【保存版】センター試験世界史B 全出題箇所まとめ③(1200年~1500年)

●1200年~1500年の世界

アメリ
アステカ人がメキシコ高原の広域を支配する
 北アメリカのメキシコ高原中央部は,テスココ湖の北西のトゥーラなどの諸都市が栄えます。
 トゥーラは1150~1200年に衰退。
 テスココ湖周辺には,シャルトカン,テスココ,テナユカ,アスカポツァルコ,クルワカン,シコなどの新興国家のほか,ウエショツィンコ,トラスカラ,センポアラなどの以前からの国家などが並び立つ状況でした。

 トゥーラの繁栄の後,14世紀後半にメキシコ高原中央部に進出したのは狩猟による遊動生活を送っていたナワトル語系チチメカ人の一派です。
 彼らはその現住地とされる「アストラン」から,のちにアステカ人【追H26地図上の位置を問う】【本試験H30】と呼ばれるようになりますが,自称はメシーカ(メキシコの語源)です(注1)。彼らの国は一般に「アステカ王国」と呼ばれます。
 アステカ〔メシーカ〕人は,先住のティオティワカンの都市をみて,これを崇めたてまつって「「神々の都市」(テオティワカン)と命名。そして,テスココ湖の無人島に定住しテノチティトラン【追H24ポルトガルの海外拠点ではない,H28アステカ王国の首都か問う】【本試験H11インカ帝国の中心地ではない】【本試験H21,本試験H25,本試験H30】(「サボテンの実る地」という意味)を建設。現在のメキシコシティ【本試験H25】は,このテノチティトランに築かれた都市です。

メシーカ〔アステカ〕人の経済的基盤は農耕です。
 2100mの高山の気候に対応するため,湖に浮き島(チナンパ)をつくることで農地を増やし,その上でトウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】),トマト,カボチャ,豆などが栽培されます。

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◆〈コロン〉(コロンブス)がカリブ海の「西“インド”諸島」に到達する
アラワク人がジェノヴァ人の〈コロン〉と接触する
 1492年【セ試行 ポルトガル船がインドに到達する前か問う】にジェノヴァ上智法(法律)他H30】の船乗り出身の〈コロン〉(コロンブス) 【上智法(法律)他H30】が,スペイン王〈イサベル〉【上智法(法律)他H30ジョアン2世ではない】の支援を受けカリブ海に到達しました。
 現在のバハマにある島をサン=サルバドル島【追H27クックではない】と命名し,キューバ島イスパニョーラ島(現在のハイチ(ハイティ)とドミニカ共和国)を探検しました(第一回航海,1492~93)。

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しかし一方,アンデス地方の中央部では,クスコ周辺に分布していたインカ人が1438年頃から〈パチャクテク〉王(位1438~1463)により,北は赤道付近,南は地理の中部までの広大な領域に活動範囲を広げ,クスコ【本試験H11テノチティトランではない】【本試験H24ポトシではない,H29ポトシではない】に首都を整備しました(◆世界文化遺産「クスコの市街」,1983)。

 1470年代からチムー王国を攻撃して,支配下に加えました。インカ人はこの領域を4つにわけ,タワンティン=スーユ(4つの地方)と呼びました。これがいわゆるインカ帝国【追H26地図上の位置を問う】です。のちにスペイン人は,皇帝が“太陽の子” 【追H26王が太陽の子(化身)として崇拝されたか問う】【本試験H11:太陽神ラーは崇拝されていない。王が「太陽の子として崇拝され」ていたか問う】【本試験H31皇帝が太陽の化身(太陽の子)とされたか問う】として強力な権力でアンデス地方を支配していたと報告したため,「ローマ帝国」のような確固たる領域を持つ国のようなイメージがつくられていきました。

冬至に行なわれる太陽の祭り(インティライミ)は国王の権力を国民に見せ付ける上で,特に重要で盛大な儀式でした【本試験H11亀甲や獣骨を焼いて,そのひび割れによって神意を占ったわけではない】。


人口調査も巡察使に行わせ,それにもとづき徴税し,記録はアルパカやラマの毛から作った縄の結び目で数量を表すキープ(結縄) 【東京H12[2]】 【本試験H11象形文字ではない】【追H24】【本試験H18,本試験H21ユカタン半島マヤ文明ではない,H29共通テスト試行,本試験H30】【中央文H27記】でおこないました。労働による徴税(労務のことをミタといいます)もあり,神殿建設や農作業に従事させました。
 そのために張り巡らせたのが,南北にのびる「インカ道」(四大街道(カパック=ニャン))の整備です。駅舎や倉庫をもち,駅伝方式で情報や貢納品を飛脚(チャスキ) 【東京H12[2]】に伝達させたのです。インカの首都には巨大な倉庫があり,貢納品が各地から大量に輸送されました。インカ人の支配層はこのような方法で1000万人を超えたといわれる領域内の人々を把握しようとしたのです。
 1911年に考古学者〈ハイラム=ビンガム〉(映画「インディ=ジョーンズ」のモデルと言われます)によって発見された,標高2400mの“空中”都市マチュ=ピチュ【本試験H17,本試験H28】(◆世界複合遺産「マチュ=ピチュ」,1983)に見られるように,すき間なく石を積み上げる高度な石造技術も特徴的です。マチュ=ピチュは貴族のリゾート地とも,避難所ともいわれています。ちなみに,標高3400mの首都クスコ【本試験H11テノチティトランではない】【本試験H19マヤ文明ではない】にあった太陽神殿は,スペイン人による破壊により現存しません。
 なお,彼らの言語はルナ=シミ語といい,スペイン人はそれをケチュア語と呼びました。現在のペルーの第二公用語となっています。

 

 

オセアニア
ニュージーランドに移住したポリネシア人マオリ【セ試行 絶滅していない】といい,狩猟・採集・漁労文化を発展させました。彼らは当初から「マオリ」と自称していたわけではなく,ヨーロッパの人々と出会って以降,自分たちのことをそのように区別して呼ぶようになったと見られています(「マオリ」はマオリ語で「ふつうの」「正常の」という意味)

 


●中央ユーラシア
ウイグルがキルギズにより840年に崩壊してからというもの,モンゴル高原には統一政権が存在しませんでした。契丹や金が,遊牧民がまとまり強力な政権が生まれないように画策していたためです。

 モンゴル人の拠点は,黒竜江(アムール川)上流のオノン川。12世紀後半の時点では,周囲のケレイト部(モンゴル高原中央部)や,ナイマン部(モンゴル高原西部)にくらべて弱小勢力でした。

 そこに現れたのが〈テムジン〉【立教文H28記】という男です。彼は有力氏族のボルジギン氏に属し,父はタタル部(モンゴル高原東部)に毒殺されました。
 彼は1200年~1202年にかけてモンゴル部族とタタル部族のリーダーとなり,1203年にはケレイト部を倒しました。さらに,ナイマン部を中心とする連合軍を破って,1206年にクリルタイ【東京H18[3]】【本試験H3】【本試験H26三部会ではない】【追H21】【立教文H28記】と呼ばれた会議で〈チンギス=ハン(カン)〉(位1206~27) 【追H27モンゴル帝国を建てたか問う】 【本試験H4】【H29共通テスト試行 系図】と名乗ることを認められ,モンゴル高原を統一しました。

華北へのモンゴルの進出は1210年代には始まっていました。とき同じくして黄河の大氾濫が起き,混乱に拍車がかかります。
 〈チンギス=ハン〉は巨大な部隊を引き連れ,すでに西遼(カラキタイ) 【本試験H23,本試験H27】を滅ぼしていたナイマン部(10世紀~1204) 【本試験H23ウイグルではない】,トルコ人奴隷(マムルーク)が建国しゴール朝を滅ぼしていたイランのホラズム=シャー朝(1077~1220)【本試験H13滅ぼしたのはガザン=ハンではない,本試験H24,本試験H31チンギス=ハンが滅ぼしたか問う】【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない,追H29滅ぼしたのはアルタン=ハンではない】と大夏(西夏,1038~1227)を滅ぼしました(注1) 。

 〈チンギス=ハン〉は広大な領土を東西に二分し,3人の弟に軍民が与えられ「東方三王家」(左翼三ウルス)となりました。ウルスというのは「土地+人々」を合わせた呼び方で「国民(くにたみ)」と訳されることもあります(注2)。
 また,西方には長男から三男に軍民が与えられ,「西方三王家」(右翼三ウルス)となります。このうちロシア方面に置かれたのは長男の〈ジョチ〉(ジュチ)で,のちにキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)【京都H19[2],H22[2]】と呼ばれることになります。
 中央アジアには〈チャガタイ〉(チャーダイ)と〈オゴタイ〉(オゴデイ)が配置され,末子〈トゥルイ〉はモンゴル高原に置かれます(末子(まっし)相続の風習のため)。

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 〈フビライ〉の後継者は,末子相続の風習にのっとれば〈トゥルイ〉ということになりますが,実際に継いだのは〈オゴデイ〉(オゴタイ,位1229~41) 【本試験H2大都に都を置いていない】【追H25モンケとのひっかけ】でした。彼は,モンゴル高原カラコルム【京都H20[2]】【本試験H2大都ではない,本試験H12匈奴が建設していない】【本試験H19オゴデイのとき,本試験H18黄河上流ではない,本試験H28地図上の位置を問う】【追H30建設者を問う】【中央文H27記】という新都を建設し,駅伝制(ジャムチ【京都H20[2]】【東京H6[1]指定語句,H15[3],H20[3],H27[1]指定語句】)を整備しました【※東大の頻度高い】。
 通行手形(パイザ,牌符,牌子【東京H20[3]】)があれば領内を安全に通行することが可能でした。
 1234年に女真(女直)人の金(きん,1115~1234)を滅ぼしました【本試験H19】【追H25モンケではない】。

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さらに〈バトゥ〉(1207~55) 【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【本試験H31チンギス=ハンではない】【追H25ロシア遠征したか問う】が,ユーラシアの草原地帯を走破して東ヨーロッパに進出し,1241年にワールシュタット(ワールシュタット〔ヴァールシュタット〕とはドイツ語で死体の山という意味です【セ試行 モンゴルは敗れていない】【本試験H3 時期(クビライの「即位後ただちに」ではない)】【本試験H31チンギス=ハンによる戦闘ではない】【追H24オスマン帝国がドイツ・ポーランド連合軍に勝利したものではない】。
 現在はポーランドレグニツァなのでレグニツァ(ドイツ語ではリーグニッツ)の戦いといいます)の戦い【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前かを問う)】で神聖ローマ帝国【本試験H31「ドイツ」】・ポーランド【本試験H31】の連合軍を破ります【本試験H5ヨーロッパに侵攻したモンゴル人の多くは,キリスト教徒となったわけではない】。この遠征に従軍していたの〈モンケ〉は,次代のカアンに即位します。

 また,その〈モンケ=カアン〉(位1251~59) 【京都H20[2]】の命令で,弟の〈フレグ〉(1218~65) 【本試験H21イスラームを国教化していない】が1258年に西アジアバグダードを陥落させ,アッバース朝バグダード政権を滅ぼしました【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前ではない)】。このときにバグダードは100万人の人口を誇る都市でしたが,包囲戦によって数十万人以上の市民が犠牲になったといわれます。

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 〈フレグ〉はその後,エジプトを拠点に1250年に建国されたマムルーク朝のスルターン〈バイバルス〉率いるマムルーク朝(1250~1517) 【追H28モンゴル軍を撃退したのはセルジューク朝ではない】とのパレスチナ北部でのアイン=ジャールートの戦い(1260) で敗れ,〈フラグ〉の与えられた領域はジョチ=ウルスと呼ばれ,イランとイラクの地域にまたがる政権となりました。この政権は,イル=ハン国とも呼ばれます【追H27エジプトは征服していない】【本試験H5,本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】 【本試験H21】。首都はカスピ海南東の都市タブリーズです。

 なお,最後のカリフ〈ムスタアスィム〉(位1242~58)は〈フレグ〉に処刑されましたが,父方の叔父がマムルーク朝の〈バイバルス〉の元に脱出し,〈ムスタンスィル2世〉としてカリフに即位しました。これ以降,カリフはマムルーク朝の保護下に置かれる形で存続します【本試験H16「マムルーク朝支配下オスマン朝のカリフがここに擁立された」かを問う】。したがって,アッバース朝はその後も存続したとみることもできます。

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 モンゴル帝国は広大な領域を,モンゴル文字(パスパ文字【追H19,H25突厥ではない】またはウイグルモンゴル文字)による定型文書によって統治しました。

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第5代の〈クビライ=ハーン〉(位1260~94) 【本試験H3チンギス,オゴタイ,チャガタイではない】【本試験H26ヌルハチではない】【早・法H31】は,大ハーン位に就くと,オゴデイ(オゴタイ)家の〈カイドゥ〉(ハイドゥ,?~1301)による抵抗(カイドゥ(ハイドゥ)の乱【本試験H11「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】【本試験H14時期(ルブルックのカラコルム訪問以前ではない),本試験H30】)の鎮圧に苦慮することとなります。
 一方,現在の北京に進出してこれを大都【本試験H9】【本試験H31チンギス=ハンが定めていない】【追H19】【早・法H31】として,元(1271~1368)という国号に改めました。
 1279年【本試験H3時期(ハイドゥの乱の「最中」か問う)】には,すでに首都の臨安(りんあん)を1276年に失っていた南宋の残党・皇族を厓山(崖山,がいさん)の戦いで完全に滅ぼします【本試験H3】。
 さらに,日本や東南アジア各地に遠征軍を派遣。
 〈クビライ〉の強さの秘密は,降伏した南宋の将軍を,元の軍司令官としてそのまま重用したことにあります。「支配に役に立つ者はすべてモンゴルとして扱う」という,柔軟な対応のあらわれです。実際に,当時の史料中の「モンゴル」というのは民族の名前ではなく,モンゴルの支配層であれば民族の垣根を超える呼び名であったわけです。

 ビルマのパガン朝【本試験H13トゥングー朝ではない,本試験H26地域を問う】はこのとき滅んでいますが,ヴェトナムの陳朝大越国【本試験H16李朝ではない,本試験H19時期】【追H18フランスの侵略を受けていない】は撃退に成功しました。陳朝では民族意識が高まり字喃(チューノム)【本試験H24時期】という民族文字を13世紀頃から作り始め文学作品などで使用されましたが,公用文における漢字の使用は続きました。

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 〈クビライ〉は中国を支配するのに,漢人よりも西域出身の色目人(しきもくじん)【東京H6[1]指定語句】を重用(ちょうよう)しました【本試験H4唐代ではない,本試験H9「色目人第一主義」をとったわけではない】【本試験H19蔑視されていない】。
 金の支配下にあった漢人女真(女直)人や契丹人たちは漢人(北人とも呼ばれました),南宋支配下の住民は南人【東京H25[3]】と呼び待遇にランクをもうけました。
 中央の官制は,中書省が統治機関として置かれ,14世紀初めには尚書省を廃して六部から独立させました。
 地方支配にあたっては,中書省と同格の行中書省を各地に置き,統治しました。これが現在の中国の「省」の起源です。漢民族の土地制度である佃戸制(でんこせい)は,変更されることなく続きました【本試験H14】。

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 たしかに科挙は一時停止され【東京H25[3]「科挙試験を一貫して重視したわけではない」】合格者も少なくなりましたが,科挙は1315年に再開されています。元の支配層にとってみれば,いくら儒教の経典に詳しくても「意味がない」わけです。それよりも即戦力のある人材,専門的な官僚(テクノクラート)がほしいというわけです。
 職を失った士大夫層は,宋の時代に異端とされていた〈朱熹〉(しゅき,1130~1200) 【本試験H11】【慶文H30記】の朱子学【本試験H11陽明学ではない】【慶文H30記】に飛びつきます。理気二元論【慶文H30記】,大義名分論【慶文H30記】を展開する朱子学は,元=異民族よりも漢人のほうが本来は上にあるべきだという読み方を儒教に提供し,支持されたわけです。朱子学は次の明代に官学化されることになります。
 〈クビライ〉は出版事業に積極的で,南宋代から編集のはじまっていた『事(じ)林(りん)広記(こうき)』という百科事典が出版され,元曲【追H18】(『琵琶記』(びわき)【追H18】、『漢宮秋』(かんきゅうしゅう)、『西廂記』(せいそうき))の台本や,明代に完成する『西遊記(さいゆうき)』『水滸伝(すいこでん)』『三国志演義(えんぎ)』【本試験H9[21]】の原型も出回りました。出版ブームに乗って,子供向けの『十八史略』(南宋南宋の〈曾先之(そうせんし)〉作)や,元の政府が出版させた農書『農桑輯(のうそうしゅう)要(よう)』などが多数印刷されました。

 儒学者にとっては元代は「迫害」の時代とみなされますが,後世の “後付け”という面もあります。後世の儒学者は,この時代の儒学の境遇を,「九儒十丐(くじゅじっかい)」と表現し“乞食(丐)が上から10番目のランクなら,儒学者は上から9番目”と表現しましたが,西方の文化を熟知するモンゴル人にとって儒学者の情報が“無用”と映った点はいなめません(九儒十丐(くじゅじっかい)には前置きがあって,「一官二吏三僧四道五医六工七猟八民九儒十丐」のように世の中の職業をまとめた表現です)。

 元【本試験H27清ではない】では,イスラームの暦学・天文学【本試験H19,本試験H23】の影響を受けた授時暦【東京H6,H27[1]指定語句】【本試験H2時期(明末ではない)】【本試験H23イスラーム天文学の影響があったか問う】【追H21、H25】が成立しました。イスラーム天文学【本試験H2ヨーロッパ天文学ではない】で使用されていた観測機器を用いた漢人の〈郭守敬〉(かくしゅけい,1231~1316) 【本試験H6】【本試験H19,本試験H23,本試験H27顧炎武ではない】【追H17宋応星ではない、H21、H25徐光啓・湯若望・宋応星ではない】により,中国の伝統的な暦法によって作成されました(注)。中国では天子である皇帝が,天文台を設置して正確な暦を作成させることが求められていたのです。これは1281年から施行。暦のタイプは太陰太陽暦です。のちに江戸時代の日本に伝わり〈渋川(しぶかわ)春海(はるみ)〉により1684年に貞享暦(じょうきょうれき) 【本試験H6】が作成され,翌年施行されています(のち,清代にイエズス会士〈アダム=シャール〉の時憲暦の知らせを聞き,キリスト教色を排除した宝暦暦(ほうりゃくれき)(1755~98)が制定されましたが粗悪で,幕府天文方〈高橋至時〉により西洋の暦法をとりいれた寛政暦が制定(1798~1844),1844年以降は1873年グレゴリオ暦導入までは天保暦を使用)。

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 〈クビライ〉はチベット仏教【本試験H12イスラム教を国教として保護したわけではない】の僧〈パクパ〉(パスパ,1235~80) 【追H28】 【慶商A H30記】を重用し,パクパ(パスパ)文字【東京H10,H30[3]】【本試験H12漢字をもとにしていない。タングート族の文字ではない】【本試験H14漢字をもとにしていない】【追H25突厥ではない,H30西夏ではない】というモンゴル語【追H28】のための文字をつくらせています。〈パクパ〉は11世紀中頃に西チベットではじまったサキャ派チベット仏教指導者で,〈クビライ〉の支持を背景にして,チベットの支配権を強めました。

 イランのコバルト顔料を用い,白磁に青い着色をした染付(そめつけ)(青花) 【東京H27[1]指定語句】という磁器【本試験H24唐三彩とのひっかけ】も作られるようになりました。染付技術が可能になったのも,モンゴル時代のユーラシアに交流圏が成立したおかげです。

 モンゴル帝国大モンゴル国〕は交通路の安全を確保し,治安維持や駅伝制(ジャムチ) 【本試験H18金ではない】の整備によって,ユーラシア大陸の陸上交通がさかんになりました。例えば,西方からは十字軍を組織してイスラーム勢力と戦っていたキリスト教が,モンゴルと提携することによってイスラーム勢力を挟み撃ちにしようというもくろみもあり,多数の使節を派遣しました。モンゴル人の宗教はシャーマニズム(目にはみえない世界との交信ができる霊能者が,踊りなどによって何かが乗り移ったような状態で我を忘れ,占いやお祓いなどをするものです。)でしたが,〈クビライ=カアン〉の母(〈ソルコクタニ=ベキ〉)がネストリウス派キリスト教徒であったといわれるように,モンゴル帝国でもキリスト教の信仰はありました。〈モンケ=カアン〉もはじめネストリウス派を信仰していたようです。
 その噂もあってか,ローマ教皇〈インノケンティウス4世〉(位1243~54)は〈プラノ=カルピニ〉(1180?~1252) 【追H27世界地図の作成者ではない、H29暦の改定はしていない】を,フランスの〈ルイ9世〉(聖王) 【京都H20[2]】は〈ルブルック〉【京都H20[2]】【本試験H3マルコ=ポーロとのひっかけ】【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前に起きたものを選ぶ)】を〈グユク=ハーン〉(定宗,位1246~48)に送っています。この目的には布教の理由のほかに,当時イスラーム教徒との間で続けられていた十字軍への支援を求める意図もありました。この2人は〈フランチェスコ〉【京都H20[2]】派の修道会士です。
 ほかにも,父【本試験H3】と叔父とともに陸路で旅行したヴェネツィア共和国【本試験H29場所を問う】【本試験H3ルイ9世に派遣されていない,本試験H8ジェノヴァではない(地図上の位置からもわかる)】【追H19】の商人〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324) 【東京H17[3]】【本試験H3,本試験H8】 は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ【本試験H3「南人」ではない】,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を『世界の記述(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』【本試験H3史料が引用・著者を答える】【追H19仏国記ではない】にまとめ,大きな反響をもたらします【本試験H3まだ活版印刷術は発明されていない】。

 たとえば,台湾の対岸にある泉州(ザイトゥン) 【本試験H10マカオとのひっかけ】に立ち寄り,「ザイトゥンには,豪華な商品や高価な宝石,すばらしく大粒の真珠がどっさり積み込んだインド船が続々とやってくる。この都市に集められた商品は,ここから中国全域に売られる」と繁栄ぶりを記しています。杭州(こうしゅう)も「キンサイ」として繁栄ぶりを記録しています。ただ,中国側には記録が残されていないため,疑問視する説もあります【本試験H8マルコ=ポーロの推定移動経路をみて,「メッカ」「カラコルム」を訪ねていないこと,「チャンパ」を経由していることを特定する】。

 13世紀末には〈モンテ=コルヴィノ〉(1247~1328) 【東京H6,H27[1]指定語句】【本試験H8元を訪問したか問う】【追H28,H30】 が,元(大元ウルス)【追H30カラ=ハン朝ではない】【本試験H8】の都・大都(だいと)【追H28】の大司教として中国初のカトリック布教【追H28】を成功させています。
 首都の大都には運河が延長され,長江から海をまわって北上して大都に至る海運も発達しました。従来の大運河も補修され【本試験H19】,大都に通じる運河も整備されました(新運河) 【本試験H9「江南の穀物華北にある首都まで運河で運ばれた」か問う】【本試験H19】。
 商業の発展とともに,元の時代には庶民文化が発展し,元曲【本試験H3】という戯曲が多数つくられました【本試験H3「もっぱら宮廷の舞台で上演されたのではない」】。元曲はかっこつけた仰々しい言葉ではなく,庶民の口語で書かれたところがポイントで,恋愛結婚を題材とした『西廂記(せいしょうき,せいそうき)』【本試験H9[21]】【本試験H21時代を問う】のようなラブストーリーが好まれました。

 〈クビライ〉の晩年には,クリルタイで彼を支持した東方三王家の乱が起きますが,鎮圧。1294年に亡くなっています。跡継ぎを決める際にはクリルタイはひらかれず,大ハーンの位はクビライ家に世襲されることになります。
 しかしその後の元の君主は,チベット仏教(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)に入れ込み【本試験H14ルブルックのカラコルム訪問以前ではない】,交鈔(こうしょう) 【本試験H22,H29北魏の時代ではない】【本試験H8時期(マルコ=ポーロと同時期)】【追H19】という紙幣を濫発したために物価が高騰し,国力を弱めていきました。紙幣が流通するようになると,かさばる銅銭が余るようになり,「銅」そのものにも価値があるので近隣諸国にそのまま輸出されました。例えば,鎌倉大仏は,銅銭によって作られたのではないかといわれています。

 

◆「14世紀の危機」によりユーラシア大陸各地のモンゴル政権の支配は揺らぎ,モンゴル帝国の“跡継ぎ”国家や影響を受けた国家が各地で成立していく
 1310年頃から1370年頃にかけて,北半球は寒冷化し,各地で不作や飢饉がおきました。さらに,モンゴル帝国によってユーラシア一帯の人の移動が盛んになったこともあって,ミャンマーで流行していたとみられるペスト(黒死病) 【追H26天然痘ではない】 【本試験H5ペストの大流行の時期を問う】が,1320年以降西へと広がり,1335年に洛陽→1347年にイスファハーン・ダマスクス→1348年にヴェネツィア・メッカ・ロンドン…と,またたく間にユーラシア大陸一帯に広がります。交易に支障が出てくるようになると,モンゴル帝国各地で支配にゆるみが生じました。

 キプチャク=ハン国では1359年に〈バトゥ〉の血統が途絶え,分裂。東スラヴ系の諸公国・大公国の中から,モスクワ大公国【本試験H3時期(ハイドゥの乱の時期ではない)】が力を付けモンゴル帝国の血統を権威として用いて強大化していきます。なお,キプチャク=ハン国ではイスラーム教【本試験H5】が保護されています。

 チャガタイ=ハン国は1335年に東西に分裂しました。そのうち西チャガタイ=ハン国から,1370年に〈ティムール〉が領域拡大に乗り出し,ティムール帝国【追H26チャガタイ=ハン国出身の武将によって興されたか問う】を建設していきます。

 なお,マムルーク朝も14世紀中頃のペストの流行により,衰退に向かいます。

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中国の元では,末期に1351年~66年に紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H4赤眉の乱・呉楚七国の乱・陳勝呉広の乱ではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事か問う,本試験H12白蓮教系の組織か問う】【本試験H19赤眉・黄巣安史の乱ではない,本試験H21時期】【追H25ウイグルと強力して鎮圧していない(それは安史の乱)】が起きます。紅巾軍は,弥勒仏(みろくぶつ)【本試験H12】が現世を救済するために現れると信じる白蓮教系の組織から成っていました。彼らにより大運河が寸断され,江南と北京を結ぶ海運ルートが紅巾の乱とは一線を画して反乱を起こした有力者〈張士(ちょうし)誠(せい)〉(1321~1367)により遮断されると,補給路を絶たれた元はまさに“一巻の終わり”となります。
 白蓮教徒【本試験H12】の一派である〈朱元璋〉は,まずライバルの〈張士誠〉の反乱を鎮圧し,その上で1368年大都を陥落させました。最後の皇帝〈トゴン=テムル〉(順帝)はモンゴル高原に退却しましたが,帝室は存続したわけですので,厳密にいえば「滅んだ」わけではありません。

 例えば,15世紀初めにはオイラト部【本試験H16】の〈エセン〉【本試験H13アルタン=ハーンではない】【追H29アルタン=ハンではない】が,チンギス家と結婚関係をもつことで勢力を拡大しました。西方では女真(女直)人を,チャガタイ=ハン国の東半(モグーリスタン)を制圧しています。しかし,明との間で貿易をめぐるトラブルが生じ,1449年に中国に進入して明【本試験H20前漢ではない】の皇帝〈正統帝〉(英宗)【本試験H16万暦帝ではない】を捕虜にしました(土木の変【本試験H13,本試験H18地図・靖康の変ではない,H31時期(漢代ではない)】【追H29】)。〈エセン〉は1452年にハーンに即位しましたが,それには批判も多く,1454年に殺害されています。結婚関係だけではダメだというわけですね。

そこでその後,チンギス家の直系である〈ダヤン=ハーン〉(位1487~1524)が,大ハーンとしてようやくモンゴル高原の広範囲を統一することに成功します。ダヤンというのは大元ということで,元(北元)の復興でもあります。明は「モンゴルは1388年に滅んだ」という立場をとったので,この勢力をタタールと呼びましたが,正確にいうとモンゴルに違いありません。
 彼はモンゴルを,直轄地であるチャハル【本試験H31】,ハルハ,ウリャンハンと,間接支配地に分けて統治しました。
 アルタンは現在も内モンゴルの中心になっているフフホタ(フフホト)を建設し,中国との通商を推し進めて発展していきました。フフホトは現在,中華人民共和国内モンゴル自治区省都として発展しています。

 チベットでは,元の時代に〈フビライ=ハーン〉に保護されたサキャ派への批判が高まり,さまざまな派が対立しました。その中から,〈ツォンカパ〉(1357~1419) 【本試験H13・H20,H22時期】がインドから伝わった経典を再編成したゲルク派を開き,黄色い帽子を用いたので黄帽派【東京H12[2]】【本試験H13・H20】【追H29】とも呼ばれました。


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 そんな中,〈チンギス=ハン〉の息子〈チャガタイ〉の千人隊に属していた名門バルラス家に属する〈ティムール〉【本試験H31】【東京H8[3]】は,若い頃に指揮官として名を上げ,〈トゥグルク=ティムール〉に認められて指揮権を与えられました。しかし,その後反乱を起こしチャガタイ=ハン国東部の「モグーリスターン」の撃退に成功。
 サマルカンド【京都H19[2]】【東京H30[3]都市の略図を選ぶ】を拠点にして支配権を確立した〈ティムール〉は,政略結婚で〈チンギス〉家の婿(むこ)となることで,人々から支配者としてふさわしいと納得してもらうことにも成功し,1370年【追H20時期(14世紀)】にティムール朝【本試験H5時期(13世紀末~14世紀初めではない)】【追H20】【H27京都[2]】を樹立しました。サマルカンドには,宮殿,モスク,バザール(ペルシア語で市場。アラビア語ではスーク【本試験H21マドラサではない】)などを建設し,交通路を整備して商業活動を奨励しました。彼は都市の活動を重視し,征服先での不要な略奪は行いませんでした。
 彼は「モグーリスターン」,ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国。首都はヴォルガ川【慶文H29】中域のサライ),デリー=スルターン朝のトゥグルク朝,イル=ハン国(フレグ=ウルス)を次々に攻撃し(イル=ハン国は滅亡【本試験H15 19世紀のロシアが滅ぼしたのではない】),ティムール朝【本試験H18】を都サマルカンド【本試験H2ティムール朝の時代に衰えていない】【本試験H18】を中心に建設していきました。

 1402年にはオスマン朝アナトリア半島アンカラで破り(アンカラの戦い) 【追H17時期を問う(15世紀初頭か),H24ティムールに敗れたか問う,H28アッバース1世は無関係】【本試験H31エィムールがオスマン帝国を打ち破り,そのスルターンを捕虜にした戦いか問う,地図上の位置も問う(プレヴェザとのひっかけ)】ましたが,その後,明遠征を計画し,20万の大軍を出発させました。

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〈ティムール〉の死後,〈シャー=ルフ〉(位1409~47)が政権を握り,安定した支配を実現しました。
 彼は,聖地メッカを保護下におさめていたマムルーク朝の君主から,カーバ神殿の覆い(キスワ)を提供する権利を得ています。そのようにして,イスラーム教徒たちに自分の支配権を納得させようとしたわけです【本試験H31リード文。ただし,認められたのは内側の覆いだけで,外側の覆いはマムルーク朝の君主が提供するものとされた】。

 子の〈ウルグ=ベク〉【追H26リード文】【慶文H29】が後を継ぎました。
 〈ウルグ=ベク〉自身も優れた学者であり,サマルカンド郊外の天文台【追H26リード文】で天文観察を行い,1年を「1年間は365日6時間10分8秒」と恐るべき精度で計算,天文表はアラビア語オスマン語,ラテン語にも翻訳されるほどの精度でした。惑星の運行法則を示したドイツの〈ケプラー〉(1571~1630) 【追H20】の現れるずっと前のことです。

 しかし,しだいに各地で王子たちが独立をするようになり,ウズベク人【追H30匈奴とのひっかけ】【慶文H29】の進入も始まっていました。さらに,イラン方面からはテュルク系遊牧民(トゥルクマーン)の建てた黒羊朝(カラコユンル,1375~1468)や白羊朝(アヤコユンル1378~1508)が進入するようになっていき,サマルカンドとヘラートに拠点をもつ王族の間で内紛も勃発。
 テュルク系のアクコユンル(白羊朝)の〈ウズン=ハサン〉は,1468年にカラコユンル(黒羊朝)の〈ジャハーン=シャー〉を破り,アナトリア半島に進出しています。

 この間ヘラートでは学芸が盛んとなるのですが,1500年にウズベク人【慶文H29】の〈シャイバーニー=ハーン〉(1451~1510)が進入し,ついに滅んでしまいました。

 なお,モンゴル帝国により,中国で発明されていた硝石(硝酸カリウム)をもちいた黒色火薬【本試験H2】は,モンゴル人によって14~15世紀には西アジアやヨーロッパにも伝わります。早速ドイツ人は,15世紀末に,先込火縄式のマスケット銃を開発しています。こうした小銃の導入により,騎士は没落【本試験H2】していくことになり,大航海時代(注)における軍事的な優位を手に入れました。

 


●アジア
●東アジア
 その頃日本では,後醍醐天皇(位1318~39)を中心として鎌倉幕府が倒され,その後南北朝の動乱となります。その混乱に乗じて日本近海では密貿易集団の活動が盛んになり,取締りが厳しくなるとが倭寇(わこう) 【中央文H27記】として沿岸から略奪行為をはたらきました。


 元に服属していた朝鮮の高麗では,この倭寇討伐で名をあげた〈李成桂〉(りせいけい(イ=ソンゲ) 【本試験H23】【セ試行 李舜臣とのひっかけ(豊臣秀吉の海軍を撃破していない)】【追H26明の初代皇帝ではない、H27李世民ではない、H30】,1335~1408)が高麗(こうらい)【追H30百済ではない】を倒し,1392年に王(太祖,在位1391~98)に即位し朝鮮王朝(1392~1910) 【追H9「李氏朝鮮」(ママ)】【本試験H13,本試験H23】を建てます。首都は漢(かん)城(じょう)【本試験H13開城ではない,本試験H22・H27ともに慶州ではない】,現在のソウルです。官学は朱子学【本試験H13】【本試験H8陽明学ではない】【追H19】と定められ,支配層は両班(ヤンバン)【本試験H13】【追H24朝鮮(李朝)のとき政治的実権を握っていたか問う、H30】と呼ばれました。
 同じ1392年には日本でも,南北朝に分かれていた政権が統一されています。
 その後,室町幕府3代将軍〈足利義満〉(あしかがよしみつ1338~1408) 【本試験H7】が,明から「日本国王」【本試験H7】に封ぜられて,勘合(かんごう)貿易【本試験H4鎖国政策をとっていたわけではない,本試験H7「倭寇の鎮圧に協力することを条件に」か問う,本試験H10】【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない】をはじめました。勘合というのは,海賊船ではなく正式な朝貢船であることを確認するために用いられた,割印(わりいん)の押された証明書のことです【本試験H10民間の対外交易を促進するための政策ではない】。


 しかしその後、中国にモンゴル人が進出して宋が倒れると、1274年,1281年に2度にわたって元寇【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】【追H19,H25】(モンゴル襲来;蒙古襲来)が実施されました。
 1274年の文永の役の前,1266年に大元ウルス〔元〕の〈クビライ=カアン〉【追H25オゴタイによるものではない】は,日本に通交を求める外交文書を送っています。この中で,「兵を用ゆるに至るは,夫れそれたれか好むところぞ。王,それこれを図れ」(兵を用いるなんて,誰が好むだろうか。王は,これを考えていただきたい)という内容に狼狽した日本は,死者を殺害。これが遠征の引き金となります。


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明で1402年に靖難の役(せいなんのえき,靖難の変)が起き〈永楽帝〉(位1402~24) 【東京H18[3],H24[3]】が即位すると,〈永楽帝〉は「日本国王之印」の金印と勘合(かんごう)を送りました。こうして〈足利義満〉は,明との貿易独占を可能にしたのです。


琉球
按司は各地に役人(うっち)を派遣し徴税し,農耕の祭祀は姉妹(オナリ)に担当させました。14世紀には複数の按司支配下に置く世の主(よのぬし)が現れ,沖縄本島今帰仁(なきじん)の北山,浦添の中山【本試験H10】,大里の山南の3王国が有力となり,それぞれ1368年に明と冊封関係を結びました。これらを合わせて「三山」の呼び,それぞれの国名は中国から与えられたものです(「山」は島または国という意味)。
 その後,1420年代【本試験H10 時期(15世紀初めか問う)】に中山【本試験H10】の按司である〈尚巴志〉(しょうはし,1372~1439)が三山を統一をし,琉球王国(第一尚氏王朝) 【本試験H4,本試験H10】を建国し,明との朝貢貿易を実現【本試験H10明との間に対等な外交関係を結んでいたわけではない】。東南アジアから商品を中国に流す中継貿易をおこないました。明は海禁政策をとり自由な貿易を禁じたため,福建省の商人は東南アジア各地に移住し華僑となり,琉球王国にも交易ネットワークを張り巡らせていきました。琉球王国は明への入貢回数ナンバーワン(2位は黎朝,3位はチベットです)[村井1988]。
 琉球に来れば,日本からの日本刀,扇,漆器だけでなく,皇帝から琉球王国に授けられた品物や中国商人の品物が手に入るからです。日本の商人は琉球から,中国の生糸や東南アジアの香辛料・香料などを入手しました。
 琉球から明には2隻・300人の進貢使が2年に一度派遣され,初めは泉州のち福州に入港します。一行の一部は陸路で北京の皇帝に向かい,旧暦の正月(2月)に皇帝への挨拶とともに貢物(馬,硫黄,ヤコウガイタカラガイ芭蕉布など)を献上すると,代わりに豪華な物品が与えられます。その間,福州では決められた商人との取引が許可されました。また,琉球王国の国王が代わるたびに冊封使(さくほうし)が中国から派遣され,皇帝から正統性が認められました。皇帝にとってみても,琉球王国が東南アジア(琉球は真南蛮(まなばん)と呼んでいました)にせっせと交易品を獲得しに行ってくくれれば,黙っていても東南アジアの産物が届けられるという好都合がありました。14~15世紀の琉球王国にとっての最大の貿易相手国はシャムのアユタヤ朝【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたわけではない】でした。15世紀にはマラッカ王国【追H17儒教が国教ではない】とも交易をしており,ポルトガルの〈トメ=ピレス〉は16世紀前半の『東方諸国記』で琉球を「レキオ」と表現しています。

 このころの琉球では,のち16世紀の日本で三味線(しゃみせん)に発展する三線(さんしん),紅型(びんがた),タイや福建省醸造法に学んだとされる泡盛(あわもり)といった文化が,日本や東南アジアとの交易関係の中で生まれていきました。日本への貿易は,室町幕府との公式な交易だけではなく,大坂の堺や九州の博多【東京H27[1]指定語句】の商人との間でも行われました。15世紀後半に幕府の権威が弱体すると,前期倭寇が活発化する中,日本人が琉球王国を訪れ交易は続けられました。

●朝鮮
この部隊はのちにモンゴル帝国が1231年以降に高麗に断続的に進出した際,その撃退のために江華島に政権が避難した後も最後まで活躍しました。モンゴル撃退を祈念するため木版印刷による『高麗大蔵経』【本試験H11:活版印刷で刊行されたか問う。活版印刷ではなく木版。大量の版木が現在でも残されています】を作製させたのが先ほどの〈崔?〉(さいう;チェ=ウ、位1219~49)で,彼の時代の1232年に政権は江華島に移されました。
 しかし1258~60年にかけての攻撃で、1258年に〈崔?〉(チェ=ウィ)が殺害されて武臣政権は崩壊。
 高麗の王太子〈?〉(次代の国王〈元宗〉。位1260~74)が〈クビライ〉(フビライ)を直接訪れ,降伏しました【追H21「チンギス=ハン」のときではない、H24モンゴルに高麗が服属したか問う】。


 なお、1279年には高麗軍主体の(東路軍)に加え,旧・南宋の軍主体の(江南軍)が動員され第二回日本遠征が実行されましたが,失敗しています【本試験H11「2度にわたる日本遠征が失敗した」ことは「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】。

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元で紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事か問う,本試験H12】が勃発したことが伝えられると,これをチャンスとみた〈共愍王〉は,朱子学者を取り立てるなど,反元運動に乗り出しました。結局中国では元が倒され,1368年に明が建てられています。

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 朝鮮王朝は,朱子学を国教化し【共通一次 平1:儒教が不振であったわけではない】科挙【本試験H27】を導入して,官僚制度を整えます。官僚になるルートには,科挙のうち,文人を選ぶ文科と,武人を選ぶ武科があって,文人と武人をあわせた両班(ヤンバン,りょうはん)といわれる支配階級は,王族の次に位置づけられ,朝鮮王朝の時期には特権階級として世襲化されていきました。

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また28字(現在は24字)から成る訓民正音(くんみんせいおん(フンミンジョンウム),ハングルは後の呼称) 【東京H16[3]】を学者に作らせ1443年に制定し,1446年にその原理と用法を説明した同名の教科書を発表しました【共通一次 平1:高麗代ではない】【追H9ハングルとも呼ばれるか・15世紀に作られたか,本試験H12高麗代ではない、H19、H27チュノムではない】【本試験H13,本試験H15高麗代ではない,本試験H22・H24ともに時期】【慶商A H30記】。
 訓民正音はアルファベットのように表意文字でありながら,漢字のように「へん」や「つくり」のようなパーツがあるので,子音と母音を組み合わせて一つの音節を表すことができます。また,金属活字による出版【本試験H2唐代の中国で盛んになっていない】もおこなわれました。〈世宗〉の時代には『高麗史』(1451)も編纂され,白磁が生産されました。

 

●中国

中国でモンゴル人のハーン〔カアン〕〈クビライ=ハーン〉〔フビライ〕(1215~1294)は、モンゴル人として初めて中国風の国号(大元【追H19】)を定め、1271年に大都に都を置いて、中国の農耕定住エリアの支配を本格的に開始しました。

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 白蓮(びゃくれん)教徒【本試験H3太平天国ではない,本試験H12】による紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなったか問う,本試験H12】をきっかけに各地で反乱が起き,1368年,貧しい農民出身の〈朱元璋〉(しゅげんしょう,1328~98)は,長江下流域の金陵(きんりょう,現在の南京) 【本試験H2臨安ではない】【本試験H27長安ではない】で皇帝に即位し,国号を明としました。「洪武」という元号を制定し「洪武帝」(洪武帝,ホンウーディ) 【追H9】【本試験H24】と呼ばれました。死後におくられた名は太祖です。これ以降の元号は,皇帝の在位期間と連動することになりました(一世一元)。皇帝は“時間をも支配する”というわけです
 元を支配していたモンゴル人はモンゴル高原に退却し,明からは北元(1371~88) 【追H9】と呼ばれましたが,事実上モンゴル高原で存続し,南方の明(ミン)と併存する状況が続きました。

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 〈朱元璋〉は君主専制体制(注)をはかるため,反対勢力にあった官僚を容赦なく処刑し,従来実権をにぎっていた旧貴族勢力を政府から追放するために,中書省を廃止して,中書省の管理下にあった六部を皇帝直属とし,監察も強化しました。明律【本試験H25】と明令も制定しました。
 また,南宋の〈朱熹〉【本試験H11】が大成した朱子学【本試験H11陽明学ではない】を官学化して,科挙を整備して,明律・明令をつくらせました。


 また,倭寇対策のため,民間人の貿易は禁じられ朝貢貿易のみが許されました。華人の商人は、中国の政権と同伴する場合のみ、海外に渡航することができたのです。「貿易がしたいのなら,朝貢せよ。皇帝が冊封(さくほう)し,臣下となれば,貿易を許そう」と,海禁【東京H14[1]指定語句】【H27京都[2]】した上で朝貢を求めたのです。

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民間人(民戸)の戸籍と軍人(軍戸)の戸籍を分けた軍事組織【追H26】である衛所制【追H26明代か問う】【本試験H17里甲制ではない,本試験H23宋代の地方小都市ではない】を整備します。
 農村では,110戸をあわせて1里とし,そのうちの豊かな10戸を里長戸とし,残りの100戸の甲首戸を10戸ずつにわけました。里長戸と甲首戸には,それぞれ10年1ローテーションで,里長戸から税金をとったり,治安をまもったりする義務を課せられました。これを里甲制【本試験H17】といい,モンゴルの千戸制(せんこせい)の影響がみられます。さらに「六諭」(りくゆ) 【追H9〈康煕帝〉の発布ではない。四書と明律・明令の総称ではない、H21秦代ではない、H26明代であることを問う】【本試験H14唐の太宗が定めたわけではない,本試験H17史料・宗法ではない】という6ヵ条の教えを,里(り)甲制(こうせい)【追H9】の下の村落における里老人(村の中の長老)にとなえさせ,民衆【追H9六部の官僚ではない】が守るべき道徳をゆきわたらせました。どこにどんな土地があって,誰がどこに住んでいるのかを把握するために,土地台帳の魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)【共通一次 平1:人頭税の台帳ではない】【追H30漢の武帝によるものではない】(土地を描いた図柄が魚の鱗に見えることから)と,租税台帳の賦役黄冊【本試験H27北宋代ではない】(冊子の表紙が黄色であったことから)を整備させました。

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 〈洪武帝〉は自分の息子たちを,モンゴル人に対処するために北方の辺境地帯におくって支配させました。現在の北京である北平(ほくへい)【法政法H28記】(元のときには大都と呼ばれていた都市を改称したもの)にいた〈燕(えん)王(おう)〉(朱棣(しゅてい))は,洪武帝の次に即位した〈建文帝〉(位1398~1402)が,辺境の王たちの領土をなくそうとすると,挙兵して南京【早・政経H31北京ではない】を占領,内戦が勃発しました。〈燕王〉は北京【追H26明代か問う】【本試験H4「1402年の遷都」について問う】に遷都して皇帝に即位し,〈永楽帝〉(位1402~24) 【追H24 時期が13世紀か問う、H26北京に遷都したか問う】【東京H24[3]】【H27京都[2]】【早・法H31】を称します。この内戦を靖難(せいなん)の変といいます【早・法H31】【法政法H28記】。

 北京に建設された王宮を紫禁城といい,今後清の滅亡まで使用されました【本試験H28宋の時代ではない】。皇帝の政務を補佐するため,内閣大学士【本試験H4尚書省中書省,軍機処ではない】【法政法H28記】が置かれました【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】。

 〈永楽帝〉は,『永楽大典』【本試験H25時期】【追H21時期】(2万2877巻のさまざまな書物関する書物の大全集),科挙のテキストとなった『四書大全』(全36巻の四書の注釈) 【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない】,唐の『五経正義』を朱子学の立場から書きなおしたテキスト『五経大全』,朱子学の学説を集めた『性理大全』(全70巻)を編纂させることで,思想の統制をはかりました。この思想統制の動きに抵抗したのが,『伝習録』を著して「致良知」【慶文H30朱熹の教えではない】「知行合一」【本試験H7】を唱えた〈王守仁(陽明)〉(1472~1529) 【本試験H7】でした。

 

 〈永楽帝〉は,さらに朝貢貿易【セ試行 民間交易ではない】を推進するため,イスラーム教徒の宦官である〈鄭和〉(1371~1434) 【セ試行 時期(明代初頭か)】 【東京H16[3]】に南海大遠征(「西洋下(くだ)り」ともいいます)を命じました【本試験H21時期】【セA H30】。

 「明と貿易したければ,朝貢せよ」と呼びかけた鄭和はアフリカ東海岸のスワヒリ文化圏にまで120メートルの巨大な船で到達し【セA H30大西洋には到達していない】,インド洋沿岸の諸国までが明に朝貢使節をおくっています。

【本試験H4明の時代の海外への主要な窓口は,上海と香港ではない】

 

 とくにムラカ(マラッカ)王国と,琉球(現在の沖縄)は,明から得た商品を周辺諸国に中継する中継貿易で栄華をきわめます。イスラーム教国【本試験H15】のムラカ(マラッカ)王国【本試験H15】はすでに14世紀末に成立していましたが,発展したのは〈鄭和〉の遠征がきっかけです。マラッカ海峡は,インド洋と南シナ海をつなぐ要所です。

 モンゴル高原では,14世紀末にフビライ家直系が断絶したので,チンギス家の王族が大ハーンの位を継ぎました。モンゴルは,明からは韃靼(だったん)と呼ばれましたが,自らは「大元」【追H19】と名乗りました。
 〈永楽帝〉は,モンゴル高原に遠征【本試験H15】します。
 一方,15世紀半ばにはモンゴル高原北西部のオイラトが〈エセン=ハン〉(?~1454) 【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない,本試験H17時期(16世紀ではない)】【追H25】【H27京都[2]】の指導で強大化。
 当時,朝貢の形式をとらなければ中国との貿易ができず,回数なども厳しく決められていました。そこで彼は通商を要求して明の〈正統帝〉(位1435~49,57~64)を北京北西の土木堡(どぼくほ)で捕虜としてしまいました(土木の変【追H25】)。

 


●東南アジア
 北ヴェトナムでは1225年に内戦を終結させた〈陳太宗〉が陳朝大越国【本試験H12】【追H28骨品制という身分制度はない】をたてました。しかし,ほどなくしてモンゴル人の元の侵攻が始まります(1251,84,87)。東南アジアを狙ったのは,豊かな交易ネットワークを手に入れるためでした。王族の〈陳興道〉(チャン=フン=ダオ,1228~1300)はこのときに必死に抵抗したことから,現在のヴェトナム人にとっての英雄となっています。陳朝では民族意識が高まり漢字を基にした【追H9】チューノム(字喃;チュノム) 【東京H10[3]】【追H9阮朝の時代ではない・漢字をもととしているか問う,H27ハングルとのひっかけ、H19,H31タイではない】【本試験H12】【慶商A H30記】がつくられましたが,公用文における漢字の使用は続き,儒教・仏教が尊重され,科挙も実施されました。

 そんな中,陳朝の末裔をかついで台頭した豪族の〈黎利〉(レ=ロイ)が,陳朝の王族から実権を握って建国したのが黎朝(10世紀の前黎朝と区別して,後黎朝ともいいます,れいちょう,1428~1527,1532~1789) 【本試験H20カンボジアとのひっかけ,H31明軍を破って独立したか問う(正しい)】【追H17イスラム王朝ではない、H21陳朝とのひっかけ,元を撃退していない、H25明から自立したか問う】。首都はヴェトナム北部のハノイ。〈黎太祖(レタイト)在位1428~33〉として即位しました。
 〈黎利〉は明の制度を導入し,ヴェトナムで現存する最古の法典を編纂し,朱子学を導入。陳朝のときに考案されたチューノム文学もつくられました。


 1282年に元は占城(チャンパー) 【本試験H18ビルマではない】を海から攻撃しましたが泥沼化し,84年に撤退します。しかし,その後1312年に陳朝は占城を攻撃し,服属させました。

*

ジャワでは1222年に〈ケン=アロク〉によりクディリ朝(928?929?~1222)が倒され,シンガサリ朝(1222~92)が開かれました。シンガサリはクディリの東部に位置し,どちらも東部ジャワにあります。5代目の〈クルタナガラ〉王(位1268~92)のときに,スマトラ島やバリなど,島しょ部の広範囲に渡って制服活動を行いました。
 しかし時おなじくして東南アジアに南下しようとしていたのは,モンゴル人が中国で建国した王朝の元でした【本試験H26】。元の〈クビライ=ハーン〉(位1271~1294)は,シンガサリ朝の〈クルタナガラ〉王に使節を送りましたが,顔に入れ墨を入れて送り返したことから,〈クビライ〉は激怒。大軍を派遣したときには,すでに〈クルタナガラ〉(?~1292)はクディリ家の末裔(まつえい)と称する〈ジャヤカトワン〉(生没年未詳)の反乱で亡くなっていました(1292年)。〈クルタナガラ〉の娘の夫〈ウィジャヤ〉は,元と協力して〈ジャヤカトワン〉を捉えました。しかし,その後〈ウィジャヤ〉は元軍を攻撃さし,元はジャワ征服を果たせぬまま撤退します。

 その後〈ウィジャヤ〉が〈クルタラージャサ〉王(位1293~1309)としてシンガサリの北部に建国したのが,マジャパヒト王国(1293~1478) 【東京H6[1]指定語句,H25[3]】 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】【追H17ヒンドゥー教国であったか問う、H19】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】です。14世紀半ばには〈ガジャ=マダ〉(?~1364)が,「世界守護」という名の大宰相という立場で,王国を支配し最盛期に導きます。積極的に対外進出し,その領域は現在のインドネシアの領域にマレー半島(ムラカ(マラッカ)を1377年に占領しています)を足して,ニューギニア島西部を引いた領土とだいたい同じくらいになりました。

 その後も,イスラーム教の王国として,15世紀末にスマトラ島【本試験H20地図,H29セイロン島ではない】にアチェ王国(15世紀末~1903) 【本試験H25地図上の位置を問う・扶南の港ではない】,16世紀末にジャワ島中部にマタラム王国(1580年代末ころ~1755) 【本試験H15ジャワ最古のヒンドゥー教国かを問う,本試験H24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】【追H19、H20元に滅ぼされたか問う(されていない)】【上智法(法律)他H30】が建国されています。マタラム王国は,8世紀にもジャワ人による同名の国があり,古いほうを古マタラム王国と区別する場合があります。

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 13世紀に入り,スマトラ北部の人々がイスラーム教に改宗をはじめるようになりました【追H9地図:伝播経路を問う】。1293年にスマトラ島の港市に風待ちで立ち寄った〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324)が言及しているのが,最初の文献です。
 このサムドラ=パサイ王国(1267~1521)が,イスラーム化の中心で,のちに〈イブン=バットゥータ〉(1304~1368) 【本試験H3】【本試験H18宋の時代ではない,本試験H31】【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物であるが、1402~1602年の間ではない)】や〈鄭和〉(1371~1434)も訪れています。

 1368年に成立した明は,海禁【本試験H15明代を通じて海外への移住が奨励されたわけではない,本試験H18】政策をとって,貿易を朝貢貿易に限ろうとしました。
 ジャワ島から急成長したマジャパヒト王国(1293~1478) 【東京H6[1]指定語句,H25[3]】 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】【追H19】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】は,1377年にスマトラ半島南部,マラッカ海峡に接する港町マラッカ(ムラカ)を占領。1420年には中国の明の〈鄭和〉が南海遠征で立ち寄っています。
 マラッカ海峡地域(三仏斉)の諸国は中国とのよりよい交易条件をめぐり,競って朝貢をしました。14世紀後半にジャワとパレンバンや中国人海賊との間で抗争が起きると,パレンバンの王子〈パラメスワラ〉が,マレー半島で建国しました。これが,東南アジア初のイスラーム教【本試験H2上座仏教ではない】の支配者による港市国家であるムラカ(マラッカ)王国(1402~1511)を建国しました【追H9時期、H25】【本試験H2時期(15世紀初めか問う)】【本試験H21イスラームに改宗した時期】。
 マラッカ王国【追H17儒教が国教ではない】は,西方のイスラーム勢力や東方の琉球王国(りゅうきゅうおうこく,1429~1879。同じく明に朝貢していました【本試験H26・H30】)【本試験H19 14世紀に衰退していない,本試験H20時期】とも関係を結び,マジャパヒト王国をしのぐようになっていきます(注)。
 マラッカ王国には西方からイスラーム教の宗教指導者が訪れ,東南アジアでの布教の拠点となっていきました。イスラーム教の拡大に一役買ったのは,スーフィー(神秘主義者) 【本試験H9ウラマーとのひっかけ】の集団です。

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 チャオプラヤー川流域では,クメール王国の〈ジャヤーヴァルマン7世〉(位1181~1218?1220?)が亡くなると,タイ人の活動が盛んになりました。タイ人とは,インドシナ半島北部の山地を中心に,現在はタイとラオスを中心に分布し,合わせて8000万人を超す人口を誇る民族です。山地には13世紀頃からタイ人の諸王国が成立するようになっていましたが,クメール人の支配を脱した最もタイ人の一派は,〈シー=インタラーティット〉(位1238?~70)のもとで1240年頃にスコータイ朝共通一次 平1:時期を問う】【本試験H4地域がタイか問う】【本試験H19時期】【追H21元に滅ぼされたパガン朝とのひっかけ】を建国しました。


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 1351年に,現在のタイのアユタヤでアユタヤ朝共通一次 平1:時期を問う】【本試験H4時期(7世紀ではない),本試験H11:時期は14~18世紀にかけてか問う。地域はフィリピンではない】【本試験H14・H18・H21ともに時期】をおこした〈ウートーン〉はもともとスコータイ朝に仕えており,反乱を起こして〈ラーマーティボーディー1世〉(1351~1369)として即位しました。〈鄭和〉の遠征もあり,中国の明との朝貢貿易をおこない,栄えました。1438年にはスコータイ朝の継承者が断絶したため,これを吸収しました。チャオプラヤー川の広大名水田地帯を抱えつつ,交易ルートを押さえることで,王は“商業王”として君臨しました。
 15世紀半ばに明が貿易を制限するようになると,アユタヤ朝マラッカ海峡の支配権を狙い,一時マラッカにも遠征しましたが,イスラーム教【本試験H15】の信仰されたマラッカ王国【本試験H19】【追H17儒教が国教ではない】は西方のイスラーム世界との貿易関係を結び強大化し,海上交易による利益【本試験H27】でアユタヤ朝【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたか問う】を圧倒していきました。アユタヤ朝のマラッカに対する進出は止まりましたが,マラッカはアユタヤにインドからの商品(綿布など)を,アユタヤはマラッカに米を輸出するという貿易関係は続きました。

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 ビルマでは,イラワジ川中流域にビルマ人がパガン朝(849~1312) 【本試験H26地域を問う】【追H21「モンゴル」が「進出した」か問う】を建てていました。この王朝はセイロン島から伝わった上座仏教を保護。このころにはすでに,南インドの文字の系統に属し,モン人の文字に由来するビルマ文字(タライン文字)が使われています。
 パゴン朝には次第にシャン人が政権に介入するようになり,1287年にはモンゴル人の元の遠征軍に敗れて服属【追H21「モンゴル」が「進出した」か問う】。そのゴタゴタの最中(さなか)に内紛が起こり1299年にパガン朝の王は宰相に殺害されました。宰相によりたてられた新国王は一時的に元を撃退しましたが,1312年には王権がシャン人に譲られ,パガン朝は完全に滅びます【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30問題文ちゅうに「元の攻撃を受けて滅亡した」とあるが,直接的原因ではない】。

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・イラワジ川上流 →アヴァ朝(1364~1555)をシャン人が建国。
・イラワジ川中流 →タウングー朝(14世紀~1752) 【本試験H3イギリスにより滅ぼされていない(それはコンバウン朝),本試験H4タイではない】【追H19、H20 ジャワではない。16世紀成立ではない】【慶文H30記】をパガン朝の残存勢力(ビルマ人)が建国。

 

●南アジア
 1206年に,〈ムハンマド〉が帰路で暗殺されると,武将でマムルークの〈アイバク〉(?~1210) 【本試験H3バーブルではない】【本試験H23シャー=ジャハーンではない】【追H24デリーにイスラーム王朝を建てたか問う、H25ティムールとのひっかけ】はデリー【共通一次 平1:商業・文化の中心はボンベイではない】【本試験H22】【追H18モンゴル帝国の領域には入っていない】にとどまり,王朝を始めました。
 彼の政権を奴隷王朝共通一次 平1:デリー=スルターン朝の初めか問う】【本試験H3】【本試験H13デリーを首都にした最初のイスラーム王朝かを問う,本試験H22時期,H29カージャール朝ではない】【追H30ムガル帝国とのひっかけ】【名古屋H31何世紀か問う】と呼び,インド初の本格的なイスラーム教徒による政権となりました。
 彼の配下の将軍は,パーラ朝により建設され,インド最後の仏教教学の拠点であったヴィクラマシーラ大学を破壊しています。
 また彼【追H25ティムールではない】はデリー南郊に高さ72.5mものクトゥブ=ミナール【本試験H30】【追H25クトゥブ=ミナール(クトゥブ=ミナレット)】という石塔を建てています。それから,ハルジー朝トゥグルク朝,サイイド朝【慶文H29】,ロディー朝【早政H30問題文「アフガン系の王朝」】にいたるまで,ガンジス川【早政H30】に注ぐヤムナー川河畔のデリーを首都とするイスラーム政権がつづきます。どれもカイバル峠の向こう側,中央アジアとのつながりが強い政権です。
 これをまとめてデリー=スルターン朝【共通一次 平1:この諸王朝はマラータ王国との間で戦争を続けていない】といいます。デリーはガンジス川の支流であるヤムナー川沿いの都市です。

 ちなみに,ゴール朝は,1215年に新興のホラズム=シャー朝によって滅ぼされています。アム川下流域のホラズム地方でおこった国で,一時的にシル川からイランにかけて広大な領土を支配しました。
 しかしその直後,西征に出ていた〈チンギス=ハン〉によって,ホラズム朝【本試験H21滅亡時期】はブハラとサマルカンドを占領され,1231年に滅亡します。モンゴル人は,その後もチャガタイ=ハン国やイル=ハン国(フレグ=ウルス)が北インドに進入しています。

 一方,北方からは,今度はティムール朝の進入を受け,1398年にはデリーに入城し,略奪を受けました。〈ティムール〉は翌年サマルカンドに帰りましたが,彼の派遣した〈ヒズル=ハーン〉はトゥグルク朝を滅ぼして,1414年デリーでサイイド朝【慶文H29】を建てています。この政権の中央アジアとのつながりのつよさがうかがえます。
 そのサイイド朝が弱体化したので,1451年にアフガンの諸部族がロディー朝を建てました。


ムガル帝国は,モンゴル帝国(大モンゴル国)の“跡継ぎ”国家を自任していた
 〈ティムール〉の子孫【追H26ティムール帝国の末裔がムガル帝国を建設したか問う】である〈バーブル〉(1483~1530) 【セ試行 死後にムガル帝国が分裂したわけではない】【本試験H3奴隷王朝を建てていない,本試験H12】【本試験H20・H22時期・ムガル帝国を滅ぼしていない】【H27京都[2]】は,アフガニスタンから来たインドに入って【本試験H12経路を問う】,1526年,デリー=スルターン朝最後のロディー朝を滅ぼし,ムガル帝国【本試験H12】【本試験H22】を建てることになります。
 〈バーブル〉は,ティムール朝で使われていたチャガタイ=テュルク語で回想録『バーブル=ナーマ』を著しているように,その建国にはティムール朝の“復興”という意図がありました【本試験H7インド亜大陸の南端までは統一できていない】。

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南インドではヴィジャヤナガル王国などのヒンドゥー教の諸王国が,海上交易で栄えました
【本試験H7バーブルはインド亜大陸の南端までは統一していない】
 チャールキヤ朝とチョーラ朝に代わり,13世紀以降の南インドでは,セーヴナ王国,カーカティーヤ王国,パーンディヤ王国,ホイサラ王国が抗争する時代となりました。
 そんな中,デリー=スルターン朝のうち,ハルジー朝トゥグルク朝が,デカン高原まで支配地域を広げましたが,デカン高原ではそこからヒンドゥー教徒が自立し,ヴィジャヤナガル王国(1336~1649) 【本試験H22・H23ともに世紀を問う,H31】【名古屋H31宗教を問う】が成立しました。こうして南インドの分裂状況は,一旦終わりました。インド南部は草原が少ないために馬の飼育に適さないため,特産の米と綿布をサファヴィー朝下のホルムズに輸出し,軍馬【東京H17[3]アラビア半島から買い付けられていた軍用の動物を答える難問。答えは「ウマ」】【本試験H31ウマを輸出していたわけではなく,「輸入」していた】を買い付けていました。

 

 


西アジア
 12世紀になると,東方からモンゴル人が押し寄せてきました。1258年【慶文H29】にはアッバース朝の首都バグダードが占領され,最後のカリフは殺害され,その親族がマムルーク朝の保護を求めました。
 アッバース朝【本試験H16セルジューク朝ではない】を滅ぼしたモンゴル人〈フレグ〉はイランとイラク(都はカスピ海南西のタブリーズ【本試験H16・H18サライではない】)にイル=ハン国(フレグ=ウルス) 【追H27エジプトは征服していない】【本試験H5,本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】 【本試験H21】【京都H19[2]】を建て,すでに1250年,エジプトのファーティマ朝をクーデタで倒していたマムルーク朝【本試験H3時期(16世紀初めか問う)】【本試験H20世紀を問う】と敵対します【本試験H9アイユーブ朝マムルークのクーデタにより倒されたか問う】【追H24エジプトの王朝か問う、オスマン帝国が滅ぼしたのではない】。
 イル=ハン国(フレグ=ウルス)は,はじめネストリウス派キリスト教を保護し,〈ラッバーン=バール=サウマ〉(?~1294)を西欧に使節として送り,フランスの〈フィリップ4世〉やローマ教皇〈ニコラウス4世〉(位1288~92)に謁見させています。しかし,〈ガザン=ハン〉(位1295~1304) 【東京H6[1]指定語句】【本試験H5イル=ハン国の指導層がイスラームに改宗したことを前提とする史料問題(難問である),本試験H11「歴史書の編纂を命じ」「イスラム教に改宗した」人物の名を問う。フラグ,バトゥ,オゴタイ=ハンではない】【本試験H13ホラズムを滅ぼしていない,本試験H16ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国)ではない】のときに(イル=ハン国が)イスラーム教を国教化しました【本試験H14,本試験H21フレグのときではない,H28ガザン=ハンが建国したわけではない,H31ユダヤ教ではない】。彼は,遊牧民としてのこだわりを捨て,イスラームの税制を導入して農業を振興したほか,文化も保護した名君です。
 彼の宰相〈ラシード=アッディーン〉(1247?~1318) 【追H24イル=ハン国の人物でありキプチャク=ハン国の人物ではない】は,『旧約聖書』のアダムとイヴから,イスラーム教の時代,そしてモンゴル人のチンギス家までの世界史(『集史』(ジャーミア=ウッタワーリーフ。歴史を集めたもの,という意味) 【本試験H11】【本試験H30】) 【追H21、H24『歴史序説(世界史序説)』ではない、H28 『歴史序説(世界史序説)』とのひっかけ】を,イランの言語のペルシア語で書くという壮大なスケールを持った歴史家でもありました。
 歴史家といえば,北アフリカチュニスに生まれた〈イブン=ハルドゥーン〉(1332~1406) 【東京H22[3]】【本試験H3 史料をよみ「14世紀にインドを訪れた人物」を答えるがイブン=バットゥータのことである,本試験H6スーフィズムを体系化した神学者(ガザーリーなど)ではない,本試験H8中国の元を訪問していない】【本試験H31】【追H19、H21ラシード=アッディーン(ウッディーン)ではない、H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う)、H28『集史』を著していない】は,『歴史(世界史)序説』【本試験H26、H31】【追H21『集史』ではない】【中央文H27記】において,人間の歴史には「定住」と「遊牧」の2つの過程がある。物資が乏しいが血気は盛んな沙漠の遊牧民が農耕定住国家を征服→都市型の定住生活に慣れる→新たな遊牧民勢力が都市を襲う→都市型の定住生活に慣れる→新たな遊牧民勢力が都市を襲う…の繰り返しだ,と主張しました。ある集団の「連帯意識」(アサビーヤ)に注目した彼の筆致は,実に客観的です。

 エジプトでは1249年にはアイユーブ朝のスルターンが,第6回十字軍の戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ばれマムルーク朝(1250~1517)【本試験H20世紀を問う】をおこしました。長年に渡る十字軍の過程で,テュルク(トルコ)系のマムルークらの軍隊の力が強まっており,〈アイバク〉が暗殺されると内紛が激化。

 そんな中,モンゴル帝国(大モンゴル国;イェケ=モンゴル=ウルス)の〈フラグ〉(フレグ) 【追H9オゴタイ・フビライチャガタイではない,本試験H12ロシアに遠征していない、H18、H19,H25チャガタイ=ハン国を建てていない】【セ試行】【本試験H28ガザン=ハンではない】【H27京都[2]】がバグダードに入城してアッバース朝【セ試行 滅ぼされたか問う。バグダードを都とするか問う】のカリフを殺害し,多数の住民が犠牲となります(1258年、アッバース朝の滅亡【追H25】)。

 しかし,シリアに進出した〈フラグ〉は〈モンケ=ハーン〉の死の知らせを聞いて退却を始めたため,マムルーク朝はアイン=ジャールートの戦いで勝つことができました。この勝利に貢献した将軍〈バイバルス〉がスルターンの〈クドゥズ〉を暗殺し,1260年にスルターン(位1260~77)として即位しました。1261年にはアッバース朝の末裔(まつえい)〈ムスタンスィル〉をカリフとして保護しています。
 その後,メッカやメディナ【本試験H22】【追H18モンゴル帝国の支配領域ではない】も支配領域に入れて,すでに1258年にモンゴルの〈フレグ〉により滅んだアッバース朝バグダードに変わり,イスラーム世界の中心地として栄えました。
 マムルーク朝の君主は,毎年「巡礼のアミール」という役職を任命して巡礼者の警護に当たらせるとともに,聖地のカーバ神殿を飾る覆い(キスワ)を運ぶ任務を担わせました【本試験H31リード文】。そのように「イスラームの保護者」としてのイメージを広めることで,支配される側の人々を納得させようとしたわけです。

 マムルーク朝の時期にはカイロを中心に経済も栄え,アラビア半島南部イエメンの港町アデンで,インド商人から東南アジアやインドの物産を受け取る中継ぎ貿易を行ったカーリミー商人が各地の物産を大量に運び込みました。カーリミー商人は,アデンから紅海に入ると,ナイル川上流に運び,ナイル川を下って下流アレクサンドリア港【本試験H12】で,イタリア諸都市(ヴェネツィアジェノヴァ)に売り渡していたのです。

 1世紀のインドに始まったサトウキビからの砂糖の生産は,7世紀頃イラン・イラク,そしてシリア・エジプトに広まっていました。この時期になると,エジプトではサトウキビからの砂糖生産が盛んにななります。甘くておいしいアラブ菓子も,断食明けのエネルギー補給やお祭りなどのために作られるようになりました。
 この時期のカイロの繁栄を目の当たりにした人物として,メッカに巡礼の旅【本試験H31】をし『三大陸周遊記』【追H27アウグストゥスとどちらが古いか】をあらわした〈イブン=バットゥータ〉(1304~68?69?77?) 【本試験H3史料をよみ14世紀にインドを訪れた人物として答える】【本試験H31】【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物であるが、1402~1602年の間ではない)】がいます。彼はモロッコのタンジェ(タンジール)生まれで,アフリカからユーラシア大陸をまたぐ大旅行をした人物です。
 また,ファーティマ朝時代に設立された,カイロ【東京H14[3]】【本試験H27アレクサンドリアではない】のアズハル=モスクにもうけられた学院【東京H14[3]】【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない,本試験H21】は,はじめはシーア派の中のイスマーイール派教育機関として設立されましたが,アイユーブ朝の時期にはスンナ派イスラームの教義研究の名門となり,イスラーム世界各地から学者(ウラマー) 【本試験H9スルターン,バラモンスーフィーとのひっかけ】が留学にやって来るようになっています。

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アナトリア半島では,セルジューク朝が地方政権(ルーム=セルジューク朝)を建てて以降,急速にトルコ人の住民が増え,群雄が割拠しました。オスマン帝国(1299~1922) 【本試験H8時期(1295年の「直後」に建国)】もその一つでした。都はアナトリア半島西部のブルサ【本試験H8サマルカンドではない】。勢力を固めたのち,バルカン半島に進出し,この地のキリスト教の有力者と戦ったり,同盟を結んだりしながら,領土を拡大していきました。

 〈バヤジット1世〉は,アナトリア半島の中部・東部に勢力を広げようとしましたが,1402年に〈ティムール〉(位1370~1405)に敗れて捕虜になり,それ以降,オスマン朝は一時混乱します。
 〈ティムール〉の出身であるチャガタイ=ハン国【慶文H29】は,当時,2つの政権に分裂していました。
 タリム盆地を含む東部のモグーリスタンにある,東チャガタイ=ハン国と,アム川・シル川流域の西部(マー=ワラー=アンナフル)にある西チャガタイ=ハン国です。〈ティムール〉はこのうちの西チャガタイ=ハン国から自立し,サマルカンド【東京H30[3]都市の略図を選択する】を中心にしてイラン高原イラクにまで領土を広げた人物です。

 その後,〈メフメト2世〉(位1444~46,1451~81) 【Hセ10スレイマン1世とのひっかけ】 【本試験H23】【追H18】は,再びバルカン半島への進出をねらいます。すでにビザンツ帝国は,〈アレクシオス1世〉(位1081~1118)の頃から地方分権化が進み,皇帝は高級軍人や官吏に国有地を管理する権利やその土地からの全収入,さらに軍事権を与える制度(プロノイア制)【本試験H29】が導入され,皇帝の権力は衰えていました。
 また,ペルシア高原方面からは,テュルク系のアクコユンル(白羊朝)が,カラコユンル(黒羊朝)を破り,アナトリア半島に進出。

 一方,〈メフメト2世〉はバルカン半島への進出を決意し,1453年にコンスタンティノープルを占領して【本試験H23スルターンと時期】,ビザンツ帝国を滅ぼし【追H18】,オスマン帝国の首都としました。これ以降はしだいにイスタンブル(イスタンブール)と呼ばれるようになっていきます(◆世界文化遺産イスタンブルの歴史地区」,1985)。

 かつて〈ユスティニアヌス大帝〉が6世紀にビザンツ様式(ドームとモザイク絵画【本試験H13,本試験H25ステンドグラスではない】が特徴)で再建したギリシア正教【本試験H12(下記の注を参照)】のハギア=ソフィア聖堂には,4本のミナレット(光塔)が加えられ,アヤ=ソフィアと呼ばれるイスラーム教のモスクに転用されました【東京H30[3]「モスクがキリスト教の教会に転用された」ことを答える】【本試験H17モスクに改修されたかどうかが問われる】。塔にはキリスト教の教会のような鐘はなく,人の声で礼拝時間を知らせます。モスクにはメッカの方向を示すミフラーブという空間,ウラマーが説教をするミンバル(説教壇)が備え付けられました。〈メフメト2世〉は,トプカプ宮殿【本試験H23チベットのラサではない】の建設も開始しています。
 宮殿にはハレムがおかれ,バルカン半島小アジア,さらにカフカース地方の有力者の娘や女奴隷たちを住まわせ,オスマン帝国における上流階級の文化・芸術の拠点となった一方,のちに政治に介入する女性も現れています。
(注)【本試験H12】「(1897年に)オスマン帝国で実施された人口調査によると,イスタンブルの人口は90万人であり,その宗教・宗派別割合は次の図のとおり(円グラフ)である」という問い。円グラフには,イスラム教徒(58%),( a )のキリスト教徒(18%),アルメニア教会のキリスト教徒(17%),その他のキリスト教徒(2%),ユダヤ教徒(5%)とあります。( a )に入る語句を「①プロテスタント ②ローマ=カトリック教会 ③ギリシア正教会 ④ネストリウス派」から選ばせるもの。解答は③ギリシア正教会。オスマン帝国による支配以降も,コンスタンティノープル(イスタンブル)はギリシア正教会の拠点であり続けます。

 この頃からバルカン半島側に都が置かれ,今までのトルコ系の騎士に代わり,イェニチェリ【本試験H6スーフィズムを信仰するインド人の教団ではない】という歩兵が重視されるようになっていきます。バルカン半島(のちにエジプト)は間接統治される領土で,総督が派遣され,常備軍としてイェニチェリ【京都H19[2]】【本試験H21常備軍であることを問う】が用いられました。大音響で有名なオスマン帝国の軍楽隊(メヘテルハーネ)は,吹奏楽のルーツと言われ,ヨーロッパ諸国にも影響を与えました。なお,イェニチェリとして育成するために,バルカン半島の男子を強制的に徴発する制度をデウシルメ(デヴシルメ)【慶文H29】といいます。


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アルメニアはモンゴル人の支配下に置かれますが,支配下では反乱も起きています。14世紀以降,キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)とイル=ハン国(フレグ=ウルス)【本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】がアゼルバイジャンの草原地帯をめぐって対立。アルメニアは,14世紀半ばにはペストの被害も受けています。
 その後,テュルク系の白羊朝,黒羊朝の支配,のちオスマン帝国支配下に置かれます。1461年にはアルメニア人がオスマン帝国の〈メフメト2世〉により総主教に任命され,「エルメニ=ミッレト」という宗教的な自治組織をつくることが許可されたといいます(注1)。
 〈スレイマン1世〉は国内を35の州(エヤレット),下位区分として軍管区(県;サンジャク),郡(カザー)に編成して統治しました。このときアルメニアにはエルズルム=エヤレットが置かれています(注2)。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.62 
 オスマン帝国ではキリスト教ユダヤ教など非イスラーム教徒の宗教的な自治組織がつくられ,「ミッレト」【京都H19[2]】【追H30アッバース朝で認められたものではない】と呼ばれましたが,実態には不明な点も残されています。

 

●アフリカ

15世紀末にかけ,モガディシュ(現④ソマリアの首都モガディシオ(イタリア語読み)),マリンディ【本試験H27】(現⑤ケニアの港町。モンバサの北東約100km),モンバサ【本試験H30】(現⑤ケニア南東部。大陸部分とサンゴ礁島のモンバサ島から成ります)といった港市国家が,イスラーム教徒【本試験H27】(ペルシア商人やアラブ商人)との交易で栄えます。東アフリカ沿岸にはバントゥー系の言語にアラビア語をとりいれつつ変化したスワヒリ語による文化圏が広がり【本試験H19インド西海岸のカリカット周辺ではない,本試験H21】【H30共通テスト試行インドネシアの言語ではない】,イスラーム教。アラブ人とペルシア人のほか,ザンジュと呼ばれる黒人が住んでいました。

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 マリンディではインドからやってきた商船4隻に遭遇し、彼らがキリスト教徒であることに歓喜した(インド西南のケララ海岸にいるキリスト教徒である)(注2)。
 そして、現地の水先案内人を雇って4月後半にインド南西岸のカリカット【セ試行 オランダの拠点として建設されたのではない】【同志社H30記】【セA H30西インド諸島ではない,アメリカ合衆国の20世紀末の拠点ではない】に向かいます。どうして4月後半かというと、4月~9月半ばまでが、東アフリカからインド亜大陸への航海に最適な季節風を利用できたからです。香辛料【追H18グラフ読み取り】の直接取引をねらったのです(南アジアはコショウの原産地)【追H9ポルトガルがインド洋に進出した理由を問う。インド亜大陸の支配・イスラム教徒からの聖地の解放・プロテスタントの布教の支援が目的ではない】。

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ニジェール川流域では,1230年頃,イスラーム教に改宗したマンデ人の王〈スンジャータ〉(位1230?~55)がマリ王国【本試験H3「黒人王国」か問う】【本試験H31ソンガイ王国とのひっかけ】【追H21】を建てました。その支配領域は,西はサハラ沙漠南縁から大西洋に注ぐセネガル川,東はニジェール川【追H26ティグリス川・ユーフラテス川流域ではない】の中流域のトンブクトゥ【追H26交易都市として栄えたか問う】【本試験H3「黄金の都」】【東京H9[3]】【H30共通テスト試行 金と岩塩の貿易が行われたか問う(生糸と銀、毛皮と薬用人参、香辛料を求めてヨーロッパ人が進出は、いずれも無関係)】(現在の⑭マリ共和国中部の都市)以東にまでおよびました。

 最盛期の〈マンサ=ムーサ〉(マンサは王の意。在位1312~37) 【本試験H31ソンガイ王国ではない】は,メッカを500人の奴隷とともに巡礼し,大量の金をロバ40頭で運んだ結果,マムルーク朝の首都カイロ【本試験H12首都はアレクサンドリアではない】の金相場が下落したほどだったといいます。伝説によれば使節の総数は77000人だったともいわれます。彼は帰国後に,トンブクトゥにモスクを建設しました。巡礼は,サハラ沙漠の横断ルートを開拓するためだったとも言われています。1353年には,〈イブン=バットゥータ〉(1304~1368?69?)がマリ王国の首都を訪問し,半年ほど滞在し,その様子を『三大陸周遊記』に報告しています。
 1464年に,稲作と漁労に従事していたソンガイ人【共通一次 平1:新大陸の民族ではない】は水軍を組織してニジェール川中流域のガオ(現在の⑭マリ共和国の中等部)を中心にソンガイ帝国【本試験H3「黒人王国」か問う】【本試験H31マンサ=ムーサ王はその王ではない】を築き,サハラ沙漠の交易ネットワークを支配【本試験H3】して栄えました。


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現在の①エジプトでは1249年にはアイユーブ朝のスルターンが,第6回十字軍の戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ばれマムルーク朝(1250~1517) 【京都H20[2]】【本試験H20世紀を問う】を,首都カイロ【本試験H12アレクサンドリアではない】に築きました。長年に渡る十字軍の過程で,テュルク(トルコ)系のマムルークらの軍隊の力が強まっており,〈アイバク〉が暗殺されると内紛が激化。そんな中,モンゴル帝国の〈フラグ〉(フレグ) 【本試験H11ガザン=ハンではない,本試験H12ロシアに遠征していない】【本試験H28ガザン=ハンではない】【追H21チンギス=ハンではない】がバグダードに入城してアッバース朝カリフを殺害し,多数の住民が犠牲となります。
 しかし,シリア【本試験H31】に進出した〈フラグ〉は〈モンケ=ハーン〉の死の知らせを聞いて退却を始めたため,マムルーク朝はアイン=ジャールートの戦いで勝つことができました【本試験H31マムルーク朝がシリアでモンゴル軍を撃退したか問う】。

その後,聖都であるメッカ(マッカ)やメディナ【本試験H22】(マディーナ)も保護下に入れ,すでに1258年にモンゴルの〈フレグ〉により滅んでしまったアッバース朝バグダードに代わって,イスラーム世界の中心地として栄えました。

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 1世紀のインドに始まったサトウキビ【本試験H11原産地はアメリカ大陸ではない。ニューギニア島原産】からの砂糖の生産は,7世紀頃イラン・イラク,そしてシリア・エジプトに広まっていました。この時期になると,エジプトではサトウキビからの砂糖生産が盛んになります。甘くておいしいアラブ菓子も,断食明けのエネルギー補給やお祭りなどのために作られるようになりました。この時期のカイロの繁栄を目の当たりにした人物として,『三大陸周遊記』をあらわした〈イブン=バットゥータ〉(1304~68?69?77?)がいます。彼はモロッコのタンジェ(タンジール)生まれで,アフリカからユーラシア大陸をまたぐ大旅行をした人物です。

 また,ファーティマ朝時代に設立された,カイロ【本試験H27アレクサンドリアではない】のアズハル=モスクに970年にもうけられた学院【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない,本試験H21】は,はじめはシーア派の中のイスマーイール派教育機関として設立されましたが,アイユーブ朝の時期にはスンナ派イスラームの教義研究の名門となり,イスラーム世界各地から学者(ウラマー)が留学にやって来るようになっています。“入学随時・出欠席随意・修業年限なし”がアズハル学院の売り文句。現在では世俗教育もおこなっています。

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 イベリア半島の北部~中央部のカスティーリャ王国【追H25】と,北西部のアラゴン王国【追H25】は,イベリア半島を支配していたムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)】との戦いを進めていました。

 現在の④モロッコマラケシュに都を置くムワッヒド朝では,ベルベル人を中核とした初期の軍事力が衰えをみせ,1212年にラス=ナーヴァス=デ=トローサ(イベリア半島コルドバ(現在のスペイン)の東)で敗北し,13世紀後半には滅びました【追H24 時期(13世紀に滅亡したか)を問う】。

 


●ヨーロッパ


 第四回十字軍【追H17、H19】は,聖地までの物資輸送の資金が足りず,ヴェネツィア商人の資金力や櫂船・帆船を借りて実施されることになりました【本試験H25ウルバヌス2世ではない】。
 時の教皇は,〈インノケンティウス3世〉(位1198~1216) 【慶文H30記】のときで,教会法(カノン法)を根拠として教皇権を強化させていました(教皇権の絶頂【本試験H25】)。イングランドの〈ジョン王〉,フランスの〈フィリップ2世〉を破門し,「教皇は太陽,皇帝は月」という言葉を残したほどです。


第六回十字軍(1248~49)・七回十字軍(1270)は,フランス王国の〈ルイ9世〉(位1226~70) 【本試験H18シャルル7世ではない】がファーティマ朝,のちにマムルーク朝【本試験H20世紀を問う】に対して起こしました。チュニス【本試験H18イェルサレムではない】に派兵する現実的な案でしたが失敗しました。

 ドミニコ修道会の〈トマス=アクィナス〉(1225?~1274) 【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】【追H9】は,師〈アルベルトゥス=マグヌス〉(1193?1200?~1280)による「キリスト教思想を〈アリストテレス〉の書いたテキストに即して,理性的に理解しなおそうとする」試みを受け継ぎ,〈アリストテレス〉の思想を批判的に読み砕くことでキリスト教の教義を組み立て直していきました【本試験H12「〈アリストテレス〉哲学がキリスト教の哲学に取り入れられ,これを体系化した書物が著された」か問う】。その成果である『神学大全』(1273) 【共通一次 平1】【追H9、H19アウグスティヌスの著作ではない、H21】【本試験H17】は,教皇キリスト教の正しさを説明するときの重要な柱となっていきます。

 十字軍の期間には,イェルサレムに本拠地のあるテンプル騎士団,病院での医療奉仕を重視した聖ヨハネ騎士団【追H30リード文】のように聖地巡礼者を保護したり病院を設立する宗教騎士団【東京H6[3]】が活躍しました。バルト海東岸のケーニヒスベルクを中心とするドイツ騎士団領【本試験H21レコンキスタと無関係】のように,国家を形成したりキリスト教を東ヨーロッパや北ヨーロッパに布教したりする集団も現れました。

 また,十字軍の失敗によって,言い出しっぺの教皇の権威は低下し,実際に遠征を指揮した国王の力が高まりました。逆に,火砲の導入もあって,騎士は没落に向かいます【本試験H8「長期にわたる十字軍とその失敗は,彼らの没落の一因となった」か問う】。

 一方,宗教的な情熱のあまり,ユダヤ人に対する迫害も起きています。とくに14世紀中頃に黒死病(ペスト) 【追H26天然痘ではない】 【東京H27[1]指定語句】【本試験H15時期(10世紀半ばではない),本試験H19時期(12世紀ではない)】が流行した際には,「ユダヤ人が井戸に毒を入れたのだ」などの根も葉もない噂がヨーロッパ中に広まり,特に神聖ローマ帝国内部では虐殺なども起こりました。


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キエフ(大)公国(キエフ=ルーシ)がモンゴル人の〈バトゥ〉【京都H20[2]】【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【追H18】に服属すると,東方のスラヴ人地域にも拡大するようになっていきました。1387年にローマ=カトリックを国教としましたが,スラヴ人の人口が多いため正教会の信仰も認められました。実際,リトアニア大国国の支配層は,スラヴ語派のルーシ語(ベラルーシ語の元)を話しており,貴族の多くがルーシ人(のちのベラルーシ人)でした。
 ドイツ騎士団に対抗するため,1386年にリトアニア大公国の〈ヨガイラ〉は,ポーランド王国の娘と結婚します。
 これにより,ポーランドリトアニアは同君連合(ヤギェウォ(ヤゲロー)朝【追H27ノヴゴロド国ではない】【東京H6[3]】)となり,東ヨーロッパの強国,いや,ヨーロッパ最大の強国に発展していきます。最大領土は,黒海沿岸のウクライナにまで及び,1410年にはグルンヴァルト(ドイツ語ではタンネンベルク)の戦いでドイツ騎士団を撃退することにも成功しました。

 東スラヴ人キエフ(大)公国(キエフ=ルーシ)は,13世紀にはモンゴル人の〈バトゥ〉【京都H20[2]】【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ】【追H25ロシア遠征したか問う】が遠征隊の攻撃を受け,約240年にわたるモンゴル人の支配下に置かれることになりました。

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 1453年に東ローマ帝国が滅亡すると,最後の皇帝の姪(めい)〈ゾエ(ソフィア)〉が,モスクワ大公に嫁ぎました。〈イヴァン3世〉【本試験H20世紀を問う】は,「滅んだ東ローマから,ローマ皇帝の位がわれわれモスクワ大公に移ったのだ!」と主張し,自らをローマ皇帝(ロシア語でツァーリ【本試験H28】【追H21 13世紀ではない】)と自称しようとしたという説もあります。ただ実際には当時のロシアにおける「ツァーリ」には「王」程度の意味合いしかなく,どちらかというと「ハーン」(モンゴル人(この地域のモンゴル人はタタル人といいます)の君主)の意味が強いものでした(ツァーリ=皇帝ではないのです) 【本試験H31ツァーリ(皇帝)の称号を用いたか問う(大学入試センターによると「用いた」が正解)】。
 こうして1480年には,モンゴル人の支配から完全に脱却したのです【本試験H7ノヴゴロド公国(ママ)ではない】。
 彼はイタリア人の建築家を招き,モスクワにギリシア正教の壮麗な聖堂(ウスペンスキー大聖堂)を建てさせました(◆世界文化遺産「モスクワのクレムリン赤の広場」,1990)。

 〈イヴァン3世〉の孫である〈イヴァン4世〉(雷帝,在位1533~84) 【京都H22[2]】【本試験H6】【本試験H18聖職者課税問題とは無関係】は,モスクワのウスペンスキー大聖堂で戴冠式をおこない,さらに中央集権化をすすめていきました。1547年には公式にツァーリの称号(「偉大なる君主,全ルーシ,ヴラディミル・モスクワ・ノヴゴロドツァーリにして大公」)を使い【本試験H6】,貴族を抑える恐怖政治をおこない権力を拡大させていきました。


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「ドイツ人」の拡大運動が,ドイツ王により推進へ
 ここでいう「ドイツ」は,ほぼ神聖ローマ帝国【追H30「14世紀中頃~15世紀末の神聖ローマ帝国の版図」を選ぶ問題】の領域のうちイタリアを外した地域のこと。かつての東フランク王国の領域です。
 「神聖ローマ帝国」というおおげさな名前を付けた以上,この皇帝はローマのあるイタリアに進出しようと必死。しかし,これがなかなか難しい。ドイツでは皇帝の権力は強くなく,諸侯の独立性も強まっていきました【本試験H3神聖ローマ帝国の権力が次第に弱体化していき,次第に諸侯の独立性が強まったか党】。

 そんな中,中世温暖期を迎えていたヨーロッパでは人口が急増し,外へ外へ拡大する必要が出てきます。
 神聖ローマ帝国の領内のドイツ語を話すドイツ人の受け入れ先として,シチリア島が設定されましたがうまくいかず,ついにエルベ川【H30共通テスト試行】を東【H30共通テスト試行】に越えた「東方」への植民計画が実行に移されていきます。これが「ドイツ植民運動」です【H30共通テスト試行 移動経路はヨーロッパから西アジアにかけてではない。エルベ川以東でドイツ騎士団が中心となって行ったか問う】。

 さて,神聖ローマ帝国ローマ教皇との間に引き起こされていた叙任権闘争【追H17叙任権闘争の結果東西教会の分裂が起きたわけではない】は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に結ばれたヴォルムス協約で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみていました。
 〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙でホーエンシュタウフェン家の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派のギベリン(教皇党【本試験H3】)と,教皇派のヴェルヘン家によるゲルフ(皇帝党【本試験H3】)との間に内乱が勃発しました。

◆フリードリヒ1世
 しかし,〈コンラート3世〉の甥〈フリードリヒ1世〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか,第三回十字軍(1189~92)にも参加しました。しかし,彼も和平を撤回してイタリア政策【本試験H8】を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それに対し,ミラノ【追H26北ドイツ・バルト海沿岸都市ではない】を中心にロンバルディア同盟【追H26】【本試験H19】が結成されます。彼はローマ法を整備し君主国の体制を強化しようとしましたが,あまりにイタリアに首を突っ込みすぎたため,国内の諸侯の力をじゅうぶんに押さえることはできませんでした【本試験H8「イタリア政策は,ドイツにおける集権化を促進した」わけではない】。

◆フリードリヒ2世【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】
 しかし〈ハインリヒ6世〉は,若くして死去。シチリア島民の抵抗も起こる中,〈コンスタンツァ〉は孫〈フェデリコ〉とともにシチリア島ローマ教皇〈インノケンティウス3世〉の保護下に置いてもらう戦略をとりました。こうして,アラビア語など多言語に堪能(たんのう)となった〈フェデリコ〉は〈フリードリヒ2世〉(皇帝在位1215~50)【本試験H27ハプスブルク家ではない】【慶文H29】としてシチリア島を相続し,神聖ローマ皇帝にも選出されます。
 彼はシチリアの宮廷で官僚制を整備するとともに,ドイツ騎士団【H30共通テスト試行】を支援しました(騎士団総長の〈ザルツァ〉(任1209~1239)を支援)。彼らはバルト海沿岸に侵入し,先住のバルト系プルーセン人の支配とキリスト教化に成功します。これがのちのプロイセンのもととなります。その開拓のためにドイツ植民運動【H30共通テスト試行 移動方向を問う】が盛り上がっていったわけです。
 〈フリードリヒ2世〉はイタリア北部への拡大政策をとったため,諸都市はロンバルディア同盟を結成しています【本試験H30】。

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 ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると,皇帝不在の“大空位時代”(1256~73)【本試験H19】が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。

 1273年には,しかし,当時シチリア王に即位していたアンジュー家の〈カルロ1世〉が,フランスの王を神聖ローマ皇帝に就任させてローマ帝国を復活させようともくろんだことに対して,1273年に「フランス王が神聖ローマ皇帝につくよりは,もっと弱いハプスブルク家【本試験H26ホーエンツォレルン家ではない】の〈ルドルフ1世〉についてもらったほうがマシだ」ということで,ドイツ王神聖ローマ皇帝に就任させることを決定しました。

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 ハプスブルク家【本試験H4ヤゲウォ朝とのひっかけ】は11世紀にスイス北東部に“鷹の城”(ハビヒツブルク)を築いたことが発祥の弱小貴族でした。しかし,〈ルドルフ1世〉(位1273~91)は,ベーメン(ベーメンはドイツ語。ラテン語ではボヘミア) 【本試験H13オスマン帝国最盛期の領域には含まれない】の〈オタカル2世〉(当時オーストリア公にも就任していました)からオーストリアを奪うと一気に強大化します。これ以降,ハプスブルク家の拠点はオーストリアとなります。
ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉であり,神聖ローマ皇帝に即位していた〈カール4世〉(位1355~1378)【東京H18[3]】【追H27 時期を14世紀か問う】【本試験H23】によって1356年に出されたのが「金印勅書(黄金文書(おうごんもんじょ))」【東京H18[3]】【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】【本試験H8】【追H27時期が14世紀か問う、H30】【立教文H28記】です。7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました【追H30世襲されることになったわけではない】【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】。


 14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の〈ジギスムント〉(位1411~37)は,混乱収拾のためにコンスタンツ公会議(1414~18) 【東京H18[3]】【追H27アリウス派を異端としていない】【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】を開催し,ローマ教皇の権威を確認して教会大分裂(シスマ)(1378~1417) 【セA H30】を終結させるとともに,〈フス〉派【東京H18[3]】【本試験H29】や〈ウィクリフ〉派【追H27イギリスの人ではない、時期が14世紀か問う】【本試験H22 15世紀ではない,本試験H30】を異端として,〈フス〉【追H19】を火刑【本試験H29】としました【H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】。このとき祭壇に掲げられていたのは,『聖書』と〈トマス=アクィナス〉(1225?~74) 【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】の『神学大全』【共通一次 平1】でした。

 ベーメンにおける〈フス〉【追H19】【東京H18[3]】の教会批判は,ドイツ人(神聖ローマ帝国)の支配に対する批判の意味も込められており,〈フス〉支持者が反ドイツのフス戦争(1419~36) 【追H26ポーランドではない】【本試験H17時期・地域,H22】【セA H30時期】を起こします。チェック人の民族運動の側面もあったということです。

 1438年の〈アルブレヒト2世〉(ドイツ王在位1438~39)以降,神聖ローマ皇帝は,ハプスブルク家が事実上世襲するようになっていきました【本試験H26時期,ホーエンツォレルン家ではない】【本試験H8プロイセン王ではない】。「汝,結婚せよ」の家訓のもと,ハプスブルク家はヨーロッパの名門家系に一族を嫁がせまくり,ヨーロッパの支配階層の乗っ取りを初めていきます。
 なお,神聖ローマ皇帝の〈フリードリヒ1世〉と〈2世〉のころ,ドイツ人の東方植民が盛んになりました【H30共通テスト試行 人の移動方向を問う(ヨーロッパから西アジアへの移動ではない)】。12世紀にはブランデンブルク辺境伯領が成立【本試験H30キエフ大公国とのひっかけ】,13世紀にはドイツ騎士団が成立しました。ブランデンブルク辺境伯は,1356年の金印勅書により選帝侯国となり,神聖ローマ皇帝を選ぶ権利を獲得し,のちに南ドイツの名門によるホーエンツォレルン家【追H29スペインの王位を獲得したことはない】の支配を受けるようになりました。


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 西スラヴ人ポーランド人,チェック人【本試験H30ハンガリー人とのひっかけ】,スロヴァキア人は,ローマ=カトリック【慶文H30「10世紀にポーランドが受容したキリスト教の宗派」を問う】に改宗し,ラテン語の文化圏に入っていました。


 10世紀初めにピアスト朝を建国したポーランド人は,内紛により分裂していました。

 そんな中,モンゴル人の〈バトゥ〉【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【追H25ロシア遠征したか問う】の侵攻を受けます。

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リトアニア大公国【慶文H30】の〈ヨガイラ〉と結婚させるため、1385年にリトアニアのヴィリニュス(ポーランド名はヴィルノ)近郊のクレヴァ(ポーランド名はクレヴォ)に集まって、〈ヨガイラ〉(ポーランド名はヤゲウォ)をカトリックに改宗させました。
こうして,リトアニア大公国【本試験H13】はポーランド王国と合同してヤゲウォ(ヤゲロー)朝【東京H6[3]】【本試験H4ハノーヴァー・ハプスブルク・ロマノフではない,本試験H7イヴァン4世は無関係】【本試験H14ポーランド分割によって滅亡したわけではない,本試験H30ハノーヴァー朝ではない】のリトアニア=ポーランド王国【本試験H20世紀を問う】を立ち上げ,共同してドイツ騎士団に立ち向かう体制を整えたのです。


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 ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉は,1355年に〈カール4世〉(位1355~1378)【東京H18[3]】【本試験H23】として神聖ローマ皇帝に即位。彼によって1356年に出されたのが「金印勅書(黄金文書(おうごんもんじょ))」【東京H18[3]】【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】【本試験H8】【追H30】【立教文H28記】です。
 7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました【追H30世襲されることになったわけではない】【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】。

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ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402) 【早・政経H31スレイマン1世ではない】に惨敗し,オスマン帝国バルカン半島の支配は決定的となりました。

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第四回十字軍【追H17,H19】のときに,ヴェネツィア共和国【本試験H12フィレンツェではない】の商人がイェルサレム奪回の目的からそれ,商圏獲得のためにコンスタンティノープル【追H17イェルサレムではない】を攻略してしまったため,ビザンツ帝国はニケア帝国(1204~61)という亡命政権を建てました。

 一方のヴェネツィア主導の十字軍は,コンスタンティノープル【本試験H30】にラテン帝国【本試験H29第七回十字軍ではない】を樹立しましたが,その後東ローマ帝国は1261年にジェノヴァの支援を受けてコンスタンティノープルを奪回して復活します。

 のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国バルカン半島の支配は決定的となりました。
 しかし,1453年にオスマン帝国の〈セリム2世〉の攻撃でコンスタンティノープルが陥落し,東ローマ帝国ビザンツ帝国〕(395~1453)は約1000年の歴史に幕を下ろします。


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イベリア半島の北部~中央部のカスティーリャ王国と,北西部のアラゴン王国は,イベリア半島を支配していたムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)】との戦いを進めていました。ムワッヒド朝ベルベル人を中核とした初期の軍事力が衰えをみせる中,1212年にキリスト教諸国の同盟軍によってラス=ナーヴァス=デ=トローサ(コルドバの東)で敗北し,13世紀後半には滅びました。

 一方,イベリア半島南部のグラナダを都に,1232年に〈ムハンマド1世〉がナスル朝(グラナダ王国) 【本試験H31セルジューク朝とのひっかけ】【H30共通テスト試行 スペイン王国接触した可能性があるか問う】【追H19ヒンドゥー教の影響は受けていない、H25マムルーク朝ではない】【東京H24[3]】【立命館H30記】が建国されます。グラナダ【東京H11[1]指定語句】【本試験H6バルセロナではない,本試験H8】に残る,アラベスクの美しいイスラーム建築【本試験H21ロココ様式ではない】のアルハンブラ宮殿【本試験H6】【本試験H16コルドバではない,本試験H31セルジューク朝によるものではない】【追H9スペイン王国が造営していない】【立命館H30記】(アラビア語の「赤い城」(al-Kalat-al Hamrah)に由来)は,〈ムハンマド1世〉により建造が開始され,ナスル朝の繁栄を今に伝えています【本試験H28ビザンツ様式ではない】。

ポルトガル王国は,イベリア半島の他のキリスト教国に先駆けてイスラーム勢力の駆逐に成功していました。1249年に南端の都市ファロをイスラーム政権から取り返した〈アルフォンソ3世〉(位1248~79)のときのことです。レコンキスタの終了後もイスラーム教徒との交易は活発に行われたほか,フランドル地方,イギリス,フランスとの貿易も盛んに行われました。1255年には都がリスボン【本試験H8】となり,13世紀に開通していたイタリアとフランドルを結ぶ定期航路の中継点として,ポルトとともに商業で栄えました。ポルトガルはイタリアのジェノヴァ商人と提携し,資本,技術,軍事力を導入していきます。ポルトガル王国は,すでに1340年代までには,北東の風に乗りモロッコ沖のカナリア諸島に上陸。しかし,1348年には黒死病【東京H27[1]指定語句】が猛威をふるい,総人口の3分の1が失われました。
 〈エンリケ航海王子〉(1394~1460) 【本試験H15,本試験H18時期(17世紀ではない)】【追H20フランスではない】は,ジェノヴァ共和国の支援も受けて航海学校を設立し,西アフリカの黄金を直接手に入れるルートを開拓しようとし【本試験H15アフリカ西海岸の探検を行わせたかを問う】,1427年には大西洋の沖合のアゾレス諸島を発見させています。

こうしてポルトガル王国の都リスボン【セ試行 16世紀前半に世界商業の中心の一つであったか問う】【本試験H30】【同志社H30記】は繁栄の時代を迎えるのでした。


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 こうして王権が強化され勢力を増していたカスティーリャ王国と,衰えをみせるようになったアラゴン連合王国の支配層は,「互いに争っていては,イスラーム政権のナスル朝にとって有利になるだけだ」【追H25中世後期に互いに対立していたためナスル朝は「漁夫の利を得て延命した」(問題文)】と考え,政治的な統一を目指すようになっていきます。一方ナスル朝では王位継承をめぐる内紛が続き,両国による攻撃も激しさを増していきました。もともと小国であったナスル朝の経済は,ジェノヴァ商人を介する北アフリカやヨーロッパからの輸入頼みであり,ポルトガル王国の南下により北アフリカとの交易がしにくくなり,ジェノヴァ商人が交易から撤退すると大きな打撃を受けることになります。
 そんな中,カスティーリャ王国王女〈イサベル〉【本試験H6イギリスにジプラルタルを譲っていない】【本試験H15,本試験H23,本試験H27】と,アラゴン連合王国王子の〈フェルナンド〉が1469年に結婚。1474年に〈イサベル〉はカスティーリャ女王(位1474~1504)に,〈フェルナンド〉は1479年にアラゴン国王(位1479~1516)に即位し,ポルトガルを除くイベリア半島を共同統治しました。一般に,この2人の王国の領域をもってスペイン王国(モナルキーア=イスパニカ) 【H30共通テスト試行 ナスル朝接触した可能性があるか問う】が成立したとされますが,2王国の立法・行政・司法・軍隊は別々であり,あくまでも2人は別々の国の王の肩書きを維持する複合的な王国でした。
 1492年には,スペイン王国イベリア半島におけるイスラーム教徒による最後【本試験H16イベリア半島最後の政権かを問う】の政権であるナスル朝(グラナダ王国) 【本試験H3ムラービト朝ではない】【本試験H16,本試験H21時期】の首都グラナダを陥落させ,最後の〈ムハンマド12世〉が北アフリカに逃亡すると,足掛け800年近くかかったレコンキスタがようやく幕を閉じました。

 レコンキスタの完了した1492年には,〈イサベル〉と〈フェルナンド〉の“カトリック両王”は,ユダヤ教徒追放令を発布。スペイン【本試験H13フランスではない】を追放されたユダヤ人やイスラーム教徒のなかには,オスマン帝国領内に移住した者もいました。

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その労働力として連行されたのが,アフリカ大陸(ギニア湾岸)の住民です。サトウキビの植え付けと刈り取りには,労働力が大量に必要になるのです。こうして,ヨーロッパ人によるギニア湾沿岸(西アフリカから中央アフリカにかけて)から大西洋を超える黒人奴隷貿易【本試験H24】が本格化していきます。産業革命(工業化)以前の社会では,奴隷と家畜は,重要な“動力源”だったのです。

 ポルトガルはその後,アフリカ大陸の西端のヴェルデ岬沖に浮かぶ,カーボヴェルデでも同じようにプランテーション奴隷貿易を行いました。また,スペインもカナリア諸島で同様の栽培・奴隷貿易を行いました。1488年には〈バルトロメウ=ディアス〉(1450?~1500)【本試験H14】が喜望峰【本試験H14地図(ディアスの航路を選択する)】(注)を発見しています【追H29時期(マゼラン世界周航,クックの太平洋探検との並べ替え)】。


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 スペインは1492年,ジェノヴァ上智法(法律)他H30】出身の〈コロン〉(コロンブス,1451?~1506) 【本試験H15イサベルの援助を受けていたかを問う,本試験H27カブラルではない】【上智法(法律)他H30】に投資し,大西洋に船隊を向かわせました。大西洋を西にすすめば,インドや日本(マルコ=ポーロは黄金の国「ジパング」と伝えていました)に近道で着けると考えたからです。〈コロン〉の弟は地図職人で,かつてポルトガルリスボンに住んでいたときには,アイスランドにまで航海をしています。さらに,リスボン時代に地理学者〈トスカネリ〉(1397~1482) 【本試験H4大航海時代の始まった要因か問う】【本試験H15】との運命的な出会いを果たし,彼の主張する「地球球体説」【本試験H15】の正しさを確信しました。
 1484年,〈コロン〉はポルトガルの〈ジョアン2世〉(任1481~95) 【上智法(法律)他H30 支援は受けられなかった】に西回り航路への資金援助を打診しますが,断られます。すでにポルトガルは,アフリカ南端から東回りでインドをめざす航路開拓の事業をすすめていたからです。
 がっかりした〈コロン〉はスペインの港町パロスに移り,地元の貴族に資金提供をつのり快諾。さらにそのつてで,1486年スペインの〈イサベル〉女王【本試験H23】と〈フェルナンド〉王への謁見がゆるされたのです。しかし,またなかなか許可がおりません。

満を持してインドを目指した〈コロン〉。ですが,彼が到達したのはカリブ海に浮かぶサン=サルバドル島【本試験H23】でした。たしかに地球は球体だったのですが,「アメリカ大陸」の存在を前提にしていなかったので,地球を実際よりも1/3の大きさに見積もっていたのです。
 その後の3度の航海中に,住民のアラワク人を奴隷として連れ去ったり,現地でプランテーションをはじめたりした〈コロン〉は,最後までこの地の住民を「インド人」【上智法(法律)他H30】と考えていましたので,住民は“インド人”(スペイン語インディオ)ということになりました。
 1492年には,〈イサベル〉女王のスペインの要請を受けたジェノヴァ生まれの〈コロン〉が,第一回航海に乗り出し,カリブ海サンサルバドル島に到達しました。〈コロン〉は実はコンベルソ(改宗ユダヤ人)で,迫害を逃れユダヤ人の新天地を探していたのではないかという説もあります。当時のイベリア半島では,隠れユダヤ人や改宗ユダヤ人に対する異端審問が厳しくおこなわれていたのです。

 〈コロン〉は,ユーラシア大陸・アフリカ大陸になかった多くの新しい植物・動物を持ち込みました【本試験H14時期】。ジャガイモ【本試験H14時期,H29共通テスト試行 新大陸原産かを問う】,トウモロコシ【本試験H18】,トマト【本試験H18】,トウガラシ(南アメリカにおける総称は「アヒ」(注)),カカオ【本試験H18コショウ・ブドウではない】は,〈コロン〉以前は南北アメリカ大陸にしかなかったものです。

この知らせを受け,1493年に教皇〈アレクサンデル6世〉(スペイン出身,在位1492~1503)が,大西洋上にスペインとポルトガルの境界線を引いた。これが教皇子午線です。
 しかし,スペインのライバルであった〈ジョアン2世〉は,「スペインに有利な引き方だ。ずるい! もっと西に引かせてほしい」と,〈イサベル〉女王に話を持ちかけ,境界線を教皇子午線よりも西に引き直した。これが1494年のトルデシリャス条約【本試験H23すべてがスペイン領になったわけではない,本試験H27,H31オランダとスペイン間の取り決めではない】【追H20スペインとイギリスの間の条約ではない】です。

 なお,のちにフィレンツェ【セ試行 イタリア人か問う】の〈アメリゴ=ヴェスプッチ〉(1454~1512) 【セ試行】【上智法(法律)他H30】が〈コロン〉の到達した地がアジアではなく「新世界」(“新大陸”とは言っていません)【本試験H18】であることを指摘したことから,ドイツの〈ヴァルトゼーミュラー〉(ヨーロッパ初の地球儀をつくった人物)が〈アメリゴ〉の名(ラテンゴ名はアメリクス)をとって,新大陸を「アメリカ大陸」と命名しました。これがアメリカの語源です【セ試行】【本試験H23先住民の言語由来ではない】。


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 西まわりをとった〈コロン〉に対し,ポルトガル喜望峰まわりでのインド航路を開拓しようとします。1498年には〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉(1460?~1524)が,喜望峰をまわって,東アフリカ沿岸のスワヒリ文化圏の都市国家マリンディに寄り,その地の航海士〈イブン=マージド〉のガイドでインド洋を渡り,西南インドカリカットに到達しました【H29共通テスト試行 地図資料と議論(ヴァスコ=ダ=ガマの航海以降にインドと東アフリカの交流が始まったわけではない)】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】【名古屋H31記述(1500年前後のヨーロッパ人とインドの関わり)】。

 カリカットは,香辛料【東京H23[3]】【H29共通テスト試行 ジャガイモではない】貿易の中心地で,コショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】とシナモンを積荷として持ち帰りました。これだけで航海費の60倍の価値があったそうです。

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中世の前期,つまり5世紀の西ローマ帝国滅亡から,ノルマン人の移動が激しかった10世紀くらいまでのヨーロッパは,不安定な情勢が続きました。しかし,11世紀~12世紀くらいになると,農業生産力が向上して村落共同体が生まれ【本試験H15 11~12世紀にかけて封建社会が崩壊したわけではない】,停滞していた商業が復活します。

12世紀までの修道会は農村に大土地を所有して定住し,祈りや労働を主体とした生活を営むのが一般的でした。6世紀に設立されたベネディクト修道会が代表例です。
 ヨーロッパの社会が安定し人口が増大すると,12~13世紀にはシトー修道会【追H30托鉢修道会ではない】などの修道院が,当時はまだヨーロッパ内陸部一帯に広がっていた森林を伐採し,耕地を広げる運動を起こすようになりました。この動きを大開墾運動【本試験H17リード文】ともいいます。

 ネーデルラントの工業地帯フランドルでは修道院が中心となって干拓(海の水を抜いて,陸地をつくること) 【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】を積極的にすすめ,運河も建設されるようになります。また,土地を持った農民は協力して堤防を築き【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】,開墾をすすめました。アムステルダムロッテルダムなど,現在のオランダに残る地名の「ダム」は,堤防のことです。

 地中海周辺の二圃制農業を夏に雨の降るアルプス山脈以北の気候向けにアレンジし,農地を大きく3区分(大麦・ライ麦の春耕地,小麦・えん麦の秋耕地,休ませる休耕地)し,年ごとにローテーションさせる三圃制【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】が,9世紀にフランク王国の一部,12世紀にはロワール川以北の西ヨーロッパで見られるようになりました。こうすれば,ライ麦やえん麦を家畜のエサにしつつ,休耕地を設けることで土地を休ませることができるため,生産力がアップしました。三圃制が導入された地域では,城主が広い土地を一円的に支配する動きがみられます。
 これら農具や家畜の共同管理,共同の農作業【本試験H7】の必要から,農民たちは団結して農村共同体をつくるようになります【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した結果,農民相互の結びつきが強くなったか問う】。


人が集まりやすいところというのは決まっています。川と川が交わるところとか,交通の便のよいところです。例えば12~13世紀の北フランスのシャンパーニュ地方【追H28】【本試験H23,H30】では,4つの都市で開催されていた6つの市場をつないだ「大市」(大規模な定期市) 【追H28】 【本試験H23】が開かれていたことで有名です。

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(1) 南から北へ …地中海に面するイタリアの港町や内陸都市から,東方の物産や工業製品がアルプスを越えて贅沢(ぜいたく)品が運ばれて来る。
(2) 北から南へ …バルト海沿岸の木材・海産物・穀物や,フランドル地方(現在のベルギー)の羊の毛織物【東京H17[3]】が運ばれてくる。

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 ちなみに,地中海に面するイタリアの港市としては,ヴェネツィアジェノヴァ,ピサが有名です。ビザンツ帝国などの東方から,香辛料・絹織物などのぜいたく品(奢侈品(しゃしひん))が運び込まれます。ピサには14世紀の教会大分裂の時期に,教皇庁が置かれたこともあります【本試験H24フィレンツェではない】。


 イタリアの内陸都市としては,フィレンツェやミラノ,シエナが有力で,11世紀以降,水車を利用した毛織物工業【本試験H24,本試験H30フィレンツェで栄えたのは綿織物工業ではない】や,それでもうけたお金を個人や外国政府に貸し付ける金融業(きんゆうぎょう)で栄えます。工業というのは,「物を作ること」だと思ってください。金融業は,「お金を貸して,利子でもうけること」です。
 フィレンツェ【追H28アウクスブルクではない】で金融業により栄えた一族を,メディチ家【追H28】といい,のちに市政を牛耳るだけでなく,〈レオ10世〉(ジョヴァンニ=デ=メディチ)のように教皇になる者も現れました。
 また,イタリアからドイツ方面を結ぶルートにあたる南ドイツでは,アウクスブルク【追H28フッガー家が栄えたのではない】や,その北のニュルンベルク【追H20地図問題】が発達しました。アウクスブルク【本試験H24フィレンツェではない】の銀山を支配し,金融で栄えたのはフッガー家【追H28メディチ家ではない】【本試験H7新大陸の銀を利用したわけではない】【本試験H22・メディチ家ではない・地図上の位置,本試験H24】です。神聖ローマ帝国に資金を貸し付けて,皇帝を手のひらで転がすようにもなっていきます。
領主は所領でとれた収穫物を「市場に売ってお金に変えたい」と考えるようになりました。領主は生産物ではなく,貨幣によって地代(貨幣地代)をとるようになっていきます【本試験H5 「14~15世紀に領主の貨幣需要の増大,戦費の増加などにより,領主財政は危機に見舞われた」か問う(正しい)】。

 都市の起源はさまざまで,ローマ帝国に軍隊が駐留していた都市もあれば,ローマ教会の司教座都市(司教が置かれた教会のあるところ)を起源とするものもありました。しかし,商人にとってみれば「汗水たらして手にした財産を,支配者に税として取られるのは嫌だ」と思うのが自然です。
 領主は,自分の領地の中に商人の集まる商業都市ができると,商人から税金がたんまりとろうと画策します。当初都市は領主に従っていたものの,商工業の発達によって力をつけていくと,だんだんと領主から自治権【本試験H14不輸不入権・叙任権ではない】が与えられる動きがみられるようになります。こうして,11~12世紀以降に領主の支配を脱した都市を,自治都市といいます。都市は行政と立法の機能をもつ市参事会や,裁判・軍事・外交の機関を持っていました。
 北イタリアでは,司教を倒して自治都市(コムーネ) 【追H30】となる例が多く,周辺の農村も含めて【追H30「周辺の農村を支配に組み込んで」】完全に独立した都市国家となりました。
 フィレンツェでは平民層が都市の支配権を握ります。

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リューベック【本試験H22,本試験H26地図上の位置,本試験H29フィレンツェではない】を中心とする諸都市の通商同盟であるハンザ同盟(13世紀~17世紀) 【追H26ロンバルディア同盟とのひっかけ】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】は,14世紀になると北ヨーロッパ商業圏(北海からバルト海にかけての商業圏)を支配するようになりました。互いの都市に支店や倉庫を置くことで,無用な争いを避けたのです。ハンブルク【本試験H19アントウェルペンとのひっかけ】やブレーメンのほか,遠隔地のロンドン,ブリュージュノヴゴロド,ベルゲンにも商館が設置されました。リューベックには西方からは毛織物が,東方からは小麦,コハク,毛皮や木材・樹脂が運び込まれ,北ヨーロッパにおける東西貿易の中心部として栄えました。


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イングランドでは,諸侯〈シモン=ド=モンフォール〉(1208頃~65) 【追H26ヘンリ8世に対して反乱を起こしたのではない】【立教文H28記】の反乱により,都市の代表が議会にはじめて招集されるようになりました【共通一次1989イギリス最初の議会ではない】。彼はのちに内戦で敗死しています。
 中世の自治都市【本試験H9城壁で囲まれていたか問う】の中には,ギルド【追H26自由競争を促進していない】【本試験H9】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】という同業組合がありました。

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 商人もギルドを作りました(商人ギルド【本試験H14時期(15世紀以降ではない)】)。遠く離れた場所に共同で使える旅館や休憩所,資金を借りることができる場所や,商品を置いておく倉庫が設置され,お互い助け合ってビジネスをする関係を築いていました。

 しかし,商人の輸出する商品をつくらされているのは手工業者です。手工業者が丹精込めて作った靴の値段を決めるのは,商人ギルド。
 それに対して,不満を持った手工業者は,組合(同職ギルド(ツンフト)【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない,本試験H10時期(古代ギリシアではない),本試験H12「自由競争を保証し,生産統制を撤廃した」か問う】【本試験H23自由競争を保障する組織ではない】)をつくって商人ギルドから分離し,商人ギルドの持っている市政に参加する権利を求めて争いました。これをツンフト闘争【東京H26[3]用語の説明】といいます。
 しかし,同職ギルドの組合員には,独立して自分の店を持つ親方しかなることができませんでした【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない】【本試験H28職人・徒弟が加入できたわけではない】。

なお,「都市の空気は自由にする」(Stadtluft macht frei,都市の空気は「その人を」自由にするという意味)【東京H23[3]】【慶文H29】という言葉のように,領主の支配下から逃亡された農奴や手工業者は,1年と1日,が経過すれば都市の住人として自由になれるとする法もありました。


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 さて,これだけ商業が発達すると,その経済力を背景に各都市には,天高くそびえ立つゴシック様式【本試験H23】【追H19】の聖堂が建てられるようになります。最初の例は1135年頃にフランスに建てられたサン=ドニ大聖堂(フランス王が埋葬される教会)です。尖ったアーチ(尖頭アーチ) 【追H25ゴシックの特徴か問う】と,太陽光がカラフルで幻想的な光となって入り込む仕掛けとなっているステンドグラス【本試験H25ビザンツ様式の特徴ではない】【追H25ゴシックの特徴か問う】,石積みの壁の重みを分散させるためのフライング=バットレスが特徴。
 以下の大聖堂が特に有名です。

・現在のフランス:パリのノートルダム大聖堂シャルトル大聖堂【本試験H17】【追H30ロマネスク様式ではない】,アミアン大聖堂,ランス大聖堂
・現在のドイツ:ケルン大聖堂(ケルン司教座聖堂)【追H25ビザンツ様式ではない】(◆世界文化遺産「ケルンの大聖堂」1996,2008範囲変更)
・現在のイギリス;カンタベリ大聖堂

 ステンドグラスに表現されたのは,聖書の話や都市にまつわる聖人の物語です。聖堂には鐘楼が付けられており,鐘の音が都市の時間を支配していました。
 特にシャルトル大聖堂のステンドグラス「美しき絵ガラスの聖母」は,青を基調とした幻想的な仕上がりで有名です【本試験H17宗教改革を記念して建設されたわけではない(時期が異なる)】。この時期には聖母〈マリア〉のモチーフが,ノートルダム(=我々の貴婦人)という名前からもわかるように,広く信仰を集めます。

 ゴシック様式以前の,1000年頃から1200年頃には,厚い石壁と小さな窓を特徴とするロマネスク様式(【東京H24[3]】【本試験H10ロマネスク様式ではない】【本試験H23】【追H25尖塔・ステンドグラスが特徴ではない(ゴシック様式とのひっかけ)】斜塔のあるピサ大聖堂【本試験H10ビザンツ様式のサン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】【本試験H30】【追H19】が有名)が有名でした。採光が弱いので,中に入ると薄暗く,重厚な雰囲気に包まれています。

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神聖ローマ帝国ローマ教皇との叙任権闘争は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に締結されたヴォルムス協約で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみました。
 〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙でホーエンシュタウフェン家の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派のギベリンと,教皇派のヴェルヘン家によるゲルフとの間に内乱が勃発しました。
 しかし,〈コンラート3世〉の甥〈フリードリヒ1世〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか,第三回十字軍(1189~92)にも参加しました。
 しかし,彼も和平を撤回してイタリア政策を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それにたいして,ミラノを中心にロンバルディア同盟【本試験H19】が結成されました。
 〈フリードリヒ1世〉の孫〈フリードリヒ2世〉(皇帝在位1215~50)【本試験H27ハプスブルク家ではない】はシチリア島を相続し,宮廷をもうけて官僚制を整備しました。〈フリードリヒ2世〉に対しても,イタリア北部の都市はロンバルディア同盟を結成しています。【本試験H30】。

 13世紀になると,イタリアの諸共和国では都市の貴族と民衆(武装した民衆。ポポロといいます)との対立が表面化し,紛争につけこんだ有力者(地方の地主貴族)によって市政が乗っ取られることもありました。この有力者はシニョーリ(領主)となって,都市の安全を保障するかわりに,一族により市政を牛耳るようになりました【本試験H2イタリアでは富裕な市民たちが政権を握る共和国が成立したか問う】。


ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると,皇帝不在の“大空位時代”(1256~73)【本試験H19】が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。

 14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の〈ジギスムント〉(位1411~37)は,混乱収拾のためにコンスタンツ公会議(1414~18) 【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】を開催し,自体の収拾を図ります。

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 フィレンツェ共和国【本試験H22地図上の位置】は交易により栄え,1252年にフローリン金貨を鋳造し,国外でも使用されています(◆世界文化遺産フィレンツェの歴史地区」1982,2015範囲変更)。
 1378年に毛織物業者のチョンピの反乱が暴動を起こしています。毛織物をつくる過程のなかでも特に大変な工程である「梳毛(そもう)」を担当していたのは,都市のなかでも特に下層の職人。数ヶ月ではあるものの,下層労働者による政権がフィレンツェに樹立されますが,直後に上層労働者により崩壊しています。
 その後は上層市民への資本の蓄積がすすみ,1434年に銀行家のメディチ家【本試験H22・H24フッガー家ではない,本試験H15・H27ともに芸術家を保護したか問う】が支配的となっていました(#漫画 〈惣領冬実〉による漫画『チェーザレ 破壊の創造者』はこの時代を扱っています。〈マキャヴァッリ〉〈コロン〉なども登場)。

キリスト教の登場する前のギリシアやローマの思想を研究する学者を保護した〈コジモ=デ=メディチ〉【慶文H30記】は,古代の〈プラトン〉の私塾アカデメイアに憧れたてプラトン=アカデミーを開き,学者の活動を支援しました。例えば〈ピコ=デラ=ミランドラ〉(1463~1494)は,『人間の尊厳について』で人間には自由な意志があるのだことを主張。〈フィチーノ〉(1433~1499) 【慶文H30問題文】は〈プラトン〉研究をおこなっています。
 〈コジモ〉はほかにも,新しい技法を美術に導入していた〈ブルネレスキ〉【本試験H24】【慶文H30記】(1377~1446,フィレンツェ出身,フィレンツェのサンタ=マリア大聖堂【本試験H10ビザンツ様式ではない。サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】のドームを設計【本試験H24ハギア=ソフィア聖堂ではない】),〈ドナテッロ〉(1386~1466,フィレンツェ出身,線遠近法を開発)を保護しました。


〈ロレンツォ〉は和平に持ち込みます。
 彼は,ギリシア神話をモチーフとした「春」「ヴィーナスの誕生」を生み出した〈ボッティチェリ〉(1445~1510)【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】を保護し,「ダヴィデ像」で有名な〈ミケランジェロ〉の才能も発掘しました。


 ヴェネツィアでは1284年にドゥカート金貨が鋳造されています。この金(きん)は西アフリカからエジプト経由でもたらされたものです。当時の西アフリカではマリ帝国が栄えています。
 この頃,父と叔父とともに陸路で東方に旅行したヴェネツィア共和国【本試験H29場所を問う】の商人〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324) は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を『世界の記述(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』にまとめ,大きな反響をもたらします。


 ナポリシチリアにノルマン人によって1130年に建国されていた両シチリア王国(ノルマン=シチリア王国)です【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】はのちに断絶し,神聖ローマ皇帝〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたります。

1494年にフランスの〈シャルル8世〉がナポリ王国の継承を要求して始まったのが,第一次イタリア戦争なのです【セ試行 時期(1558~1603年の間か問う)】。こうして,1454年に成立していたイタリア半島の5大国によるローディの和は破られ,イタリア半島は衰退の時代を迎えます。


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イタリアの都市国家の人々は,オスマン帝国との東方(レヴァント)貿易によって都市が商業的に栄えるとともに,イスラーム教徒を通して,キリスト教文化とは異なる文化に接するようになっていました。12世紀に始まるイスラーム教徒を通した【共通一次 平1】,古代ギリシア共通一次 平1】などのキリスト教以前の文化の流入を12世紀ルネサンスといいます。
 ヨーロッパに羅針盤(らしんばん)【本試験H4】【本試験H27中国で生まれたことを問う】【セA H30発祥はポルトガルではなく中国】・火器【本試験H2「火薬」が中国で発明されたか問う】・活版印刷術が伝わり,改良,発達されていくのもこの時期です。羅針盤大航海時代を刺激【本試験H4】,火器は騎士の没落を促進,活版印刷術は情報伝達により宗教改革などの新しい思想の伝達に威力を発揮しました。製紙法の伝播【本試験H27モンゴル人による伝播ではない】もこの頃でした。

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 こうした革新的な情報の交流を背景に,「人間らしさ(人間性)」を我慢せずに自由に表現しようとする運動が,14世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起きます。これがいわゆる“ルネサンス”です。
 その大きな特色は,ギリシア文化・ローマ文化【本試験H26ゲルマン文化】のように人間に中心を置く考え方である人文主義(ヒューマニズム) 【本試験H17スコラ学とのひっかけ】です。この考え方をとった知識人をヒューマニストと呼びます。

 中世ヨーロッパはキリスト教カトリック教会の権威が絶対で,それに歯向かうことが許されていませんでした。しかし,いざ国家が宗教の束縛から自由になると,「自分の国のことだけ」を考えて,国家どうしが血も涙もない戦争に明け暮れる時代に突入したのです。これからの時代の君主たるもの,権謀術数(相手をだましたりはめたりしようと策をめぐらすこと)が必要だと解き,キリスト教に代わる新たな「正義」について考えたのが,フィレンツェの〈マキャヴェッリ〉【東京H22[3]】【本試験H7史料が引用。モンテーニュエラスムス,トマス=モアではない】【本試験H14ホッブズではない】です。「キツネのずる賢さと,ライオンのどうもうさ」というフレーズで有名な『君主論』【東京H22[3]】【本試験H14『リヴァイアサン』とのひっかけ】は,「権謀術数」のほうが強調されて広まりましたが,時代の変化に対応した国家運営について,この時期にもっとも深く考えていた人です。

 〈ダンテ〉(1265~1321) 【本試験H4時期(15~16世紀ではない)】 【本試験H15・H17】【追H28、H30】はフィレンツェで『神曲』【本試験H15・H17】【本試験H8時期(14~15世紀)】【追H28,H30】を口語【追H28ラテン語ではない】で書き,カトリック教会を物語の中で批判しています。物語の中には,古代ローマの詩人〈ウェルギリウス〉(英語名はヴァージル,前70~前19) 【追H30】が登場し,〈ダンテ〉本人とともに地獄・煉獄・天国をめぐるという内容です。中世のキリスト教の世界で使われていたラテン語はヨーロッパ文化圏の共通言語でしたが,教育を受けていない一般の民衆は読むことができませんでした【本試験H12「(12~13世紀の西ヨーロッパの)大半の人々は,ラテン語で書かれた聖書が読めなかった」か問う】。親しみのある口語(フィレンツェ地方のトスカナ語【本試験H15】)で記されたところが,今までになかった革新的な特徴です。
 〈ダンテ〉の影響を受けた〈ボッカチオ〉(1313~75) 【共通一次 平1〈ラブレー〉ではない】【本試験H8時期(14~15世紀)】【本試験H15画家ではない】【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】は『デカメロン』【共通一次 平1】を書いています。またボローニャ大学で法律を学んだ〈ペトラルカ〉(1304~74)【本試験H24時期】は,古典の研究をしながら,人間の内面を深くとらえた多くの恋愛抒情詩【本試験H24】を残し,“最初の近代人”ともいわれます。
 彼らの影響はヨーロッパの他の地域にも広がり,イングランドでは〈チョーサー〉(1340?~1400) 【共通一次 平1【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】が『カンタベリ物語』【共通一次 平1『ユートピア』ではない】【本試験H8時期(14~15世紀),本試験H12騎士道物語ではない】をロンドンの俗語【共通一次 平1:英語か問う】で書き“イギリス文学の父”と称されました。ネーデルラントでは〈エラスムス〉(1469~1536) 【本試験H4時期(15~16世紀か)】【本試験H24時期・H28,H31ラブレーではない】【追H20スコラ学(スコラ哲学)とは関係ない】が『愚神礼賛』【本試験H24,H28,H31(ラブレーではない)】【追H19モンテーニュの著作ではない】を書き,社会を風刺しています。イングランドでは16世紀末~17世紀初に〈シェイクスピア〉(1564~1616)が戯曲を発表しています。
 絵画では,15世紀前半に遠近法が確立され,「より本物らしく描く」ことが重要視されるようになります。古代ローマの建築が導入されて,大きなドームが印象的なルネサンス様式【本試験H10ロマネスク様式とのひっかけ】【追H20ロマネスク様式ではない】がつくられます。
 16世紀には,「ダヴィデ像」の作者の〈ミケランジェロ〉(1475~1564)らにより,ローマでサン=ピエトロ大聖堂【本試験H10サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】【追H20ロマネスク様式ではない】が新築されました(◆世界文化遺産「ヴァチカン市国」,1984)。
 「最後の晩餐(ばんさん)」【追H28遠近法を駆使したか問う】、肖像画「モナ=リザ」を描いた「万能の天才」〈レオナルド=ダ=ヴィンチ〉【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】【追H9 ガリレオ=ガリレイとのひっかけ,H20、H28「最後の晩餐」を描いたか】もこのときの人で(注),聖母子像を描いた〈ラファエロ〉【本試験H14イエズス会の宣教師ではない(カスティリオーネとのひっかけ)】【大阪H30図版「アテネの学堂」】とともに,ルネサンスの三大巨匠といわれます。

 なお,美術の影響は他の地域にも広まります。
ネーデルラントでは,〈ファン=アイク兄弟〉(兄1370?~1426,弟1380?~1441)が油絵技法を改良しフランドル派の祖となりました。ただし,兄の実在には疑問もあります(兄は「ヘント祭壇画」,弟「アルノルフィニ夫妻の肖像」が代表作)。「四使徒」(四人の使徒)【追H20図版(解答には不要)】【慶文H29問題文】で有名なドイツの〈デューラー〉(1471~1528) 【追H20リード文】【慶文H29】は版画を制作し,ルターの考えに共感して〈ルター〉の訳した新約聖書からドイツ語の聖句が抜き出され「四使徒」の絵の下部に刻まれています【追H20リード文】。ザクセン選帝侯の宮廷画家〈クラナッハ〉(1472~1553)も,宗教改革を支持し「磔刑図」(たっけいず)や〈ルター〉の肖像画を残しています。

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カペー朝フランス王国の9代目〈ルイ9世〉(位1214~1270年)は,ローマ教皇のお墨付きを得て,南フランスへの進出を強めます。12世紀半ばからフランス南部のトゥールーズカルカッソンヌなどのラングドック地方で一大勢力を築いていたアルビジョワ派(カタリ派【追H27】【本試験H16オランダではない,本試験H29】)退治が名目です(アルビジョワ十字軍【本試験H29】)。カタリ派の教義は不明な点も多いですが,現世=汚い=悪,来世=汚れがない=善という善悪二元論に基づき,ブルガリアで始まったボゴミル派(10世紀中頃)との関連があるようです。結婚(生殖=汚い)をしないことや厳しい菜食主義(肉=汚い)が理想とされ,腐敗していたローマ=カトリックと比べ魅力的と写ったようです。

前後しますが,〈ルイ9世〉は,イスラーム教勢力を挟み撃ちにできる相手を探すために,1253年にローマ=カトリック内部にあるフランシスコ会の修道士〈ルブルック〉【京都H20[2]】をモンゴル帝国へ派遣しています。さらに行政官や裁判官を整備して,国内の統治も強化していきました。

 一方,フランス南部の異端に対するアルビジョワ十字軍は,第11代の〈フィリップ4世〉(位1268~1314年) 【追H27ユーグ=カペーではない】のときに終わります。


 フランス王国の拡大を進めたカペー朝フランスの王には,増加していた宮廷費や軍事費を確保するために,国内の諸身分の合意を得ようとしました。商業の発達にともない生まれていた新興勢力の都市住民の代表を1つのグループ(第三身分【追H26平民は第二身分ではない】)として,今までの貴族(第二身分)や聖職者(第一身分)とともに,フランス王国を構成する重要な身分の1つに位置づけ,この三身分のバランスを考えてコントロールしようとするようになります。
 その例が〈フィリップ4世〉【東京H8[3]】【共通一次 平1】【本試験H18・H23・H26】【追H30三部会を招集したか問う】です。彼は,ノートルダム大聖堂の3つの身分を集めて,「これからローマ教皇〈ボニファティウス8世【共通一次 平1:グレゴリウス7世ではない】【本試験H25レオ3世ではない】【追H29インノケンティウス3世とのひっかけ】【立教文H28記】と争うことになるけれどもいいか」と意見を聞いたんですね。ばらばらに一人ひとりの意見を聞いて回っていては収拾がつきませんから,これは効率のよい方法です。

 フランスの身分制議会を三部会【共通一次 平1:フロンドの乱の拠点となった高等法院とのひっかけ】【本試験H12】【本試験H16,H23】【追H28フランスで封建的特権の廃止が決議されたか問う,H30】といい,初めての招集は1302年です。三部会の支持をとりつけた後で,〈フィリップ4世〉【追H27フィリップ2世ではない、H29】は教皇〈ボニファティウス8世〉をアナーニで捕らえようとして失敗(アナーニ事件【追H27】),〈ボニファティウス8世〉はショックのあまり3週間後に亡くなっています(しばしば「憤死」と表現します)。のちに新たに就任したフランス人の教皇(クレメンス5世)は,ローマの都市貴族同士の派閥抗争から逃れるためフランス南部のアヴィニョン共通一次 平1 グレゴリウス7世をアヴィニョンに幽閉したわけではない】【本試験H17 12世紀ではない,本試験H22 15世紀ではない】【追H29パリではない】に教皇庁を移動させました。〈ダンテ〉(1265~1321)などのイタリアの詩人らは,これを『旧約聖書』の事件になぞらえ「教皇のバビロン捕囚」(1309~77)と呼びましたが,教皇をフランス人に移動させられた”被害者”とみるのは後のローマ教皇庁の見解に過ぎません。

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 このように〈フィリップ4世〉のもとで一気に強大化したカペー朝ですが,1328年に跡継ぎがなくなり断絶。当時はフランスとイングランドの国としての違いは明確ではなく,支配者は血筋によってヨコにつながっていましたので,フランスの国王が亡くなったら,次は自分に王を継ぐ権利があると,イングランド王〈エドワード3世〉【本試験H4王権神授説を唱えていない】【本試験H27ハプスブルク家ではない,H29共通テスト試行「母方の血筋を理由として」継承を主張したかを問う】が主張したのです。彼は,〈フィリップ4世〉の娘と,〈エドワード2世〉の間に生まれた息子です。

 フランスではカペー家の傍系(遠い親戚)にあたるヴァロワ家から〈フィリップ6世〉が即位しており,ヴァロワ朝【本試験H2プランタジネット朝とのひっかけ】が成立。しかもフランスでは伝統的に女系の王は認められていませんでした(フランク王国サリカ法典(6世紀頃)が起源)。
 フランスとイングランド【本試験H13神聖ローマ帝国ではない】は工業地域のフランドル地方【本試験H2】をめぐっても対立し,百年戦争【本試験H5時期を問う】が始まりました。
 フランドル地方の都市は,イングランドの羊毛輸出先【本試験H31】として経済的に重要視されたのです。
 〈エドワード3世〉が挑戦状をおくったのが1337年,実際に戦闘がはじまったのは1339年のことです。

 百年戦争中にはペスト(黒死病)が大流行し,多くの犠牲者が出ました。労働力不足から農民の待遇が改善され,解放される農奴も現れました【本試験H5 14~15世紀に領主直営地において賦役が廃止されたことを問う】。しかし,黒死病もおさまったころ,手のひらを返したように農民に対する待遇をまた厳しくする領主が現れます(いわゆる封建反動)。百年戦争の被害もあり,厳しい負担をかけられていたフランス北東部の農民が1358年にジャックリーの乱【追H26】【本試験H2時期(百年戦争中か),本試験H5「農民に対する収奪の再強化に反抗」したものか問う,本試験H8ジェントリのひっかけ,本試験H10デカブリストではない】【本試験H17時期・地域・ジョン=ボールが引き起こしたわけではない,本試験H19時期,本試験H22・H30ともにイギリスではない】【慶文H29】を起こすなど混乱は続きます。

 百年戦争は,序盤では,長弓兵【本試験H17】【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いで用いられたわけではない】を武器にしたイングランド軍が,フランスの弩(石弓,いしゆみ)兵に対して優勢を誇り,〈エドワード黒太子〉(1330~76) 【本試験H17時期】はフランス南西部の大陸領をクレシーの戦い【本試験H27】とポワティエの戦い【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いとのひっかけ】に勝利して,守り抜きました。

そんな中,ドン=レミ村の農民出身の〈ジャンヌ=ダルク〉(出現当時16歳,1412~31) 【本試験H2時期(百年戦争末期か)】【本試験H15・H17】が現れて,イングランド軍に包囲されていたオルレアンを包囲から解放し【本試験H15・H17ともにバラ戦争ではない,H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】,戦局を逆転させたといい,結果的に〈シャルル7世〉(位1422~61)がランス大聖堂で戴冠することができました。

 

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 プランタジネット朝4代目の〈ヘンリ3世〉(位1216~72) 【本試験H14星室庁を利用していない】がマグナ=カルタを無視して政治をおこなったため,1265年フランス貴族のシモン=ド=モンフォールの乱【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H22デンマークではない,本試験H30】がおきました。彼の招集した身分別の議会がイングランドの議会の起源とされ,5代目の〈エドワード1世〉(位1272~1307) 【本試験H31模範議会を招集したか・時期を問う(17世紀ではない)】による聖職者・貴族・都市の代表による身分制議会(1295年。模範議会といわれる【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H4「王権に忠実」ではない】【本試験H29フランスではない,H31時期を問う(17世紀ではない)】)に発展しました。

 7代目の〈エドワード3世〉(位1327~1377)のときに,二院制議会(上院と下院) 【共通一次 平1:最初から二院制だったわけではない】のしくみが整いました。ただ,選挙権は現在のように広く国民にひらかれていたわけではありません【共通一次 平1:中世末期には国民代表的正確を強めていたわけではない。それは19世紀以降】。
 この〈エドワード3世〉の母が,フランスの王〈フィリップ4世〉の娘だったため,当時断絶していたカペー朝の王位を主張して始まったのが,百年戦争ということになります。しかし戦争の最中にペスト(黒死病)が流行し,労働力が不足(人口の約3分の1が死亡するという未曾有の事態!)。農村では,人手を必要とする従来の穀物生産から,ヒツジの放牧へと土地利用が転換されていきました。
 従来からイギリスの農奴解放はかなり進んでいて,自分の土地を保有した農民はヨーマン(独立自営農民) 【本試験H19ジェントリではない】【本試験H8ジェントリのひっかけ】【追H25時期を問う(穀物法廃止、第二次囲い込みとの時系列)】と呼ばれるようになっていました。しかし,黒死病の流行で労働力が不足すると,領主もさらに農奴を解放して待遇を良くせざるを得なくなりました。
 しかし,この傾向が進むと,領主の暮らしが悪化。黒死病もおさまったころ,手のひらを返したように農民に対する待遇をまた厳しくする領主が現れます(封建反動)。
 イングランドでは1381年に起こり,身分制度を批判する動きが起きましたが,これらの農民一揆は鎮圧されてしまいます。〈ワット=タイラー〉の乱では,教皇権を批判し1378年(注1)に聖書の英訳を初めておこなった神学者ウィクリフ〉【追H27オランダの人ではない】を支持していた聖職者〈ジョン=ボール〉(1338?~81)【本試験H17ジャックリーの乱は引き起こしていない,本試験H22イタリアではない】が『アダムが耕しイヴが紡いだとき,誰がジェントリ(貴族)【慶文H29】だったのか』と説教をして農民軍を勇気づけたとされます(注2)。


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 14世紀後半には,イングランドのオックスフォード大学神学部教授〈ウィクリフ〉(1320?~84) 【追H27オランダの人ではない】【本試験H22 15世紀の人ではない】や,〈ウィクリフ〉の影響を受けたベーメン(現チェコ)のプラハ大学神学部教授〈フス〉(1370?~1415)が,「救いのへの道は,教会を通してではなく,聖書を通して得られる」と主張し,教会や教皇の批判を公然をおこなうようになります。〈ウィクリフ〉はロラード派という,聖職者の存在に反対する運動に参加していた人物です。

 

百年戦争を通して,フランスとイングランドは明確な領域に分離した
 百年戦争は,序盤では,長弓兵【本試験H17】を武器にしたイングランド軍が,フランスの弩(石弓,いしゆみ)兵に対して優勢を誇り,〈エドワード黒太子〉(1330~76) 【本試験H17時期】はフランス南西部の大陸領をクレシーの戦い【本試験H27】とポワティエの戦いに勝利して,守り抜きました。
 フランスでは黒死病がはやったり,戦争と重税に耐えかねた農民一揆のジャックリーの乱(1358) 【慶文H29】が起こったりと,政も危機にありました。

 1399年には,プランタジネット朝が〈リチャード2世〉(位1377~99,エドワード黒太子の息子)の下で断絶すると,かつての王〈エドワード3世〉(位1327~77)の子どもの一人でランカスター公の〈ジョン=オヴ=ゴーント〉(~1399)の子どもが〈ヘンリー4世〉(位1399~1413)として国王に就任。
 ランカスター朝【本試験H2プランタジネット朝とのひっかけ】を開きます。

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戦後【本試験H2時期(百年戦争の末期ではない)】は,ランカスター家とヨーク家によるバラ戦争(1455~85) 【本試験H4有力貴族が弱体化したから絶対王政が始まったか問う】が起こります。


そんな中,ヨーク家の国王の娘の婿(むこ)である,テューダー家の〈ヘンリー〉がこれを収め,1485年に〈ヘンリ7世〉(位1485~1509)として即位し【本試験H30ジェームズ2世ではない】【追H27ジョージ1世界ではない、H30ルイ14世ではない】,テューダー朝【追H27】【本試験H2プランタジネット朝ではない】を創始しました。
 彼は,バラ戦争の戦後処理のために1530年代から星室庁(せいしつちょう,The Court of Star Chamber) 【本試験H14ヘンリ3世のときの利用ではない】【追H30】を整備して,国王大権下で司法権を掌握するなど,急速に中央集権化を進めていきました。本格的に星室庁裁判所が利用されるのは〈ヘンリ8世〉の1540年代のことになります。

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11世紀頃からはイングランドから輸入した羊毛から毛織物【東京H17[3]】を生産し,ブルッヘやヘントといった都市を中心に先進工業地帯として栄えるようになりました。

 北ヨーロッパデンマークは王母〈マルグレーテ〉(1353~1412)を中心に1397年にスウェーデンノルウェーとともにカルマル同盟(カルマル連合)【本試験H17時期,本試験H27ポルトガルとのひっかけ】【追H19】【立教文H28記】を形成し,デンマークの女王〈マルグレーテ〉を中心とする同君連合の王国が成立しました。バルト海【本試験H2地中海ではない】で交易活動を活発化させていたドイツ人のハンザ同盟【本試験H2】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】に対抗するために結成されましたが,スウェーデンノルウェーは,デンマークによる支配に次第に反発するようになっていきました。

 

 


●1500年~1650年の世界