が死ぬと,土地を子で分割して相続する風習があったため,〈カール大帝〉が亡くなったら揉めると思われたのですが,たまたま息子は一人しか生き残っておらず,〈ルートヴィヒ1世〉(フランク王在位814~840,西ローマ皇帝在位814~840,〈敬虔王〉ともいわれます)がそのまま相続した。ここまではよかったものの,治世後半に政治が乱れ,今度は3人の息子たちによる揉め事がおきてしまいます【本試験H7ローマ=カトリック教会を支持するか否かで争ったわけではない】。
 そこで,843年のヴェルダン条約【セ試行】【本試験H8】で,長男がイタリアを含む中部フランクを,弟が西部と東部を相続しました。しかし,その後弟が中部の王国を自分たちの領土に加えてしまったため,870年にメルセン条約【セ試行】【本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】という取り決めが結ばれて,東西フランクの国境は,東フランクが西に拡大する形で決着が付きました【本試験H3三分されたか党,本試験H7「東西」に分裂したわけではない。三分裂した】。


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イタリアは,フランク王国の分裂で中部フランク王国【本試験H3「イタリア」】となっていました。しかしその後875年にカロリング朝が断絶し,さらに商業の発達とともに都市国家が立ち並び,分裂状態になります。
 神聖ローマ皇帝には“ローマ”の名を冠するるだけあり,自分が「イタリア王」でもあることをアピールする者も多かったのですが,「イタリア」といっても現在の「イタリア」をイメージしてはいけません。いまのイタリアの北半分という感じです。
 ここには都市国家(たとえばヴェネツィアなど)は含まれていませんし,ナポリシチリア両シチリア王国です【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】。この王国は1130年にノルマン人の〈ルッジェーロ2世〉により建国されましたが断絶し,〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたり,フランスのアンジュー家に支配者が変わっていきました。


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ローマ教会は,自分の教会をまとめるローマ総司教だけが,キリスト教使徒ペテロの唯一の後継者「ローマ教皇」であると主張しました。
 それに対抗して1054年【追H17時期を問う(叙任権闘争開始後ではない)、H27 11世紀か問う】【本試験H25 13世紀ではない】にローマ教会と正教が相互に破門したのが,東ローマ(ビザンツ)皇帝の保護を受けたコンスタンティノープル教会(正教会)です。


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 726年には,テマ(軍管区)の長官出身のビザンツ帝国皇帝〈レオン3世〉(位717~741)が,聖像(崇拝)禁止令【本試験H29】を出し,教皇が布教のさいに〈イエス〉や母〈マリア〉の聖画像(イコン)を用いていることを批判しました。

 フランク王国の分裂後100年余りの混乱期を経て,962年にドイツのザクセン出身の〈オットー1世〉(位936~973) 【本試験H23カルロス1世とのひっかけ】が,教皇ヨハネス12世〉(位955~964)によりローマ皇帝の戴冠を受け,神聖ローマ帝国【本試験H13五賢帝とは無関係】が成立しました。

自分の所有している教会の司教を選出するだけなのに,なぜそんなに意地を張るのかと思うかもしれません。教会を所有していれば,農奴が教会に支払った地代や十分の一税【本試験H28十分の一税は聖職者が支払うわけではない】をいくらか受け取ることができます。


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一方,ローマ教皇は聖職叙任権闘争【本試験H18聖像崇拝論争,カールの戴冠,ルイ9世の十字軍とは関係ない】をめぐって神聖ローマ皇帝との関係も日増しに悪化していました。
 1059年には教皇〈ニコラウス2世〉が教皇枢機卿から選ぶよう改革し,神聖ローマ帝国の干渉をブロックしようとします。
 また,イスラーム教徒の進入を防いでくれる存在として,フランス王の臣下としてフランス北西部のに建国が認められていたノルマン人【本試験H2「ヴァイキング」】【東京H14[3]】のノルマンディー公国【本試験H2】【東京H14[3]】に白羽の矢が立てられ,1066年にはノルマンディ公国によるイングランドの征服(ノルマン=コンクェスト)を支援しました。

 そんな中,1073年に即位した〈グレゴリウス7世〉(位1073~85) 【本試験H18】【追H24フランク王国カール大帝に帝冠を授けていない】【早・政経H31論述指定語句】は,教会組織の腐敗をただす運動に着手しました。彼自身は,教会刷新(改革)運動【本試験H21】に積極的であったクリュニー修道院【本試験H21】【追H17時期を問う(8世紀ではない)、H19,H30】【立命館H30記】出身で,聖職売買【追H30】や聖職者の妻帯禁止などの改革を推進しました。この修道院を910年に建設したのはアキテーヌ公国の〈ギヨーム1世〉でした。
 〈グレゴリウス7世〉は大司教などの高位聖職者を任命する権利(聖職叙任権)が,(教会関係者ではない)世俗の権力に握られていることが問題の根源にあると考え,神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ4世〉(神聖ローマ皇帝在位1084~1105) 【本試験H13,本試験H18,本試験H22 15世紀ではない】に対しても,「聖職叙任権はローマ教皇にある。神聖ローマ皇帝が,高位聖職者叙任しているのは,聖職売買にあたる」と非難しました。

 結局,1122年には,神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)とローマ教皇〈カリクトゥス2世〉(位1119~24)との間にヴォルムス協約【早・政経H31論述指定語句】が締結され,聖職叙任権があるのは教皇だということは確認されましたが,実際に司教や修道院長に所領(封土)を与えて主従関係を結ぶ権利は,皇帝が持つことになりました。

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 ローマ教皇と,世俗の国王や皇帝との対立が表面化していく中,キリスト教の神学の世界でも,神や教会をどのようにとらえるかを巡って議論が起きていました。イングランド王国のカンタベリ大司教〈アンセルムス〉(1033~1109) 【追H9】【本試験H17】【追H21アウグスティヌスとのひっかけ】は,“信仰(信じる気持ち)のほうが,理性(理屈で考えること)よりも大切だ。つべこべ言うな。「神」と呼ばれている存在がある以上,神という存在はある(実在する)んだ!”ということを,とっても複雑な説明を使いながら説明しました。これを実在論【追H9唯名論ではない】といいます。
 「いや,「神」という言葉があってはじめて,人間は神について知ることができるわけで,そういう意味で神の存在そのものよりは,「神」という名前のほうが,人間の認識にとっては重要なんじゃないか?」と考えたのが唯名論【追H9実在論ではない】【慶文H30記】の立場で,フランスの神学者〈アベラール〉(1079~1142) 【追H9実在論ではない】が代表的な論者です。

 テュルク系の騎馬遊牧民の建国したセルジューク朝【京都H19[2]】が聖地イェルサレム支配下におき,ビザンツ帝国領内にも進出する勢いとなったことに対し,ビザンツ皇帝がローマ教皇に「セルジューク朝キリスト教徒の巡礼を妨害している」と救援を要請しました(注)。
 当時のヨーロッパは,ミレニアム(イエスの十字架上の死から1000年後)の余波で空前の巡礼ブームで民衆のキリスト教熱も高まり,イェルサレム以外にもローマや,スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラ【東京H20[3]】【本試験H19リード文,H31古代ローマの時代ではない】【立命館H30記】が三大巡礼地として注目されていました・このうち,サンティアゴ=デ=コンポステーラには,聖〈ヤコブ〉をまつる大聖堂が建設され,フランス方面からの巡礼者で賑わいました(◆世界文化遺産サンティアゴ=デ=コンポステーラ」1985,「フランスのサンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路」,1998。「サンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路:カミノ=フランセスとスペイン北部の道」,1993(2015範囲拡大)。巡礼地だけではなく,巡礼路までが世界文化遺産に登録されるという熱の入れよう)。

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 当時のローマ教皇は〈ウルバヌス2世〉(位1088~99)。1095年にクレルモン宗教会議をひらき「ペルシアから来た侵入者,トルコ人が武力でキリスト教徒を追放し,略奪を働き,町を焼き払っているのです」とセルジューク朝の脅威を訴え,キリストの兵士として異教徒に立ち向かうことを提案し,1096年に第一回十字軍【追H28】がスタートします。各国の諸侯や騎士【本試験H16サラディンではない】はコンスタンティノープルから1097年にアナトリア半島に渡ってルーム=セルジューク朝を破り,1098年にキリスト教徒の多いエデッサに十字軍国家であるエデッサ伯領を建国。さらに同年にはやはりキリスト教徒の多いアンティオキアを占領し,アンティオキア公領を建国しました。1099年にはイェルサレムを攻撃・占領し,1099年イェルサレム王国【京都H20[2]】【追H28イェルサレムを攻略したか問う】を建てました。

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 1130年には,ローマ教皇がかねて臣下にしていたノルマン人【本試験H2「ヴァイキング」】のノルマンディー公国【本試験H2】【東京H14[3]】の貴族オートヴィル家の〈ルッジェーロ2世〉(位1130~54)(注2)が,イスラーム勢力と戦って,ナポリなどのイタリア南部とシチリア島で支配権を確立し,ノルマン=シチリア王国(ノルマン朝シチリア王国両シチリア王国) 【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】を建国しました。ローマ教皇は心強い味方を得た形です。

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 12世紀後半には,シリアのザンギー朝(スンナ派)に仕えていたクルド人の軍人〈サラーフ=アッディーン〉【東京H13[1]指定語句「サラディン」】が頭角をあらわし,1169年にエジプトで宰相となって自立しました。彼は1171年にエジプトの大法官(カーディー)をシーア派からスンナ派に切り替え(注4),ファーティマ朝最後のカリフの死後,アッバース朝のカリフの名の下に新王朝(アイユーブ朝【追H28成立時期は中国の唐代ではない】)を立ち上げ,スルターン(位1171~93)となりました。

 十字軍により,地中海における人や物資の移動が活発化したことで,東方貿易【東京H27[1]指定語句】が盛んになり,イタリア諸都市が発展するきっかけにもなります。

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 当時の地中海に面するイスラーム国は,以下のような布陣です。
イラクにはアッバース朝(750~1258(1517))。
イベリア半島ムラービト朝(1056~1147) 【本試験H9】,ムワッヒド朝(1130~1269)(⇒800~1200ヨーロッパ>イベリア半島) 【追H21時期(10世紀ではない)】【立命館H30記】。
チュニジア周辺からサルデーニャ島シチリア島イタリア半島南部を支配したアグラブ朝(800~909)。
 エジプトからシリア,パレスチナにも進出したトゥールーン朝(868~905)。
 チュニジアで建国されエジプトカイロを都としたシーア派【追H21スンナ派ではない】のファーティマ朝(909~1171) 【追H21】(⇒800~1200アフリカ>北アフリカ)

 とくに,イスラーム教の勢力が押し寄せてきた前線地帯であるシチリア王国【東京H23[1]指定語句「シチリア島」】のパレルモと,イベリア半島にあったカスティーリャ王国のトレド【東京H23[1]指定語句】では,イスラーム教徒のアラビア語【東京H10[3]】文献が,中世ヨーロッパの国際共通語ともいえるラテン語【東京H10[3]】に翻訳されていきました。シチリア王国の王が〈フェデリーコ2世〉(神聖ローマ帝国の〈フリードリヒ2世〉となる人物です)であったときに,特に翻訳が盛んで,アラビア語の文献だけでなく,ビザンツ帝国の文献,さらには古代ギリシアやヘレニズム時代のギリシア語【東京H7[1]指定語句】文献も,イベリア半島コルドバ【本試験H6「イベリア半島イスラム文化」が栄えた都市か・後ウマイヤ朝の首都か問う】【本試験H30】やシチリア島パレルモで活発にアラビア語【東京H7[1]指定語句】からラテン語訳【本試験H15】されていきました。

 たとえば,古代ギリシアやヘレニズム時代の文献としては,天文学分野の〈プトレマイオス〉『アルマゲスト』,〈プラトン〉や〈アリストテレス〉【東京H23[1]指定語句】の著作,数学では〈エウクレイデス〉【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】の『原論』,〈アポロニオス〉の『円錐曲線論』,〈アルキメデス〉『円の求蹟』,医学者〈ヒッポクラテス〉【追H25平面幾何学の人ではない】の『箴言』や〈ガレノス〉の著作などです。
 アラビア語の著作としては,神学では〈ガザーリー〉(1058~1111,ヨーロッパではアルガゼルとして知られました) 【本試験H6スーフィズムを体系化したか問う,本試験H10世界地図を作成した地理学者ではない】【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う→ガザーリーは11~12世紀なので誤りだが難問である),H30ユダヤ教の理論家ではない】,数学では〈フワーリズミー〉【本試験H10】の『代数学』【本試験H10】,医学【東京H23[1]指定語句】では〈イブン=シーナー〉(ヨーロッパではアヴィセンナ;アヴィケンナ) 【東京H23[1]指定語句】【本試験H10】【追H19,H20時期】の『医学典範』【本試験H10】【追H19、H20時期】・『治癒の書』といったものがあります。


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 こうしたイスラーム科学【東京H7[1]指定語句「イスラム科学」】などの新情報の影響を受け,12世紀頃からヨーロッパ各地に大学が建てられ,キリスト教神学はスコラ(哲)学【本試験H17人文主義ではない】というスタイルに発展し,神学を中心に様々な学芸が盛んになっていきました。
 下級3学といわれたラテン語の文法【慶文H29】・修辞学・論理学,上級4学といわれる数学,音楽,幾何学天文学(あわせて自由七科といい,リベラルアーツともいいます)を修めた学生は,専門課程の神学・医学【慶文H29】・法学の3上級学部に進学することができました。「神」を疑うおそれもある「哲学」は,軽視され“哲学は神学のはしため(婢=仕える存在)”とされました【共通一次 平1:位置づけを問う】【追H20キリスト教と離れて研究をおこなったわけではない】。
 法学【追H29】としてはイタリアのボローニャ大学(1088) 【東京H14[3]】【共通一次 平1:パリ大学ではない】【本試験H17ケンブリッジではない,H23法学かを問う】【追H19,H29法学で有名か問う】,神学部【共通一次 平1:法学部ではない】としてはフランスのパリ大学(12世紀中頃) 【共通一次 平1】【本試験H17リード文,本試験H23神学かを問う】,イングランドの神学部オックスフォード大学(12世紀後半)・ケンブリッジ大学【本試験H17ボローニャ大学とのひっかけ】,医学で有名な南イタリアサレルノ大学【本試験H16医学で有名かを問う,本試験H17リード文】【追H19】などが代表です。
 大学は教会・修道院に付属する研究機関【共通一次 平1】からスタートしたもののほかに,別の由緒をもつものもあります。学生の自治団体(ギルド=ウニウェルシタス【東京H14[3]】【本試験H17リード文】)が発祥なのはボローニャ大学,教師による自治団体(コレギウム)が起源なのはパリ大学です。教師も学生も聖職者であることが基本でしたので,女性の教師・学生はいませんでした【本試験H11[2]「中世以来ヨーロッパでは伝統的に,大学が女性にも高い教育を与える場であった」か問う】。

 また,イスラーム共通一次 平1】の最新の科学も伝わり,イギリスの神学者〈ロジャー=ベーコン〉(1214?~74) 【本試験H8フランシス=ベーコンではない】【追H9『神の国』を著していない,本試験H12時期(1609年前後)かを問う】【本試験H17】は,何事も実験・観察を重視【本試験H17「経験を重視した方法論を説いた」かを問う】し,のちの近代科学の方法論の元となりました。彼はカトリックの司祭でしたが,〈アリストテレス〉などのギリシア共通一次 平1】の文献を読み漁り,実験によって事実を突き止めていくさまは,当時においては“異端”スレスレの行為だったのです。
 古代ギリシアの学問がヨーロッパにおいて“復活”した,この一連の現象を「12世紀ルネサンス」【本試験H21リード文】といいます(注) 【本試験H12「アラビア語哲学書医学書ラテン語に翻訳され,西ヨーロッパの哲学・神学や医学に影響を与えた」か問う】。

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 西フランク王国【本試験H8】では,987年にカロリング朝が断絶し【本試験H8】,パリ伯の〈ユーグ=カペー〉(位987~996) 【追H27アルビジョワ派を制圧していない】が、妻がカロリング家出身であるということから王に選ばれ,カペー朝【本試験H8ヴァロワ朝ではない】がはじまりました【H29共通テスト試行 系図】。

 カペー朝は〈ルイ6世〉(位1108~37)のときに王を拡大,それを継いだ7代目の〈フィリップ2世〉(尊厳王,位1180~1223年) 【本試験H30カペー朝創始者ではない】は,そんな弱体であったフランスの王権を強くしました。彼は第三回十字軍(1189~92)にも参加し,1190年代にはフランドル伯の領地を奪っています。


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 「フランス【追H9〈アンリ〉の出身地を問う。スペイン,イタリア,ドイツではない】の貴族なのになぜイングランドの王になれるのか?」と思うかもしれませんが,彼らには現在のような国民意識はありません。それでもフランスとイングランドで言語には当時から違いがありましたから,フランスの貴族〈アンリ〉は,〈スティーヴン〉の死後,イングランドで〈ヘンリ2世〉(位1154~89) 【本試験H18ジョンとのひっかけ,本試験H27・H30】という名前で即位します。これが,プランタジネット朝【本試験H2ヴァロワ・カペー・テューダー・ランカスター朝ではない】【本試験H17時期,本試験H27・H30】のイングランド王国です(1154~1328)。ちなみに当初から「プランタジネット朝」と名乗っていたわけではありません(〈アンリ〉の父のアンジュー伯が帽子にエニシダをつけていたからだとか)。

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 2代目の〈リチャード1世〉(位1189~99)は獅子心王(リチャード=ザ=ライオンハート)と呼ばれ,第三回十字軍に参加しましたが,捕虜になってしまい,身代金を用意して釈放されました。イェルサレムも。最期はカペー朝フランス王〈フィリップ2世〉(尊厳王(オーギュスト,ローマ皇帝アウグストゥスに由来),位1180~1223)と戦って,命を落とします。
 3代目の〈ジョン〉【本試験H3】【本試験H18ヘンリ2世とのひっかけ】は,即位時のゴタゴタによって,カペー朝フランス王〈フィリップ2世〉【本試験H3】と戦争となり,1214年のブーヴィーヌの戦いで敗れた【本試験H3勝っていない】ためにノルマンディとアンジューを失ってしまいます【本試験H3フランス内のイギリス領を拡大していない】。アンジューは,初代アンジューの領地だったところですよね。そんなに大事なところを失った挙句の果てに,貴族や聖職者らの諸侯・都市から税をとろうとしたため,彼らは猛反発。「王は承認なしに課税してはならない!」とうたったマグナ=カルタ(大憲章) 【追H28フィリップ4世が認めたのではない】【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H14,本試験H18ヘンリ2世ではない,H25・H30】を〈ジョン〉王【追H28フィリップ4世とのひっかけ】【本試験H14エドワード3世ではない,本試験H25】【慶文H30記】【慶文H30記】に突き付け,1215年【慶文H30記述】に守らせることに成功しました。王の権力を抑えるための法をつくったということで,マグナ=カルタはイングランド初の憲法(支配者をしばるための法)とされています。

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北ヨーロッパには,ノルウェースウェーデンフィンランドの位置するスカンディナヴィア【東京H6[3]】半島沿岸部などに,氷河が長い年月をかけて山合いから海に地表を削りながら移動したことで,陸地の奥深くまで入り込んだフィヨルドという入り江が形成されています。

 この地方で活動していたゲルマン系の民族のことを,ノルマン人【東京H6[3]】とか,ヴァイキング(古い北欧の言葉ではヴィーキングルvikingrといいます(注))といいます。
 8世紀末から現住地より低緯度の地域にも活動範囲を広げました【本試験H21,本試験H25アイスランドは現住地ではない】。「ヴァイキング」の語源は,「入り江(ヴィークvik)の人または子孫(-ing)」といわれます(#漫画 幸村誠ヴィンランド・サガ』)。


デンマークでは,10世紀の〈ハーラル=ゴームソン〉(ハーラル1世,958?~985?)が,実在が確認できる最古の王です。
 彼はノルウェーを平和的に支配下に置き,神聖ローマ帝国〈オットー大帝〉に敗れて洗礼を受けてキリスト教を広めました。スウェーデンの技術者によって1999年に開発されたブルートゥース(bluetooth)という無線通信の規格の名は,ノルウェーデンマークを“橋渡し”をした彼のあだ名「青歯王(せいしおう)」に由来しています【本試験H31リード文「今日,このハーラルの統一事業は,多様な電波の統一という理念と重ねられ,北欧の企業を中心に開発された無線通信規格に,「青歯王」の名が用いられている」】。

 その後,息子の〈スヴェン〉(位1013~14)はイングランドに侵攻してデーン朝を建てて,アングロ=サクソン人【東京H6[3]】のウェセックス朝を一代のみ中断させました。

 さらに〈スヴェン〉の子〈クヌーズ〉(カヌート(クヌート),イングランド王在位1016~35,デンマーク王1028~35,ノルウェー王1028~35) 【本試験H14フランク人ではない,H31イングランド出身ではない】は,イギリス【本試験H22 9世紀ではない,本試験H25イベリア半島ではない】に進出してノルウェーとあわせて“北海帝国”を形成しました。彼は,スウェーデンの一部も領有しています。

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アイスランドグリーンランド
 また,ノルウェー系のヴァイキング【追H30「ノルマン人」】は西方にも拡大をしており,870年代からアイスランド【追H30】への植民を始めました【本試験H25アイスランドは現住地ではない】。930年頃にはアルシング(全島集会)という集会制度が生まれ,豪族によって運営されていました。10世紀末にはキリスト教に改宗しています。
 北欧の伝説・歴史を伝える「サガ」と呼ばれる作品群の一つには,ノルウェー系のヴァイキング赤毛エリクソン〉(950?~1030?) が982年にグリーンランド(緑の島) 【追H26ノルマン人が移住したことを問う(マジャール人ではない)】を発見したことや【本試験H25】,アイスランド生まれ・グリーンランド育ちの息子〈レイヴ=エリクソン〉(970?~1020?)が1000年頃にヴィーンランド(ブドウの国)を発見した伝説が登場します。彼らはイヌイット系(カラーリット人)の先住民と対立しながら植民を進めていきましたが,16世紀までには滅びました。


アメリ
 おそらくヴィンランドとは,考古学的な調査によると北アメリカ大陸【本試験H25】のニュー=ファンドランド島と推定されています。つまり,15世紀末に〈コロン〉がアメリカ大陸に到達する前に,ノルマン人が先を越していたということになるのです。

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ノルマンディー公国
 また,先ほどのデーン人は北海や地中海沿岸の河川をさかのぼり,沿岸の都市に対する略奪を行うことがありました。北西フランスでは北海に流れ出るセーヌ川や,地中海に流れ出るロワール川をさかのぼり,沿岸の修道院や司教座都市が狙われました。
 デーン人の一派【本試験H2「ヴァイキング」。「フランク族」「アングロ=サクソン族」ではない】はノルマンディー【本試験H25イングランドではない】に移住し,西フランク国王〈シャルル3世〉(位879~929、単純公)との間に条約を結び、領地を得ることに成功。
 首長〈ロロ〉(?~927)はノルマンディー公としてノルマンディー公国【本試験H2】【本試験H21ノルマン朝ではない,本試験H25ノルマン朝ではない,本試験H27】をフランス王の臣下の形式をとって建国します(911年に公領として認定されました)。

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ノルマン=コンクェスト
 さらに,すでにノルマンディー公国の貴族(オートヴィル家の〈ロベール=ギスカール〉(1015~85)と手を組んでいたローマ教皇の後ろ盾のもと,ノルマンディー公で〈ロロ〉の玄孫の子〈ギョーム〉【本試験H14】が1066年にイングランド【本試験H14スコットランドではない】をヘースティングズの戦い【法政法H28記】で破ることに成功。
 征服して〈ウィリアム1世〉【追H19ウラディミル1世とのひっかけ】と名乗り,ノルマン朝【本試験H14,本試験H25ノルマンディ公国ではない】を建てました(ノルマン=コンクェスト【H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】)。
 当時ローマ教皇は,神聖ローマ皇帝叙任権闘争をめぐり争っていたため,イスラーム教徒たちの進入を防いでくれる軍事力を求めていたのです。
 なお,このノルマン人【本試験H31マジャール人ではない】による占領の模様は「バイユーの刺繍画(タペストリ)」【本試験H31】【追H29リード文(〈ハロルド〉が〈ウィリアム〉への中世を誓って国王に即位した場面では,当時不吉と考えられていたハレー彗星が登場)】に鮮やかに編まれ,当時の様子をしのぶことができます。

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ノルマン人〈ウィリアム1世〉は征服先のイングランドで厳しい検地をおこない,1085年12月以降ドゥームズデイ=ブック(最後の審判日の書)と呼ばれる土地台帳を作成していきました。
 これによりきわめて集権的で王の権力が強い【本試験H2】の支配体制を実現させ,デーン人の軍事的進入に備え,各地の領主の土地保有状況や提供することのできる騎士の数を把握しました。

また,現在の英語の語彙(ごい)に,フランス語【本試験H15】の影響を受けたものが多いのも,ノルマン=コンクェストが関係しています。牛を表す英語アングロ=サクソン系,牛肉を表す英語の語源がフランス系なのは,牛を飼っていたのは支配される側のアングロ=サクソン人,胃袋に入れていたのはフランス人だったからという説もあります。

【保存版】センター試験世界史B 全出題箇所まとめ①(700万年前~紀元後200年)

●約700万年前~約12000年の世界

アウストラロピテクス属は約400万~約200万年前の南・東アフリカの森林に生息し,伝統的には「猿人」【本試験H4ホモ=サピエンスではない】に分類されます。

 現在わかっている中でもっとも古いホモ属(ヒト属)は,ホモ=ハビリス(約240万年前~ 140万年前)で,東アフリカのタンザニアで見つかりました。伝統的に,彼らは「猿人」と「原人」の中間に分類されています。この頃から約1万年前までの間を「旧石器時代」【追H27】と区分します【立教文H28この時期にはヤギ・ヒツジの飼育は始まっていない】。旧石器というのは文字通り「古い石器」ということで,主に打製石器【追H27磨製石器ではない】が道具として作られ,使われた時期にあたります。

アウストラロピテクス属や,そこから分岐したホモ属は,石を加工して石器という道具を製作していました(最古の石器の時期には定説はありません)。打ち割って作られた石器のことを打製石器といい,打製石器が主に見られる時代を旧石器時代といいます。はじめは石の一部を打ち欠いてつくった単純な礫石器(れきせっき) 【本試験H4「石を内欠いただけでの簡単な打製石器」を猿人が使用していたと推定されるか問う】が主流でしたが,のちに“切る”“削る”“掘る”作業のために,石を打ち欠いて形を整えた石斧(ハンド=アックス)が製作されるようになりました。

170万年~7万年前には,北京原人【本試験H4狩猟・採集生活を送っていたか問う】【追H21火を使用していたとされるか問う】やジャワ原人【本試験H11:土器を使用していたか問う】の名で有名な,ホモ=エレクトゥスが登場しました。彼らは昔は「ピテカントロプス=エレクトス」として,ホモ属とは別種の「原人」【本試験H4時期(約50万年前)。アジア・アフリカ・ヨーロッパにわたる広い地域で生活していたか問う】と分類されてきましたが,現在ではホモ属の一種であるとされています。

彼らは猿人よりも身体や脳容積がひと回り大きく,ホモ属として初めてアフリカの外に移動を開始し(原人の“出エジプト”),ユーラシア大陸の広範囲に移動・居住しました。
 人類最初の“エネルギー革命”ともいえる,火の使用【本試験H4北京原人が知っていたか問う】【追H21 北京原人かどうか問う】【立教文H28旧石器時代かどうか問う】が確認されているのは,彼らの段階からです。人類は火を手にしたことにより,消化しやすいように食べ物を調理することができるようになり(料理の誕生),暖をとったり動物を追い払ったりすることもできるようになりました。
 彼らの喉や口の構造から,言語【立教文H28旧石器時代のことか問う】によるコミュニケーションも可能だったのではないかと考えられています。

そんな気候の大激変期をユーラシア大陸で生き抜いたが,ネアンデルタール人【本試験H17ラスコーとのひっかけ,本試験H19約9000年前ではない】【本試験H4時期(旧石器時代後期)】です。ヨーロッパに到達したホモ=ハイデルベルゲンシスが,ヨーロッパで進化しネアンデルタール人につながったのではないかと考えられています。
 彼らは伝統的に「旧人」【本試験H4磨製石器を使用して狩猟していない】と呼ばれるヒト属の一種で,約40万年前に出現しましたが,後からユーラシア大陸に進出したホモ=サピエンス(約20万年前に出現)に圧倒されて,約4万年前に絶滅しました。死者の埋葬【立教文H28記】の風習があったことが確認されています。

 ネアンデルタール人は,DNA鑑定の結果,現在のわれわれ「ホモ=サピエンス(ヒト)」とは別の種(ホモ=ネアンデルターレンシス)なのですが,共通点もあります【本試験H4現在の人類とほぼ同じ形質の新人であったか問う】。

アフリカに残留したホモ=ハイデルベルゲンシスから,ホモ=サピエンス【本試験H4「猿人」ではない】が進化しました。ホモ=サピエンスとは,つまり私たちの種に当たります。

「ホモ=サピエンス」とは「知恵ある人」という意味で,18世紀に「学名」を提案したスウェーデン人の博物学者〈リンネ〉【東京H9[3]】【本試験H16ジェンナーではない,本試験H29メンデルではない】【追H20ライプニッツではない、H25コントではない】が名付けました。

約10万年~9万年前にアフリカを出た人類は,地中海や西アジアに広がりました。北ルートをとったホモ=サピエンスのうち,フランスで発見されたクロマニョン人【本試験H4旧人ではない】が知られています。

先述の通り,ホモ=サピエンスがユーラシア大陸に到達したころ,そこにはすでにネアンデルタール人【本試験H4時期(旧石器時代後期)】の姿がありました。しかし彼らは“食料確保”の面でホモ=サピエンスに劣っていたため,生存競争に負け,前4万年頃までには絶滅してしまうのです。

 狩猟採集を通して自然の恵みと猛威を直接うけていた人類が,自分自身や自然に対してどのような思いを抱いていたのかは定かではありませんが,4万年前頃からオーストラリアでみられるアボリジナル(アボリジニ)【本試験H27】の洞穴壁画に登場する神話のような絵,3万年以上前のフランスのショーヴェ洞穴壁画,2万年前頃から描かれたフランスのラスコー洞穴壁画【本試験H5図版「ウマの像」。「フランスで発見された」とある】【本試験H17】や,1万8000年前頃から描かれたスペイン【本試験H31】のアルタミラ(アルタミーラ) 【本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H17ラスコーとのひっかけ,H31ラスコーではない】【追H20】【立命館H30記】洞穴壁画では,人類と動物【追H20「動物の絵が見られる」か問う】との間の生き生きとした交流が描かれています。


●前12000年~前3500年の世界
紀元前【本試験H6 B.C.とは「Before Centuryの略」ではない】12500年には,ホモ=サピエンス(人類)は南アメリカに到達し,前9000年にはその南端に到達していました。
こうして南極大陸以外のすべての大陸に広がった人類は完新世に入り地球が温暖化すると,地域によっては細石器を製作する中石器時代を経て,新石器時代磨製石器【追H27旧石器時代ではない】という新たな道具を製作する技術を生み出す集団も現れます。

温暖化にともない陸地を覆っていた氷河が縮小し,大型哺乳類も減少すると,各地の人々はその営みを環境の変化に適応させていきます。
 各地で家畜や栽培植物の集中管理(農耕・牧畜【本試験H4時期が新石器時代か問う】)(注1)も始まり,人類は狩猟・採集による獲得経済だけではなく生産経済へと生存の基盤を変化させます。


●中国
黄河【本試験H29地図が問われる】流域の人々は前6000年頃にはキビ(黍)などの雑穀の栽培に成功します。

現在の長江下流【追H27新石器時代に稲作が行われていたことを問う】,黄シナ海をのぞむ寧波(ニンポー)の近くの河姆(かぼ)渡(と)遺跡(かぼといせき,1973・78年発掘)が発掘されています。
 また、長江上流の四川盆地三星堆遺跡(さんせいたいいせき、1986年発掘)では,明らかに黄河流域とは違う特徴をもつ青銅器【本試験H19約9000年前にはまだ青銅器時代ははじまっていない】の工芸品が大量に見つかっています。

●前3500年~前2000年の世界
●東アジア

前3000年紀になると,黄河中・下流域を中心に,黒色磨研土器(黒陶【本試験H24唐三彩のひっかけ】)を特徴とする竜山文化(りゅうざん,ロンシャン) 【追H25ドンソン文化とのひっかけ】が栄えました。

●南アジア
前2500年~前1700年の間に,インド亜大陸の北西部のインダス川流域では,インダス文明【追H9バラモン教の信仰,ヴァルナ制度はない】【本試験H17ヴァルナ制は発展していない】が発展します。
現在南インドに分布するタミル語【本試験H23ウルドゥー語ではない,本試験H24ヒンディー語アッカド語ではない】などのドラヴィダ系の言語を話す人々(ドラヴィダ人) 【追H9アーリヤ人ではない】が担い手であったとみられます。
従来は,インダス文明を,大河川の治水・灌漑の必要により発展したエジプト,メソポタミア黄河の文明と同一視し「四大文明」の一つに数えることが普通でした。
 しかし,そもそも大規模な王宮や記念建築物が存在しない(注2)ことや,遺跡の地域差 (インダス川流域の上流部にある都市遺跡ハラッパー【本試験H2,本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H30地図】と下流域のモエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ) 【追H26インダス川流域か問う】【本試験H17,本試験H20ガンジス流域ではない】(注3)(世界文化遺産,1980)が有名ですが,近年ではベンガル湾に臨むロータルやドーラビーラの遺跡も注目されています) が大きいことから,王権の発達する他の文明と同列に考えることは疑問視されています。

 未解読【本試験H15,本試験H24解読されていない】のインダス文字【追H28】【本試験H15,本試験H21図版】は,おそらくドラヴィダ系の文字と見られ,神聖視されていたであろうコブ牛の像などとともに,四角形の印章(いんしょう)【追H28】に刻まれていました。コブ牛は前6000年頃の南インドで,アジアのオーロックス(牛の原種)が独自に家畜化されたものとみられます。

モエンジョ=ダーロは整然とした計画都市【追H9】で,日干しレンガが積まれた建造物には,下水の側溝が整備され,道路も舗装され,都市の中心には神殿があって,深さ2.5メートルの沐浴場【本試験H17】もあります。

西アジア
メソポタミアでは,ユーフラテス川【京都H22[2]】下流域(注1)の都市ウルクに代表されるウルク文化が,都市文明を生み出していました。担い手は民族系統不明のシュメール人【追H28ウルを建てたのはアッカド人ではない】【本試験H2ウルを建てたか問う・ゼロの観念や10進法を発達させたか問う,本試験H6】です。
ジッグラト(聖塔) 【追H25王墓ではない・古代メソポタミアか問う(「聖塔ジッグラト」の表記),H30メンフィスに建てられていない】と呼ばれる巨大な神殿(祭祀センター)も建てられました。これは『旧約聖書』に現れるバベルの塔のモデルではないかともいわれています。
 神殿には都市の守り神(守護神)呼び込まれ,神官によって収穫を祈る儀式や政治的な儀礼,交易(注2)が行われたと考えられています【本試験H12「シュメール人都市国家では,神官が政治的にも大きな力を持っていた」かどうかを問う】。古代メソポタミアでは各人に個人の守護神があると信じられていて,王にもその守護神がありました(注3)。
 ほかに,キシュやウル【追H28アッカド人の都市ではない】【本試験H2シュメール人の都市か問う】【本試験H16シュメール人が建設したか問う】という都市国家も,シュメール人によって建設されました。
シュメール人共通一次 平1】【追H30】は,粘土板(ねんどばん)(クレイ=タブレット) 【追H28】【本試験H15】【本試験H8】に楔形(くさびがた)文字(もじ)【東京H23[3]】【共通一次 平1:甲骨文字,満洲文字,西夏文字との写真判別,平1:創始がシュメール人か問う】【本試験H15】【本試験H8】【追H28、H30】を記録しました。大きな川が上流から運んだ土砂が,粘土板の材料です。
楔形文字による記録方法は,メソポタミアを中心に西アジアに広まりました【共通一次 平1:「ハム系(ママ)の諸民族に広まった」わけではない→出題当時は,「ハム系」=「エジプト人」と考えられていた】
また,ウルクでは『ギルガメシュ叙事詩』【本試験H30】という物語が発見されています。第5代ウルク王とされる〈ギルガメシュ〉が,友人〈エンキドゥ〉とともに永遠の命を求める冒険ストーリーです。その中に語られる洪水と復興のエピソードは,のちの『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)のモチーフではないかとも考えられています。

ウルクを含むシュメール人都市国家は,前24世紀後半に〈サルゴン〉(位前2334~前2279) 【立教文H28記】を王とするアフロ=アジア語族セム語派【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】【本試験H29インド=ヨーロッパ語系ではない】のアッカド人【京都H22[2]】によって滅ぼされます。

●アフリカ
「エジプトはナイルのたまもの」【追H26】【東京H13[1]指定語句「ナイル川」】という言葉があります(ギリシア人の歴史家〈ヘロドトス〉(前485?~前420?)によるもの) 【追H17、H26】【東京H22[3]】【共通一次 平1:トゥキディデスとのひっかけ(主著『ペルシア戦争史』を書いたのはトゥキディデス)】【本試験H31】。
上エジプトの政治勢力が,下エジプトに軍事的に進出して政治的に統一したとみられ,両者の境界付近にあるナイル川下流のメンフィス【追H30ジッグラトは築かれていない】を都に定めたとされています。
 なお,彼の時代には象形文字共通一次 平1】であるヒエログリフ(神聖文字) 【東京H10[3],H23[3]】【共通一次 平1】が用いられました。ヒエログリフは碑文や墓などの岩石【共通一次 平1】に刻まれたほか,パピルス紙に記録されました【共通一次 平1:「主に碑文や墓に刻まれた」か問う。「あれ?パピルスでは?」と一瞬迷っちゃうかもしれない】。パピルス紙は,ナイル川の川辺に分布するパピルス草(カミガヤツリ)を薄く剥(は)いた繊維を縦横に並べて圧力をかけ,その上にさらに縦横に並べた繊維に圧力をかけることを繰り返して作った「紙」です。葦(あし)でできたペンを,煤(すす)とアラビアゴムを混ぜたインクに付けて記入しました。
エジプト【本試験H16ヒッタイトではない】では王はファラオとよばれ,自らを神として政治をおこない,ナイル川の治水を指導しつつ,住民に租税・労働を課して指導しました。
 洪水というと危険な災害というイメージがあるかもしれませんが,「洪水があるからこそ,小麦を栽培することができる。洪水が起きるのは,神である王がちゃんと支配をしてくれているからだ」。人々はそのように納得をしていたのです。とはいえ,多くの住民は生産物や労働によって税を納める不自由な農民でした。

 なお、ナイル川の氾濫により破壊された耕地を復元するために,測地術(測量) 【本試験H2フェニキア人の考案ではない】が発達します(注1)。のちのピタゴラスの定理の元となる面積の公式も,すでに使われていました。
 また暦として正確な太陽暦【本試験H2ユリウス暦のもとになったか問う】が用いられていました。

 古王国【本試験H2都はテーベではない】は第3王朝から第6王朝の時期の政治勢力で,ナイル川下流のメンフィス【本試験H2テーベではない】を都としました。この時代は,巨大なピラミッド(王墓であったかどうかは不明)が建設された時期にあたります。
 その後,ピラミッドは一気に巨大化し,カイロ近郊のギザにある三大ピラミッド(〈クフ〉,〈カフラー〉,〈メンカウラー〉のピラミッド) 【本試験H20セレウコス朝の遺跡ではない,H31時期(新王国時代ではない)】が生まれました。
 ・〈クフ〉王…第一ピラミッド 現在146.5m
 ・〈カフラー王〉…第二ピラミッド 現在144m
 ・〈メンカウラー王〉…第三ピラミッド 現在66.5m

 ピラミッドは,古代ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉の『歴史』などをもとに,かつては「王の墓」である(注1)といわれてきましたが,王(ファラオ)の権力を象徴【本試験H31「ファラオの権力を象徴」】させるとともに,ピラミッド内部で王が再生するための施設なのではないかという説もあります。
 いずれにせよ,最大の〈クフ〉王(前2589~前2566) 【追H27クノッソス宮殿を建てていない】のピラミッドは,なんと230万個(1個の平均は2.3トン!) の石灰岩が使用されておち,当時の技術を考えると,8万4000人の労働者を1年に80日×20年間働かせるだけの権力が必要です。

 〈クフ王〉のピラミッドの東西には,貴人の墓である多数のマスタバ墳(長方形)も見られます。古王国では太陽神ラー【追H27】【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】【本試験H21時代を問う,H31古代インドではない】への信仰もさかんで,オベリスクという塔には王の偉業が刻まれました。ヘリオポリスという都市には太陽をまつる神官がおり,太陽信仰の中心地でした。神殿には列柱が建てられ,のちに地中海のエーゲ海周辺のエーゲ文明やギリシア文明に取り入れられました。
 古王国は前2120年に滅びました。
結果的に上エジプトのテーベ(ナイル中流域) 【本試験H2古王国の首都ではない】【本試験H30ニネヴェとのひっかけ】の勢力が上下エジプトを再統一し,新たに第11王朝を立ち上げました。次の第12王朝(前1991年?~前1782?)までを中王国の時期として区分します。都は後にファイユームに遷都しています。

中王国は,パレスチナやヌビア(ヌビアは金の産地です)にも進出するなど,古王国よりも広い領域を支配しました。シリアでもエジプトのファラオの名入りの品が発見されています。また,地中海はエーゲ海クレタ文明〔ミノア文明〕とも交易をしています。
 中王国の時代には古代エジプト語(古典語)で文学も数多く記されました。『雄弁な農夫の物語』や『シヌへの物語』といった物語文学が代表的です。

 この時期には,北シリアからエジプト【追H30】に,騎馬に優れた遊牧民(ヒクソス【追H30】【中央文H27記】と呼ばれました)が傭兵が導入され,エジプト人女性と結婚して移住し,ファラオにつかえる者も現れます。


●前2000年~前1200年の世界
アメリ
 ユカタン半島のマヤ地域【本試験H11地図:位置を問う】【追H25中央アンデスではない】の高地(マヤ高地)では,前2000年には農耕の祭祀(さいし)をおこなう場が出現していました。
 マヤ地域は熱帯雨林から雨季と乾季のあるサバナ気候,高山気候にいたるまで多様性のある気候をもつ地域で,各地域の特産物が交易によって集まる都市が形成されていきました。

●東アジア
黄河流域では,前1600年頃(注1)に登場した商王朝(殷(いん)王朝) 【本試験H3】【追H19】が栄えていました。

商王朝は何度も遷都をおこなっていますが,殷は王〈盤庚〉(ばんこう)により前1300年頃に遷都されたとされる都のことで,遺跡としては河南省の安陽【東京H8[3]】の郊外にある小屯(しょうとん)でみつかった殷墟(いんきょ) 【追H18】 【東京H10[3]】といいます。
 先行するスウェーデンの〈ヘディン〉(1865~1952)、イギリスの〈スタイン〉(1862~1943、ハンガリーからイギリスに帰化)、日本の〈濱田耕作〉(1881~1938)・〈鳥居龍蔵〉(1870~1953)の調査に対抗する形で、1928年に国立アカデミーによって〈李済〉(りさい、1896~1979)を中心に1937年まで15次にわたって発掘が行われました(注2)。殷墟からは甲骨文字や王族の墓が見つかっています(◆世界文化遺産「殷墟」2006)。

 王【本試験H6皇帝ではない】は神として君臨し,その地位は世襲され,多くの都市国家の貴族を従えることで成り立っていました。西方のタリム盆地方面のインド=ヨーロッパ語族から青銅器【追H27鉄製農具の使用は始まっていない】【共通一次 平1「周代に入ってはじめて作られるようになった」わけではない】を獲得したとみられ,戦車や武器に用いられました。
 城壁のある都市国家がみられるようになるのは,黄河の中・下流域です。まずは小規模な地区の統一がおこなわれ,それらが統合されて広域的な国家となっていきました。

 商(殷) 【セA H30】では,甲骨文字【東京H10[3]】【名古屋H31】【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字西夏文字との判別】【本試験H11インカ帝国のものではない】【本試験H21図版】【追H19】【セA H30】という文字が使用されていました。
 占いの儀式に基づいて,王が多くの氏族集団(共通の祖先をもつと考えているグループのこと)の邑(ゆう,都市国家) 【本試験H2】をまとめて支配していたと考えられます【本試験H21郷挙里選は行っていない】。
 宗教面では、祖先の崇拝がおこなわれていました【本試験H23仏教は殷代にはない】。人の魂は死んでしまうと“あの世”に行きますが,子孫が祈れば,子孫のために良いことをもたらしてくれると考えられ,規模の大きい家族(拡大家族)は,共通の祖先を崇拝していました。一族で一番の長老が,儀式をとりおこなえばいいので,聖職者のような階級はみられなかってようです。

 すでに青銅器【追H27鉄器ではない】が使用され,商の支配階級はこれを独占していました。王宮のある殷墟では王の墓とともにおびただしい数の殉死者が葬られており,その支配の強さがうかがえます。中国の西部に西方・北方の中央ユーラシア世界から戦車が伝わったことが,戦争を激化させることになりました。
●南アジア
インダス文明は前2000年頃から衰退を始め,地域ごとに差はありますが,前1700年頃にはほぼ滅びました。
 その原因には,前2200年頃からの気候変動や,サラスヴァティー川の消滅,森林伐採や塩害などの環境破壊説,外民族進入説など諸説あります。メソポタミアやエジプトの文明と異なるのは,大規模な軍隊の存在がうかがえる遺物が見つかっていないことです。発掘が進んでいないということもありますが,メソポタミアやエジプトの文明に比べると,平和的な文明だったとみられています。
さて,インドへに進入するには,アフガニスタンの東部からカイバル峠を通ってヒンドゥークシュ山脈へ,東南部からボーラーン峠を通ってスライマン山脈に入る経路があります。
 中央ユーラシアの草原で遊牧をしていたインド=ヨーロッパ語族のアーリア人は,インダス川上流のパンジャーブ地方【追H30】に前1500年に進入しました(インド=アーリア人【追H30「アーリヤ人」】)。彼らは先住のドラヴィダ人を征服しながら,農耕を取り入れつつ牧畜中心の生活を営みました。ガンダーリー,ケーカヤ,マドラ,プール,ヤドゥ,バラタなどの部族に分かれていました。彼らの言語は,現在のヒンディー語【本試験H24タミル語アッカド語ではない】などにつながります。

 前1500年~前1000年を前期ヴェーダ時代といいます。なぜ「ヴェーダ時代」というかというと,バラモン(司祭階級) 【東京H6[3]】の聖典『リグ=ヴェーダ』【追H28神々への讃歌の集成か問う】【本試験H7「インド神話の古い形」が現れるか問う】が,この時代について知る唯一といっていい史料だからです。
 神々への賛歌(リグ)が収められた聖典で,雷神インドラに関するものが全体の4分の1を占めます。賛歌の知識を持ち,祭祀をとりおこなったのはバラモン【本試験H9ウラマーとのひっかけ】と呼ばれる聖職者階級。この信仰を「バラモン教」と呼んでいます【追H9】。彼らにとって最も重要な財産が牛であったことは,戦争(カヴィシュティ)という単語「牛を欲すること」という意味からもわかります。二頭または四頭立ての戦車が使用され,青銅器を使用しました。自らを「高貴な者」(アーリヤ)と呼び,先住民のドラヴィダ系の人々を「黒い肌をした者」と呼びました。

西アジア
メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

しかし,メソポタミア南部には民族系統不明(注1)のカッシト(カッシート)人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】の進出が始まっていました。

現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 古来、ヒッタイトの製鉄技術は「世界最古」とされてきましたが、近年の研究ではカフカース地方(黒海カスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説が有力。研究の進歩の成果です。

 前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。

前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。

 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)。

メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。
 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)。


ヘブライ人【本試験H2ティルスは彼らの都市ではない】は『旧約聖書』に登場する〈アブラハム〉を“ご先祖”と考えていた人々で,紆余曲折を経て現代でもユダヤ人として文化を残す歴史ある民族です。ヘブライ人は他称で,自分たちのことはイスラエル人と呼んでいました。初め多神教でしたが,唯一神ヤハウェ【本試験H3ユダヤ教多神教ではない】【本試験H30アフラ=マズダとのひっかけ】【追H19太陽神ではない】 (注)と契約を結び,現在のパレスチナにあたる“約束の地”カナンが与えられ前1500年頃に移住したとされます。カナンは彼らの民族叙事詩・神の律法である『創世記』(『旧約聖書』の一部)に,「乳と蜜の流れる場所」と表現されています。沿岸部では前1500年頃からカナン人が活動していました。

 彼らの一部はエジプトに移住しましたが,前13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫である〈モーセ〉(預言者とされます) 【本試験H15・H30ともにイエスとのひっかけ】【追H21キュロス2世,ソロモン王ではない。ヘブライ人の国王かを問う】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。

シリアの内陸部では,アラム人【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない,H6】【東京H6[3]】がダマスクス【東京H6[3]】【追H28