【保存版】センター試験世界史B 全出題箇所まとめ②(200年~1200年)

●200年~400年の世界

●中央ユーラシア
 中国の西晋【本試験H18前漢ではない】で八王の乱(291~306) 【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H18,本試験H31時期(漢代ではない)】が起きると,匈奴(とその一派の羯(けつ))や鮮卑チベット系の諸民族(?・羌)が中国に進入して,中国風の王朝を建てました。この時代を中国史では五胡十六国時代(またはそれに先立つ三国時代と,後の南北朝時代と合わせ,三国五胡・南北朝時代とすることもあります)といいます【本試験H19五代十国時代とのひっかけ,H29時期】。
 漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H12北魏を建てた民族を問う】【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。
 拓跋部【追H21問題文】を率いる〈拓跋珪〉(たくばつけい)は,386年に北魏【本試験H12】【本試験H28】【追H21】を建国します。北魏の首長は,すでに「可汗(かがん)」と呼ばれていおり,それに対抗して次にモンゴル高原に追いやられた柔然【本試験H7突厥を破っていない,本試験H12時期(漢の西域経営の進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】も,北魏に対抗するために「可汗」の称号を使うようになったとみられています。


●東アジア
後漢末の混乱の引き金となった黄巾(こうきん)の乱は184年に勃発。後漢の滅亡と,皇帝の位をゆずりうけた魏の建国は220年。その後,華北に本格的に北方の諸民族が進出するのは,4世紀初めのことです。311年に匈奴は,長安を占領しています(永(えい)嘉(か)の乱)。
 北方の諸民族は華北一体に16の国を建国(漢民族の建国した国家も一部含まれます)していき,漢民族の王朝は現在の南京【本試験H4明(みん)の遷都先ではない】(当時は建(けん)康(こう)【追H30】【H27京都[2]】)に逃れて東晋【追H30 東周ではない】を建てて王朝を存続させました。
 同時代のローマ帝国をみてみると,やはり同時期にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々進入が加速し,395年の東西ローマ帝国への分裂につながっています。

 184年に勃発した黄巾の乱により,中国各地に私兵をひきいる軍事集団がはびこります。やがて華北で勢力をかためた〈曹操(そうそう)〉(155~220)は,
 ・南方の軍事集団の長である,四(し)川(せん)(長江上流域の盆地)の〈劉備〉(161~223) 【東京H8[3]】と,
 ・江南(長江下流域)の〈孫権〉(182~252) 【H27京都[2]】 【追H9前漢の後をうけた王朝を建てていない】 と対立する構図(いわゆる「天下三分の計」)ができあがっていきます。

 後漢末期の208年,長江中流域の赤壁(せきへき)で,天下分け目の戦いがおこなわれました。四川の〈劉備〉につかえた軍師〈諸葛亮〉(しょかつりょう,〈諸葛孔明〉(しょかつこうめい)は字(あざな),181~234)のすすめで,〈劉備〉は〈孫権〉と同盟を組み,〈曹操〉との決戦に勝利しました。これを赤壁の戦いといいます。映画「レッド・クリフ」は,この戦いを題材にしています。
 〈曹操〉は後漢最後の皇帝〈献帝〉(位189~220)を迎え入れ,ライバルだった大土地所有者(豪族)の〈袁紹〉(えんしょう,?~202)が従えていた黄巾の乱の残党や少数民族の勢力も破っていきました。

 しかし,その後〈献帝〉に譲位をせまって皇帝に就任し,「魏(220~265年)」という王朝を創始します。それを認めない〈劉備〉【東京H8[3]】【本試験H30】は四川の成都【本試験H9】【本試験H22洛陽ではない】【中央文H27記】を都にに蜀(しょく,221年~263年) 【本試験H9】【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】を,〈孫権〉は長江下流域の建康(現在の南京) 【セA H30華北ではない】を都に呉(ご,222年~280年) 【追H9】を建国したため,3分裂の構図が固定化されました。

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 このへんまでの流れは,蜀(しょく)の目線で元代以降にまとめられることになる『三国志演義』(さんごくしえんぎ) 【本試験H9[21]】に詳しく,さまざまなゲームや映画,漫画となり,東アジアで人気があります。勝者の余裕と栄華よりも,敗者の奮闘と悲劇のほうが,民衆には受けるわけです。

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魏の〈曹丕〉(文帝)(位220~226)は,豪族の力をおさえるために,中央から派遣された中正官【本試験H11】が,人物を評価し9段階にランク付けして官僚に登用する九品中正(九品官人法)の制度【本試験H8時期(7世紀ではない),H11呉ではない】【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】【追H24時期(党錮の禁、呉の滅亡との時系列)、H29「有力豪族による高級官職の独占を招いた」か問う】も整えられていきました。

 しかし,豪族の中には中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れ,最高ランクの9品が代々就く貴族や,その中でも特に優遇された家柄である門閥貴族【本試験H26明代ではない】【本試験H8】が生まれるようになっていきます【本試験H11人物本位の評価が行われたわけではない,「豪族はこの制度により,官僚になる道を閉ざされたので,不満を持った」わけではない】。皇帝の官僚として仕えることには,貴族にとって自分の地位を示すという重要な意味がありました(注)。なお「貴族制」は中国では「士族制」「門閥制」と呼ばれることが普通です。
(注)中村圭爾「六朝貴族制と官僚制」『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997。

 〈文帝〉の次の〈明帝〉(位226~239)のときに魏は,四川盆地の蜀を263年に破りました。しかし手柄を上げた魏の将軍〈司馬懿〉(しばい)の勢力が増し,クーデタを起こして実権を握りますが,皇帝位にはつかず,子孫の〈司馬炎〉(武帝)【本試験H16司馬睿ではない,本試験H30】のときに帝位を迫り禅譲によって新たな王朝である晋を建国しました。晋はのちに江南に遷都するので,この遷都前の晋を西晋,遷都後を東晋と区別します。

 この西晋が江南の呉をほろぼした【追H24時期()】ことで,三国時代は統一されました。この頃には〈王叔和〉(おうしゅく「か」,生年不詳)が。麻酔術を含む『傷寒(雑病)論』という中国最古の医学書を,後漢の医師・官僚の〈張仲景〉(150?~219)の医書を参考に編集しています。

 しかし,すでに北方遊牧民華北への移住も加速しており,「遊牧民が人口の半分になっているのはやばいのではないか。警備に遊牧民を使うのではなく,故郷に帰らせたほうがいいのではないか」と〈江統〉が『徒戎論』(しじゅうろん)で主張していたそんな矢先に,〈武帝〉(司馬炎)(位266~290)が亡くなり〈恵帝〉(位290~306)が即位すると,西晋の帝位をめぐる一族が争い (290~306年,八王の乱) 【京都H20[2],H27[2]】【本試験H3この結果諸侯の力が弱体化し郡県制が強化されたわけではない】【本試験H14秦代ではない】が勃発。各王が兵力として招いた北方諸民族がここぞとばかりに華北に進入し,八王の乱が306年に終結した後も各地で反乱を起こすようになりました。

 西晋には,南匈奴の末裔〈劉淵〉(りゅうえん)が本格的に侵攻し,漢が建国されました。なぜ「漢」を名乗れるかというと,前漢のときに当時の匈奴単于が漢の公主をめとっていたからです。311年に洛陽が陥落し〈懐帝〉が殺害し実質滅亡しますが,西晋の王族は313年に長安で〈愍帝〉(びんてい)が擁立され存続をねらいました。
 このとき,鮮卑の拓跋部は西晋【京都H20[2]】を援助して匈奴とたたかい,拓跋部の首長は315年に代(だい)の王に任ぜられています。しかし316年に長安が占領され〈愍帝〉が殺害されると,316年西晋は滅亡しました。
 大混乱の中,西晋漢人たちは大挙して南に逃れました。江南にたどり着いた西晋の王族は,建康【本試験H2】(呉の首都の建業と同じ地点,現在の南京)【本試験H22地図】を首都として東晋を復興。〈愍帝〉が殺害されたことを聞くと,317年に〈司馬睿〉(元帝,しばえい,在位317~322) 【本試験H16司馬炎ではない】が皇帝に即位しました。ちなみに,睿(えい)という字は難しいですが,右側に「又」を付けると,日本の「比叡山(ひえいざん)」の「叡」になります。
 東晋には華北から多数の漢人が逃げてきましたが【本試験H26時期】,彼らから税を取り立てようとすると「自分の戸籍は華北にあるから,払いたくない」と言われてしまいます。そこで,363年には「現住地を戸籍にしなさい」という土断法(どだんほう)を施行して,税収アップをはかりました。東晋以降,江南の開発がさらに進んでいきました【本試験H15時期】。有力豪族は農牧業・漁業・手工業を合わせた総合的な開発を進め,自給自足の経済圏もみられました。戦乱が中国を覆う中,山奥に隠れて悠々自適と自給自足を営む理想郷の姿は,詩人〈陶潜〉(とうせん)の『桃花源記』(とうかげんき)にもうたわれました。

 華北には,おもに5つに分類される諸民族が16の王朝をたてたため(一部漢民族の王朝も含む),異民族を示す「胡」(差別的な意味合いがあります)という字をつかって,五胡十六国(ごこじゅうろっこく) 【本試験H3】といいます。五胡【東京H6[3]】は,(1)匈奴【本試験H3五胡十六国の一つか問う】【早・法H31】、(2)羯(けつ,匈奴の別種)、(3)鮮卑、(4)?(てい) 【東京H6[3]】、(5)羌(きょう) 【東京H6[3]】。(4)・(5)はチベット系のことですが,5というのはキリがいい数字のために使われているだけで,実際には多様な民族が含まれていました。
 このようにして,華北五胡十六国,華南は東晋という構図が生まれました。

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 386年には,鮮卑人【セA H30】のうち拓(つぶせ)跋(ばつ)【京都H20[2]】という集団の指導者〈拓跋珪(けい)〉は,「魏」を建国していましたが,398年に〈拓跋珪〉は山西省の平城(へいじょう) 【京都H20[2]】で北魏【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】【セA H30元ではない】の初代皇帝〈道武帝〉(どうぶてい北魏皇帝在位398~409)となり,権力を強化していきます。さらに孫の〈太武帝〉(在423~452) 【本試験H12】がモンゴル高原柔然【本試験H12時期(漢の西域経営に進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】に対抗して支配領域を広げていき,439年に華北を統一【追H21「江南の併合」ではない、H28「中国の統一」ではない】して五胡十六国の分裂状態を収拾しました【本試験H12「五胡十六国の分裂状態を収拾した」か問う】。

 一方、中国南部で建康を都としていた宋は,北魏に遠征しましたが,敗北します。〈太武帝〉は道教を保護して国教化し【本試験H12道教を禁止したわけではない】,仏教を弾圧しましたが,次の〈文成帝〉のときに雲崗(うんこう)の石窟寺院【本試験H31道教の寺院ではない】【追H18,H20漢代ではない】の建設が始まりました。仏教を保護するようになったのは,仏教が階級や民族による差別を否定したため,漢民族ではない鮮卑人の支配を正当化するのに都合がよかったからとみられます。仏教の教義の編纂・教団の組織に対抗し,道教の教義の編纂・教団の組織も進んでいきました。

 次の〈献文帝〉のときには,〈文成帝〉の皇后(〈馮(ふう)太(たい)后(こう)〉【立教文H28問題文】)が実権を握りました。皇后は〈献文帝〉に迫り,我が子を即位させました。これが〈孝(こう)文帝(ぶんてい)〉【追H9前漢のあとをうけた王朝を建てていない,H19,H30唐代ではない】です。
 〈孝文帝〉のとき,国家が保有する土地を農民に与えて耕作させ,徴税をさせるしくみ(均田制)が実施されています【本試験H15農耕社会の統治に消極的ではない,本試験H16北斉代ではない,本試験H24漢代ではない,H29元で始まったわけではない】【本試験H8】【追H19宋代ではない、H21北魏で始まったか問う】【大阪H31論述(導入の背景と後代へ与えた影響)・時期】。
 大土地所有者(豪族)が土地を失った農民を吸収して巨大化しているのを防ぐために実施したのです。しかし,土地は成年男子だけではなく,その妻や奴婢,耕牛にまで支給されたので,多くの奴婢・耕牛を有する大土地所有者に有利な内容でした【本試験H8支給対象は成年男子だけではない】。

〈献文帝〉が殺害され皇后も死ぬと,〈孝文帝〉は洛陽に遷都して混乱を収めようとしました。文化面でも,鮮卑の服装や言語を禁止し,中国の文化を積極的に導入していきました(漢化政策) 【本試験H15漢民族の文化を排除していない】。

北魏の時代には〈?道元〉(れきどうげん,469~527)が地理書の『水経注』(すいけいちゅう) 【京都H21[2]】を,〈賈思?〉(かしきょう,不詳) 【本試験H22昭明太子ではない】が中国最古の農業書である『斉民要術』(せいみんようじゅつ【本試験H22】)を著すなど,学問も盛んでした。

漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。


●朝鮮
前1世紀に鴨緑江中流部の貊(ハク)人が高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668) 【セA H30府兵制は実施されていない】を建国し,2世紀初めには勢力を拡大させていきました。
高句麗は〈広開土王〉(こうかいどおう;クヮンゲトワン;好太王(こうたいおう),在位391~412) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代ではない)】のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し【本試験H21時期】,朝鮮に進出した倭も撃退したということが,現在の中国東北部にある集安【慶・法H30】にある広(こう)開土(かいど)王(おう)碑(ひ)【本試験H9[13]4世紀末の東アジアの動向が記されているが,そこに現れる国はどれか(後漢,魏,隋,百済)。百済以外は4世紀末に存在しないので,百済が正解】という碑文に刻まれています。
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帯方郡は?,韓,倭の窓口となり栄えましたが,3世紀前半に中国の魏により〈公孫〉氏が滅ぼされ,魏による直接支配がはじまりました。このような帯方郡における政変に対応する必要から,倭の邪馬台国の〈卑弥呼〉【本試験H7「倭の女王」】【追H18】は「景初2年」(238または239年)6月に〈難升米〉(なしめ)を魏【本試験H7派遣先は建康ではない】【追H18】に朝貢させています。
 しかしその後,中央集権化を果たした高句麗が313年には楽浪郡を滅ぼし【本試験H21時期】,【追H19時期】遼東半島にも進出し,当時分裂状態にあった華北の五胡政権(前燕)とも戦っています(高句麗はのちに朝鮮半島で最も早く,五胡十六国のひとつ前秦(ぜんしん)から仏教を受け入れました)。その後体制を立て直した高句麗では〈広開土王〉(クヮンゲト;こうかいど)王(位391~412)【本試験H9[13]】によりで朝鮮半島南部へ領土を急拡大させていきます。なお,372年には儒教教育機関である太学が設立されたほか,道教も伝わっています。

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馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,のちの百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】につながっていきます。

●日本
 2世紀後半の「倭(わ)国(こく)大乱(たいらん)」(注)の後,西日本を中心とした小国の連合邪馬台国(やまたいこく)は,〈卑弥呼〉(ひみこ) 【本試験H24・H27】を中心として統一を進めていました【H29共通テスト試行 奴国の時代ではない】。邪馬台国の支配層はみずからの権威付けのために,中国の魏【本試験H24,本試験H27北魏ではない】に239年に朝貢使節を送り「親魏倭王」(しんぎわおう) 【本試験H27】の称号をもらい,冊封(さくほう)を受けました。冊封されれば,その地域における支配が認められ,支援を受けたり交易をしたりすることもできるようになるからです。

●東南アジア
3世紀になると季節風(モンスーン)を利用した航海【本試験H30】が普及するようになり,中国やインド方面との貿易はますます加速します。
 それにともない,港町の人口密度が高くなって都市(港市)が形成されるようになると,利害を調整する権力者が現れるようになっていきました。 その際,東南アジアではインドから伝わってきた文化や品物が,権力者の権威を示すもの(威信材)として利用されるようになっていきました。
 北ヴェトナムは,紅河の河口の三角州(デルタ)を中心に,港市(こうし,港町を中心に発展した都市のこと)が栄え,さまざまな特産物が輸入・輸出されました。
 中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えました。

 イラワジ川流域のビルマは,西部・北部・東部の山岳地帯,上流域の上ビルマ下流域の下ビルマに分かれ,変化に富んだ地形をしています。季節風の影響から,最多で4000ミリの雨をもたらしますが,中央部は乾季の影響で灌漑による畑作,下流部では稲作が行われています。中国の史料によると,ここにはピューという民族が都市を築き,銀貨を発行して交易にも従事していたことがわかっています【本試験H22オケオは関係ない】。文字史料はわずかですが,3世紀の中国の文献では「驃国」として登場します。


●南アジア
インド北部では,3世紀末にガンジス川中流域のグプタ家が勢いづき,4世紀になると,北インドグプタ朝(320~550)が再統一します【本試験H20】【本試験H8エフタルとのひっかけ】【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのはマウリヤ朝ではなくグプタ朝】。地方独特の文化が洗練されていき,ヒンドゥー教が形をととのえてくるのもこの時代でした。

 「最高のヴィシュヌ信者」の称号を持つ王は,ヒンドゥー教を熱烈に信仰していました。ヴィシュヌ【本試験H7ヒンドゥー教えの主神の一つとなったか問う】は宇宙を創造し維持する神とされ,化身(けしん,アヴァターラ)としてさまざまな形をとり地上に現れ,人々を救うとされました。例えば,『ラーマーヤナ』のラーマも,ブッダもヴィシュヌの化身とされました。バラモン教が,インド各地の地元の神様を取り込んでいく過程で,ヴェーダの中の神々が変化していったものです。地方にもともと存在した様々なアーリヤ人由来ではない神々への信仰が,ヴィシュヌ【本試験H21マニ教の神ではない】のほかにブラフマーという神や破壊神シヴァ【本試験H24,H30】という神に結び付けられていったものがヒンドゥー教です。

 グプタ朝にマヌ法典【本試験H12「支配者であるバラモンが最高の身分」か問う】【本試験H15,本試験H24,H28時期】【追H19旧約聖書とのひっかけ】という,バラモンを頂点とする各ヴァルナ(種姓)の権利や義務がまとめられました。
 絶対的な聖典というよりは習わしに近く,ヒンドゥー教には特定の教祖も経典もありません。
 そこではヴァルナ制度は「人類の起源にさかのぼる神聖な制度」とされています。
 ただ現実的には自分のヴァルナに従っていては生活できない場合もありえます。その場合は例外的に下のヴァルナの仕事に就くこともゆるされるなど、ある程度の柔軟性がゆるされていました(注1)。

 現在のインドの人口の約8割がヒンドゥー教と言われています。仏教は,発祥の地でありながら,ヒンドゥー教に押され,現在では人口の1%を割っています。デカン高原のアジャンター石窟寺院【本試験H26時期】【追H20】やエローラ石窟寺院のグプタ様式の仏教【追H20】建築も,さかんに建造されるようになっています。仏像にもインド独自の特徴が見られます【本試験H4ギリシア,ローマなどの西方系美術の影響は強く受けていない】。

 サンスクリット語【東京H10[3]】【共通一次 平1:7世紀のインドでサンスクリット文字が使用されていたか問う】【追H19ウルドゥー語ではない】をサンスクリット文字〔梵字(ぼんじ)〕(注2)で記した文学もつくられ,〈カーリダーサ〉【追H19ウマル=ハイヤームではない】は戯曲『シャクンタラー』【追H19】をつくり,古代から伝わる叙事詩マハーバーラタ』【東京H10[3]】『ラーマーヤナ』の編集もすすみました。ゼロ(0)が文字として表わされたのも,この時期のことです【本試験H2シュメール人により発達されたのではない】。

 父〈ガトートカチャ〉を継いで即位したのは〈チャンドラグプタ〉(〈チャンドラグプタ1世〉,在位320~335頃) 【本試験H20玄奘は訪問していない】で,かつてマウリヤ朝の首都であったパータリプトラは繁栄を取り戻しました。彼は由緒正しい出ではなかったようで,有力なクシャトリヤ階級から妻をめとることで,人々を納得させました。

 第2代〈サムドラグプタ〉(位335頃~367頃)は,インド南端まで兵を進め,諸王を服属させたり,友好関係を築いたりしました。一方,ガンジス川流域の諸国は滅ぼされ,グプタ朝の領土となりました。広大な領土を直轄支配することはせず,間接統治をおこなったのです。

 第3代〈チャンドラグプタ2世〉(位375頃~414頃) 【本試験H15北インド全域を支配したか問う,本試験H19アンコール=ワットは建てていない】が全盛期で,西インドのシャカという中央ユーラシアから南下したスキタイ系の民族(インド=スキタイ人)が建国していた王国を滅ぼし,その土地や海外交易で栄えていた港を支配下に収めました。彼の宮廷には詩人・劇作家〈カーリダーサ〉がつかえ『メーガドゥータ』や『シャクンタラー』【本試験H12ジャイナ教聖典ではない】【本試験H26時期】を著しました。また,中国の東晋時代(東晋の僧ではない)の399年に長安から出発した〈法顕〉(ほっけん)【本試験H5中央アジアのオアシスとしを経由したか問う,本試験H12】【本試験H27孔穎達ではない】というお坊さんは,王に謁見したと『仏国記』(ぶっこくき)【本試験H27】【追H19マルコ=ポーロの著作ではない、H24小説ではない】に記しています(414年に執筆)。彼は行きは西域を経由して陸路【本試験H12「西域経由」か問う】,帰りは海路【本試験H12海路かを問う】を利用し,412年に帰国しました


西アジア
東方の思想の影響はマニ教にとどまらず,グノーシス主義ミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】,エジプトのイシス信仰なども流行し,キリスト教会は『聖書』のストーリーが正統性を失うことに,危機感を覚えていました。

そこで,ニケアに教会の指導者をあつめて,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H31教皇の至上権が再確認されたわけではない】を開かせたのです。ブッダの死後にひらかれた,仏典結集と似ています。このときに正統(正しい教義)とされたのは,アレクサンドリア教会の〈アタナシオス〉の主張したアタナシウス〔ニカイア〕派【本試験H29アリウス派ではない】の三位一体(さんみいったい,トリニタス,トリニティ)説です。


一方,異端となったのは,イエスを人とするアリウス派。こちらはライン川を北に越え,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に広がっていくことになります【本試験H29】。


ローマ帝国が東西に分裂すると,西ローマ帝国東ローマ帝国も,それぞれの地域の有力な教会を管理しようとしました。当時,ローマ,コンスタンティノープル,アンティオキア,イェルサレムアレクサンドリア【本試験H12】の五本山(五大教会)【本試験H12】に,教会組織を代表する大司教が置かれていました。
 特にローマとコンスタンティノープルには,東西ローマ帝国の都がおかれたわけですから,それぞれの教会が,自分の教会のほうが優位に立っていることを主張するようになったわけです。
 はじめはローマ教会が,イエスの最初の弟子でありリーダー的存在であった〈ペテロ〉(?~64?)の墓があるから「ローマ司教が五本山の中で一番えらいのだ」と主張しました。

 遊牧民パルティア人によるアルシャク(アルサケス)朝パルティアを倒した【本試験H26アケメネス朝ではない,本試験H27】のが,農耕に従事するイラン人によるササン(サーサーン)朝です(注) 【追H9スルターンの称号を得ていない】【本試験H3時期(6世紀のイランか),本試験H4王の道を整備していない,本試験H8ソグド人ではない】。
 建国者は〈アルダシール1世〉(位224~241頃)で,アケメネス朝の復興をめざし,ローマ帝国と争いながら,ペルシア文化を発展させていきました。彼はゾロアスター教を国教とします【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「ササン朝ペルシア」で国教とされたか問う】。インダス川方面【本試験H25ガンジス川ではない】まで進出し,北インドクシャーナ朝を衰えさせました。

それに対して3世紀の【本試験H251世紀ではない】〈マニ〉(216?~276?)による善悪二元論をとるマニ教【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「アケメネス朝ペルシア」で生まれていない】【本試験H21ヴィシュヌは主神ではない】【本試験H25】は弾圧の対象となりました。その後,東は中央ユーラシアを通って中国に伝わったり,西は北アフリカやローマに伝わったりしていきました。北アメリカのカルタゴでは,のちにキリスト教の教父(きょうふ,初期の教会におけるキリスト教教義の理論家)【本試験H17ストア派ではない】として有名になる〈アウグスティヌス〉(354~430) 【東京H22[3],H30[3]】【本試験H6時期(同時代の出来事を選ぶ)】【本試験H17ディオクレティアヌスではない】【追H19『神学大全』を著していない,H21、H25アウグストゥスではない】が青年時代に影響を受け,そこからキリスト教に改心した話が『告白(録)』【本試験H17】に記されています。
 ちなみに,ゾロアスター教も,中央ユーラシアを通って長安から長江下流域まで広がり,ローマやインドのボンベイ(現在のムンバイ)にまで拡大しました。現在でもインドでは,ムンバイを中心にゾロアスター教のグループが分布しています。中国ではマニ教摩尼教ゾロアスター教は?教(けんきょう) 【追H25イスラーム朝ではない】と呼ばれ,唐代(618~907)に流行しました。

 第2代の〈シャープール1世〉(位241~272) 【東京H29[3]】【本試験H3ハールーン=アッラシードとのひっかけ。アッバース朝最盛期の君主ではない,本試験H10時期を問う】【本試験H25】は,現在のトルコでローマ軍と戦い(エデッサの戦い),軍人皇帝時代のローマ皇帝〈ウァレリアヌス〉【本試験H25ネルウァではない】【早政H30】を捕虜にしました。領土はインダス川にも及びました。

 現在のシリア周辺には,3世紀後半に女王〈ゼノビア〉の統治下でパルミラ【追H26リード文、H30ソグド人と無関係】【京都H22[2]】が繁栄し,東西交易で栄えました。これは260年代には事実上ローマ帝国から分離しています。


●ヨーロッパ
 ローマ帝国では皇帝〈カラカラ帝〉(位198~217) 【本試験H3,本試験H7カエサルではない】が,妻・弟らを次々に殺害して実験を掌握。カラカラ浴場(カラカラ帝の大浴場)を建設し,だんだんと政治をおろそかにするようになりました。
 212年には「世界中のすべての外人(帝国内の全自由民【本試験H3,本試験H7】)にローマ市民権を付与する」法(アントニヌス勅法)を発布しました。これにより,ローマ市限定の法として出発したローマ市民法と,万民法(帝国内の外国人や異民族との関係を規定していた法) 【本試験H8「しだいにその対象を拡大していった」か問う】との違いはなくなりました。彼は,アルシャク(アルサケス)朝パルティアやインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対して遠征軍を派遣しています。

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 そんな中,現在のクロアチアで生まれた〈ディオクレティアヌス〉(位284~305) 【追H28全自由民にローマ市民権を与えたわけではない】は,軍人として活躍後,小アジアのニコメディアで皇帝に即位しました。ですから彼も“軍人皇帝”です。ローマからニコメディアに遷都した理由は,「異民族の進入を防ぎ,広い帝国を安定して支配するためには,帝国の比重を東に移す必要がある」と考えたからです。

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 このように,元老院の権威はほとんど失墜した状態で,事実上〈ディオクレティアヌス〉1人に権力が集まる仕組みができあがります。これを専制君主政(ドミナートゥス) 【本試験H3アウグストゥスのときではない,プリンケプスとのひっかけ】 【追H25テオドシウスのときではない】【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】といいます。

 

コンスタンティヌス帝は,帝国の統一にキリスト教を利用する
ローマはキリスト教会を,住民の把握に利用へ
 〈ディオクレティアヌス帝〉が自分から皇帝の位をしりぞくと,帝国は内乱状態になりました。
 〈コンスタンティヌス帝〉(大帝,在位306~337)は【Hセ10コンスタンティノープルに遷都したか問う】【H29共通テスト試行 史料読解(クローヴィスの洗礼に関する)】【追H25テオドシウスとのひっかけ】【セA H30アウグストゥスとのひっかけ】は「ローマ帝国をまとめるためには,増えすぎたキリスト教徒たちを管理する教会を支配に利用するほうが,都合がいい」と考え,313年にもう一人の正帝〈リキニウス〉(位308~324)と連名(注1)でミラノ勅令【本試験H3】でキリスト教を公認しました【本試験H3国教としたのではない】【本試験H18アリウス派を異端にしていない,本試験H27,本試験H29帝政を始めたのはアウグストゥス】【追H25テオドシウス帝ではない】【セA H30アウグストゥスではない】。

 最終的に内戦に勝利した〈コンスタンティヌス〉は、東西に分けられていたローマ帝国を再統一し,テトラルキアを終わらせます。

 324年には,ギリシア人の植民市であったビザンティウム〔ビュザンティオン〕【東京H14[3]位置を問う】に新たな都市コンスタンティノープル【Hセ10】【追H30 6世紀ではない】を建設を開始。みずからの名を付けた都市にふさわしく、城壁、キリスト教的な建造物や競技場・浴場・広場・記念柱・大通りを建設していきました。
 ただそれは単に慣例にならった戦勝記念事業にすぎず、当初から「第二のローマ」(アルテラ=ローマ)を建設する意図があったか、はっきりとはわかりませんが、国防目的に加えキリスト教に反発する保守的なローマの元老院を嫌ったのだといわれます(治世末期にはこの都市の元老院を議員の人数を300人から約2000人に増員しています)(注2)。
 またローマ【追H30アテネではない】市内にはコンスタンティヌス凱旋門(がいせんもん)【本試験H17】【追H27コンスタンティヌス大帝が建てたか問う、H30】を建設し,18世紀ベルリンのブランデンブルク門【本試験H17直接は問われていない】や19世紀パリの凱旋門のモデルにもなっています。

 また,軍の強化と税収の確保のため,農民の移動を制限する勅令を出しました。土地を割り当てられ,収穫の一部を納める農民を小作人(こさくにん)といいますが,この頃の,移動の自由が認められていない小作人のことをコロヌスと呼びます。奴隷よりも待遇は良く家族は持てました。そのほうが,農民のやる気も出て収穫量も増えるし,支配がラクだと考えられたからです。このように,奴隷ではなくコロヌス(移動の自由のない小作人) 【追H20奴隷ではない】を使用した大土地経営のことをコロナートゥス(コロナトゥス) 【追H20】といいます(彼らの身分自体をコロナートゥスということもあります)【本試験H29共和政ローマの時代には始まっていない】。のちに中世ヨーロッパ(ローマ帝国滅亡後)では農奴と呼ばれることになります。

 キリスト教を公認するからには教義の統一が必要となったため,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H18ミラノ勅令とのひっかけ,本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】【追H21時期を問う、H27コンスタンツ公会議ではない】で教義を統一させました。正統となったのはアレクサンドリア教会の指導者〈アタナシオス〉(298~373,ギリシア語読み。ラテン語読みではアタナシウス【東京H6[3]】)によるアタナシウス(ニカイア)派の三位一体(さんみいったい)説です。
  アリウス派【追H21、H27】【H27名古屋[2]記述(内容を説明)】は異端(いたん。正しい教義ではないとされた説)とされました。「異端」というのは多数はからのレッテルであり,自分のことを「異端」と主張する教派はもちろんありません。
 異端とされたアリウス派【本試験H25ネストリウス派ではない】はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の世界に広がっていくことになります。

 このころのキリスト教会の指導者として『教会史』を著した〈エウセビオス〉(260?265?~339) 【東京H22[3]】【早政H30】がいます。〈エウセビオス〉はキリスト教の由緒正しさを主張するため,「キリスト教の説明する『聖書』に基づく歴史のほうが,エジプトの歴史よりも古いのだ」と,史料を操作して主張しています。

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このゴタゴタを切り抜けた〈ユリアヌス〉(位361~363)は皇帝に即位すると、〈コンスタンティヌス〉大帝以降のキリスト教を保護する支配スタイルを抜本的になくし、伝統行事(ローマの神々に犠牲獣をささげる儀式など)を重んじます。もともとローマ帝国では,古来からローマでは多神教【本試験H3】が支配的で、エジプトの神イシス【本試験H25リード文】や東方のミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】なども信仰されていました。

375年にフン人【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】が東から黒海北岸に出現したのも、まさにこういった事態が進行していたときだったのです。

〈テオドシウス1世〉【本試験H3コンスタンティヌスではない】【追H25】は392年にキリスト教ローマ帝国の国教と定めました【追H25】。

しかし、大帝が395年に突然死去すると,すでに共同皇帝であった息子の2人に広大な領土を分けて継承することになります (西→次男〈ホノリウス〉,東→長男〈アルカディウス〉)。
 帝国を東西の皇帝により分割統治することには先例があり、4世紀後半には普通となっていましたから珍しいことではありませんでしたし、法制度上分離しているわけでもありませんでしたが、その後〈コンスタンティヌス〉大帝や〈テオドシウス〉大帝のように,1人で全土を統一できた者はついに現れることはなく,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制は固定化されてしまいました。
このことを,後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂といいます【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【本試験H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】。

 その後,コンスタンティノープル【Hセ10】を首都とする東方領土の正帝(以後東ローマ帝国(またはビザンツ(ビザンティン)帝国【Hセ10】)といいます)は,唯一のローマ皇帝として西方領土の奪回に努めるようになっていきます (最終的に東半は1453年に滅亡します)。

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 ローマ帝国は,〈アレクサンドロス〉の大帝国の後継国家を飲み込んで拡大していきましたから,ローマ文化はヘレニズム文化の影響を強くうけました。共和政末期から帝政初期にかけては「古典時代」ともいって,さまざまな分野で特徴的な作品がうみだされました。特に散文と詩歌,歴史学にすぐれたものが多いです。また,哲学はヘレニズム文化の成果が受け継がれ,ストア学派が活躍しました。自然科学も,天動説【本試験H2,本試験H8地球の公転・自転説ではない,本試験H12地動説ではない】を体系化した〈プトレマイオス〉(100頃~170頃) 【追H26地動説を体系化していない】【本試験H15天動説を体系化したかを問う,プルタルコス・エウクレイデス・ピタゴラスではない】【本試験H2原子論・『博物誌』ではない・ムセイオンを創設していない,本試験H8】などが有名です。ギリシア人も多く活躍しました。

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ドナウ川ライン川よりも北側の森林地帯には,狩猟や農耕・牧畜【本試験H7農耕を行わなかったわけではない】によって生活をしていたインド=ヨーロッパ語族のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が生活,キヴィタスと呼ばれる部族国家を形成していました。
 キヴィタスには,貴族・平民・奴隷の区別があり【本試験H7】,貴族中心ではありますが,成年男子全員【本試験H7女性は参加していない】が民会で重要な事柄を決めました。
 有力な貴族には,平民を保護する義務があり,そのかわりに配下に入れて兵士としました(従士制)。彼らの様子については,〈カエサル〉【追H29】の『ガリア戦記』【本試験H15『ゲルマーニア』とのひっかけ】【追H29キケロが著していない】を,〈タキトゥス〉の『ゲルマニア』(98年)などから知ることができます。

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212年に皇帝〈カラカラ〉(188~217)【追H28ディオクレティアヌスではない】により全ローマ帝国自由人【早政H30】に市民権が与えられて以降,異民族の防衛の必要もありローマ帝国の重心は東方に移っていました。238年にはゴート人がドナウ川流域に進出。彼らはスカンディナヴィア南部を現住地とし,3世紀には黒海北岸に移動していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派です。

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その頃、黒海北岸からテュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされるフン人【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【追H30】がバルカン半島方面【追H30ブリタニアではない】に移動していました。
 360年に黒海沿岸のゴート人を征服し【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【H27名古屋[2]】アラン〔アラニ〕人も含む多数の民族を巻き込んで、ドナウ川下流地帯に迫って来ました。

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 ゴート人はさらに海岸線の低地をつたいながら,アテネ(アテーナイ)やスパルタを占領しつつイタリア半島に進入し,410年にローマに進入して占領。さらにかれらはイベリア半島に移動し,定住して建国します(西ゴート王国【東京H11[1]指定語句】【H30地域を問う】)。なすすべのないローマ帝国は,混乱を防ぐために彼らを軍団として認め,ローマ帝国を防衛させようとしたわけです。

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●400年~600年の世界

●中央ユーラシア
中央ユーラシア東部のモンゴル高原では,鮮卑(せんぴ)の拓跋部(たくばつぶ)から自立した柔然(じゅうぜん)【京都H20[2]】の勢力が強まりました。柔然は東胡(とうこ)の末裔か,匈奴の別種といわれます。402年に北魏は初代〈社崙〉(しゃろん)の率いる柔然(じゅうぜん)を討伐し,柔然モンゴル高原の高車を併合し,北匈奴の残党を討伐。天山山脈東部に至るまでの広範囲を支配して,君主は「可汗」(かがん)の称号を名乗りました。のちの「ハン(カン)」や「ハーン(カーン)」といった遊牧民の君主の称号の起源です。しばしば中国に進入し,農民を略奪して北方で農耕に従事させることもありました。

 542年に高車は滅びましたが,その頃から同じくテュルク系の鉄勒(てつろく)や突厥(とっけつ) 【本試験H7柔然に滅ぼされたのではない,本試験H9モンゴル系の柔然を滅ぼしたか問う】【本試験H19時期】が中国の史書に登場します。カスピ海北岸からモンゴル高原北部に至るまで,テュルク系の民族はユーラシアの草原地帯に広く分布していました。突厥はもともと鉄勒に属していた一派(阿史那(あしな)氏)が建てた国家とされ,阿史那氏はシャーマンだったのではないかという説もあります。シャーマンとは,儀礼によって天の神(テングリと呼ばれました)や自然界の聖霊とコミュニケーションをとることができ,予言や治療ができた人たちのことです【本試験H9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】。
 中国で北朝西魏東魏に分かれて争っていた頃に,突厥イラン系でアム川上流域のソグディアナ地方出身【本試験H12地図(ソグド人の出身地域を問う) ティグリス川・ユーフラテス川の下流域,コーカサス地方モンゴル高原(バイカル湖の南西)から選択する】【追H30パルミラではない】のソグド人【追H30】【本試験H4,本試験H8】【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】【大阪H30論述:ソグド人の遊牧民地帯における政治・宗教・文化面での貢献】を仲介役として,絹馬(けんば)貿易(中国に馬を売り,絹を得る貿易)に従事していました。ソグド人は各地にコロニー(植民市)を建設し,遊牧民や定住農牧民の国家に接近して外交【大阪H30論述】面で活躍。また,西アジアゾロアスター教マニ教などの諸宗教を東方に伝える【大阪H30論述】とともに,アラム文字【大阪H30論述】を持ち込んで,突厥文字やウイグル文字(ユーラシアの遊牧民の文字【大阪H30論述】)の成立に影響を与えました。

 580年頃,突厥【本試験H20鮮卑ではない】は隋の攻撃によってアルタイ山脈あたりで東西に分離【本試験H9 6世紀に分裂したか問う】し,630年には東突厥【本試験H18匈奴ではない】は唐により滅んでしまいます。

◆エフタルの遊牧帝国は,サーサーン朝と突厥によって挟み撃ちにあい滅亡
当時,5世紀半ばから,カスピ海北岸にまで勢力を広げていたイラン系またはテュルク系の遊牧連合エフタル【本試験H7中国には勢力を伸ばしていない】【本試験H23,H30大月氏ではない】【追H18】が,ササン(サーサーン)朝を圧迫していました。ササン朝突厥と連携してエフタルを挟み撃ちにし,558年に滅ぼしました【本試験H21・本試験H23・H24,H27時期】

 アム川とシル川に挟まれたソグディアナ地方では,オアシス都市に拠点を持つソグド人【東京H20[3],H30[3]】が,活発に交易に従事しました。広域の支配を目指した遊牧民や農牧民の国家は,彼らの識字能力や情報能力を高く評価し,活動を保護しました。彼らはオアシスに植民して都市を築き,農業も行っています。ソグド人はもともとゾロアスター教を侵攻していましたが,マニ教も伝わり,6世紀末にはソグディアナの中心都市サマルカンドに教団がありました。

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その 【本試験H4匈奴ではない】王〈ブレダ〉(390?~445?)と〈アッティラ〉(406?~453) 【セ試行 オドアケルではない】 【本試験H4匈奴の建国者ではない】【本試験H27時期】【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない】の兄弟が434年に東ローマ皇帝に貢納を倍増するように要求しました。

その翌年453年にみずからの結婚の祝宴の夜に〈アッティラ〉が亡くなると,翌年には服属していた諸民族が反乱して“アッティラ帝国”は崩壊し,残った人々はのちにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々,ブルガール人(テュルク(トルコ)系)やアヴァール人(モンゴル系もしくはトルコ(テュルク)系) 【本試験H21 カール大帝に撃退された世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】に吸収されていきました。なお,フン人の正体が「匈奴(北匈奴)」ではないかという説には,真偽の決着がついていません。


●日本
 5世紀を通じて〈讃〉,〈珍〉,〈済〉,〈興〉,〈武〉(さん・ちん・せい・こう・ぶ,倭の五王【本試験H7時期】)が,中国の南朝の宋(420~479)に朝貢したことが中国の歴史書に記されています。彼らは朝鮮王朝に南下していた高句麗への対抗上,中国に冊封されることで国内の権威を高めようとしたのです。

6世紀には大陸の混乱を背景にして中国や朝鮮の人々(渡来人(とらいじん))が日本に移住し,仏教・儒教律令制度【本試験H18時期】といった大陸の文化を伝えました。


●東アジア
北魏は,五胡【本試験H21・H29】の一つである鮮卑人の王朝ですが,皇帝主導の急激な漢化政策に対する反発もありました。かつての首都の近くの防備に当たっていた軍団(六鎮)が,523年に反乱にを起こすと,北魏無政府状態に陥り,534年に〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉(位532~534)を殺害しました。
 同年,反乱を起こした〈高歓〉(496~547)が実権を握り,〈孝静帝〉(こうせいてい,孝武帝のいとこの子,位534~550)を擁立して534年に東魏を建国しましたが,これに対抗して〈宇文泰〉(うぶんたい, 505~556)が〈文帝〉(孝武帝のいとこ)を擁立し,長安を首都として535年西魏を建国(注)。こうして北魏は東西に分裂【追H25時期が梁の武帝の在位期間中かを問う】したのです。

図式 〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉を暗殺。
    〈宇文泰〉は〈文帝〉を擁立→【西魏
    それに対して,
   〈高歓〉が反乱し〈孝静帝〉を擁立→【東魏
(注)535年をもって北魏の分裂の年とする。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120

 さらに,550年に東魏北斉(550~577) 【京都H20[2]】に,西魏北周(556~581)にそれぞれ取って代わられました。
 このように華北は,五胡十六国 → 北魏が統一 → 東魏西魏 → 北斉北周 というように移り変わっていきます。これらはすべて鮮卑系の王朝ですが,このうちの北周外戚だった〈楊堅〉【本試験H16】は,北周の皇帝から禅譲をうけ,581年に隋【本試験H16】を建国することになります。

*

建康(けんこう)【追H28長安ではない】を首都とする東晋【追H28】は,420年に武将の〈劉裕〉(りゅうゆう)により倒され,①宋が建国されました(960年に始まる宋と区別するため劉宋という場合もあります)。

 その後短期間のうちに②斉(せい)。北魏討伐で活躍した寒門(階級の低い一族)出身の軍人〈蕭道成〉(しょうどうせい,在位479~82)が〈高帝〉として即位。

 ③梁(りょう) 【追H25】。軍人〈蕭衍〉(しょうえん)が〈武帝〉【追H25在位期間中に東西に分裂した華北の王朝を選ぶ(○北魏、×北元、×北周、×北斉)】として建康を占領して即位。

 ④陳のように建っては滅び,建っては滅びました。華北を支配していた遊牧民たちの勢力が強く,常に臨戦態勢であることが求められたため,華北を奪回しようとする将軍の力が強まり,作戦に成功した将軍が皇帝に即位することが多かったためです。

 梁の時代は比較的平穏な時代であり,〈武帝〉の皇太子〈昭明太子〉(しょうめいたいし)【本試験H22】【名古屋H31】が四六駢儷体【本試験H31韓愈は復興を唱えていない】【名古屋H31】で書かれた作品を集めた『文選』(もんぜん)【本試験H22斉民要術ではない】【追H24元代に原形ができた小説ではない】【名古屋H31】【中央文H27記】を代表として文化が栄えました。九品中正(九品中正法) 【本試験H3】は南朝でも続けられましたが,貴族たちは華北時代の家柄にしがみつこうとし,高いランクが付けられた家柄から高級官僚が決められる仕組みは,依然として残りました。

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陳は,589年に北朝の隋【本試験H6北周ではない】に滅ぼされ,こうして中国は統一され,南北朝時代は幕を閉じます。

 なお,ここで,この時代の中国の時代区分についてまとめておきましょう。
 三国時代は,魏の建国から蜀の滅亡まで(220~263年)。長くとれば,西晋による呉の滅亡まで(220~280年)。
 五胡十六国時代は,匈奴による華北での「漢(前趙)」の建国から北魏の統一まで(304~439年)をさします。
 南北朝時代【本試験H19五代十国時代ではない】というときは,北魏の建国から隋の統一まで(439~589年)をさします。
 魏晋南北朝時代というときは,魏・西晋から隋の統一まで(220~589年)をさし,これがもっとも長い時代区分のとり方です。
 六朝(りくちょう)時代という呼び方もあります。これは,現在の南京に首都を置いた6つの王朝の時代をまとめたものです。
 すなわち,呉【追H25】(当時の地名は建業【追H18】)→東晋(以降は建康)→宋→斉→梁→陳の時代です。

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古くから根付いていた民間信仰が,神仙思想(仙人や不老不死をめざす考え方) 【本試験H2】や道家の考え方が体系化されていきました。〈寇謙之〉(こうけんし,363~448) 【京都H20[2]】【追H19時期、H28道教は「仏教の普及に刺激されて」成立したのは確かだが、その時期は明代ではない】【本試験H2北魏の人であることを問う】【本試験H22唐代ではない】【中央文H27記】は北魏の〈太武帝〉【本試験H12道教を禁止したわけではない】に接近して保護を受け,道教の教団(新天師道) 【本試験H19時期】をつくっています(のちに宋代に正一教と呼ばれるようになり,現在に至ります) 【本試験H2中国仏教が道教の体系化に大きな影響を与えたことを問う】。

 政治的に不安定な時代であったことを反映し,政治に関する直接的な発言は避けつつ,老荘思想などについて議論を交わしつつ遠まわしに語り合う「清談(せいだん)」【追H19時期、H24清代ではない】というスタイルが流行しました。
 〈阮籍〉(げんせき,210~263)に代表される,竹林の七賢【本試験H17時期(春秋戦国時代ではない)】が有名。

 道教に対して,インドから伝来した大乗(だいじょう)仏教【本試験H4中央アジアを経て中国に伝わったか問う】は,4世紀後半から栄えはじめます。インドの言葉ではわからないので,〈仏図澄〉(ぶっとちょう,?~348) 【本試験H18・H24時期】や〈鳩摩羅什〉(くまらじゅう,344~413) 【京都H20[2]】 【本試験H4前漢の人物ではない,本試験H12時期(鳩摩羅什隋王朝に招かれたわけではない)】【追H19,H27仏典の翻訳・布教をしたか問う、H30五胡十六国時代ではない】 が布教や仏典の漢訳【本試験H12鳩摩羅什が訳経事業に従事したか問う】で活躍しました。
 インドの〈ナーガールジュナ〉(150頃~250頃)の『中論』を漢訳したのは〈鳩摩羅什〉です。石窟寺院も多数作られました。
 北魏の時代につくられた,平城近郊の雲崗(うんこう。インドのグプタ朝(320~550)美術の影響を受けています) 【中央文H27記】や洛陽近郊の竜門【追H27唐代の長安ではない】【本試験H22地図・後漢代ではない】が重要です。竜門の石窟寺院は,〈孝文帝〉の漢化政策の影響もあり,中国風の衣装をまとっていいます。ただ,それでも仏教は中国人にとっては”外国思想”ですから,理解するのが難いものでした。そこで,老荘思想道教などの中国の考え方を混ぜた格義仏教の形で信仰されることも多かったのです。
 しかし,仏教に対する政策は支配者によって様々でした。例えば,北魏の5人の皇帝は,雲崗石窟の仏像を自分たちの姿に似せて作らせました。「皇帝=仏」ということを,人々に知らしめそうとしたのです。南朝で梁を建てた軍人出身の〈武帝〉(〈蕭衍〉(しょうえん))は,仏教を厚く信仰したことで知られます。一方,北魏の〈太武帝〉(位423~452) 【本試験H12】や北周の〈武帝〉(位560~578)は,仏教を厳しく弾圧しました(唐の〈武宗〉(位840~846)),後周の〈世宗〉(位954~959)の迫害と合わせ中国の仏教界では”三武一宗の法難”と呼びならわされています)。

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 政治の世界から一歩引く風潮は,詩文の世界にも見られます。憧れだった都は荒れ果て,豊かさが“うわべ”だけのものだったことに気づいた人々は,時間のたっても変わらない素朴な「自然」の姿に,一度きりの人生の“理想”を求めたのです。例えば,東晋の〈陶潜〉(とうせん,〈陶淵明〉(とうえんめい),365?~427) 【本試験H3長恨歌の作者ではない】【京都H20[2]】【名古屋H31人名と「東晋」代の人ということを問う】。なお,このように2つの呼び方があるのは,中国人が,人の名前を軽々しく呼ぶことを嫌がったためで,陶潜の場合,「潜」は名であり,これをむき出しにするのは失礼と考え,代わりに「淵明」という通り名で呼んだことによります。前者を諱(いみな),後者を字(あざな)といいます。〈陶潜〉は官僚の職を辞して辞,故郷の田園生活に戻る決断をします。他に同じく,山水詩で有名な宋の〈謝霊運〉(しゃれいうん,385~433) 【名古屋H31人名と「宋」代の人であることを問う】がいます。彼は,霧につつまれた,うら寂しく深い山や険しい谷を眺めながら「官僚としての生活を送るなかで,若い頃の自分ではなくなってしまった」と嘆く,そんな詩を読みました。陶潜と謝霊運をあわせて「陶謝」ともいいます。

 南朝に移動した門閥貴族(高い家柄の貴族)たちの間には,自分たちにしかわからないような絶妙で繊細な文化を尊ぶことで,庶民との違いを見せつけようとする文化が発展しました。
 例えば,美しい文章の書き方として,四六駢儷体がもてはやされます。梁の時代の〈昭明太子〉(501~531)による『文選』(もんぜん)が有名です。

 また,『女史箴図』(じょししんず) 【追H29】 【立教文H28記】という女性のマナー書の挿絵を書いた〈顧愷之〉(こがいし,344?~405?) 【本試験H15王羲之とのひっかけ,本試験H22顧炎武とのひっかけ】や「蘭亭序」(らんていじょ)【追H29】で有名な〈王羲之〉(おうぎし,307?~365?) 【本試験H15「女史箴図」の作者ではない,本試験H17唐代ではない,本試験H22】【追H27仏典の翻訳・布教をしていない、H29リード文】【早・政経H31蘭亭序の作者か問う】が,それぞれ絵と書をきわめます。彼の子〈王献之〉(344~388)も書画で有名です。

●朝鮮
 朝鮮半島西南部の馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,6世紀には百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【追H9朱子学と書院は栄えていない】【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】として統一が進みます。

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倭(日本)のヤマト政権は,彼らの持っていた高い技術力や先進的な文化を歓迎し,渡来人(とらいじん)として受け入れました。こうして日本にも漢字や仏教・儒教律令制度【本試験H18】が伝えられることになったのです。

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 541年と544年には百済が主導し,倭も参加する形で加耶の復興会議が開かれましたが,562年に加耶地域は新羅支配下となりました。これをもって朝鮮半島高句麗新羅百済三国時代【本試験H31 高句麗新羅百済が並び立ったか問う】【追H19時期】となります。


●東南アジア
中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えています。5~6世紀頃から,サンスクリット語の碑文が見つかるようになり,中国側の史料によるとインド風の宮廷・ヒンドゥー教の僧侶などの特徴を備えるようになっていたようです。研究者はこのことを,東南アジアの「インド化」といいます。

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 メコン川下流域の扶南は,6世紀前半で中国に朝貢使節を覇権しなくなりました。マラッカ海峡を通るルートが東西ルートのメインになり,シュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】などの勢力に圧倒されたためと見られます。

 中国の東晋時代に,長安から西域を経由して陸路【本試験H12「西域経由」か問う】でインドのグプタ朝に渡った僧〈法顕〉(ほっけん,337~422) 【本試験H12】は,「海の道」【本試験H12帰路は海路か問う】を通って中国に帰ってきます。

イラワジ川流域では,ピュー人の国が栄えていたことが,中国の史料から明らかになっています(朱江と呼ばれていました)。6世紀後半~7世紀初めには,東のチャオプラヤー川にまで勢力を広げ,クメール人【本試験H5チャム人ではない,ヴェトナム中部ではない】のカンボジア(中国名は真臘【本試験H5,本試験H11:時期を問う(6~15世紀かどうか)・地域を問う(マレーシアではない)】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】)と争っていたといいます。

 


●南アジア
 5世紀に入ると中央ユーラシアの遊牧民エフタル(フーナ)が,グプタ朝【本試験H29ムガル帝国ではない】に進入するようになりました。
 5世紀末の進入により,グプタ朝はインド西部を失い,同じ頃から諸侯や地方長官の独立が始まりました。
 こうして,6世紀半ばまでにはグプタ朝は多くの領土を失い(注),7世紀【共通一次 平1:当時(7世紀)のインドでサンスクリット語が使用されていたか問う(パスパ文字,アラム文字,インダス文字ではない)】後半に残存勢力が盛り返したものの,8世紀に入ると消滅しました。
 グプタ朝亡き後,西インドにはマイトラカ朝,北インドにはマウカリ朝,プシュヤブーティ朝,東インドにはベンガルなどが並び立ちました。
 このうち,プシュヤブーティ朝から,7世紀初めに〈ハルシャ〉【本試験H20・H27】が出て,ヴァルダナ朝【本試験H20玄奘が訪問したか問う,本試験H19時期(アンコール=ワット建設と同時期ではない)】【追H24】を開き,北インド【本試験H27,H30南インドではない】【追H24南インドではない】を統一することになります。

 

西アジア
 そんな中、〈テオドシウス2世〉(位408~450)の呼びかけで431年に現在のトルコ共和国の西部にあるエフェソスでエフェソス公会議が開かれ,イエスには神の部分と人の部分があるが,それらは完全に別物として存在しているとするネストリウス派が異端とされます。「マリア」の扱いについては,異端のネストリウス派が,マリア=人としてのイエスの母という立場をとったのに対して,“マリア=「神の母」”説が正統とされました。のちにイラン高原のササン(サーサーン)朝を通過し,唐代【本試験H29漢代ではない】の中国で景(けい)教(きょう)【京都H20[2]】【本試験H21拝火教ではない】【追H19、H30】として大流行します。
 なお,エフェソスは歴史の長い都市で,ヘレニズム時代やローマ時代の遺跡(図書館やローマ劇場,アルテミス神殿)が残されています。5世紀からは,ここで余生を送ったとされる聖母マリアの家が巡礼地の一つとなっていました(◆世界文化遺産「エフェソス」,2015)。


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 沙漠が大部分を占めることから,周辺の国家による支配は難しく,オアシスの周りで農業をおこなったり,遊牧をしたりする集団がいくつもの共同体を形成していました。商業を行う集団も少なくなり,地中海沿岸のシリア方面と,紅海やインド洋を結ぶ中継貿易で栄えた部族もいました。沙漠という過酷な環境下で,アラブ系遊牧民(ベドウィン)の諸部族は多神教を中心とする宗教によって連帯し,共存するとともに争い合っていました。のちにイスラーム教の聖地となるメッカでは,泉(ザムザムの泉)やカーバ神殿【追H20ヒンドゥー教との信仰の中心ではない】【セA H30メッカで「カーバ神殿が造られた」か問う】が遊牧民の信仰を集め,5世紀中頃には遊牧民クライシュ族支配下に置きました。
 アラビア半島にはユダヤ人やキリスト教徒も分布していました。

 5世紀後半には,中央ユーラシアから遊牧民エフタル【本試験H8グプタ朝ではない】が進出し,ササン(サーサーン)朝【本試験H8ソグド人ではない】は危機的状況となりました。しかし,〈ホスロー1世〉(位531~579) 【本試験H5ヒッタイトの王ではない】が,モンゴル高原のトルコ系遊牧民突厥(とっけつ,とっくつ) 【本試験H8】と同盟して挟み撃ちにしました。


●アフリカ
 北アフリカ西部には、インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ヴァンダル人【東京H23[3],H30[3]】【H27名古屋[2]】がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島方面からアフリカ大陸に進出し,現在のチュニジアにあるカルタゴを占領して429年にヴァンダル王国立命館H30記】を樹立しました。カルタゴから穀物を輸入していたローマ市民は打撃を受けました(注)。
 しかしヴァンダル王国【追H28滅亡された時期を問う。~379年~479年~642年~のいずれの時期か】は〈ユスティニアヌス〉帝の治世のビザンツ王国に滅ぼされ,647年までその支配下に置かれます。


●ヨーロッパ
 その後〈アラリック〉は死去し、弟の〈アタウルフ〉が率いて西に移動したゴート人(西ゴート人)は、412年にガリアに入ります。〈アタウルフ〉は西ローマと友好関係を保ちますが、その後西ローマの総司令官の圧迫を受け本拠をスペインに移動。〈アタウルフ〉は殺害されますが、次の〈ウァリア〉のときにヴァンダル人を攻撃する代わりに食糧援助を約束され、ゴート人がガリア南西部(アキテーヌ)に定住することを認めました。
 この西ゴート王国【H30地域を問う】の建国年は415年で、承認されたのは418年です

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東ゴート王国バルカン半島ドナウ川以北に進出しましたが,488年に〈テオドリック〉(位474~526)がイタリアに進出し,のち493年にイタリア北部で東ゴート王国(493~555)を再建します【追H24成立時期が13世紀か問う】。

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アヴァール
 また,騎馬遊牧民アヴァール人【本試験H21 カール大帝に撃退された世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】が黒海北岸から493年にバルカン半島に移動し,ドナウ下流域からハンガリー盆地にも進出してアヴァール=カガン(可汗)国を建国しました。可汗の称号を使用したことから,モンゴル高原を中心とする騎馬遊牧民柔然(じゅうぜん)(⇒柔然:400~600中央ユーラシア)の一派ではないかともいわれます。アヴァール東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス1世〉(位527~565)に対して558年に使節を派遣し同盟を結びましたが,ササン朝とも組んでビザンツ帝国を圧迫し続けました。しかし,のち内紛で衰退していきます。

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 しかしイベリア半島に移動したゴート人(西ゴート人)が415年に西ゴート王国を建国すると、押し出される形となったヴァンダル人はジブラルタル海峡を越え,〈ガイセリック〉王(389?~477)のもと,北アフリカ【本試験H14】のカルタゴ近くにヴァンダル王国を建設します。
 これによりローマ市民の生命線である穀物の供給がストップ。ローマはますます衰退していきます。
 ヴァンダル人にカルタゴ(ヒッポ)が包囲される中,神学者アウグスティヌス〉(354~430) 【本試験H3】【追H9,追H21、H25】 は息を引き取りました。のちにローマ教会が「正しい」(正統)とする説を生み出した神学者ということで,「(ラテン)教父」(きょうふ)とも呼ばれます。主著は『神の国』【本試験H3】【追H9,追H21、H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)】で,青年時代にマニ教を信仰していたことを『告白』に綴(つづ)っています。

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 〈イシドールス〉は当時非常に大きな影響力を持っていた人物で,古代ギリシアの思想を学びTOマップ【追H24,H27リード文】(世界の中心はイェルサレム,その周りにある3大陸は,3つの河川・海洋で区切られ,いちばん周りは大きな海が取り囲んでいるという世界観)として知られる世界地図を作成し,『ゴート人・ヴァンダル人・スエヴィ人の歴史』という民族移動から625年までの年代記も残しています(彼のもたらした学芸の発達を「イシドールス=ルネサンス」ということもあります)。

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そんな中、東ローマに推戴された皇帝が、軍の総司令官の抵抗を受けて逃亡。この総司令官はフン人の〈アッティラ〉の元部下だったのです。総司令官は自分の子を皇帝に即位させると、外部の部族の傭兵団の司令官〈オドアケル〉(433~493)【追H25アッティラとのひっかけ】が反乱を起こし、この皇帝を殺害。次の皇帝となっていたその息子(〈ロムルス=アウグストゥルス〉(位475~476))を廃位し、年金をわたして追放しました(注3)。
 〈オドアケル〉は皇帝位を東ローマに返上し、イタリアに皇帝を送り込む必要はないと通告。
 これが世に言う「西ローマ帝国」の滅亡【追H25】です。


●ヨーロッパ
ブルグンド人
 ブルグンド人【本試験H14】は5世紀初めにガリアに進出し、ローマ皇帝から「同盟部族」として認められます。その後、定住することになったのはガリア【本試験H14北イタリアではない】の南部でした。ガリア南部でブルグント王国を建国したのは443年のことです。だいたい今のフランスのリヨンあたりの地域です。

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フランク人
 一方、フランク人はガリアの北部【本試験H8黒海北岸から西進したわけではない】【本試験H14イベリア半島ではない】にフランク王国を建国しました。ただし○○人といってもこれらは統一的なエスニック・グループではなく、さまざまな小集団からなる混成部族にすぎず、彼らだけでなく呼んでいたローマ人もそのような認識でした(注1)。
 皇帝〈ユリアヌス〉帝のときに帝国内への定住がゆるされ、ローマ軍の有力指導者にも抜擢されるようになっていたのは、小部族のひとつ「サリ=フランク人」でした。
 サリ=フランク人の〈クローヴィス〉(位481頃(注2)~511) 【セ試行】【本試験H7】【本試験H19時期,H29共通テスト試行 ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠は受けていない,H30】【H29共通テスト試行 レコンキスタとは無関係】は、ローマ帝国の役人でもあった父から位を継いで強大化しました。
 
 〈クローヴィス〉は西ゴート王国の上手(うわて)をねらい,支配下に置いていたローマ人(ラテン人【東京H6[3]】) 【本試験H7】との同盟関係を強化するため,ローマ教会が正統な教義と認めていたアタナシウス 〔ニカイア〕 派に496年に改宗【本試験H7アリウス派ではない】【本試験H19時期,本試験H23ネストリウス派ではない,H29共通テスト試行 王妃に改宗を拒否されていない他(史料読解),図版(クローヴィスの洗礼を描いた図を選ぶ)】し,フランク人の支配層も集団改宗しました。

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 6世紀になると,ローマの南東の山地モンテ=カッシーノ【追H17時期(6世紀か問う(正しい))、H19,H30】で〈ベネディクトゥス〉【追H30グレゴリウス1世ではない】【慶文H30記】により修道院が開かれます。イエスの時代の生活をモデルとし,自給自足を基本とする信仰生活をおくるための団体です。モットーは「祈り,かつ働け」。

 教皇〈グレゴリウス1世〉(位590~604) 【追H30モンテ=カッシーノを創立していない】も,〈イエス〉などの聖画像(イコン)や聖歌(現在にも伝わるグレゴリオ聖歌の発案者です)を効果的に用いて,文字を読むことができない西ゴート人やアングロ=サクソン人への布教を成功させていきます。

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 4世紀末以降のローマ帝国は,〈テオドシウス〉大帝を最後に1人で全土を統一できた者はついに現れず,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制が固定化されていました。このことを後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂と呼んでいます【H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】。その後,ローマの東半の正帝は,唯一のローマ皇帝として西半の奪回に努めるようになっていくのです。

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皇帝位をめぐる争いに外部の部族の傭兵団の隊長〈オドアケル〉(433~493) 【セ試行 フン族の王アッティラではない】【本試験H29】が介入し,西ローマの正帝となっていた幼少の〈ロムルス=アウグストゥルス〉(475~476)【本試験H29フランク国王ではない】を退位させ,西ローマ帝国を滅ぼしました。すでに皇帝には権力がほとんどない状態であったわけですが、この事件を後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶわけです。

その手柄が認められた〈テオドリック〉大王(位471~526) 【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない、オドアケルとのひっかけ】は,北東イタリア【本試験H14シチリアではない】のラヴェンナを都として東ゴート王国を建国することが許され,「イタリア王」(位493~526)を称します。この「イタリア王」という称号は,その後もローマの西方領土の支配者によって伝統的に使用されていくことになります。
 ラヴェンナは,ポー川の河口近くに位置する豊かな土地であり,東ゴート王国はローマ文化を受け入れながら発展していきました。ビザンツ様式【本試験H10】のサン=ヴィターレ大聖堂【本試験H10,ピサ大聖堂,サンタ=マリア大聖堂,サン=ピエトロ大聖堂とのひっかけ】【追H25ビザンツ様式か問う】がラヴェンナに建設されるのもこの頃です。

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 しかし,東ゴート王国ヴァンダル王国【本試験H30】【H30共通テスト試行 ヴァンダル王国東ローマ帝国接触した可能性があるか問う】は,かつてのローマ帝国の広大な領土の“回復”をねらう東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス帝〉によって滅ぼされることになります。

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東ローマ帝国はつかの間イタリア半島を支配しますが,そこへ進出していった民族がランゴバルド人【本試験H6】です。
 イタリア半島に進出したランゴバルド人は推定30万人。
 568年に東ゴート王国を倒しイタリア半島の付け根,北東部をミラノの南方のパヴィーアを都にランゴバルド王国【本試験H27】を建てます。

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 395年のいわゆる「ローマ帝国の東西分裂」後、476年以降西ローマ帝国の皇帝が立たなくなると、東側のローマはローマを中心とする世界秩序の中心に躍り出るようになります。
 都市コンスタンティノープルは、もともと前660年頃にギリシア植民市のビザンティオン【東京H14[3]位置を問う】〔ビュザンティオン〕としてに整備されたものです。

東ローマの皇帝は、当初はかつてのローマ帝国の西半の領域やキリスト教会に対する支配を目指しましたが,住民の多くはギリシア語を話していましたし,6世紀前半の『ローマ法大全』【本試験H17オクタウィアヌスは編纂していない,本試験H25】【本試験H8西ローマ帝国ではない】もギリシア語で発布されました。7世紀以降はギリシア語【東京H10[3]】が公用語となり【本試験H13時期(「東西教会が最終的に分離した後」ではない),本試験H15・H27ともにラテン語ではない】,正教会を保護して発展していきました。コンスタンティノープルは,第四回十字軍【追H19】のときにヴェネツィア共和国【本試験H12フィレンツェではない】に占領されたこともありましたが,1453年にオスマン帝国に攻撃されるまで,帝国の重要な拠点として名を馳せました。

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コンスタンティノープルを無敵の都とした防壁は〈テオドシウス2世〉(位408~450)により建設されました。彼はテオドシウス法典の編纂を始めさせ,エフェソス公会議【本試験H25ニケア(ニカイア)公会議,コンスタンツ公会議,トリエント公会議ではない】を招集してネストリウス派を異端【本試験H19ワッハーブ派のひっかけ】【本試験H25】としました。

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 527年に即位した〈ユスティニアヌス大帝〉(位527~565) 【本試験H21西ローマ皇帝ではない】【追H19】は,ローマ帝国を復活させようとして,増税をしたために,国民の反乱を招き,532年には「ニカ!(勝利を!)」と叫びながら暴動を起こす事態(ニカの乱)となったのですが,この時,サーカスの踊り子出身の皇后〈テオドラ〉(位527~548)が威勢よく励ましたお陰で,ユスティニアヌスは鎮圧に成功したと伝えられます。
 このころ,旧・西ローマ帝国の領内にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の国家が多数建てられていたのですが,東ローマはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入の被害が少なく,地中海や黒海バルト海,またはさらに東の内陸ユーラシアやインド洋を結ぶ交易の中心地として経済が栄え,ノミスマ【早政H30】という金貨が発行されました。ラテン語ではソリドゥス硬貨と呼ばれ,ドルマーク($)の由来となっています。
 ユスティニアヌスはその後,534年に北アフリカヴァンダル王国【本試験H21】【法政法H28記】,555年にイタリア半島東ゴート王国を次々と滅ぼします【本試験H21イタリア半島の領土を失っていない】。戦闘で活躍したのは名将〈ベリサリウス〉(500?565?~565)です。
 554年には西ゴート王国にも遠征しています。こうして,かつてのローマ帝国の最大版図に近い範囲に領土を広げることに成功しました。また彼はコンスタンティノープルに,ビザンツ様式のハギア=ソフィア大聖堂【京都H20[2]】【本試験H13レオン3世の命ではない,本試験H19ウィーンではない,H21】【追H27ユスティニアヌス帝が建てたか問う、H29ユリアヌス帝による建立ではない】を再建(537年竣工(注))しています。
 〈ユスティニアヌス〉西方に領土を拡大しようとしている間,531年に即位したササン(サーサーン)朝【本試験H13コンスタンティノープルを占領したことはない】の最盛期の王〈ホスロー1世〉(位531~579)【本試験H30】も西方に進出。両者は戦争の結果,〈ホスロー1世〉がアンティオキアで東ローマ帝国に勝利しメソポタミアを死守しています。

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 また,法学者〈トリボニアヌス〉に,従来のローマ法の集大成をつくるよう命じ,『ローマ法大全』【本試験H21・H30】が編纂され,534年に皇帝はこれをギリシア語で発布しました。特に,元首政(プリンキパトゥス) 時代の学説がまとめられた『学説彙纂(ディゲスタ)』が重要で,法律のはじめに「総則」を置き,そのあとで具体的にしていくスタイルは,現在の日本の民法を含む各国の法律に影響を与えています。
 経済的には,中国の独占していた養蚕(ようさん)技術【東京H26[3]】が伝わり,絹織物産業が盛んになりました【本試験H27】。

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 さらにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の進出がはじまると,ブリトン人【東京H6[3]またはケルト人】の地という意味の「ブリタニア」という呼称は,しだいに大陸からインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の移住が進むと,「アングロの地」という意味である「イングランド」へと変わっていきました。

 中世の騎士道物語や年代記(『カンブリア年代記』『ブリトン人の歴史』など)にみられる「アーサー王」伝説は,アングロ=サクソン人と戦ったブリトン人の伝説的な指導者をモチーフにしていると考えられています(俗にいうように大陸の「ケルト文化」との関連はないといわれています)。アングロ=サクソン人【本試験H14】は,今後 600年頃から9世紀までに7つの王国(七王国ヘプターキー) 【本試験H14・H30】を建国していくことになります。

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●600年~800年の世界

●中央ユーラシア
 580年頃,突厥【大阪H30史料:629年当時の中央アジアの遊牧地帯の国家を問う。西突厥が適当か】はアルタイ山脈あたりで東西に分離し,630年には東突厥は唐の支配下に入ります。
 唐は遊牧民の支配層を破壊せず,温存させたまま支配する「羈縻支配(きびしはい,羈縻政策)」【本試験H20王朝を問う、H24日本の植民地朝鮮での武断政治とのひっかけ】【追H18】をとりました【大阪H30論述:どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し,または外交関係をむすんで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に】。遊牧民の側も唐の〈太宗〉(位626~49)を「天可汗」(テュルク語でテングリカガン)と呼び,「可汗」の支配として統治を受けました。


 鉄勒(てつろく)の部族のなかに,「トグズ=オグズ」という部族がおり,そのうちの一つがウイグル(回鶻(かいこつ)) 【追H18】と呼ばれていました。


 唐に保護されていた商業民族ソグド人の本拠地(アム川とシル川に囲まれたソグディアナ地方)が,イスラーム軍による進入を受けていた影響も少なくありません(751年にはタラス河畔の戦いで唐【本試験H14ウイグルではない】【追H19,H20・H30隋のときではない】がアッバース朝【本試験H14ウマイヤ朝ではない】に敗北しています)。

 


 ウイグルは,モンゴル高原のオルホン川流域に宮殿を築き,オルドゥ=バリクなどと呼ばれる都市を建設しました。遊牧民がこれだけの大都市を草原地帯につくり,上層部が定住するようになるというのは,珍しいことです。また,突厥文字の影響を受けたウイグル文字【本試験H15遊牧民最古の文字ではない】を作成しました。

 

チベット高原を7世紀に統一したのは,〈ソンツェン=ガンポ〉(位629~649) 【本試験H4,本試験H7】【本試験H20】【追H30中国東北部ではない】【慶商A H30記】です。中国はこの王国を吐蕃(とばん;チベット帝国,7~9世紀中頃) 【京都H21[2]】【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)・地図上の位置を問う(タリム盆地ではない)】【Hセ3唐代に和蕃公主が嫁がされていない,Hセ7鮮卑ではない,本試験H9[14]ヴェトナム北部ではない,イスラム文化と中国文化は融合していない,フビライの攻撃で滅んでいない】【本試験H17成立の時期】【セA H30】と呼びました。インドの文字からチベット文字【本試験H9】【本試験H17】をつくり,インドから伝わった密教(みっきょう)と,チベット民間信仰(ボン教)が合わさった神秘的なチベット仏教(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)を吐蕃(とばん;チベット帝国)の国教として採用しました。

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アヴァール
 中央ユーラシア西部では,モンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされるアヴァール人【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】が,ビザンツ帝国の〈ユスティニアヌス1世(大帝)〉(位527~565)のときにカフカス山脈の北に現れ,黒海を通ってドナウ川中流域のパンノニア(ハンガリー平原)に進入しました。のちに,バルカン半島に進入します。623~24年にはコンスタンティノープルを包囲しますが,ビザンツ帝国の〈ヘラクレイオス1世〉(位610~641)が撃退しました。その後,8世紀末~9世紀初めにフランク王国カール大帝〉【追H25】により撃退され,その後の消息はわかりません。アヴァール人は柔然(じゅうぜん)と関係があるのではないかという説には確証はありません。

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ブルガール人の一派は,ドナウ川方面に移動し,680年にビザンツ帝国を打倒して,スラヴ人の農牧民を支配しました。しかし,やがてスラヴ人と同化し,864年にはキリスト教を国教としました【追H29北イタリアで王国を建てていない(それは東ゴート人やランゴバルド人)】。

 

●東アジア

●東北地方
中国東北部黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 西方からの騎馬遊牧民の東突厥(ひがしとっけつ)による圧迫を受ける中で,特に女真(女直,ジュルチン)人【追H27】が台頭していきます。

 ツングース語族系の高句麗(紀元前後~668)は668年に唐と新羅の攻撃により滅び,その遺民【追H28タングート族ではない】により渤(ぼっ)海(かい) 【追H28地図上の位置を問う(西夏とのひっかけ)】【京都H21[2]】(698~926)が建国された。北方の沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)にも拡大して女真を圧迫し,唐の制度を導入して台頭していきます。


●日本

 〈孝徳天皇〉にかわって即位した〈斉明天皇〉(さいめいてんのう,位655~661)は,朝鮮半島百済が唐と新羅【追H24「宋と金」ではない】の連合軍により滅ぼされる(百済の滅亡【追H24】)と百済の救援に向かい,663年の白村江(はくそんこう;はくすきのえ)の戦いで大敗しました。

人々には田租・庸【共通一次 平1:資産税ではなく人頭税】・調などの税や,雑徭(ぞうよう)・兵役(へいえき)などの労役が課されました【追H27時期を問う】。なかには都の警備である衛士(えじ)や,九州北部の防備のため防人(さきもり)として徴用されることもありました。人口の多くは良民(その多くが農民)でしたが,数%は官有または私有の賤民(せんみん)として扱われました。


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 8世紀以降,新羅との関係悪化にともない,遣唐使のルートは朝鮮半島沿岸部を航行する北路から,東シナ海を横断し明州(現在の寧波(ニンポー)【早政H30】)に到る危険な南路に移っていきました。


●中国

 581年に隋を建てたのは,北朝の軍人であった鮮卑系の〈楊堅〉(ようけん,在位581~604)でした【本試験H17軍機処は設置していない】。 前漢時代から都とされていた都市・長安は老朽化も進んでおり,その南東に新たな都城の大興城(だいこうじょう) 【追H27隋代ではない】を建設します。城とは中国語では壁で囲まれた「都市」のことです。これがそのまま次の唐代には長安城として利用されることになります。
諡(おくりな,死後与えられる名)は文帝です。589年に南朝最後の陳【本試験H17宋ではない】を滅ぼし,約300年ぶりに中国の領域が統一されました。


北朝の流れをくむ隋では,均田法(農民に国家が土地を与え耕作させる)・租調庸制(均田法で田畑を与えた農民から税を取る)・府兵制【追H25玄宗の時代ではない】(均田法で田畑を与えた農民から兵をとる)といった制度が受け継がれました。


(1)均田法
 まず,均田法は北魏によって創始されました。(参考魏・蜀・呉→西晋五胡十六国北魏)。北魏では穀物を栽培させる一代限りの土地(露田(ろでん)),蚕(カイコという絹の原料がとれる蛾)のエサとなる桑(くわ)を栽培させる世襲の土地(桑田(そうでん)),繊維のとれる麻(あさ)を栽培させる一代限りの土地(麻田(までん))が支給されました。奴婢(ぬひ)や耕牛(こうぎゅう)や妻にも支給されたため,奴婢や耕牛,妻をたくさん持っていれば持っているほど土地の支給があるということになり,大土地所有者(豪族)に都合のいい制度のようにも見えます。しかし,実際には北魏は三長制【本試験H15宗族とは関係ない】【中央文H27記】によって豪族支配下にあった奴婢に戸籍を与えていき,土地を与えることで,国家の管理下に置こうとしたのです。
 隋の時代には奴婢・耕牛への支給がなくなり,唐の時代には妻への支給もなくなります。

(2)租調庸制
 租調庸制は,魏の屯田制を受け継いだ,西晋の占田・課田法(詳しい実施内容は不明)に由来しています。

(3)府兵制
 府兵制は,西魏の府兵制が元になっています。(参考北魏東魏西魏北斉北周)

(4)科挙
 さらに,魏【本試験H11呉ではない】のはじめた九品中正(九品官人法) 【本試験H3武帝の始めた制度ではない,本試験H11】【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】【追H29】の制度は,地方に中正官を派遣し,人材の将来性を見込んで9段階にランク付けし,中央に報告するものでした。しかし,だんだんと中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れるようになり,意味のないものになっていました。
 そこで,隋【追H29元ではない】は九品中正に代えて,科挙(当初は「選挙」と呼ばれた) 【本試験H11】【本試験H18殿試は実施していない】【名古屋H31実施目的も問う(記述)】を実施し,ペーパー試験によって儒学の素養をためすことにより有能な人材をとろうとしました。統一試験によって,地方分権的なしくみを中央集権的なしくみに変えようとしたのです。科挙では詩を作る能力や文を書く能力が重んじられました。詩をつくらせれば韻(いん)を踏んでいるかどうかで,漢字を正しく読めているかがわかりますし,内容が五経(ごきょう)などの古典に基づいた文を書かせれば,それを正確に覚えているかがわかります。広大な領土を支配する官僚にとって,話し言葉は違えど共通の文字である漢字による文書管理能力が,何よりも求められたのです。


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 〈文帝〉の子は,〈煬帝〉(ようだい(楊広(ようこう)) 【追H24高句麗に遠征し攻撃したか問う】,在位604~618) 【セA H30漢の建国者ではない】です。彼は各地で掘削されていた運河を連結し大運河(だいうんが)【追H26漢代ではない】【本試験H9,本試験H12始皇帝による政策ではない】【本試験H19明代ではない,H29地図が問われる,H29共通テスト試行 時期は唐末五代(755~960)ではない】を整備し,江南【追H26】と華北【追H26】を結合させました。大運河の建設は,この時期に物流の流れが“東西”から“南北”に移動していったことが背景にあります。つまり,季節風交易の確立にともなって,ユーラシア大陸全体の物流の流れが,陸上輸送から海上輸送に変化していったわけです。中国南部の港町に効率的にアクセスするために,中国を南北に貫く大運河が求められたのです。
 また,長江下流の江南(こうなん)は,呉【追H25】が都を建業に置いて以来,東晋~陳の建康を通して開発がすすみ,経済の一大中心地へと重要性が増していたのです。彼は長江下流の江都(現在の揚州)に,大規模な龍舟(りゅうしゅう)という船にのって視察し,力を見せつけたといわれます(◆世界文化遺産「京杭大運河」,2014)。

 〈煬帝〉は対外的には,南はヴェトナム南部のチャンパー(林邑) 【東京H30[3]】【共通一次 平1】,西は西域への入り口周辺を支配していたチベット系の吐谷渾(とよくこん)に遠征し,北は東突厥の可汗に大して大規模な訪問をするなど,軍事力と派手な儀式で周辺民族のいうことをきかせようとしました。また,倭は彼のもとに遣隋使を派遣しています。
  しかし,大運河(永済渠(えいさいきょ)【H27京都[2]問題文】)を現在の北京(?(たく)郡(ぐん)【H27京都[2]問題文】)に向けて開削しつつ3度にわたって実施した高句麗遠征【本試験H17】【本試験H7百済ではない】【追H24】【H27京都[2]】(612,613,614)は大失敗に終わり,それをきっかけに反乱が起きました。反乱には〈煬帝〉の側近の一族や将軍らも加わり、各地で火の手が上がります。また北方の突厥南匈奴の勢力も迫っていました。


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 〈李淵〉はもともと孫に跡を継いでいましたが,その孫から禅譲される形で,〈李淵〉は618年に唐を建国【本試験H17軍機処は設置していない】。煬帝に対して「煬」(“天に逆らい,民を虐げる”という意味)という字を付けた諡号(しごう,おくりな)を贈ったのは,勝者である〈李淵〉です。〈李淵〉も隋と同じく鮮卑系のルーツを持っており,皇帝支配に正統性を持たせるため,漢人の王朝としての意識を強めていきます。

 唐の都は隋の大興城をほぼそのまま引き継ぎ,長安【追H25鎬京ではない,H27大運河と黄河の接点ではない】【本試験H22地図】に置かれました。東西(左右)【本試験H16南北対称ではない】対称に碁盤の目状に街路が配置され【本試験H22】、その構造は周辺諸国に模倣されました【追H25】。周辺諸国からさまざまな民族の商人・留学生・芸人【本試験H6】が訪れる国際的な都市でした。

 長安には多数の仏教寺院【本試験H16】のほかに,エフェソス公会議(431年) 【京都H20[2]】【本試験H25】で異端となったネストリウス派キリスト教(景(けい)教(きょう)と呼ばれました【本試験H5ヒッタイトの宗教ではない】【本試験H21拝火教ではない,本試験H30】)や,イランの民族宗教であるゾロアスター教(?教(けんきょう,拝火教【本試験H14】【追H29中国からイランにつたわったのではない】)と呼ばれました),さらに,その異端であるマニ教(摩尼教) 【本試験H12中国に影響が及んだか問う】【追H30】の寺院も立ち並んでいました。
 651年にイラン高原のササン(サーサーン)朝が滅亡すると,イラン人が難民となって唐に移住し,ゾロアスター教【追H29中国から伝わったのではない】を始めとするイランの宗教・文化や,保護されていたネストリウス派が中国に流れ込むとともに,政治家としての手腕を発揮する者も現れました。なお,この時期に流行した,馬にのってボールを打つ「ポロ」(ポロシャツはポロの競技のときに着る服がもと) 【追H28これが都で流行したのは明(みん)代のことではない】もイラン【追H28】由来です。こうした西方の人々は「胡人」【本試験H6】と呼ばれ,その風俗が流行しました。

 イラン系の言語を話すソグド人【本試験H4】【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】が,シルクロード各地に拠点をつくり,遠く長安まで商業活動を展開していたことも重要です。
 彼らは当初はゾロアスター教を信仰し,のちマニ教に改宗する者が増えました。ソグド人は子どもの手にニカワ(動物由来の接着剤)を握らせ(お金がくっつくように),甘い言葉が出るように氷砂糖をなめさせたという言い伝えが,『旧唐書』(くとうじょ)にあります。のちに唐に対して安史の乱【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】を起こす〈安禄山〉(あんろくさん) 【本試験H7】は,父がソグド人の有力者で,母は突厥でした。
 ほかにも,イスラーム商人【本試験H4】も多数往来し,東西交易に従事しています。

 唐の時代には唐三彩(とうさんさい)【本試験H24彩陶,染付,黒陶ではない】という陶器がさかんに作られましたが,ソグド人がラクダの上に乗っているデザインが有名です。


食生活の面では、都市でうどんなどの粉食が普及し、農業用の灌漑用水を動力とする大規模な石臼を用いた製粉事業(碾磑(てんがい))がさかんとなり、王族・大寺院・富裕な商人が担い手となりました【追H26リード文、唐代に華北で小麦栽培がさかんになったか問う(正しいが難問)】。

 さて,7世紀前半といえば,610年にアラビア半島イスラーム教が生まれます。イスラーム教は商業活動を肯定し,多くのムスリム商人が中国にも海路でなだれこみます。とくに長江よりも南にある,揚州(ようしゅう。長江の下流)や広州(こうしゅう。中国の南部。長江の下流,大運河の南端に位置する杭州【東京H8[3]】という,日本語だと同じ読みの都市もあるので注意)のような港町には,アラブ人の居住地(蕃坊(ばんぼう))が設置されるほどでした。ちなみにモスクのことを清真寺(せいしんじ)といいます。


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二代目の〈太宗〉(李世民,在位626~649) 【追H27李成桂ではない】【本試験H4】は,626年に玄(げん)武門(ぶもん)の変というクーデタで兄を殺害,一代目の〈李淵〉(高祖)を閉じ込めてに皇帝に即位した人物。やってることは隋の〈煬帝〉とたいして変わらないですね。しかし,〈太宗〉の治世は,後世の歴史家が「いい時代だった」と絶賛する時代で,『貞観政要』(彼の言行録)によれば,「貞観の治(じょうがんのち)」【本試験H4太宗の治世か問う】【本試験H21開元の治ではない・時期】とうたわれます。逆にいえば,即位時の埋め合わせを“良い情報”を後世に残すことで穴埋めしようとしたようにもみえます。


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いまだ周辺諸国が不安定だったこの時期に,出国の禁止を破って「本当の経典を手に入れる!」という野望のもと,629年にインドに旅立ったのがのちに“三蔵法師”として知られる〈玄奘〉(げんじょう) 【セA H30】です。彼は「上に飛鳥(ひちょう)なく,下に走獣(そうじゅう)なし」と言われた過酷なゴビ沙漠を通り,天山山脈を超える際には10人のうち3~4人を凍死で失ったものの,なんとかアフガニスタンを回ってインドに入ることができました。
 インド【セA H30ビルマではない】のヴァルダナ朝では〈ハルシャ=ヴァルダナ王〉(位606~647) 【東京H8[3]】に謁見し,ナーランダ大学(僧院。ナーランダとは“蓮のある所”という意味) 【本試験H17墨家とのひっかけ】【追H20ジャワにはない,H25教義研究が行われたか,H30仏教が研究されたか問う】でも学びました。彼の学んだ「唯識」(ゆいしき)という仏教思想は,日本にも伝わり,奈良の薬師寺が継承しつづけています。彼の旅行記大唐西域記』【本試験H12義浄の著書ではない】【大阪H30史料】(だいとうさいいきき)は,かつて仏教が栄えたアフガニスタンバーミヤンを含む当時の様子が生き生きと描かれた,一級の史料です。

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三代目の〈高宗〉(こうそう,在位649~683) 【本試験H17徽宗とのひっかけ】は,積極的な対外進出により最大領土を獲得した皇帝です。


 朝鮮半島で唐【京都H21[2]】は,新羅【京都H21[2]】の〈武烈王〉と同盟して,663年に百済【本試験H21滅亡時期】【本試験H7】,668年に高句麗【京都H21[2]】【本試験H17,本試験H21滅亡時期】を滅ぼしました。日本は,百済を救援するために663年に水軍を派遣しましたが,白村江(はくすきのえ,はくそんこう)の戦いで敗北してしまいます【本試験H20唐は敗れていない】【追H19時期】。唐は,新羅朝鮮半島で強い勢力を維持したことから,日本へのさらなる攻撃は行いませんでした。
 日本は,唐が再び襲ってこないように防衛拠点を築きつつ,天皇を中心に国内の集権化に集中するようになっていきました。唐の進出に備え,中国東北部新興国渤海【追H21中国が元の時代ではない】や新羅【本試験H7】は,日本に使節を派遣しています。

 唐は,征服した先に「都護府(とごふ)」【本試験H6理藩院ではない】【追H18】【京都H20[2]】を設け,その地の支配者にいわば中国の「官吏」として支配を任せる間接統治をとりました。これを羈縻(きび)政策といいます。羈は馬の手綱(たづな)・縻(牛の鼻につなぐ綱)を指し,家畜を縄でつないでおくという意味です)。
 〈高宗〉の時代にインド【本試験H21グプタ朝ではない】にわたった仏僧は,〈義浄〉(ぎじょう,635~713) 【本試験H3史料中の「帆を挙げて」というところから,陸路で向かった〈玄奘〉ではなく〈義浄〉であると判断する】です。
 彼がインドに入った時点で,すでにヴァルダナ朝は分裂していました。帰路はスマトラ島に寄って,シュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】のパレンバンという都市で大乗仏教上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】の理論を研究しています。行き帰りともに陸路だった〈玄奘〉と違って,〈義浄(ぎじょう)〉【本試験H27仏図澄ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】は行きも帰りも海路です。旅行の様子は,『南海寄帰内法伝』(なんかいききないほうでん) 【本試験H12『大唐西域記』ではない】【本試験H27】にまとめられています。
 彼ら渡印僧(といんそう。インドに渡った僧侶)の活躍によって,仏教の原典を主体的に中国人が訳し直したことで,だんだんと仏教に中国的な要素が入り込んでいくようになります。
 そうしてできていったのが,念仏を重んじる浄土宗(すでに東晋の〈慧遠〉(えおん,334~416)が白蓮社(びゃくれんしゃ)を開いていました)や,坐禅を通した瞑想(めいそう)を重んじる哲学的な禅宗【本試験H18中国に伝えられたわけではない,H21時代を問う】であり,ともに日本の仏教にも大きな影響を与えました。

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中央には中書・門下・尚書の三省(さんしょう)が置かれ【本試験H19前漢武帝の代ではない,時期(漢代ではない)】【追H21秦ではない】,それぞれ各2名の長官,合計6人が宰相に就任します(のち尚書省の長官は,特別に任命されたときのみになりました)。宰相にまで上り詰めることができるのは,ひと握りの門閥貴族です。彼らがいなければ,大多数の官僚を動かすことは難しいわけで,皇帝も彼らの意見を無視できなかったわけです。
 尚書省(しょうしょしょう)の下に吏・戸・礼・兵・刑・工(り・こ・れい・へい・けい・こう)の六部(りくぶ) 【本試験H31時期(漢代ではない)】 【追H21時期(秦代ではない)】が設けられました。科挙を実施するのは礼部でしたが,吏部(りぶ)は吏部試という二次試験において「誰を官僚にするか」を決める権力(人事権)を持っていたので,門閥貴族の根城になります。
 三省と六部はあわせて三省六部【追H27前漢のときではない】【本試験H4】と呼ばれます。

 なお,これらの活動を監察(チェック)するのが,御史台(ぎょしだい)の役目です。
 詔勅(しょうちょく)をつくるのは中書省【本試験H24清朝は設置していない】でしたが,門下省にはその案をボツにする権利(封駁(ふうばく)権)がありました。

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 もちろん官僚になるためには科挙に合格することが必要でした。科挙のために,〈孔頴達〉(くようだつ,こうえいたつ。574~648) 【本試験H7】【本試験H17,本試験H27】【追H19董仲舒とのひっかけ】らが『五経正義』(ごきょうせいぎ) 【本試験H7】【本試験H14韓愈らによる編纂ではない,本試験H17リード文,本試験H27仏国記ではない】【追H19】という五経の注釈書をつくりました。五経の解釈のスタンダードを示した【本試験H7】,いわば教科書です。また,試験科目に詩作があったことから,漢詩が流行します。

・“詩仙”(しせん)とよばれる〈李白〉(りはく,701~762) 【本試験H8則天武后の時代ではない】は一時〈玄宗〉につかえましたが,のちに皇子の側についたため反乱軍として流罪となりました。
・“詩聖”(しせい)とよばれる〈杜甫〉(とほ,712~770) 【本試験H8】【本試験H17孔頴達とのひっかけ】【セA H30】
・〈白居易〉(はくきょい(白楽天(はくらくてん)),772~846) 【本試験H3長恨歌の作者か問う】


 自然詩人としては〈王維〉(おうい,701?~761(注))【本試験H17南宋ではない】【慶文H30記】が有名で,水墨画にも優れ南宗画(なんしゅうが)(文人画) 【追H30秦代ではない】の祖とたたえられています。もいずれも唐が傾いていく時期にあたるのですが,いずれも暗い現実を,見事な芸術に高め,人々の共感を呼んだ人物です。
 また,古文を復興【本試験H17王朝,H31四六駢儷体ではない】した〈韓愈〉(かんゆ)【本試験H17王朝・H22,H31】や〈柳宗元〉(りゅうそうげん)【本試験H17王朝】【追H19】の文章も,人気を博しました。


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唐の支配下にあった人々は,土地の支給を受けることができる良民と,誰かの支配を受けている賤民(せんみん)に分けられていました。税の負担があるのは良民のみです。
 税の種類としては,穀物税(租),布の税(調),さらに庸【本試験H7明代ではない】という強制労働がありました(都で年に20日働き,故郷で年に40日働くことになっていました。地方での労働を雑徭(ぞうよう)といいます)。土地のうち,穀物(粟(ぞく))を植えた土地(口分田(くぶんでん) 【本試験H8】)は死んだら国に返還することになっています【本試験H8世襲はされない】。しかし,麻畑・桑畑は永業田(えいぎょうでん)といい,息子に世襲できました。ほかにも,府兵制によって徴兵を受けたり,国境地帯の警備(それぞれ衛士(えじ)と防人(ぼうじん))の任務を義務付けられたりしていましたが,兵役のある者は租調庸は免除です。それでも,大切な人手を兵役にとられてしまうのは,痛手です。

 だったら,貴族の私有地(荘園)で小作人(佃戸(でんこ) 【本試験H8宋代かどうか問う】【追H19両班ではない】)になったほうがいいと,逃げ出す者も出てくる。それに,国にもらわずに,自分で土地を開墾して新興地主(形勢戸(けいせいこ) 【本試験H8時期(11世紀には「新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていた」か問う)】)となる者もいました。この動きは宋代にかけて,特に生産力の上がった長江流域の江南(こうなん)で見られるようになっていきます。
周辺諸国は,中国と対抗関係や協力関係を結びつつ,程度の差はあるものの,中国の文化的な要素をしだいに受け入れていくことになりました。例えば,文字としての漢字,宗教としての仏教・道教,国家の制度としての儒教律令制度(刑法の律【本試験H4】,行政法の令【本試験H4】,追加規定の格【本試験H4】,施行細則の式【本試験H4】)のことです。この時期に成立した,唐を中心とする中国の文化を通した結びつきを共有する地域のまとまりのことを,東アジア文化圏といったりします。


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モンゴル高原【本試験H4西アジアではない】では,テュルク系の突厥(552~744年) 【本試験H4】が隋~唐中期までさかんでした。オルホン碑文とまとめて呼ばれる石碑群には,遊牧騎馬民族の使用したものとしては最古【共通一次 平1】の文字 突厥文字【共通一次 平1:鮮卑文字,ウイグル文字ではない。匈奴文字はない】【本試験H15内陸ユーラシアの遊牧騎馬民族としては最古の文字かを問う(ウイグル文字ではない)】が残されています。アラム文字が起源と考えられてきましたが,文字系統は不明です。

 突厥は6世紀末に東西に分裂してすいた衰退し,同じくトルコ系のウイグル(回?,744~840年) 【本試験H4西トルキスタンに国家を建てていない・中国を征服していない】【京都H20[2]】の支配下に入ります。ウイグル【本試験H20烏孫ではない】は840年にキルギス(キルギズ) 【京都H19[2]】【本試験H14・H24】に敗れて西に移動し,タリム盆地を拠点としました。
 ウイグルは,安史の乱【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】に介入したときにマニ教【本試験H9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】を信仰するようになりましたが,その後イスラーム教→仏教→イスラーム教と,何度も信仰を変えつついまに至ります。現在でも中国北西部で自治が認められていて人口は1,000万人以上もいます(スウェーデンよりも多い)。

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このように7~8世紀の騎馬遊牧民のさかんな活動は,西方の南ロシアでも同じでした。西方ではアヴァール人(のちにカール大帝が撃退しました) 【本試験H21 世紀を問う、本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】やトルコ系ブルガール人【セ試行】がビザンツ帝国を圧迫しています。またハザール人は黒海北岸に建国し,イスラーム勢力がカフカス山脈を超えて北上をするのを防ぎました。

 長江上流の雲南(うんなん)【本試験H4チベットではない】地方では,チベット=ビルマ系の南詔(なんしょう,?~902) 【本試験H4】が唐の文化を導入して栄え,朝鮮では新羅が同様に栄えました【本試験H11:新羅では活版印刷は実用化されていない】。新羅は仏教を保護し【本試験H19仏教は朝鮮王朝時代に伝わったのではない】,慶州(けいしゅう)【本試験H22高麗の首都ではない,H27現在のソウルではない,H30】に仏国寺【本試験H20新羅の時代か問う,H30】が建立(こんりゅう)されました。律令制を導入しましたが,実際に支配階層にあったのは骨品制(こっぴんせい) 【追H28陳朝ではない】【本試験H16北魏ではない,セ18唐代ではない,本試験H22朝鮮王朝ではない,本試験H30】にもとづく高い家柄の氏族でした。

 唐に滅ぼされた高句麗の遺民〈大祚栄〉(だいそえい,大祚榮) 【京都H20[2]】【本試験H30〈衛満〉ではない,H31高麗を建国していない】が,中国東北地方に建国したのは渤海(ぼっかい,698~926) 【京都H21[2]記述(建国の経緯を説明)】【追H19時期,H21時期(中国が元の時代ではない)】【本試験H31高麗ではない】です。渤海使という使節を34回も日本におくり,律令制を導入し中国の長安をモデルにした都を建設するなどして栄えました【追H27渤海都城構造に影響を与えたか問う】。
 渤海新羅との対抗関係から,日本との同盟関係を求めたのです(日本の敵=新羅新羅の敵=渤海。日本の“敵の敵”(=渤海)は味方)。都は5つありましたが,最も栄えたのは上京龍泉府【追H27「上京竜泉府」】【慶・法H30】です。

 東南アジアのうち,メコン川中流カンボジア,現在のヴェトナム中・南部に位置する港市国家チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】,義浄の立ち寄ったシュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】も,中国に朝貢しています。


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 ほかにも,〈玄宗〉【慶文H30記】の厚い信任を得て,安南都護府で働き,安南節度使にまで登りつめ,帰国を希望しながらも中国で亡くなった〈阿倍仲麻呂〉(あべのなかまろ,698~770) 【慶文H30記】も,故郷である奈良を思う歌(天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも)とともに有名です。

 

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690年に自身が〈則天武后〉(そくてんぶこう、在位690~705)【本試験H4則天武后以来の混乱をおさめたのが玄宗か問う,本試験H8】【本試験H15,H29共通テスト試行 西太后ではない】【追H18】として皇帝に就任しました。みずからを弥勒菩薩の生まれ変わりとして,各地に大雲(だいうん)経(きょう)寺を建てる鎮護(ちんご)国家(こっか)政策をとります(この影響が日本の〈聖武天皇〉による国分寺の建立政策です)。龍門の石窟にある毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)は,このとき彼女に似せてつくられたといわれています。
 国号を「周」【本試験H4新ではない,本試験H8】【本試験H15,本試験H28新ではない,H29共通テスト試行】【立教文H28記】としたため,「唐」は一時滅亡しました。


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 この激動の時期を目の当たりにした〈睿宗〉の子,〈李隆基〉(りりゅうき,玄宗。在位712~756年) 【本試験H4】【本試験H15】【追H25】は,712年に即位すると,混乱した政治の立て直しを図りました。彼の治世の前半は,実態はともあれ後世の歴史家によって“開元の治” 【本試験H6同治中興ではない】と讃えられています。世界的に温暖な時期にあたる当時,唐では長安を中心に国際色豊かな文化が展開されました。彼に仕えた山水画家に“画聖”とも称される〈呉道玄〉(ごどうげん)【本試験H17孔頴達とのひっかけ】【追H20「唐の時代…山水画を描いた」か問う】がいます。

 一方,制度の崩壊もはじまっていました。
 均田法により土地を与えられた農民の中には,税を逃れるために逃げ出すものも現れていました。すると租調庸制による税の取り立てがままならなくなるだけでなく,府兵制による徴兵もできなくなります。そこで〈玄宗〉【本試験H15前漢武帝ではない】【追H25】は傭兵をもちいる募兵制【本試験H29時期】【追H25府兵制ではない】を採用しするとともに,辺境防備を節度使【追H21秦代ではない】【本試験H15】にまかせました。節度使には,中央ユーラシアの広範囲で交易活動をしていたソグド人も任命され,ソグド人も各地に設置された植民市どうしの活動を唐に保障され,活発に活動していました。
 しかし〈玄宗〉は,62歳のときに息子の妃を取り上げて“貴妃”とした〈楊貴妃〉(719~756,このとき27歳) 【本試験H15】【立教文H28記】に夢中になるあまり,彼女の一族による政治への介入を受けるようになります。
 また,突厥ウイグルによって襲われるようになり,またソグド人の本拠地がイスラーム軍による進入 (751年にはタラス河畔の戦い【セ試行】で,唐【セ試行ササン朝ではない】【本試験H14ウイグルではない】【追H30唐ではない】【立教文H28記】【慶商A H30記】がアッバース朝【本試験H14ウマイヤ朝ではない】に敗北しています) を受けるようになると,今まで中央ユーラシアで力を持っていた遊牧民突厥と,商業民のソグド人の立場が揺らいでいました【本試験H5中央アジアのオアシス都市の住民が,アラビア語を話す人々になるのは,この頃からのこと】。

 そんな中,ソグド人の父と突厥人の母をもつ節度使の〈安禄山〉(あんろくさん,705~757) 【本試験H7東北地方東部の震国の人物ではない】と武将の〈史思明〉(ししめい,?~761)とともに,中央ユーラシアの突厥人やソグド人を集め,唐から独立しようとする安史の乱(755~763年) 【本試験H4ウイグルが鎮圧したか唐・〈玄宗〉が退位するきっかけではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】【本試験H14,本試験H15黄巣の乱ではない,本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H29共通テスト試行 年代(グラフ問題)】が起こされました。

 これには唐の軍事力だけでは鎮圧しきれず,遊牧騎馬民族ウイグル【本試験H4】【本試験H14,本試験H21月氏ではない,本試験H23】【セA H30春秋・戦国時代に勢力拡大したわけではない】に鎮圧を要請するほかありませんでした。書家で有名な〈顔真卿〉(がんしんけい,709~785)【本試験H21宋代ではない】【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】も義勇軍を派遣しています。


 ウイグルの支援によってようやく反乱を鎮圧できた唐を見て,「なんだ,唐なんてたいしたことないじゃないか」と,節度使たちが唐から独立する勢いをみせるようにもなります。特に,中央のいうことをきかなくなった節度使のことを,藩鎮【本試験H8則天武后の時代ではない】【本試験H17春秋戦国時代ではない】といいます。


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また,安史の乱が起きると,チベット人吐蕃(とばん)も長安に進出し,占領しました。9世紀になると,ウイグルの他部族に対する支配は弱まり,遊牧国家は崩壊します。このときの戦争で捕虜になったり,戦乱を逃れて傭兵となったりしたトルコ人は,西アジアに流れ込んでいき,奴隷軍人(マムルーク) 【追H27アイユーブ朝で用いられたか問う、H28ウマイヤ朝で採用されたわけではない】としてイスラーム世界で活躍することになっていきます。
 ウイグルは,同じトルコ系のキルギス【京都H19[2]】に敗れると,タリム盆地に移動しました。これ以降のタリム盆地トルコ語【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】が広まったためトルキスタンと呼ばれるようになります。
 均田法により土地を与えた農民から税をとる仕組みは,すでに破綻していました。そこで「あげたはずの土地に農民がいないというのだから,もう仕方がない。現に土地を持っている人から,その資産に応じて税をとるしかない」と考え,宰相〈楊炎〉(ようえん)【本試験H16,本試験H26司馬光ではない】によって780年に両税法【共通一次 平1】【本試験H7明代ではない】【本試験H16,本試験H24時期,H26・H30,H29共通テスト試行 春秋戦国時代後漢代ではない】が租庸調制【本試験H16基になった均田法が始まったのは北斉代ではない,本試験H26】に代わって採用されます。徴税は夏・秋の年2回で,現住地の資産【共通一次 平1:人頭税ではない】に対して課税されました。これにより,余剰生産物が商品として売買されるようになり,商業の発達を促しました。

 


●朝鮮
しかし今度は新羅【本試験H4】【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)】が唐の勢力を朝鮮半島から排除しようとし,676年に唐を破って半島を統一し,安東都護府も北に移動させました(新羅朝鮮半島統一【追H18時期】)。
 朝鮮半島を統一した新羅は,唐との関係維持に努め【本試験H4】,律令制【本試験H4】や儒教の思想を取り入れつつ伝統的な官制をアレンジし,官位制を整備しました。これにより百済高句麗の支配層を,新羅中心の官僚体制に取り込んでいったのです。

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新羅は初期の頃は唐への対抗の必要から倭との外交関係を重視していましたが,8世紀に唐が衰退し,沿海州に震国【本試験H7】(渤海(ぼっかい) 【本試験H7】)が建国されると日本との関係は悪化していきました。
 震国【本試験H7】(渤(ぼっ)海(かい))は高句麗の遺民で粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)部に属する〈大祚栄〉(テチョヨン;だいそえい) 【本試験H7安禄山ではない】が唐に反乱を起こし,現在の中国吉林省に698年に建てられた国家です。指導者は「渤海郡王」として,唐によって冊封(さくほう)されました。
 都は現在の中華人民共和国黒竜江省寧安市に位置する上京龍泉府【追H27「上京竜泉府」】【慶・法H30】におかれ,各地の重要ポイントに5つの都が置かれました(一時,そのうちの中京・東京に拠点をうつしています)。

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隋の時代,604年にハノイに交州総管府が置かれ,唐も622年に同盟の政庁を置きました。679年には安南都護府【本試験H6現在でも大乗仏教道教儒教が入り混じった宗教が広く信仰されているか問う】が設置され,東南アジアの特産物を中国にもたらす上で,きわめて重要な役割を果たしました。
しかし,8世紀後半になると,マラッカ海峡を握るシャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】やシュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19仏教国か問う】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】の勢力が伸び,安南都護府も攻撃を受けたと見られます。
 また,雲南【本試験H4チベットではない】地方の南詔【本試験H4】【本試験H16・本試験H18大理に代わって南詔がおこったわけではない】の勢力が伸び,国王〈異牟尋〉(いぼうじん)は,ベンガル湾に進出するためにビルマのモン人のピュー王国を攻撃,メコン川流域に進出するためにクメール人の陸真臘【本試験H11:マレーシアの国家ではない】を攻撃するようになります。

 中南部共通一次 平1】のヴェトナムでは,チャンパー(林邑) 【東京H30[3]】【共通一次 平1】が強盛を誇っていましたが,8世紀後半になると,南部を拠点とする港市に勢力が移り,それにともない中国側の呼び名も環王に変化しました。この時期にメコン川を下って南シナ海に進出したクメール人の国カンボジア(中国名は真臘(しんろう) 【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】)と結ぶためと考えられます。


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マラッカ海峡ルートの繁盛にともない,島しょ部では,ジャワかバリには婆利という国が,スマトラ島パレンバンにはマラユ国がありました。大陸部にはヴェトナム中部の林邑(りんゆう),メコン川中流クメール人上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】によるカンボジア(中国名は真臘(しんろう)) 【本試験H11:マレーシアの国家ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】がありました。


また,670年にはマレー半島東岸で室利仏逝(しつりぶっせい,シュリーヴィジャヤ王国)国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が栄え,マラユ国を2万以上の軍で滅ぼし,パレンバンを奪いました。シュリーヴィジャヤはサンスクリット語ですから,インドの文化を取り入れていることがわかります。当時の島しょ部では,上座仏教が主流であった中,王は大乗仏教をあつく保護し,観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像が出土しています。この頃687年に中国の唐【本試験H22前漢の時代ではない】の仏僧〈義浄〉(635~713) 【本試験H19,H23】が,シュリーヴィジャヤ王国に占領されたばかりのパレンバンを訪れます。彼は694年までパレンバンに滞在し,インド式の教育方法で1000人以上の僧侶とともに学問に打ち込みました。このことは『南海寄帰内法伝』(なんかいききないほうでん)【本試験H12『大唐西域記』ではない】に記されています。
 シュリーヴィジャヤ朝は,8世紀後半から9世紀後半まで,ジャワの訶陵(かりょう)による支配を受けました。おそらくジャワ島のシャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】のことだと考えられます。


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シャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】も大乗仏教を保護し,ジャワ島【東京H24[3]】【本試験H20地図】【本試験H22マレー半島ではない】にボロブドゥール【東京H24[3]】【共通一次 平1:時期】【本試験H6,本試験H9[19]図版・アンコール=ワットとのひっかけ,ヒンドゥー教イスラム教の寺院ではない】【本試験H16イスラーム教徒の寺院ではない,本試験H18,本試験H20地図,本試験H22】【H30共通テスト試行 インドネシアか、大乗仏教の寺院か問う】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】という巨大建築物を残しています【本試験H28ヒンドゥー教の寺院ではない】。
 なんのために作られたのかははっきりとしていませんが,9層のピラミッド状の建造物(高さ42m,底辺の長さ120m)で,たくさんの仏塔(ストゥーパ)が備え付けられています。仏教の世界観を立体的に表現し,王の権威を示そうとしたと考えられます。

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 タイでは6~7世紀から11世紀頃まで,モン人【追H25ビルマ人ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】によるドゥヴァーラヴァティー(ドヴァーラヴァティー)王国【追H25ビルマ人の国ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が,海上交易によって栄えていました。
 タイのアユタヤ北方にあるロッブリーでは,スリランカに由来すると見られる上座仏教【本試験H6タイで広く上座仏教が信仰されているか問う】関係の遺物が見つかっています。ただ「王国」といっても,いくつかの権力者がそのときどきに応じて支配範囲を伸縮させるような状態であったと考えられています。

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南インドにも地方国家が立ち並び,海上交易がさかんにおこなわれました。南インドでは大規模なヒンドゥー教寺院を建設し,その権威をもとに農業開発・海上交易を推進するチョーラ朝【本試験H31】のような国家も栄えます。

 商業が衰退するにつれ,農村を中心とする分権的な社会が生まれていきました。それに合わせてこの時期には,上から3番目のヴァルナであるヴァイシャは,商人のヴァルナとなり,農民や一般の庶民はシュードラに位置づけられるようになりました。代わって,5番目のヴァルナとして不可触賎民への差別が強まりました。各ヴァルナの中には,「生まれを同じくする集団」という意味の「ジャーティ」【本試験H26ヴァルナ制度ではない】が無数に形成されていきました。のちに南アジアにやって来るポルトガル人は,ジャーティのことをカーストと呼んだことで,ヨーロッパ人はこの制度のことをカースト制度【セA H30メソポタミアの制度ではない】と呼ぶようになりました。


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このうち,現在のデリー北方のプシュヤブーティ朝の王族だった〈ハルシャ〉(位606?607?~646?647?) 【追H24】【東京H8[3]】が,北インドを統一【追H24南インドではない】し,ヴァルダナ朝【追H24】【大阪H30 629年頃のインドの王朝】を建てました。彼はシヴァ神を信仰していましたが,仏教も保護していた様子は,彼に謁見した中国(唐【本試験H19】)の僧〈玄奘〉(600?602?~664)【本試験H12玄奘は「上座部の開祖」ではない】の『大唐西域記』に書き留められています【本試験H12義浄の著書ではない】【本試験H19時期,本試験H20玄奘が訪問したか問う】【大阪H30史料】。彼は首都のカナウジを中心にガンジス川の上・中流域を直轄支配とし,それ以外の諸王は諸侯として,地租と貢納を取り立てました。グプタ朝よりも,さらにゆるやかな支配方式です。

先述のように,〈ヴァルダナ王〉と謁見した中国(唐【本試験H19】)の仏僧に,法相宗(ほっそうしゅう)の開祖〈玄奘〉(げんじょう,600?602?~664) 【本試験H12】 がいます。『西遊記』では女性の三蔵法師(さんぞうほうし)として描かれていますが,実際には男性です。629年にインド【本試験H12インドで学んだかを問う】に向けて出発し,645年に帰国。多数のお経を唐に持ち帰り,漢訳をおこないました【本試験H12「上座部の開祖」ではない】。「漢訳されたお経には間違いがあるおそれがある。インドの言葉で書かれた本当の経典が見てみたい」という強い思いがあったのです。


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それに対し,726年に東ローマ帝国イウサロス朝の創始者〈レオン3世〉(在位717~741,教皇レオ3世とは別人) 【追H27ウラディミル1世ではない】【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18,H31】が聖像禁止令【東京H7[1]指定語句】【追H27】【本試験H18,H31レオン3世の発布か問う】を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会とローマ教会との間のケンカにエスカレートする…(聖像崇拝論争)というのが、従来よく語られてきたストーリーです。

 そもそも東ローマ帝国の皇帝は,コンスタンティノープル【追H19ビザンツ帝国はラテン帝国の占領を除き遷都していない】のキリスト教教会(正教会)を保護し,そのトップである総主教(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられていました。

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ビザンツ帝国とササン(サーサーン)朝が抗争を繰り広げた影響で,陸上ルートが廃(すた)れ,代わってアラビア半島を南に回る海上ルートが栄えました。すると,ペルシア湾に面するアラビア半島のメッカ【本試験H27】(アラビア語ではマッカ)が,沙漠をラクダで超える隊商(キャラヴァン)【本試験H27】の拠点となり商業都市として栄えるようになりました。
 当時,交易の拠点となっていたメッカの部族クライシュ族【H29共通テスト試行 家系図】に,〈ムハンマド(本人の名)=(イ)ブン(~の息子という意味)=アブドゥッラー(父の名)=ブン=アブドゥルムッタリブ(父の父の名)〉(570?571?~632(注1)) 【本試験H12「イスラム教」の「開祖」かを問う】という男性がいました。アラブ人(注2)を含むアフロ=アジア語族セム語派の人々は「父系」といって,父方の血のつながりを大切にしてきたので,フルネームはこのような長い名前になるのです。


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啓示は彼の死後20年をかけて『クルアーン』(コーラン) 【本試験H18,本試験H25】【立教文H28記】【立命館H30記】としてアラブ人の言語であるアラビア語でまとめられることになります。「クルアーン」とは「読まれるもの」という意味です。文字の読み書きのできない者の多かった〈ムハンマド〉や信者にとっては,クルアーンは「読み上げられる」ものだったのです。翻訳は奨励されてはいますが,正式なバージョンはあくまでもアラビア語で書かれたものとされています。
 クライシュ族の大半は以前から「アッラーが世界の創造主で,最後の審判のときに人類を裁く」【本試験H24輪廻からの解脱を説いてはいない】と信じていましたから,〈ムハンマド〉の考えは突飛(とっぴ)なものではなく,彼の教えの重点は,その神の啓示がついに“アラブ人にも”もたらされたのだ,という点にありました。クライシュ族がまずおこないを改め,神の定めに従って平等な社会をめざして社会改革をするべきであり,そうでなければ社会は滅んでしまうと訴えたのです。彼の伝えた教えはやがてイスラーム(唯一神アッラーへの服従という意味)と呼ばれるようになります【本試験H18一神教かを問う】。


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 〈ムハンマド〉を通して人々に伝わったイスラームの教えには,6つの信じるべきこと(六信)と5つの行うべきこと(五行(ごぎょう))があります。六信としては,神(アッラー),天使(マラーイカ),啓典(キターブ),預言者(ナービー),来世(アーヒラ),天命(カダル)があります。五行とは,信仰告白(シャハーダ),礼拝(サラート),喜捨(ザカート),断食月(ラマダーン)における日の出から日没までの断食(サウム),メッカ【東京H20[3]】への巡礼(ハッジ) のことです。

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立場が危うくなった〈ムハンマド〉に保護の手を差し伸べたのは,622年【本試験H2年号】にメッカ北方のオアシス都市ヤスリブ【本試験H23,本試験H25メッカではない,本試験H26地図上の位置を問う】の住民でした。当時,都市内で起きていた部族の争いを丸く収める形で指導者として迎えられ,初のウンマ【大阪H30論述:指定語句】を建設します。この出来事を,聖遷(ヒジュラ) 【本試験H2,本試験H5ジズヤではない,本試験H6】【本試験H19地図,H23内容を問う,H30】といい,イスラーム暦(ヒジュラ暦) 【追H17ムハンマドの生誕年が元年ではない,H26】では,この622年を紀元とします(注2)。部族のしがらみから逃れ,別の部族に加わった〈ムハンマド〉の行為は,部族が“全て”だった従来のアラビア半島では考えられない行為でした。


太陰暦【追H26】のため各月は新月の出る日から始まり,太陽暦の1ヶ月よりも短い月の周期に基づいています。


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 〈ムハンマド〉は平和的な終戦にこだわっていました。638年にメッカにハッジ(巡礼)をおこなうと宣言。巡礼者は武器を持ってはいけないことになっており,クライシュ族に狙われる危険もありましたが,これに約1000人のイスラーム教徒が同行することになりました。クライシュ族による攻撃の危険もありましたが,イスラーム教徒たちの実力を見込んだ遊牧(ベドウィ)民(ン)の支持を背景に,630年にはメッカのクライシュ族のほうが折れて〈ムハンマド〉と和議が結ばれました。630年にはクライシュ族が和議を破りますが,〈ムハンマド〉側の大軍を前にクライシュ族はメッカの城門を開き,メッカは無血征服されることになりました(注1) 【追H9アッバース朝の都ではない】。
 このとき,メッカで古くから神殿として用いられていたカアバ神殿(聖殿) 【本試験H18】【追H20ヒンドゥー教の聖地ではない】の偶像が破壊され,ここはイスラーム教の聖殿とされました。

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ムハンマド〉自身が商人であったこともあり,イスラーム教では商業が奨励されたため,イスラーム商人(ムスリム商人【追H19海上交易への進出時期】【東京H7[1]指定語句】)の活動は活発化していきます。

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632年にはメッカ巡礼(ハッジ)を行った直後に,最後の預言者ムハンマド〉が亡くなると【本試験H23ヒジュラとは関係ない】,彼に男子の跡継ぎがいなかった(3男4女のうち,3人の男子はいずれも亡くなっていました)ことから、信徒を誰が引き継ぐべきかをめぐって主導権争いが起きます。

 結局、〈ムハンマド〉の親友で長老であった〈アブー=バクル〉(位632~634) 【追H30バグダードを建設していない】が、自分のほうがイスラームの信仰に入ったのが早いとして、〈ムハンマド〉の移住以前からメディナにいた人々たちを説き、両者が妥協したことで分裂は回避されました。


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さらに、次の〈ウマル〉(位634~644) 【H27京都[2]】は「ハリーファ=ハリーファ=ラスール=アッラーフ」(アブー=バクル)の代理として、メディナイスラーム教徒(イスラーム教徒の男性をムスリム,女性をムスリマといいます)の間の集会で初代「正統カリフ」に選ばれます。
 〈ムハンマド〉の役目を引き継ぐ人 (カリフ【大阪H30論述:指定語句】」が選挙で選ばれました。カリフとは,「神の使徒の後継者」というアラビア語(ハリーファ=ラスール=アッラーフ)の「ハリーファ」がヨーロッパでなまった言葉です。
 信徒による選挙で選ばれた【追H9】カリフを「正統カリフ」【東京H30[3]】【追H9ムハンマドの直系の子孫ではない・アッバース朝初代~第4代までのカリフではない・異教徒の戦いで殉教した英雄ではない】【本試験H7オスマン帝国により倒されていない,本試験H12「宗教的にも政治的にも最高の権限を有していた」か問う(注)】【H29共通テスト試行 系図の読解】といい、その後〈ウスマーン〉、〈アリー〉まで続きます(注1)。

 ただ、どちらかというと〈ウマル〉は「カリフ」より「信徒の長」(アミール=アルムーミニーン)のほうを称し,軍事指揮官として「大征服」活動を本格化させていきます。
 632年のニハーヴァンドの戦い【本試験H25】【追H18、H30】でササン(サーサーン)朝【大阪H30史料:629年当時の西アジアの王朝を問う】【追H30】の〈ヤズデギルド3世〉を倒し,これを事実上滅ぼしています(サーサーン朝の滅亡)。古代ギリシア・ローマの情報の“リレー”は,ビザンツ帝国からサーサーン朝になされていましたが,ここでサーサーン朝に逃れていた古代ギリシア・ローマの系譜を継ぐ研究情報はイスラーム勢力に引き継がれていくこととなりました。

 イスラーム勢力はシリア,パレスチナを通って北アフリカにも進出し,西へと移動していきます【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】。
 シリア,パレスチナ【本試験H15時期(正統カリフ時代かを問う)】とエジプトを奪われたビザンツ帝国では,テマ(セマ)制と屯田兵制を整備するようになりました(注2)。
 征服した各地の都市郊外にはアラブ人ムスリム【追H25】によって軍営都市(ミスル) 【追H25】が建設され,ミスルごとにアミール(総督)が任命されて集団で移住が実施されました。
 征服先の都市にはたいていユダヤ教キリスト教の商人がいますから,新たに移住してきたイスラーム教の軍人との無用な対立を避けたわけです。
 ミスルにはディワーン(役所)が置かれ,登録された戦士に対して俸給(アター)が支給される仕組みでした。代表例は,イラクのバスラ(638年,〈ウマル〉により建設された),エジプトのフスタート(643年) 【東京H13[1]「エジプト史」を論じる問題。指定国は「エジプト」】,チュニジアのカイラワーン(670年)。現在イスラーム教の信仰やアラビア文字の使用がみられる地域は,この時期にアラブ人の急拡大があった所がほとんどです。

 

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混乱の中で即位した第4代カリフ〈アリー〉(位656~661) 【本試験H17】【追H20アッバース朝全盛期のカリフではない、H27ウマイヤ朝を開いていない】は,〈ムハンマド〉の父方の従弟で,〈ムハンマド〉の娘〈ファーティマ〉(606?614~632)と結婚していました。彼は混乱をおさえるためにイラクのクーファに遷都しましたが,「ウマイヤ家が正統カリフになるべきだ!」と主張する前シリア(注1)総督〈ムアーウィヤ〉(?~680) 【本試験H20インドではない】【H27名古屋[2]】【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う)、追H26アッバース朝をひらいていない,H29】が挙兵し,最後はハワーリジュ派によって暗殺されてしまいます。
 ハワーリジュ派は,はじめは〈アリー〉派だったのですが,〈ムアーウィヤ〉に敗れた後で和約を結んだ〈アリー〉を裏切り者として攻撃しました。

 一方,〈アリー〉派はシーア派【本試験H17ワッハーブ派ネストリウス派スンナ派ではない】と呼ばれるようになります(注2)。
 カリフは「イマーム」とも呼ばれ,シーア派の最高指導者は「イマーム」と呼ばれることが一般的です。シーア派では「イマーム」は〈アリー〉【H27京都[2]】の子孫が担うべきだと主張します(注3)。


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 総督の〈ムアーウィヤ〉【追H29】は,661年にシリアのダマスクス(かつてアラム人の拠点でした) 【セ試行】【本試験H2ウマイヤ朝の首都か問う】【本試験H15イェルサレムではない,本試験H19地図】【H27名古屋[2]】【追H29イベリア半島ではない】にウマイヤ朝を開き【本試験H3時期(8世紀後半ではない)】【本試験H21インドではない,本試験H25時期,H29共通テスト試行 系図の読解】【追H27アリーが開いたのではない、H28トルコ人が奴隷軍人として採用されたわけではない,H29後ウマイヤ朝ではない】,玉座(ぎょくざ)に座ってカリフを称しました【大阪H30論述:7世紀後半に西アジアに成立した帝国では,社会や国家のあり方がどのように変化したか(指定語句:シャリーアウンマ,カリフ)】。

 彼に従った多数派をスンナ派【本試験H17シーア派とのひっかけ,H29共通テスト試行 アリーの子孫が指導者と主張したのではない】と呼びます。

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イェルサレム(アラビア語ではクドゥス(聖地という意味))にある金の装飾の輝く岩のドームは,ウマイヤ朝のカリフ【本試験H15キリスト教徒ではない】により建てられました。建設地は,ユダヤ人のソロモン神殿があった場所のため,問題はゆくゆく複雑になっていきます。
 権力者は,寺院(モスク)や隊商宿(キャラヴァンサライ【本試験H30】)などの公共建築を建てるなどの寄進(ワクフ(ワクフ制度)) 【追H25・H27ワクフ(ワクフ制度)がモスクなどの宗教・公共施設の運営を支えていたか問う】をすることで,イスラーム教徒にふさわしい支配者として,人々から認められようとしました(注)。
(注)ワクフは宗教的な行為に見えて《交換を前提としたうえで,互酬を目的とし,そのパフォーマンスとして再分配の機能を果たした制度》であると見ることもできます(加藤博『イスラム世界の経済史』NTT出版,2005年,p.190)。
 ウマイヤ朝はまた,インド西部にも進出しています【本試験H3インドのほぼ全域を征服していない】。

 7世紀後半~8世紀初めには,ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを何度か包囲し,海上封鎖して襲撃しようとしましたがいずれも失敗。ビザンツ帝国が,「ギリシアの火」というアスファルトを用いた火炎放射器で,ウマイヤ朝の艦隊を焼き払ったと見られています。その秘密は長い間謎につつまれていました。

 ベルベル人立命館H30記】を主力とするウマイヤ朝【本試験H6時期(イベリア半島への進出がウマイヤ朝時代か問う)】の軍隊は北アフリカの海岸線をなぞりながら征服してイベリア半島に進出し,711年西ゴート王国を滅ぼしました【H30共通テスト試行ウマイヤ朝が征服した地図上の経路を問う(北アフリカ西部からイベリア半島に向かう矢印かどうか)】。このときの武将〈ターリク〉の上陸地点は「ターリクの丘」(ジャバル=アル=ターリク)と呼ばれ,これがジブラルタル海峡の語源になりました。

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ウマイヤ朝【追H25】【H30共通テスト試行マムルーク朝ではない】のイスラームの軍はのちに,732年メロヴィング朝フランク王国【H30共通テスト試行 マムルーク朝接触していない】の宮宰〈カール=マルテル〉【追H25】の騎兵軍によりトゥール=ポワティエ間の戦い【セ試行 メロヴィング朝の成立に重要な意味を持っていない】【東京H29[3]交戦勢力のウマイヤ朝メロヴィング朝を答える】【追H9アッバース朝ではない,H17(世紀を問う)、H25,H29ポワティエの戦いとのひっかけ】【立命館H30記】で敗れたものの,ピレネー山脈の南までを支配下におさめました。

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 このホラーサーン軍が中心になって747年にウマイヤ朝に対する武装蜂起が起こります。749年にカリフに選ばれた〈アブー=アル=アッバース〉は,750年にウマイヤ朝最後のカリフ〈マルワーン2世〉(位744~750)を倒し,アッバース朝【東京H23[1]指定語句】が始まりました。結局シーア派の指導者はカリフにつくことができず終(じま)いでしたが【追H9シーア派の教義を採用しスンナ派を弾圧したわけではない】,アッバース朝ではイラン人【追H20】が官僚に登用【追H20】され,民族間の不平等は解消されていきます。この一連の政治変動をアッバース革命といいます。

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 〈アッバース〉は内陸ユーラシアにも進軍し,751年にタラス河畔の戦い【本試験H14ウイグルは関わっていない,本試験H25時期】で〈高仙芝〉(唐につかえた高麗人の武将)率いる唐【セ試行 ササン朝ではない】とトルコ系遊牧民のカルルクとの連合軍に勝利をおさめています(唐・宋のころの中国人は,アラビア人のことを大食(タージー)と読んでいました)。唐軍が総崩れとなったのはカルルクの裏切りによります。

 アッバース朝の捕虜になった唐の紙すき職人を通して中国の製紙法【追H28活版印刷ではない】【本試験H27】【セA H30「中国からイスラーム世界に伝わった」か問う】が西方に伝わることになったといわれてきました。

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 759年にはサマルカンド【本試験H2タリム盆地のオアシス都市ではない】に,中国以外では初の製紙工場が作られています。そのことは,今後サマルカンドが文化や科学技術の中心となっていく前提をつくりました。793年にバグダード,10世紀にはダマスカス,カイロを通り,1151年にスペインを経由して→1348年フランス→1494年イギリス・1586年オランダ→1635年デンマーク→1690ノルウェーアメリカ合衆国。イタリアを経由して,1276年→1390年ニュルンベルク→1491年ポーランド→1498年ウィーン→1576年モスクワのように西方に伝わっています。なお,朝鮮半島に伝わったのは600年頃,日本には610~625年頃の伝播です(注2)。
 イスラーム世界の各地では,ビザンツ帝国→サーサーン朝を介して継承されてきた,古代ギリシア・ローマの情報が,アラビア語に翻訳されていきました。これを大翻訳運動【東京H23[1] アラブ=イスラーム文化圏をめぐって生じた異なる文化間の接触や交流についての論述】ともいいます【追H19】。

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 なお,アッバース朝の時代になると,カリフは“ムハンマド代理人”というよりも,“神の代理人”としての性格を持つようになっていきます。
 アッバース朝【本試験H22】第2代の〈マンスール〉(位754~775) 【追H30アブー=バクルではない】は,3重の城壁に囲まれた円形の新都バグダード【京都H22[2]地図上の位置】【本試験H3アッバース朝の首都か問う,本試験H6長安とならぶ大都市であったか問う】【本試験H22】【追H9メッカではない,追H20カイロではない,H25アッバース朝によって築かれた「円城」か問う、H30】(マディーナト=アッサラーム(平安の都))を現在のイラクを流れるテ
ィグリス川【本試験H22】河畔に計画的に建設しました。イスラーム政権はヨーロッパを圧迫したイメージが先行しがちですが,領域を接していたビザンツ帝国とは対立していたものの,その西方のフランク王国との外交関係は良好で,交易も盛んにおこなわれます。


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 税制については,アッバース朝ではイスラーム教徒ならだれでも地租(土地にかける税,ハラージュ) 【共通一次 平1:人頭税ではない】を納めるようにし,イスラーム教徒ではない征服された人々【共通一次 平1:イスラーム教徒には課されない】からは地租に加えて人頭税(ジズヤ) 【本試験H5】【東京H21[1]指定語句】【共通一次 平1:資産税ではない】【本試験H13】【名古屋H31記述(説明)】を納めさせました。なお,ユダヤ教徒キリスト教徒は,違った考え方によって信仰しているものの,同じ神を信仰し,その神によって創造された人間には変わりないということで,「啓典の民」(けいてんのたみ)【本試験H5「…啓典の民に〔ジズヤ〕を課すこともない…」という史料中で使用】に位置づけられ,人頭税(ジズヤ)を払う代わりにその信仰は保障されました【共通一次 平1:土地を持っている場合はハラージュも払う】。

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 また,革命に参加したイラン人は,軍隊や官僚(書記)として採用され,アッバース朝の要職にも就任するようになっていきます。混乱が収拾すると,「イスラーム法(シャリーア)」【本試験H19 6世紀には成立していない(イスラーム成立よりも前なのだから),本試験H26ジハード,バクティスーフィズムではない】【大阪H30論述】に基づき,力でねじ伏せるのではなく制度と文書によって適切に統治が実現するようになっていきました。


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〈ハールーン=アッラシード〉(位786~809) 【本試験H3シャープール1世ではない】【追H9アッバース朝と関係あるか問う】のときに最盛期を迎え,バグダードは人口100万の大都市となりました。彼は,9世紀に原型ができていたといわれる『千夜一夜物語』(“アラビアン=ナイト”) 【追H28イラン起源の物語を含むか問う(正答だが、難しいだろう)】【東京H8[3]】にも登場しています。


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ウマイヤ家の多くはアッバース革命のなかで殺害されてしまいましたが,シリアからモロッコに脱出したウマイヤ朝のカリフの孫〈アブド=アッラフマーン1世〉(位756~788)はイベリア半島【本試験H21小アジアではない】で,北アフリカベルベル人【本試験H29イスラーム教への改宗が進んだことを問う】からの支持を得ました。そして,756年にイベリア半島コルドバ【東京H18[3]】【本試験H30】を都に後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝) 【東京H18[3]】【追H9スルターンの称号を得ていない、H18カール大帝が滅ぼしてはいない、H25アッバース朝後ウマイヤ朝に滅ぼされたのではない】【本試験H16】【立命館H30記】を建国します。
 首都コルドバは,アッバース朝の首都で発達したイスラーム固有の学問(イスラーム教に関する神学・法学・歴史学など)や外来の学問(ギリシア【本試験H3】・ローマやインド【本試験H3】,イラン【本試験H3】で発達した自然科学・数学・哲学など)を取り込むことで,文化の中心地になっていきました【本試験H3イスラーム文化は「多様な民族を担い手とする国際的文化である」か問う】。
 イスラーム教では偶像崇拝が禁止されているので,人物や動物の絵画は避けられます【本試験H3神像や礼拝像が盛んに制作されたのではない】。そこで,アラビア語に装飾を施したイスラーム書道(ペンには,かつて古代エジプトパピルスに記入するのに使われた葦ペン(カラーム)が使われました)や,植物や図形をモチーフにした幾何学文様(アラベスク【本試験H5ジズヤではない】【追H18】)が発達していきました。

 

 

●アフリカ
 8世紀のアラビア語史料の中に,ニジェール川流域のガーナ王国【東京H9[3]】【本試験H8サハラ縦断交易で栄えたか問う,本試験H9[24]地図上の位置を問う】に関する情報が初めて現れます。「黄金がニンジンのように土地から生える」という伝説が,地中海地方に伝わったというほど,金を産出することで知られていました。


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イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得てコルドバを占領し,アミール【追H9スルターンの称号を得ていない】を称して後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)が建国されました(注)。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
 〈アブド=アッラフマーン3世〉(位912~961)は929年にカリフ【追H9スルターンの称号を得ていない】の称号を名乗り,支配の黄金時代を迎えました。コルドバにはキリスト教の教会に隣接して,壮麗なモスク(メスキータ)【立命館H30記】も建てられます。


●ヨーロッパ
726年に東ローマ帝国イウサロス朝の創始者〈レオン3世〉(在位717~741,教皇レオ3世とは別人)【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18】が聖像禁止令【東京H7[1]指定語句】【本試験H18】を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会と,ローマ教会との間のケンカにエスカレートしてしまいました(聖像崇拝論争)。


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ローマ教会が正統とするアタナシウス(ニカイア)派に改宗していた初代国王〈クローヴィス1世〉が亡くなるとフランク王国は分裂し,メロヴィング家【H30共通テスト試行 メロヴィング朝マムルーク朝と同時代ではない】は弱体化していました。
 一方で,フランク王国の東部を支配していたカロリング家は勢力を増し,687年には宮(きゅう)宰(さい)〈ピピン2世〉(大ピピンとも,位680~714)がメロヴィング朝の実権を掌握します。宮宰(マヨル=ドムス)というのは実質的にナンバー2の役職であり,フランス全体に支配権を広げていきます。
 〈ピピン2世〉の子,宮宰(国王ではありません)〈カール=マルテル〉(686~741)は,軍事力で732年にウマイヤ朝イスラームの小規模な部隊を追いかけて撃退。「自分はイスラーム教徒を殲滅し,キリスト教世界を救ったのだ!」と話を盛りまくって,一気に名声を高めます。自分自身の出自の低さをカバーするための意図もあったとみられます。ローマ教会はこの功績を聞きつけ,「フランク王国カロリング家は守護者として期待できる」と,フランク王国への注目を高めていきました。
 この戦いをトゥール=ポワティエ間の戦い【東京H29[3]交戦勢力を答える】【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】といい,カロリング家が台頭する上で重要な事件ではあるものの,戦闘の規模は決して大きなものではありませんでした。

 とはいえ〈カール=マルテル〉は家来たちに獲得した領地を与えて,メロヴィング家に対抗できるだけの軍事力を育成していきます。
 こうして彼の子〈ピピン3世〉(小ピピンとも,位751~768) 【セ試行 カール大帝ではない】【本試験H7】【本試験H19時期】【追H29】は,ときの教皇〈ザカリアス〉(位741~752)の許可を得て,メロヴィング朝【H27名古屋[2]】の王を武力で排除し,ついにフランク王国国王に就任することができたのです【本試験H7コンスタンティノープル教会との関係を強化していない】。
 こうしてカロリング朝【追H29ピピンがひらいたか問う】(〈カール=マルテル〉が由来です)をひらくことに成功した〈ピピン〉は,教皇を圧迫していたランゴバルド王国を倒し【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】【追H30トゥール=ポワティエ間の戦いは無関係】,彼らが東ローマ帝国から奪い取っていたラヴェンナ地方を教皇に贈与します。
 宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このことをピピンの寄進【本試験H31時期を問う】といいます。このときの領土が,のちのちまで続く教皇領の元となります。教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったのがヴァチカン市国ということになります(ローマ市内にあります)。


 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】【本試験H6】【追H18後ウマイヤ朝を滅ぼしてはいない】【セA H30】です。

 

さらに799年,暴動が起きたためローマから避難した教皇〈レオ3世〉【追H24グレゴリウス7世ではない】の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。


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 ローマ帝国の東方領土(東ローマ(ビザンツ)帝国)には,7世紀に入ってイスラーム教徒による領土拡大が始まりました。イスラーム教徒への対策として,〈ヘラクレイオス1世〉(位610~641)は帝国をいくつもの軍管区(テマ)に分ける制度を拡充し(注),地方の軍団の指揮官に,軍事権と行政・司法権を与え,間接支配させました(テマ制度(軍管区制度) 【追H28「軍管区の司令官に軍事・行政権を与えた」か問う】【本試験H14エンコミエンダ制とのひっかけ,本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う,本試験H21フランク王国ではない,H31オスマン帝国のティマール制とのひっかけ】),兵士には土地が与えられ,平和なときには農業に従事し,戦争のときには土地を守るために戦わせました(屯田兵制) 【本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う】。しかし,636年にはヤルムークの戦いで正統カリフ時代イスラーム軍に敗れ,シリアやエジプトを失いました。

 なお、〈ヘラクレイオス1世〉は,東地中海の国際共通語であったギリシア語を公用語に定めたほか【追H19】,キリスト教の教会を統一するために教義を定めました【本試験H16ビザンツ帝国では政教分離が徹底されたわけではない】。


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8世紀のイウサリア朝を創始した皇帝〈レオン3世〉(位717~741)以降,東ローマ帝国は再び勢力を回復するように成り,726年の聖像禁止令【本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う】で聖画像(イコン)を禁止しました【本試験H18叙任権闘争とは関係ない】。この政策をイコノクラスム(聖画像の破壊)といいます。イコン(イエスなどの聖像)を使ってヴィジュアルの助けを借り,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対してせっせと布教をしていたローマ教会は,聖像禁止令の押し付けには反対の立場をとり,東ローマ帝国の保護する正教会との聖像崇拝論争に発展します。のちにローマ教会は,東ローマ帝国に見切りをつけて,教会の新たな保護者としてフランク王国の〈カール大帝〉を選ぶことになります(800年,カールの戴冠【東京H7[1]指定語句】【セA H30】)。

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西ヨーロッパを中心に,ローマ由来の恩(おん)貸地(たいち)制度【本試験H3,本試験H6】と,ゲルマン由来の従士制(じゅうしせい)【本試験H3】が組み合わさり,隷属的な農民と土地を支配する制度と,その支配圏を認める階層的な支配構造が結びついた社会制度(荘園(しょうえん)制)【本試験H3】が組み上げられていきました【本試験H3最初から発達した官僚制がみられたわけではない】【大阪H31論述(「イスラム教徒、領主、軍事」の指定語句を用いて、荘園制が形成された背景、当時の政治制度全般との関係について)・時期】。

 この時期(中世前期一般的には西ローマ帝国の崩壊した5世紀から10世紀)のヨーロッパは,農業(小麦,大麦,えん麦,ライ麦など)を中心とした生産が農民により行われていました。自由な農民もいましたが,領主の経済的・人格的な支配下に入った農民も多く,後者は移動の自由【本試験H6】が認められず農奴(のうど) 【本試験H3】【本試験H23】といいます。
 経済的な支配とは,収穫物を納めたり(貢租(こうそ),貢納【本試験H23】ともいいます),領主の土地を耕したり(賦役(ふえき)【本試験H23】)する義務があったこと,人格的な支配とは移動の不自由のほかに,領主による裁判権(領主裁判権【本試験H8】)に従わなければいけないことや(領外)結婚税・死亡税【※以外と頻度低い】の支払いなどが挙げられます。農奴は家族を持つことでできましたが,家族も含めて領主の大切な“労働力”なので,娘が隣村に嫁いだり,誰かが亡くなると,その“補償”として結婚税・死亡税を納める義務があったのです。その代わり農民たちには,小麦粉をひいたり,きれいな水場を利用したり,お祭りに参加したりなどさまざまな保障が与えられていました。

 7世紀になると,現在のフランス北西部のフランク王国王領地では,古典荘園制が始まりました。土地を,領主直営地【本試験H5】と農民保有地に分け,前者は領主が経営し,後者は農民・農奴に小作地として貸し出されました。領主は農奴賦役【本試験H5】をおこなわせたり,自由な農民を労働者として働かせ収穫を貢租としておさめさせたりしたのです。

 こういった領主の土地には,農民たちの集落が散らばって分布していて,集落のまわりに耕地が広がっていました。このころのヨーロッパにはまだ十分に森林が広がっていましたが,森は共有地(入会地(いりあいち) 【追H26】。農民が共同で利用する牧草地や森のこと【追H26】。中世ヨーロッパに限らず「誰のものでもない」土地は,近代以前の社会では広くみられました【本試験H17】)とされ,森で採れるドングリを冬に備えて豚に与えたり,薪(たきぎ)を拾って燃料にしたりと農民たちで共同利用されました。また,畑を耕すのための牛や,毛を刈り取る羊が飼育され,家畜の飼料に用いられる草の刈り取りも,共同作業でおこなわれました。
 このように土地と農民が組み合わさった土地制度を,土地領主制ともいいます。このような領地は,城を構える主君(封主(ほうしゅ))が,戦士・騎士として戦ってくれる人々に与えられることが多くなりました。土地(封土【本試験H3】)をもらった人は家臣(封臣(ほうしん))となり,主君に軍事的に仕える義務【本試験H3】を持つかわりに,その土地が得られる特権を得ることができました【本試験H8領主の「主たる経済基盤は,国王の宮廷での勤務による報酬」ではない】。


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 フランク王国カロリング朝の時代になると,国王に任命された伯や大公といった役職に応じて,こうした特権付きの所領が,軍事奉仕と引き換えに与えられるようになっていきました。家臣のほうが国王よりも力関係が上である場合も多かったため,不輸不入権(国王の役人が立ち入って徴税をしたり,裁判をしに立ち入ったりすることを防ぐ権利)【本試験H14自治・叙任ではない】が与えられていました。また,こうした所領を“功徳”(くどく)を得るためにローマ教会や修道院に寄付(寄進(きしん)といいます)することも,広く行われました。その代表例が,756年の〈ピピン3世〉によるラヴェンナ地方の寄進です。
 ローマ教会と提携をした〈カール大帝〉は,『旧約聖書』を根拠に勅令を定め,十分の一税【追H30】の徴収を法的に規定しました。これにより,農民からの税は教区ごとに徴収され,集めたうちの4分の1が最終的に司教のもとにわたることになりました。

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ローマ教会が正統とするアタナシウス(ニカイア)派に改宗していた初代国王〈クローヴィス1世〉【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない、オドアケルとのひっかけ】が亡くなると,フランク王国は分裂し,メロヴィング家は弱体化していました。一方で,フランク王国の東部を支配していた勢力(のちのカロリング家)が勢力を増していきました。

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メロヴィング朝フランク王国に仕えた,王国ナンバー2の宮(きゅう)宰(さい)(国王ではありません)の職にあった〈カール=マルテル〉(686~741) 【本試験H7】は,ローマ教会の領土や当時拡大していた修道院の領土を没収し,それを収入源として戦士団を養成。騎兵を導入してインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々やガリア南部を従えました。
 フランク王国【追H30ランゴバルド王国はない】が,732年にイスラーム教徒のウマイヤ朝の進出に対してトゥールとポワティエの間で勝利したのは,この軍事力によるものです(トゥール=ポワティエ間の戦い) 【東京H29[3]交戦勢力を答える】【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】【追H30】。

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 〈カール=マルテル〉の子〈ピピン3世〉(位751~768) 【本試験H19時期】は,今度は教皇を圧迫しているランゴバルド王国に着目【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】。彼らは,ラヴェンナにあったローマ帝国総督府を占領していましたが,ここにいた東ローマ(ビザンツ)帝国の軍隊はそこから撤退していたのです。

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宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このことをピピンの寄進【本試験H31時期を問う】といいます。このときの領土が,のちのちまで続く教皇領の元となります。ローマ教皇も「領域国家」を持ち,みずからの収入源を確保するようになったわけです。
 教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったのがヴァチカン市国ということになります(ローマ市内にあります)。

 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】【本試験H6】です。〈カール大帝〉は799年,暴動が起きたためローマから避難していたローマ教皇〈レオ3世〉【本試験H6】【H27名古屋[2]】【セA H30「ローマ教皇」】の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。ローマ教皇によって「西ローマ皇帝」に任命され,西ヨーロッパの大陸部の分裂状態は一時的に終わりを迎えます。


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インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派のアングロ=サクソン人は,ブリテン島にわたって,600年頃から9世紀までに7つの王国(七王国ヘプターキー) 【本試験H30】を建国していました。

 キリスト教アイルランド教会は,ローマ教会と競うようにイングランドに布教活動を行いました。アイルランドからは学芸が書物や学者を通じてイングランドに伝わり,カンタベリやヨークでノーサンブリア文化が栄えました。〈ベーダ〉(673?~735)は『イングランド教会史』を著しています。

 9世紀末~10世紀初めにかけて七王国のなかのウェセックスの王が中心になり,統合が進んでいきました。ウェセックス王の〈アルフレッド〉大王(位871~899)【本試験H14・H27】【追H29デーン人の王国を建てたわけではない】がデーン人【本試験H14,本試験H27アヴァール人ではない】の襲来を防ぎ,973年には〈エドガー〉(位959~975)が,カンタベリ大司教のもとで「全ブリテン島皇帝」を称したことを,イングランド王国の成立とみることができます。ちなみに〈アルフレッド〉は歴史書アングロサクソン年代記』の編纂を命じています。

 国王は各地を移動しながらその声と体と豪華な儀式や奇跡(手で触れると病気が治るなど)【本試験H16リード文(アンリ4世の触手儀礼について)】で人々に権威を示し,現地で議会や裁判所を開いて回りました(移動宮廷。中世ヨーロッパで広く見られた支配方式です)。また,地方には州(シャイア,現在のイギリスのヨーク「シャー」などにも残る言葉です)が設置されました。

 なお,793年にはヴァイキング(ノルマン人【東京H6[3]】)の一派が,イングランド北部の大修道院を襲撃しています。彼らに関する初の記録です。次の時期に入ると,彼らの活動は一層本格化していくことになります。

 

●800年~1200年の世界

 中国南部では新たな米の品種(占城稲(せんじょうとう) 【追H26時期は9世紀後半~13世紀だが、黄河流域ではない】 【東京H19[1]指定語句,H26[3]】)が導入されました(米の品種改良)。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地で酒楼(しゅろう)や喫茶【追H20宋代の中国に江南で広く栽培されるようになった作物を問う。トウガラシではない、H27時期を問う】がにぎわいをみせました。農業用の鉄器や陶磁器の生産量も増加し,その窯で用いられていたコークス(石炭を蒸したもの)を鉄鍋料理の高火力に用いたことが,現在につながる“中華料理”のルーツとなります。


 三圃制(さんぽせい) 【本試験H19時期(6世紀ではない)】が導入され,馬の首あてが改良され,重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき) 【追H26】【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】【本試験H17】が発明されました。特に重量有輪犂によってより深く固い土を耕すことができるようになり,農業生産性がぐんと上がります【追H26】。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地にゴシック様式の教会が建造されました。


アフリカのサハラ沙漠以南の地域でもサハラ沙漠を越える塩金貿易【追H30】が活発化し,ニジェール川流域では農耕も栄えます。

 

●800年~1200年の中央ユーラシア
チベット高原では,7世紀初め,〈ソンチェンガムポ〉(ソンツェン=ガンポ,在位593~638,643~649) 【本試験H16】が氏族を統一し,吐蕃(とばん)王朝【京都H21[2]】【本試験H9[14]ヴェトナム北部ではない,イスラム文化と中国文化は融合していない,フビライの攻撃で滅んでいない】を建国しました。彼はネパールから王女として〈ティツゥン〉を招き,インド方面から学問を取り込みました。また,当時仏教の盛んだったカシミールからサンスクリット文字を学び,チベット文字【本試験H4南詔でつくられたのではない,本試験H9】がつくられました。

吐蕃【追H29唐に侵入したのは吐蕃であって,西夏ではない】は唐が安史の乱で混乱しているところを狙い,長安を占領し(848年まで),790年には亀茲の安西都護府を陥落させ,ウイグルと対抗し,東西貿易ルートを支配下におさめるにいたります。

 840年にキルギス【京都H19[2]】の進出によって,ウイグルモンゴル高原を追われます【追H28中央アジアでは「匈奴」の分裂をきっかけとしてトルコ化が進んだのではない】【H29共通テスト試行 地図(「トルコ系の勢力は,モンゴル高原から西方に広がった」ということの読み取り)】。

 モンゴル高原を出たウイグルは,天山山脈あたりで国家(天山ウイグル王国)を形成し,別の部族はさらに西でカルルクという遊牧民と合流して建国しました。
 後者はおそらく突厥の有力氏族(阿史那)の血を引くと首長する者が「カガン」を名乗り,940年にカラ=ハン(カラハン)朝【京都H19[2]】【追H19時期、H21イラクの王朝ではない】を建国したといわれますが,定説はありません。

 カラ=ハン朝【京都H19[2]】はテュルク系民族として初めて,(1)タリム盆地周辺と(2)アム川・シル川上流部を合わせた地域を支配しました。また,〈サトゥク=ボグラ=ハン〉の代に,西から伝わったイスラーム教に王や住民が一斉に改宗したという伝説が残されています。999年にはブハラを攻撃して,サーマーン朝【本試験H24】【追H19時期、H21】を滅ぼしました。

(1)と(2)を合わせた地域は,テュルク系の言語を話す人々が増えたこと(注1)からトルキスタンと呼ばれるようになり,(1)を西トルキスタン,(2)を東トルキスタンと呼ばれます。 (1)の中心都市としてはカシュガルやベラサグン(注2),(2) の中心都市にはサマルカンド【本試験H2ソグド人の中心都市であったことを問う】やブハラがあります。

カラ=ハン朝【京都H19[2]】は,1132年ころ,中国から西に逃げてきた契丹人の建国した西遼(カラキタイ) 【本試験H27】によって間接支配を受けることになります。


●800年~1200年のアジア

○800年~1200年のアジア  東北アジア
 中国東北部沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)では,ツングース諸語系の渤海が,モンゴル諸語系とみられる契丹(きったん)の建てた遼(916~1125)【東京H6[3]】に926年に滅ぼされ,代わってツングース諸語系【追H27モンゴル系ではない】の女真(女直,ジュルチン)人【追H27半猟半農生活を行っていたか問う】が拡大していきます。

 

○800年~1200年のアジア  東アジア
 朝鮮半島では新羅末期の混乱(後三国時代)を経て,〈王建〉(位918~943) 【追H9朱子学は栄えていない,H29高麗を建てたか問う,H30王莽ではない】が都を開城【本試験H22慶州ではない】【追H30】【慶・法H30】に定め高麗【追H24モンゴルの服属を受けたか問う,H29】を建て,935年には新羅を吸収し,936年に朝鮮半島を統一しました。高麗は科挙【本試験H21】により官僚を登用しましたが,新羅以来の貴族の力がまだ強く,科挙の合格者 (両班(ヤンバン))【本試験H8明の制度を取り入れていない】が実権を握る体制とはなっていませんでした。
 儒教も研究されましたが,仏教も盛んで,経典をまとめた『高麗版(こうらいばん)大蔵(だいぞう)経(きょう)』【本試験H17墨家とのひっかけ】が編纂されました。中国以外の磁器としては初となる高麗青磁(こうらいせいじ) 【東京H9[3]記述(特徴を説明する)】【共通一次 平1:赤絵ではない】が有名です。また,世界最古の金属活字【追H19高麗か問う,H28高麗で「金属活字が作られた」か問う】【共通一次 平1:銅活字であったか問う】【本試験H11:15世紀初めに実用化されたか問う,新羅ではない】【本試験H22朝鮮王朝ではない】が発明されましたが,広く普及はしませんでした(ちなみに銅による活字は15世紀初めの朝鮮王朝の時代)。漢字は種類が多く,活字には向かなかったのでしょう【共通一次 平1:訓民正音は高麗時代には用いられていない】。
 1170年以降は武人(武班)が政権を握り,文人(文班)は迫害を受けるなど,科挙官僚が実権を握る仕組みは作られませんでしたが,次第に宋代の中国で確立され13世紀に朝鮮半島に伝わった朱子学も普及していきました。

 ヴェトナム北部では中国からの独立政権ができ,1009年には李朝(りちょう)が国号を大越国【追H18】として独立しました。

 雲南地方では,南詔(なんしょう)にかわって,チベット=ビルマ系のペー族の大理(937~1254) 【東京H6[1]指定語句】【本試験H18大理→南詔の順ではない】が支配権を握ります。雲南というのは,チベット高原方面から,中国の南部にかけて高原地帯が続いているところで,長江とメコン川の上流地域です。“高原地帯の勢力は,なかなか落としにくい”の法則通り,独立を保ったまま,唐から冊封(さくほう)されました。ペー人は現在でも200万人足らずいて,米が主食でワサビを食べるなど,日本と似通った文化を持つ方々です。

 

 日本では,784年に長岡京,794年に平安京に遷都され律令制に基づく国家が建設されていましたが,しだいに天皇の実権は失われ,貴族・院・武家や寺社勢力が荘園(しょうえん)を財政的な基盤として同時に存在する分権的な体制が生まれていきました。
 漢字を参考にした仮名文字や,『源氏物語絵巻』のような大和絵(やまとえ)がつくられ,国風文化が栄えます。しかし〈平清盛〉(たいらのきよもり,1118~81)【本試験H30】が,武士として初めての太政大臣に就任し,日宋貿易で宋銭を輸入することによって貨幣経済を活発化させようとしました。彼の政権(平氏政権【立命館H30記】)は,日本初の武家政権です。しかし12世紀末に源氏と平氏の抗争が勃発し,平家は滅亡。勝利した〈源頼朝〉(みなもとのよりとも,1147~99)は鎌倉幕府を開いています【本試験H21時期】。

●中国
結局9世紀後半の黄巣の乱(塩の密売商人の〈黄巣〉による反乱) 【本試験H19紅巾の乱とのひっかけ,本試験H22北宋代ではない,本試験H26呉楚七国の乱とのひっかけ】により混乱しました。彼は,何度も科挙にトライして不合格となった人物で,同業者の〈王仙芝〉とともに挙兵しました。当時最大の貿易港であった広州の節度使就任を要求しましたが拒否されると,879年に広州に侵攻し,外国人居留地(蕃坊(ばんぼう))でイスラーム教徒のアラブ人やペルシア人(大食(タージー))を初めとする多数の外国人が殺害されました【本試験H3アッバース朝の頃,ムスリム商人の活動範囲が「遠く東南アジアや中国にまで及んだ」か問う】。
 その後は,北に反転して長安を占領。長安の皇帝一族は四川に避難します。反乱は884年に鎮圧されたので革命には至りませんでしたが,その頃の唐はもはや“風前の灯火(ともしび)”。
 907年に節度使の〈朱全忠〉(892~912年)によって滅ぼされることになります【本試験H26張角とのひっかけ,H29文字の獄は行っていない】。
 権力をにぎった〈朱全忠〉は,大運河【本試験H16】が黄河【本試験H16】とまじわる地点にある?州(べんしゅう【早政H30】,開封(かいほう) 【本試験H2地図上の位置を問う,北宋時代に「空前の繁栄期」を迎えたか問う】【本試験H16】)で即位し,後梁(こうりょう) 【H27京都[2]】を建国しました。従来の黄河流域から大運河の結節点への遷都は,〈朱全忠〉の現実主義的な政策を示しています。

 というわけで,この時代を華北【本試験H6建康が首都ではない】で五代が興亡,江南で呉越・南唐などの十国が並び立った時代ということで,五代十国時代というのです【本試験H19戦国時代,五胡十六国時代南北朝時代ではない】。10の国が戦国時代のように興(おこ)っては滅び,興っては滅んだわけではありません。


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この時代、宋の周辺では、さまざまな民族による国家が建設されていきます。
 まずはキタイ人です。
 モンゴル高原では,東南部の契丹(きったん。キタイ。モンゴル系です)に主導権が移ります。916年に即位した〈耶律阿保機〉(やりつあぼき,太祖,位916~926) 【本試験H31金の建国者ではない】 【京都H20[2]】は大契丹(だいきったん,のち「大遼」と改称。「遼」【東京H6[3],H10[3]】と呼ばれることが多いです) 【追H27燕雲十六州を加えたか問う、H28二重統治体制の内容を問う】 【共通一次 平1:地図上の領域を問う(淮河付近までは支配していない)】【本試験H14地図(最大領域の範囲を選ぶ),本試験H15,本試験H18匈奴ではない・唐代ではない】を建国しました。
 彼らは渤海(ぼっかい)を滅ぼしモンゴル高原にも進出。彼らの大帝国は「キタイ」として西方にも知られ「中国」の代名詞ともなり,現在では香港の航空会社「キャセイ」パシフィックにその名を残します。
 第2代〈耶律堯骨(太宗)〉のときには,五代の一つである後晋の建国援助した見返りに,河北地方・山西地方の一部燕雲十六州【東京H30[3]】【共通一次 平1:地図上の領域(もっと南の淮河付近までは支配していない)】【追H25地図上の位置,H27契丹が領土に加えたか問う】【本試験H15時期(10世紀),本試験H23ウイグルではない,本試験H29,H30東京】【中央文H27記】を獲得しました。また946年には国号を中国風の“大遼”に変更。同時に“遼”の国号も残し,中国とモンゴル高原をまたにかける支配をねらっていきました。
 遼【本試験H7突厥ではない】の第6代〈聖宗〉【本試験H13耶律阿保機ではない】のときには,のちに宋【本試験H29秦ではない】の第3代〈真宗(しんそう)〉(位997~1022)【本試験H7】との間に1004年,?淵(せんえん)の盟【本試験H7】【本試験H13史料・耶律阿保機の代ではない,本試験H15唐代ではない,本試験H30】が結ばれました。宋と兄【本試験H7】,遼を弟をみなしすもので,宋は安全保障のために,毎年銀【本試験H13金・鉄・馬ではない】と絹【本試験H13金・鉄・馬ではない】を契丹に贈りつづけることにしました。“お金で平和を買う”作戦です。契丹は宋から贈られた銀により貿易赤字を穴埋めしようとしたのです。
 契丹(きったん)は中国本土の支配にも積極的で,遊牧民と農牧民を同時に支配する二重統治体制を目指しました【追H28「遊牧民と農耕民とを、異なる制度の下で支配した」か問う】。
 遊牧民は北面官が部族制【本試験H14】により,農牧民は南面官が州県制【本試験H14,本試験H16前漢ではない】により支配しました。支配下漢人は初めは手工業・農業に従事させましたが,のちに参謀などとして中国支配のために利用する場合もありました。
 契丹文字【東京H6[3],H10[3]】【本試験H8満洲文字ではない】【本試験H24時期,H28キリル文字ではない,H30東京(図版)】は太祖がつくったとされる民族文字です。中国の影響を受けた絵画や陶磁器も発達しました。また仏教が信仰され,中京大定府には74mの高さを誇る仏塔(大明塔)が建造されました。

 2つ目はタングート人【本試験H12】【追H21、H28渤海を建国していない】。
 中国からシルクロードへの入り口にあたる,陝西(せんせい)や甘粛(かんしゅく)の地方には,チベット系のタングート人【追H21】が勢力を拡大させていました。982年にはタングート人のうち平夏部の〈李継遷〉が北宋から自立し,1038年に孫の〈李元昊〉(りげんこう,在位1038~48)が西方の寧夏や甘粛にまで支配圏を広げ,皇帝を称して大夏(西夏)(注) 【共通一次 平1:時期(12世紀ではない)・地図上の位置(甘粛の周辺かどうか)を問う】【本試験H3唐は和蕃公主を嫁がせていない】【追H21バクトリアではない,H28地図上の位置(渤海とのひっかけ)、H29唐に侵入していない】を建国しました。宋代には海上交易の比重も高まっていきますが,大夏(西夏)は依然として内陸ユーラシアとの陸上交易を保護して栄えました。
 大夏(西夏)は漢字の影響を受けて複雑な部首やつくりを持つ西夏文字共通一次 平1:甲骨文字,満州文字楔形文字の写真と判別させる】【本試験H8満洲文字ではない,本試験H12「漢字を模して,パスパ文字」をつくっていない】【本試験H15モンゴル語を表すための文字ではない】を駆使して公文書を作成し,仏教の経典を翻訳しました。また中国に対して圧力をかけ,1044年に中国から毎年の贈り物を送ることを交換条件に,慶暦の和約を結んでいます【本試験H13】。西夏は1036年に敦煌を占領しましたが,このときに大量の仏典が莫高窟(ばっこうくつ)の秘密のスペースに隠され,入り口が塞がれました。これがのち1900年に発見されることとなる敦煌文献です。
(注)10世紀後半~13世紀前半。大夏という正式な国号の代わりに西夏【本試験H22】といわれることが多いのは,漢人中心の歴史観の影響によるものです。ちなみに遼,金と異なり,西夏には正史が作られていません。

 3つ目はジュシェン人。
 渤海が滅んだあとの中国東北地方には,女真(女直)(じょしん;ジュシェン,女直(じょちょく;ジュルチン) 【追H27】【本試験H6】)が強大化しました。ツングース系【追H27モンゴル系ではない】で,唐代には靺鞨(まっかつ)と呼ばれ、半農半猟生活【追H27】をおくっていました。靺鞨のうち,黒水靺鞨からおこったのが女真(女直)人【本試験H5契丹人ではない】という民族です。1115年に〈完顔(ワンヤン)部の阿骨打(アクダ)〉(位1115~1123) 【本試験H31金の建国者か問う。耶律大石とのひっかけ】【追H19西遼の建国者ではない】が独立し,金(きん)(1115~1234) 【本試験H3唐の時代に和蕃公主が嫁いだ国ではない,本試験H5渤海を滅ぼしていない,本試験H11この女真清朝満洲族と「同じ系統」か問う】 【本試験H18中国全土に駅伝制を設けていない】を建国しました。都は中都(のちの北京)です。女真人は契丹文字と漢字をもとにして,女真文字をつくっています【本試験H5西夏文字ではない,本試験H12西夏の文字ではない】【本試験H31満州文字ではない】【追H21】。


女真(女直;ジュシェン)人は,契丹(キタイ)人をタリム盆地に追いやった
契丹タリム盆地へ,女真淮河まで南下
 女真(女直)人は遼には鷹狩用の鷹を輸出しており,特に遼の王には最高級のハルビン産の鷹が献上されていました。『遼史』によると,遼王〈天祚帝〉(任1101~1125)のもとで1112年に宴が催されたとき,参加した各部族の長は踊るよう命じられます。そのとき,女真の〈完顔阿骨打〉(ワンヤンアグダ)は踊ることを拒否。しかしそれにに対し,〈天祚帝〉は「礼儀は知らないが,狩りは上手い」と許します。その3年後,〈完顔阿骨打〉は金【本試験H11この女真人が清朝を建国する満洲人と「同じ系統」か問う】を建国し,宋と協力して遼を挟み撃ちにして滅ぼすことになるのです(注)。

 遼の王族であった〈耶律大石〉(やりつたいせき,在位1132~43) 【本試験H21,本試験H24時期,本試験H31金を建国していない(耶律阿保機とのひっかけ)】【追H21,H29】はタリム盆地に逃げて,ベラサグンを都に西遼(カラ=キタイ) 【本試験H4唐の高宗によって討たれていない】【本試験H14?淵の盟により国力が増したから西に移動したわけではない,本試験H21,セ23ウイグルに滅ぼされていない,本試験H27時期】【追H21完顔阿骨打ではない,H29カラ=ハン朝ではない】という国家を形成しました。

金では,お札(ふだ)や不老長寿薬を使ったり,大土地を持ち農民から金をふんだくったりするようになった今までの道教を改革する全(ぜん)真(しん)教(きょう)【本試験H22西夏ではない】【追H30】がうまれ,流行しました。

また,宋代に大型のジャンク船【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】が開発されたことを背景に,海の守護神である媽祖(まそ)を祀った媽祖廟(まそびょう)は中国南部や香港・台湾・日本にみられます。


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交易ブームを背景として,宋も首都を開封に置く
 五代期の政治は「武断政治」といわれ,武力がものをいう時代でした。最後の後周の〈世宗〉は禁軍(皇帝直轄の舞台) 【早・政経H31解体していない】【中央文H27記】を強化し,959年には燕雲十六州(936年に後晋の〈高祖〉が割譲していました)を遼から一部奪回しています。
 しかし,彼により強化された禁軍の総司令官〈趙匡胤〉(ちょうきょういん(太祖),在位960~976) 【本試験H18,H29共通テスト試行 建国の年代(グラフ問題)】【追H27王安石ではない、H29南宋を建てた趙高ではない】は,部下の支持を集めて皇帝に即位します。〈世宗〉の子が幼すぎたため,支配層によって推挙されたのです。これが,禅譲によって王朝が代わった最後の例となります。

 新たな王朝である宋(960~1127の北宋【京都H21[2]】と1127~1276(1279に皇族が全滅)の南宋に分ける)の首都は,五代と同じく開封(かいほう)です【本試験H25長安,咸陽,建康ではない】。宋が商業による収入増を見込んだことがわかります。この時代の開封【早・法H31】の反映は、北宋から南宋にかけての宮廷画家であった〈張択端〉(ちょうたくたん)によるとされる「清明上河図」【早・政経H31解答に直接必要なし】に描かれています(北京の故宮博物院に所蔵)。

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また,科挙に合格した文人官僚を重用し【本試験H18】文治主義(ぶんちしゅぎ)を推進。中央では貴族の根城(ねじろ)であった門下省中書省に吸収して中書門下省とし,貴族の合議によって政策を決定する形から皇帝専制への道をひらきました。六部を従える尚書省は残しましたが何度か廃止・復活され,財務については三司(塩鉄・度支・戸部)が独立して設けられています。
 軍人が政治の実権をにぎる習わしをなくすため,官僚が枢密院によって皇帝直属軍(禁軍)を管轄する制度をつくります。節度使にも軍人ではなく文官をあてるようにし,軍事権をとりあげました。科挙を整備し,最終試験に皇帝の直接試験である殿試(でんし) 【本試験H9宰相が試験官ではない,本試験H11宋代以降に行われ「皇帝と官僚の結びつきが強化された」か問う】【本試験H18隋代ではない,H21元代ではない】【追H26時期を問う、H30唐代ではない】【早・法H31】【明文H30記】が導入されました。
 こうして,隋唐代に栄華を極めた貴族が没落し,科挙に合格した官僚と,皇帝直属軍の禁軍が皇帝独裁体制を支える存在になっていったのです.
 科挙の合格者は,新興地主層(形勢戸(けいせいこ)) 【追H18】が中心でした。彼らは唐末・五代の混乱のなかで,特に江南(長江流域)で新たに土地を占有し,小作人の佃戸(でんこ) 【本試験H6「奴婢」ではない】【本試験H26時期,H29共通テスト試行 戦争捕虜を奴隷としたわけではない(755~960の時期について)】の労働力によりのし上がった人々です。

 朝貢貿易は唐の時代よりも縮小しましたが,大規模なジャンク船【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】の改良により民間貿易がさかんになって,広州・泉州【H27京都[2]】・明州(現・寧波(ニンポー【追H29地図】【早政H30】)) が繁栄し,市舶司(しはくし) 【東京H8[3]】 【本試験H20節度使ではない,本試験H23,本試験H25時期】【追H29地図(天津には置かれていない)】【立命館H30記】が貿易を管理していました【本試験H7 絹を海外輸出し,大量の銅銭が流入した事実はない】。

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 なお、「海の道」(海のシルクロード)を通って中国産の陶磁器【東京H20[3]】が西の海域に輸送されたことから,この海上の交易ネットワークのことを「陶磁の道(セラミック=ロード)」と呼ぶこともあります。


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◆宋代には商品経済が発達した
商業都市が生まれ,紙幣が刷られ,新技術が出現
 宋というのはいよいよ商業が盛んになる時期です。唐代には商業は都市のなかだけで認められていたのですが,宋になるとその規制もゆるみ,あちこちに商業都市(草市や鎮)が整備されていきます。草市(そうし) 【本試験H16都市の城壁外や地方農村の交易場のことか問う,本試験H23衛所ではない,本試験H25同業者組合ではない】【立命館H30記】というのは,はじめは都市の城壁の外で馬のエサ(まぐさ)を売る市場のことをいったのですが,やがて粗末な市場というニュアンスになったものです。鎮(ちん) 【本試験H23衛所ではない】はもともと軍隊の駐屯地を指す言葉でしたが,宋の時代には交通の要所に自然発生的にできた商業都市のことをいうようになります。
 商業や手工業の同業者組合として,以前からあった行(こう)【本試験H16】【立命館H30記】や作(さく)の活動が積極的になりました。これらは隋・唐の時代には城壁の中に区画された市の限定された場所で活動していましたが,宋代になると都市の枠を越え,活動の場を広げていきます。ただし,国家による規制は強く,官僚への物資の納入を担当するようになる行(こう)も出ていきます。また,客商売をする商人である客商(きゃくしょう)に物資をおろす,仲買人や問屋である牙行(がこう)と呼ばれる大商人の力も強まっていきました。
 取引が増えれば,貨幣が用いられるようになり,銅銭が大量発行され,この時期には日本にも輸出されています。また,遠距離間の支払手段として,銅銭をジャラジャラ持ち運ぶのは大変不便なので,信用を保証するしくみをつくって,民間の手形【本試験H10遼や西夏に毎年贈るために用いられたわけではない】である交子(こうし)【本試験H5 18世紀の米価騰貴はこの大量発行によるものではない,本試験H10交鈔ではない,宋の紙幣かを問う】【本試験H22交鈔ではない】【追H29唐が銀の地金に加えて,交子を使ったか問う】【立命館H30記】や会子(かいし【本試験H10宋の紙幣かを問う】【本試験H22交鈔ではない】)が使われるようになり,やがてそれ自体が紙幣として価値をもつようになっていきました。また,唐~宋の時代の送金手形は飛(ひ)銭(せん)【立命館H30記】とよばれ,盛んに用いられています。
 取引された商品としては,白磁青磁という磁器があります。シンプルですらっとした美しさが特色です。飾りを削ぎ落とそうとする姿勢は,当時発展した新しいタイプの儒学も関係しています。磁器とは,カオリンという珪酸塩鉱物を含む土から作られる陶器で,1300度の高温で焼き上げた半透明のうつわのことです。陶器よりも厚めで,ツヤのある白いボディが特徴です。カオリンという名は,磁器【本試験H7茶ではない】の一大産地である景徳鎮(けいとくちん) 【東京H9[3],H17[3]】【本試験H7】【本試験H16絹織物生産地ではない,本試験H27(陶磁器の産地かどうか問う),H30】にある地名「高陵」からとられ,磁器のことを英語ではchina(チャイナ)といいます。
 なお“三大発明”と称される,火薬【追H25中国からイスラーム世界に伝播されたか問う】,活版印刷【追H28唐代の中国からイスラーム世界に伝わったのではない(それは製紙法)】【共通一次 平1:元ではない】【本試験H2唐代に金属活字による印刷術は普及していない】,羅針盤(らしんばん)【本試験H2】【東京H9[3]】の技術は,宋代【東京H9[3]】におこりました(羅針盤はのち【本試験H2時期(明代にヨーロッパに伝わったのではない)】にイタリア【東京H9[3]】【セA H30】で改良)。


◆新儒教(朱子学)が新たな支配階層の間に広まった
木版印刷の発展で,科挙が完成し,思想が栄えた
 北宋の〈周敦頤〉(しゅうとんい,1017~73) 【慶文H30記】や〈程顥〉(ていこう)と〈程頤〉(ていい),の兄弟,従来の儒教を哲学的に高め,南宋の〈朱熹〉(しゅき,1130~1200) 【本試験H9,本試験H11】 【本試験H13四書を重視し宋学を大成したか問う,本試験H14】【立命館H30記】が大成した宋学(朱子学) 【本試験H9官学とされたのは陽明学ではない,本試験H11陽明学ではない。内容も問う「宇宙の原理や人間の本質などの探究を目指す」】です【本試験H13,本試験H27】。新儒教(ネオ=コンフューショニズム)ともいわれます。
 すでに手垢のついた五経よりも四書【本試験H17墨家とのひっかけ,H31朱子学で重んじられたか問う】(『大学』,『中庸』,『論語』【本試験H13,本試験H14五経には含まれない】,『孟子』)を重んじ,科挙官僚になった知識人(読書人ともいいます)である士大夫(したいふ)層に支持されました。宋代以降の科挙は皇帝が最終試験を自ら行うようになったため,官僚と皇帝の結びつきが強くなり,唐代の支配階層であった貴族は没落し,代わって科挙に合格した士大夫層に代わりました。
 科挙受験には特別な資格は必要ありませんでしたが【本試験H11「特別な受験資格が必要」ではない】,科挙合格者を出した家柄は官戸【本試験H4,H9(11世紀に新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていたか問う),H11】とされ,特権【本試験H4役(えき)などの負担が免除されたか問う】が与えられます。木版印刷【明文H30記】によって印刷されやすくなった科挙のテキストは,科挙の試験対策として使用されていきます。
 宋学は「大義名分論」【本試験H14】といって,中華⇔夷狄(いてき),君主⇔家臣の区別を重視した【本試験H9平等を説いたわけではない】ため,実際には遊牧民に取り囲まれていた宋の人々を勇気づける考えでもあったのです。
 〈朱熹〉の「性即理」を唱える朱子学に対抗して【本試験H7】,「心即理」(しんそくり)【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】を論じたのが,同時代の〈陸九淵〉(りくきゅうえん) 【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】です。彼の説はのちに儒教の1ジャンルとして独立し,陽明学として体系化されていきます。

 唐代には漢詩が盛んにつくられましたが,宋代には〈欧陽脩〉(おうようしゅう,『新唐書』『新五代史』が主著) 【本試験H11『資治通鑑』ではない】【本試験H21唐代ではない,本試験H25】時期】や〈蘇軾〉(そしょく,「赤壁の賦(ふ)」で有名) 【本試験H3長恨歌の作者ではない,本試験H11:宋代の文化か問う。散文の代表的作者か問う】【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】といった古文のスタイルをみならい復興させた,散文【本試験H3】の名文家も現れます。すぐれた8人は「唐宋八大家」(はちだいか,はちたいか。唐の〈韓愈(かんゆ)〉【本試験H3宋代ではない】【本試験H22古文を復興したか問う】と〈柳宗元(りゅうそうげん)〉【本試験H3宋代ではない】。宋の〈欧陽脩(おうようしゅう)〉【本試験H11『資治通鑑』の著者ではない】,〈蘇洵〉,〈蘇軾(そしょく)〉,〈蘇(そ)轍(てつ)〉,〈曾鞏(そうきょう)〉,〈王安石〉【追H27】【慶文H30記】)と称されました。現実には周辺民族にすっかり“押され気味”となっていた宋では,歴史上の王朝を振り返り“あのころは良かった”と懐かしむ古典主義的な風潮が流行したわけです。

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貨幣で土地を買い占めた大地主は,小作人として佃戸(でんこ) 【本試験H26時期】を働かせ,なかには奴隷同然の佃戸もいました。

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 また,東南アジアからチャンパー米(まい)(占城稲(せんじょうとう))という収穫量の多い新しい品種も導入されました【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題。春秋戦国時代後漢または清代ではない)】。こうして生産力がアップすると,「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」【追H25時期が宋代か問う】(長江下流域で稲穂が実れば,中国人みんなのお腹を満たすことができる)といわれるようにもなりました。
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 しかし,経済が盛んになればなるほど,人々の間に経済格差が生じます。また,北方の異民族の進入に対処するための軍事費も膨れ上がり,財政のやりくりがたいへんになっていました。
 そこで,1067年に即位した〈神宗〉(しんそう,在位1067~85) 【本試験H22徽宗ではない】のときに,〈王安石〉(1021~86) 【追H27宋を建てていない】 【本試験H21】【慶文H30記】【明文H30】が登用されます。25歳で科挙に4位で合格したエリートです。彼が財政再建のために提案したのは,歳出を減らし歳入を増やすとともに,軍事力を強化するための一連の新法(しんぽう)でした【京都H21[2]】【本試験H21】。例えば,民兵を訓練して治安維持に用いる保甲法【本試験H14秦代ではない】,働くことで税をおさめる力役(りきえき)を免除するために免役銭を集めて働きたい者を雇う募役法,植え付け時に貧農に金銭・穀物を低金利で貸す青苗法(せいびょうほう【本試験H22一条鞭法ではない】),中小商人に低金利で貸し付ける市易法(しえきほう【本試験H24漢代ではない】【追H21北魏の制度ではない】),そして物価安定をめざす均輸法などです。これらの施策によって国家財政は好転し,かなりの効果を収めました。
 しかし,特に市易法(しえきほう)や青苗法(せいびょうほう)は,貸付によってもうけていた大商人や地主【本試験H30】の反発も強く,反対派の旧法党【追H26東林派とのひっかけ】と新法党との間の党争が起きました【本試験H17唐代ではない】。旧法党の政治家としては、歴史家で『資治通鑑』(しじつがん(注)) 【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9,本試験H11】【本試験H13南宋の和平派とのひっかけ】【追H21編年体か問う、H24班固の著作ではない,H28司馬遷による編纂ではない】を編年体【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9】であらわした〈司馬光〉(しば こう1019~86) 【本試験H9】【本試験H26両税法の楊炎ではない,本試験H30】が有力です。


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しかし,科挙の受験勉強には莫大な費用がかかったことから,宋代では経済的に余裕のある新興地主(形勢戸【本試験H11科挙の特別な受験資格を持った家のことではない】)の合格者が多数を占めていました。

画院【本試験H17】という芸術家を集めた官庁を保護した〈徽宗〉(きそう,位1100~25) 【本試験H17高宗ではない】【追H19】のころには,庭を作るためにお好みの奇岩(花石綱)を調達しようとして民衆を酷使したことなどがきっかけで,1120年に方臘の乱(ほうろうのらん)というマニ教徒の乱が起き,各地は大混乱に陥りました。このときの民衆反乱に加わった無頼層(アウトロー)たちの活躍が,物語『水滸伝』(すいこでん) 【追H24元代に原形ができたか問う(正しい)】のモチーフになっているといわれます。

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 そんなときに,1126~27年に金が開封に攻め込んできたために対応が遅れ,上皇徽宗〉(きそう,在位1100~25,生没年1082~1135)と皇帝〈欽宗〉(位1125~27,生没年1100~61)(きんそう)は捕虜となり,華北を失いました。これを靖康の変【東京H8[3]】【H27京都[2]】【本試験H18地図・土木の変ではない,H21 世紀を問う】【早・法H31】(せいこうのへん)といいます。
 〈欽宗〉の弟〈高宗〉(こうそう;趙高,在位1127~62) 【追H29趙匡胤ではない】が江南に逃げて皇帝となって,宋を復活(南宋,1127~1276(1279に皇族が全滅)) 【追H29】し,大運河の終着点である臨安(現在の杭州) 【本試験H2金陵とは呼ばれていない(それは明代の現・南京),本試験H4明の遷都先ではない】【本試験H21】【追H18】を都にしました。

 なお,〈徽宗〉は宮廷の画院(がいん)【早・法H31】を拠点にした院体画(北宗画(ほくそうが)) 【早・法H31】の画家としても有名で,「鳩桃図」(きゅうとうず) 【本試験H11:宋代の文化かどうか問う。文人がの代表作ではない】が代表作です。この絵はのちに〈足利義満〉のもとに流れ着き,日本の国宝になっています。

 こうして宋は,淮河(わいが(淮水,わいすい)) 【本試験H5】【H27京都[2]】以北を金に占領されてしまう事態となり,金に対して臣下の礼をとることとなりました【早・法H31】。
 金【本試験H21元ではない】との和平派【本試験H13旧法党ではない】の〈秦檜〉(しんかい,1090~1155) 【本試験H21】と主戦派の〈岳飛〉(がくひ,1103~41)との対立も起きます。金【本試験H8遼ではない】の南進を不安視した〈秦檜〉は,1141年に〈岳飛〉らを処刑し,1142年に和議を成立させました(紹興の和議)。これは金を臣,南宗を君とする内容で【本試験H8「金の臣下になるという条件」か問う】,銀25万両と絹25万疋を毎年支払うもので,“金で平和を買った”わけです。
 金に勝った英雄〈岳飛〉を,〈秦檜〉が自分の出世のために獄死に追いやったとされ,「中華」のほうが異民族より“上”なのだという大義名分論を説く朱子学の考え方では,〈秦檜〉は“悪者中の悪者”(国賊(こくぞく))です。
 金は猛安・謀克(もうあんぼうこく) 【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】【本試験H16・H27・H30】【追H19】という,遊牧民と定住農牧民とで支配の方式を使い分ける制度を導入しました。
 すでに1276年に首都臨安を失っていた南宋は1279年に,モンゴル人で元の皇帝〈クビライ=カアン(フビライ=ハーン)〉(位1260~94) 【追H9チンギス=ハンではない】に敗れ,逃亡していた南宋の皇族たちが亡くなり,完全に滅びました。


●朝鮮

地方の豪族出身で中央政界に進出し,文官と武官どちらか【本試験H8文官と武官を「兼ねた」わけではない】の官僚として特権を獲得し,「両班」(ヤンバン)階級【追H19佃戸ではない,H26】が形成されていきました。文官と武官は,党派に分かれて争うようになり,しばしば政治の混乱を招くようになります【本試験H8】。
 民衆の大部分は良人(りょうじん) 【追H26リード文】身分の農民で,さらにその下には賤人(せんじん)身分の奴婢(ぬひ) 【追H26リード文】【本試験H6】がいました。


のち,1125年に遼が崩壊し【本試験H12匈奴により滅んだわけではない】,1127年に南宋が成立すると,高麗は1128年に女真(女直)人の金の冊封体制下に入りました。高麗ではその後内紛が勃発し,下級の武臣によるクーデタにより12世紀末に武臣政権が成立しました。


●東南アジア
9世紀初めには,チャンパー【東京H30[3]】王国(環王)の勢力が盛んになり,漢人の王朝である唐(618~907)の設置した安南都護府が攻撃されました。
 防衛のために軍事力を強化すべく,現地の豪族が用いられるようになると,8世紀後半には今度は彼らが安南都護府に干渉するようになります。

 9世紀後半には,雲南南詔が,南シナ海の交易ルートにアクセスしようと,安南都護府を攻撃するようになります。しかし,唐にとって安南都護府は,東南アジアとの交易のための“生命線”です。なんとか維持しようとしましたが,次第に大型のジャンク船【本試験H22三段櫂船ではない】【立命館H30記】が発達・普及していくにつれ,ヴェトナム中部から直接,海上南シナ海沿岸の広州などを結ぶルートが主流になると,ヴェトナム北部の重要性は低下し,勢いは衰えていきました。


しかし,紅河の農耕地帯の拠点を押さえていなかったために国力は弱く,将軍〈李公蘊〉(リ=コウ=ウアン,りこううん,在位1009~28)が李朝【本試験H16時期・元を撃退していない,本試験H20唐代ではない】を建て,国号を大越(ダイベト)としました。

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 シャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】は9世紀半ばにジャワ島で勢力を失うと,9世紀後半にはマラッカ海峡方面に拠点が移動しました。

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インドとの活発な交易を背景に「ヒンドゥー教」や大乗仏教と土着の文化が融合し(⇒800~1200南アジア),ヒンドゥー=ジャワ文化が栄えました。特に,『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』【東京H10[3]】を題材にした影絵芝居のワヤン=クリ(ワヤン,ワヤン=クリット)【本試験H26地域を問う】【追H24ジャワの影絵芝居か問う】は10世紀には上演されていました。

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 1025年にインド南東部のチョーラ朝【本試験H31中国の清に使節を派遣していない(時期が違う)】がマラッカ海峡に大遠征軍を差し向け,交易ネットワークを支配しようとしましたが,1080年頃から支配は弱まります。

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 のちに1113年に東北タイの台地から南下した〈スールヤヴァルマン2世〉(位1113?~50?) 【本試験H19チャンドラグプタ2世ではない】は,アンコールで即位し,1116年には中国の宋に朝貢。東南アジア諸国にとって,中国の皇帝からより高い位(くらい)を与えられることは,中国との衝突を避けつつ,周囲の国家よりも「自分のほうが上だ!」とマウンティングするための重要な手段でした。

乾季にも栽培できるように早生種が導入され,確保した労働力が王の権威を象徴する巨大施設建設に振り向けられました。これが,65mの塔を持つ大規模な寺院(アンコール=ワット) 【本試験H9[19]図版・イスラム教の寺院ではない】【本試験H21大乗仏教の寺院ではない,本試験H19シュリーヴィジャヤ王国ではない・時期,H31クメール人によって建てられたか問う】【追H17地図上と時期(8世紀ではない)】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】です。

 アンコール=ワットは,都城アンコール=トム【本試験H27】の南部に建設されました。
 寺院は当初はヒンドゥー教【本試験H19】の神々を祀(まつ)るために建てられました。なお,アンコール=ワットから東へ60kmのところにはベン=メリア寺院があり,“東のアンコール”と呼ばれます(建設時期はアンコール=ワットより早い)。


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 ビルマでは,ピューが衰えたのち,11世紀に〈アノーヤター〉王(位1044~1077)が即位してパガン朝【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H5,本試験H11:時期(11~13世紀かどうか問う)】【本試験H18スマトラ島ではない,本試験H19インドネシアではない,本試験H26地域を問う】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が開かれました。
 パガンはイラワジ川中流域で,南下したビルマ人【本試験H5モン族の文化を保護していない】により建国され,灌漑を奨励して栄えました。上座仏教【本試験H6ビルマで上座仏教が信仰されているか問う】【本試験H16大乗仏教ではない,本試験H19・H22】を国教とし,多くのストゥーパ(パガン)が多数建立されました。だからパガン朝というのです。


●南アジア
マハーバーラタ』【東京H10[3]】や『ラーマーヤナ』が地方語に訳されていったのもこの時期です。

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イスラーム教徒のインドへの進出もこの時期のことです。
 642年にニハーヴァンドの戦い【追H30】でササン(サーサーン)朝【追H30】を滅ぼしたイスラーム教徒たちは,アラビア海に沿ってインドに向かってきました。


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 アッバース朝が衰退すると,アム川とシル川に挟まれた地域(マーワラー=アンナフル地方) 【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】では,875年にこの地域のイラン系【本試験H10】貴族の〈サーマーン〉がイスラーム教に改宗した後,サーマーン朝【本試験H10】【追H18時期】を建てました。サーマーン朝はアッバース家から自立し,サッファール朝を破りました。首都はブハラです。
 しかし,965年頃,今度はサーマーン朝につかえていたトルコ人マムルークである〈アルプテギン〉が,アフガニスタン【本試験H10ここを本拠とするか問う】のガズナで独立し,ガズナ朝(962~1186) 【本試験H10】【追H19時期,H21時期(10世紀か)】
【追H21】
が自立しました。〈マフムード〉(位998~1030) 【慶文H29】のときに,北インドへの侵攻を開始しました【本試験H31北インドへの侵略を繰り返したのはマムルーク朝ではない】。

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カリフ以外で初めてスルターンを名乗ったのは,ガズナ朝の〈マフムード〉(971~1030)です。のちのセルジューク朝の〈トゥグリル=ベク〉はカリフにスルターンの称号を要求しましたが,〈マフムード〉はカリフの権威は認めていました。この〈マフムード〉王にペルシア語【追H28サンスクリット語ではない】で『王書』(シャー=ナーメ) 【追H28『王の書』】という叙事詩を書き献上したのは〈フィルドゥシー〉(フェルドウスィー,934~1025)。さらに〈アル=ビールーニー〉(973~1048)は彼の遠征に同行して『インド誌』を記録しています。

 プラティハーラ朝は,1018年に彼にカナウジを占領されて滅んでいます。彼の死後には王朝は弱体化し,1038年にセルジューク朝にホラーサーンのニシャープールを奪われ,1148年頃にアフガニスタンでゴール朝(1148頃~1215) 【追H17仏教国ではない】が自立したため,ガズナ朝はインドのパンジャーブ地方に拠点を移しますが【本試験H219世紀ではない】,1186年に滅びます。

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インド南端部では,南東のチョーラ朝(850頃~1279頃) 【追H20時期(14世紀か)】がカーヴェリ川の三角州でダムや灌漑施設を整備したことで栄え,〈ラージャラージャ1世〉(位970~985)は,南部の諸王国とスリランカを破り,さらにガンジス川や東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国(注) 【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】にまで遠征して,一時マレー半島を支配するまでに発展し,海上交易で栄えました【本試験H29】【追H20東南アジアにまで遠征したか問う,時期(14世紀か)】。東南アジアにはインドの「ヒンドゥー教」文化が伝わり,10世紀頃のジャワ島【追H20】ではインドの神話を題材とした影絵芝居【追H20】ワヤン(ワヤン=クリ;ワヤン=クリット) 【追H20】が上映されていました。ちなみに,現在のインドネシアの国章に描かれるガルーダ(国営航空会社の名でもあります)は,ヒンドゥー教ヴィシュヌ神の乗り物です。]

 

西アジア


お隣のヨーロッパにおいても人口増加を背景として,拡大運動が始まっています。その最たる例が1095年にローマ=カトリック教会の教皇により提唱された十字軍【東京H7[1]指定語句】でした。
 十字軍は宗教的情熱から始まった運動ですが,それと同時に増加したヨーロッパ諸民族の対外拡大運動でもあったのです。少数のキリスト教徒(「フランク人」(注2)と呼ばれました)の支配者がイスラーム教徒の農民を支配する体制となり,軍事力を補うために騎士修道会による移民がおこなわれました。また当時のイスラーム教徒側は十字軍との戦いを必ずしも宗教的な戦いととらえておらず,キリスト教徒に対抗する勢力も一枚岩ではありませんでした。

 なお,この時代はテュルク人が活躍する時期でもあります。彼らはもともとモンゴル高原を拠点としていましたが,西に移住してイスラーム教を受け入れ軍人としての才覚を開花させ,11世紀にはセルジューク朝という大帝国を建設するに至ります。イランのサーマーン朝【慶文H29】はその育成・輸出で繁栄。そこからアフガニスタン方面のガズナ朝【本試験H3】,ゴール朝【追H17仏教国ではない】の北インドへの進出もこの時代です。

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〈ハールーン=アッラシード〉(位786~809) 【本試験H3シャープール1世ではない】【本試験H21時期】の死後,その子〈マアムーン〉(位813~833)のもとで〈フワーリズミー〉が代数学(アルジブラ) 【東京H23[1]指定語句】を発達させるなど学芸が栄えました。フワーリズミーとは「ホラズム地方出身」ということを表した名です。イスラームにおける数学には,インド【東京H23[1]指定語句】【追H28イスラーム世界からインドに伝わったわけではない】で発見されたゼロの記数法【追H19】が影響を与えています。
 アラビア数字【本試験H2バビロニア王国で考案された文字ではない】は,現在,世界で使用されている算用数字のもとです【本試験H2】。

 また,ウラマー(学者)の〈タバリー〉(位838~923) 【追H21リード文に登場】が『預言者たちと王たちの歴史』という長大な歴史書を,一神教世界観に基づく人類史の中に〈ムハンマド〉以降の歴史を位置づけた年代記の形で発表しています。
 カリフの〈マアムーン〉はバイト=アル=ヒクマ(知恵の館)を建設し,学者を招いて古代ギリシア・ローマの文献のアラビア語翻訳【追H18】を奨励しました。


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 ソグディアナ【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】ではブハラ【京都H22[2]】【本試験H30コルドバではない】を都として,イラン系【本試験H10】【追H21トルコ系ではない】の支配者によりサーマーン朝 (874~999) 【京都H22[2]問題文】 【本試験H10】【追H21時期(10世紀ではない)】【慶文H29】が独立しています。ブハラには,医学者(著書『治癒(ちゆ)の書(しょ)』)・哲学者(〈プラトン〉と〈アリストテレス〉の思想をイスラーム教に導入)として有名な〈イブン=シーナー〉(980~1037) 【東京H23[1]指定語句】【本試験H10】【本試験H16イブン=サウードではない】【追H20時期,追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う→正しいが、11世紀から12世紀にかけて生きた〈ガザーリー〉(1058~1111)も選択肢にあるので超難問(センタ―試験史上最高峰?))、H30ラテン語に翻訳されたか問う】をはじめとする学者が集まり,世界屈指の文化・科学技術が発達する街となりました。

 946年にはカスピ海の南西岸の山岳地帯ダイラムのシーア派(ザイド派)に属するブワイフ家が,ダイラム人を率いて軍事的に台頭し,アッバース朝から独立しブワイフ朝【本試験H16地域(西アジア),本試験H22 13・14世紀ではない・南アジアではない】【追H18】を建国しました。
 ブワイフ朝アッバース朝の都バグダードに入城し【本試験H16,本試験H20世紀を問う】ブワイフ家の〈アフマド〉が,アッバース朝のカリフの〈ムスタクフィー〉(位944~946)に迫って「大アミール」(注)の職を授かり,ダウラ(国家)の守護者の称号を与えられるとともに,シャー=ハン=シャー(王の中の王)というイランの伝統的な王の称号も用いました。これはアッバース朝の時代にはカリフの次に重要なポストでした。

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 ブワイフ朝は,配下の騎士に俸給を払うアター制に代わって土地を与え,その地で徴税をする権利(徴税権)まで与えました。徴税権付きの土地,あるいは徴税権そのもののことをイクター【本試験H5ジズヤではない】【本試験H13ラティフンディアとのひっかけ】といい,この制度をイクター制といいます【本試験H27後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)ではない,本試験H29】【追H25オスマン帝国が創始したのではない】【中央文H27記】。イラクでの実施が最初の例ですが,その後のイスラーム諸政権はイクター制に類する制度を採用することになります。

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 ブワイフ朝は,軍人同士の対立やスンナ派シーア派の対立,イクターを授与された軍人の厳しい徴税による農村の荒廃により衰えていきました。そんな中,11世紀にはテュルク人のイスラーム王朝(スンナ派【本試験H23】【追H21シーア派ではない】)であるセルジューク朝【本試験H6タリム盆地は含まない,小アジアパレスティナイラン高原は領域に含む】【本試験H21地図上で進出ルートを問う・アイユーブ朝ではない,本試験H23地図上の位置を問う,H31】【追H25シーア派の学問を振興していない,H29】 (1038~1194)が,マムルークの軍事力により強大化しました。

 〈セルジューク〉(生没年不詳)は,当時シル川よりも北にいた遊牧民オグズ人集団の連合体の指導者でした。オグズは後に「トゥルクマーン」と呼ばれるようになります。その後〈トゥグリル=ベク〉【本試験H16ファーティマ朝の宰相ではない】は,1055年にバグダードに入城し,カリフに「スルターン」【セ試行「ウマイヤ朝で,スルターンの称号がイスラム史上はじめて世襲された」のではない】【本試験H9ウラマーのひっかけ】の位を要求し,希望通り授けられます。

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また,セルジューク朝遊牧民のテュルク【京都H20[2]】系の集団を引き連れ小アジアアナトリア【本試験H31】【追H29モロッコではない】〕にも進出しビザンツ帝国を圧迫【本試験H31】します。

 第2代の〈アルプ=アルスラン〉(位1063~73)1071年にマンジケルトの戦い【京都H20[2]問題文】で勝利しました。セルジューク王族の一人〈スライマーン〉が小アジアのコンヤ【京都H20[2]問題文】を首都として1077年にはルーム=セルジューク朝(1077~1308) 【京都H20[2]】【本試験H8オスマン帝国ではない】【追H17十字軍のきっかけとなったのはブワイフ朝ではない】を建国しています。
 イェルサレムにも支配を拡大したことから「イスラーム教徒がキリスト教の巡礼者を妨害している」という主張が生まれ,第一回十字軍【H30共通テスト試行 移動方向(ヨーロッパから西アジア方向であることを問う)】【追H17きっかけはブワイフ朝小アジア進出ではない】のきっかけとなりました。しかし,セルジューク朝が組織的に巡礼を妨害したという事実は,明らかになっていません。

 第3代〈マリク=シャー〉(位1072~92)のときにはシリアにも進出し,領域を拡大しました。各地に学院(マドラサアラビア語で「学ぶ場所」を指す一般名詞)【追H27イスラーム教の法・神学を学ぶ施設か問う】)を建て学問を奨励し,イラン人の宰相〈ニザーム=アルムルク〉(1018~92)によりバグダードやニシャープールになど9か所にマドラサ(学院)が建設され,ニザーミーヤ学院【東京H14[3]】【本試験H16カイロではない・ファーティマ朝による建設ではない】【追H25シーア派を振興していない】【慶文H29】と総称されました。
 マドラサでは学問的な修練を積んだウラマー(学者)を中心にイスラーム法学が発展する一方,難解な教義を通してではなく神秘的な体験を通してスーフィー【追H17】という聖者の指導で直接的な神との一体化【追H17】を目指すスーフィズム(神秘主義) 【本試験H6「復古主義原理主義的で,「コーランの教えに帰れ」と唱えていた」わけではない(それはワッハーブ派など)】【追H17】が農村部で広がりをみせていました。スーフィズム教団は修行を積んだ師(シャイフ)に率いられ,民衆から聖者(ワリー)として尊敬を集めました。


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 抒情詩『ルバイヤート(四行詩集)』が〈オマル(ウマル)=ハイヤーム〉(1048~1131。オマルはペルシア語読み。ウマルはアラビア語読み) 【追H19シャクンタラーとのひっかけ】によって編まれました。

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 962年には,アフガニスタン【本試験H10】でも,サーマーン朝【追H21時期(成立は10世紀ではない)】のホラーサーン地方(現在のイラン東部)総督だった〈アルプテギン〉(?~963以前?) 【本試験H9[25]マムルークの出身か問う】が自立し,ガズナ朝【本試験H3トルコ系か問う,本試験H9[24],本試験H10】【本試験H28時期,本試験H30】【追H21時期(10世紀か)】をおこし,10世紀末には北インドに進出し始めます【H29共通テスト試行 地図の読み取り(トルコ系の勢力がインドにも進出したことを読み取り)】。ガスナ朝時代の〈フィルダウシー(フィルドゥーシー)〉(934~1025)は『シャー=ナーメ』(『王書』)というイランの神話,伝説,歴史をペルシア語で記録した叙事詩を著し,ガズナ朝の王に献上しています。

 12世紀には,ガズナ朝からゴール朝(1148頃~1215) 【追H17仏教国ではない,H20】が自立して,インドに進入を繰り返し,1192年にはラージプート諸王国を倒して,インダス川ガンジス川を含む北インドに支配を拡大しました。
 
 なお,アム川下流域のホラズムでは,地元勢力がガズナ朝の支配を振り切り1077年に自立します。自立したのはセルジューク朝の総督だった人物で,ホラズム=シャーを名乗り,ホラズム=シャー朝を樹立しました【本試験H7セルジューク朝を滅ぼしたのはオスマン帝国ではない】【本試験H31チンギス=ハンにより滅んだか問う】【追H29アルタン=ハンにより滅んでいない】。
 1215年にはゴール朝を破り【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない】,シル川からイランにかけて広大な領土を一時的に支配しました。ホラズム=シャー朝のもとでは,ペルシア語文学の傑作が〈ルーミー〉(1207~73) 【本試験H24リード文】によって発表されました。彼は,くるくるコマのように回転する儀式で有名なメヴレヴィー教団【本試験H24リード文】の開祖でもあります。


●アフリカ
 この地方では,現地のバントゥー語系の言語にアラビア語の語彙(ごい)が加わってスワヒリ語【H30共通テスト試行 インドネシアではない】が生まれ,独特なスワヒリ文化【セA H30北アメリカではない】が形成されていきました(注1)。

◆塩金交易【追H30】で栄えたガーナ王国は,ベルベル人に滅ぼされた
西アフリカのイスラーム化は主として武力により進む
 ニジェール川流域のガーナ王国【東京H9[3]】【本試験H8サハラ縦断交易で栄えたか問う,H9[24]地図上の位置を問う】【追H25,H30】は,8世紀頃から黄金を産する国として,地中海沿岸の人々に知られていました。
 滅ぼしたのは,北西アフリカに分布するベルベル人です。

 ベルベル人ムラービト朝【追H25】は1076年から1077年にかけてこの地を征服(ジハード)するとともに,この地にイスラーム教を伝えました(注1)。
 現在でも,ニジェール川流域のマリ共和国の人口の80%は,イスラーム教徒です。なおガーナ王国の首都クンビ=サレーは現在の⑭マリ共和国の北部国境地方に位置し,現在の⑤ガーナ共和国の所在地とは別のところにあります。

 9世紀にサハラ沙漠においてラクダを交通手段とした隊商交易が盛んになり,サハラ沙漠で産出される岩塩とサハラ沙漠の南縁(セネガル川上流のバンブク周辺で産出される金(注2))で産出される金(キン)を交換する塩金【追H30】はますます盛んになっていました。そこで,ニジェール川沿岸の人々にとってイスラーム教に改宗することには,交易路の安全を確保し貿易をスムーズに行うというメリットもありました。


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 10世紀になると地域政権が自立する傾向は一層すすみ,現在のチュニジア【H27京都[2]】でシーア派【本試験H16,本試験H23ともにスンナ派ではない】の中でも過激派にあたるイスマーイール派の布教活動によってファーティマ朝【京都H19[2] ,H27[2]】【追H9スルターンの称号を得ていない】【本試験H23地図上の位置,H29共通テスト試行 セルジューク朝の下でカイロが繁栄したわけではない,H31】が建国されました。主体となった民族はベルベル人【H27京都[2]】です。
 第六代〈ハーキム〉(位996~1021)はカイロに「知恵の館(やかた)」を建設。バグダードを拠点とするスンナ派のカリフに対抗し,イスマーイール派の信仰の拠点とします(彼はのちに姿をくらませますが,その彼の復活を救世主として待望するのが,現在のレバノンで信仰されているドゥルーズ派です)。

 アッバース朝はテュルク系のマムルークなどを派遣して鎮圧しようとしましたが,派遣されたイラン系の軍人がいうことを聞かなくなりファーティマ朝の攻撃を押しのけました。その功績から935年にカリフに認められる形でエジプトでイフシード朝(935~969)を建国しました。事実上の独立です。
 しかしチュニジアファーティマ朝は,エジプトのイフシード朝が弱体化すると,969年にナイル川沿いの交易拠点でもある都フスタートに無血入城し,その北に新都カーヒラ(アラビア語で「勝利」という意味。英語だとカイロ【本試験H2時期(10世紀か),ファーティマ朝の首都になったか問う】【東京H8[3]イスラームの勃興後に建設された都市を地図から選ぶ】)を建設し,さらには「カリフ」を宣言してしまいます【本試験H16カリフを称したかを問う,H31カリフの称号を用いたか問う】。
 後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)の君主も「カリフ」宣言したので,なんとカリフが同時に3人存在する分裂時代となりました。ファーティマ朝のカリフは,シーア派【本試験H16・本試験H23ともにスンナ派ではない】の中でも過激な主張を唱えるイスマーイール派を保護し,アリーの後継者を自任しました。カイロ【追H25】【東京H14[3]】にはアズハル学院【東京H14[3]】【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない・カイロにあるかを問う】【追H25ファーティマ朝時代か問う(アズハル学院(アズハル大学))、H29アッバース朝による創設ではない】というマドラサ(学院)が建設されました。


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 12世紀後半には,クルド人【東京H25[3]】の〈サラーフ=アッディーン〉(サラディン【東京H8[3],H13[1]指定語句】【H27京都[2]】,在位1169~93) 【本試験H16】【追H18、H20】が,スンナ派【本試験H16】のアイユーブ朝【追H27マムルークを用いたことを問う】【京都H19[2]】【本試験H16】を開き,1171年にファーティマ朝を滅ぼしました。
 彼はイェルサレム【東京H8[3]】をキリスト教徒から奪回し【本試験H29,H31マムルーク朝によるものではない】【追H20】,1187年には再奪回しようとした第三回十字軍【本試験H16第一回ではない】をヒッティーンの戦いで撃退しました【本試験H16イェルサレム王国は建国していない】。

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 ハワーリジュ派のルスタム朝,イスマーイール派ファーティマ朝など,非スンナ派が各地で政権を握る中スンナ派を復活しようとする運動が起こり,1056年にベルベル系【本試験H3「ベルベル人」か問う,本試験H8「ベルベル人」か問う】のサーンハジャという遊牧民出身でスンナ派法学者の〈イブン=ヤースィーン〉(?~1059)が聖戦を宣言。モロッコマラケシュ【追H28都はカイロではない】【本試験H25】にムラービト朝【東京H11[1]指定語句】【本試験H3ナスル朝とのひっかけ,本試験H8時期(11世紀),本試験H9マムルークにより樹立されていない,本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】【追H24フランク王国に滅ぼされていない】が建てられました【本試験H16地域,本試験H21建国時期】。ムラービトの由来は,運動の主体となったイスラームの戒律に従う「ムラービトゥーン」(修道士)で,ヨーロッパではスペイン語の影響を受けた「アルモラヴィド朝」と呼ばれます。彼らはカリフを称することなく,あくまでアッバース朝のカリフを中心にスンナ派の信仰を守る政権を建てようとしたのです。この背景には,サハラ沙漠の塩と金を交換する交易ルートをめぐる経済的な争いもありました。
 その証拠に,ムラービト朝【本試験H3】はサハラ沙漠を南に進軍し,ガーナ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】を1076~77年に滅ぼしています(ガーナ王国の滅亡【本試験H3】)。

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北アフリカ遊牧民を母体とするムラービト朝【本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】は,本拠地がイベリア半島に移ったことで弱体化していき,1147年には同じくマラケシュに都を置くムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)、H24ムラービト朝フランク王国による滅亡ではない】により滅びました。

 ムワッヒド朝は1072年にシチリア島パレルモを占領し,ノルマン人とも戦っています。マグレブ地方東部のハンマード朝とズィール朝ムワッヒド朝に滅ぼされました。さらにイベリア半島にも遠征して支配域を広げ,イベリア半島北部~中央部のカスティーリャ王国【東京H11[1]指定語句】と,北西部のアラゴン王国,西部のポルトガル王国(1143年にカスティーリャ=レオン王国【本試験H21神聖ローマ帝国ではない】から分離) などの推進していた再征服運動(レコンキスタ,国土回復運動)に立ち向かいました【本試験H21ドイツ騎士団によるものではない】【追H25】。

*

これに対し,分裂の進んでいた〈カール大帝〉亡き後のフランク王国には為す術がありません(843年にヴェルダン条約【セ試行】,870年にメルセン条約【セ試行】で三分裂【本試験H3】)。

 また,9世紀にはアッバース朝に対する反乱に失敗しモロッコに逃れたアリー派のアラブ人が,ベルベル人【H27京都[2]】の支持を得てイドリース朝(789~926)を建国しました【H27京都[2]問題文(わからなくても解答可能)】。


●ヨーロッパ
 人口増にともないドイツ人は東方に移動し(ドイツ東方植民),東ヨーロッパ・中央ヨーロッパバルカン半島に拡大していたスラヴ人ポーランドベーメンなどの王権と対立しました。
 この2国をめぐっては,ビザンツ帝国とローマ=カトリック教会との間に“布教合戦”が繰り広げられましたが,東方(ドニエストル川流域から9世紀末にカルパティア盆地に移動)から移住したマジャール人ハンガリー (9世紀初めに建国されていたモラヴィア人の国を滅ぼし,ザクセンバイエルンを圧迫しました) 【本試験H5クリム=ハン国ではない】とともに,最終的にはローマ=カトリックを受け入れました


*

民族の大移動を受けて西ヨーロッパの社会は自給自足の分権的な社会に入っていくと,黒海に北から注ぐドニエプル川ヴォルガ川を上流へさかのぼって,北方のバルト海につなげる交易ルートの往来が盛んになっていきました。これに目をつけたノルマン系のスウェード人の一派の首長である〈リューリク〉(位864~879) 【慶文H30】は,バルト海にほど近いノヴゴロドに国家を建設します【追H19、H27リトアニアポーランドの合同によるものではない】【本試験H5ブルガリア人の国家ではない,本試験H7モンゴル人の支配から自立した国ではない】。この地に居住していたのは東スラヴ人の一派です。
 スラヴ人の現住地は,西ウクライナから南ベラルーシの付近といわれています。現在のロシア,ベラルーシウクライナなどの地方に拡大したスラヴ人は,東スラヴ人に分類されます。ノヴゴロドに居住していたのは,東スラヴ人で,彼らの中ではこの地の交易のもうけをめぐって争いが絶えなかったといいます。そこで彼らは,スウェード人(スウェーデンヴァイキングのことで,ロシアではヴァリャーグ人ともいいます)の軍事力を頼ったのだという記録が残されています。
 彼らスウェード人は,ここにいたスラヴ人【東京H6[3]】(正確には東スラヴ人)と交流して,やがて合流します。スウェード人のことを「ルーシ」ともいい,これが今のロシアの語源です(他説もあり)。

 さて,〈リューリク〉の親族である〈オレーグ〉(位882~912)は,交易の拠点をさらに南に移すため,ドニエプル川中流キエフを占領し,各地の公を支配化において,自らは大公に就任しました。これがキエフ公国(キエフ大公国キエフ=ルーシともいいます。9世紀末~1598) 【東京H6[3]】 【追H19,H28成立時期は中国の唐代か問う(正しい)】【本試験H2ビザンツ帝国の商人による建国ではない,本試験H5ポーランド人の国ではない】【本試験H25時期,本試験H30ブランデンブルクとのひっかけ】。各地は公国の支配者(クニャージ)により支配されていましたが,キエフの支配者は,ルーシの公たちを支配化に置き,「ヴェリーキー・クニャージ」の称号を用いました。日本語では公とか大公と訳されますが,王のような存在でした。

 キエフ公国は,黒海方面とバルト海との中継貿易で栄えていましたので,ビザンツ帝国との友好関係を重視するようになります。 980年頃に即位したキエフ公国の王〈ウラディミル1世〉(位980頃~1015) 【本試験H25】【追H19ウィリアム1世ではない】【慶文H30】は,ビザンツ帝国との友好関係を保つため,ギリシア正教に改宗して国教化【本試験H23,本試験H25ユダヤ教ではない,本試験H28ピョートル大帝ではない】【追H19】し,ビザンツ文化を受け容れ,専制君主政治をまねしました。彼は,ビザンツ皇帝の〈バシレイオス2世〉(位976~1025)の妹と結婚しています。さらに農民を農奴にして,貴族による大土地所有が発達していきます。彼の息子〈ヤロスラフ賢公〉(位1019~54)は,ロシア最古の成文法を整備し,11世紀後半にキエフに聖ソフィア聖堂を建てています。
 このようにして,キリスト教文化圏は,東ヨーロッパ方面にも拡大していきました。

 西スラヴ人に含まれるのが,ポーランド人,チェック人【本試験H30ハンガリー人とのひっかけ】,スロヴァキア人です。彼らはローマ=カトリックに改宗し,ラテン語の文化圏に入りました。

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チェック人も10世紀にベーメン(ボヘミア)王国として統一【本試験H30ハンガリー王国ではない】しましたが,地理的にドイツ人の支配を受けやすく,11世紀に神聖ローマ帝国支配下に入りました。


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 民族の大移動を受けて西ヨーロッパの社会は自給自足の分権的な社会に入っていくと,黒海に北から注ぐドニエプル川ヴォルガ川を上流へさかのぼって,北方のバルト海につなげる交易ルートの往来が盛んになっていきました。これに目をつけたノルマン系のスウェード人の一派の首長である〈リューリク〉(位864~879) 【慶文H30】は,バルト海にほど近いノヴゴロドに国家を建設します【追H19、H27リトアニアポーランドの合同によるものではない】【本試験H5ブルガリア人の国家ではない,本試験H7モンゴル人の支配から自立した国ではない】。この地に居住していたのは東スラヴ人の一派です。

 スラヴ人の現住地は,西ウクライナから南ベラルーシの付近といわれています。現在のロシア,ベラルーシウクライナなどの地方に拡大したスラヴ人は,東スラヴ人に分類されます。ノヴゴロドに居住していたのは,東スラヴ人で,彼らの中ではこの地の交易のもうけをめぐって争いが絶えなかったといいます。そこで彼らは,スウェード人(スウェーデンヴァイキングのことで,ロシアではヴァリャーグ人ともいいます)の軍事力を頼ったのだという記録が残されています。
 彼らスウェード人は,ここにいたスラヴ人【東京H6[3]】(正確には東スラヴ人)と交流して,やがて合流します。スウェード人のことを「ルーシ」ともいい,これが今のロシアの語源です(他説もあり)。

 さて,〈リューリク〉の親族である〈オレーグ〉(位882~912)は,交易の拠点をさらに南に移すため,ドニエプル川中流キエフを占領し,各地の公を支配化において,自らは大公に就任しました。これがキエフ公国(キエフ大公国キエフ=ルーシともいいます。9世紀末~1598) 【東京H6[3]】 【追H19,H28成立時期は中国の唐代か問う(正しい)】【本試験H2ビザンツ帝国の商人による建国ではない,本試験H5ポーランド人の国ではない】【本試験H25時期,本試験H30ブランデンブルクとのひっかけ】。
 各地は公国の支配者(クニャージ)により支配されていましたが,キエフの支配者は,ルーシの公たちを支配化に置き,「ヴェリーキー=クニャージ」の称号を用いました。日本語では公とか大公と訳されますが,王のような存在でした(注1)。

 キエフ公国は,黒海方面とバルト海との中継貿易で栄えていましたので,ビザンツ帝国との友好関係を重視するようになります。 980年頃に即位したキエフ公国の王〈ウラディミル1世〉(位980頃~1015) 【本試験H25】【追H19ウィリアム1世ではない】【慶文H30】は,ビザンツ帝国との友好関係を保つため,ギリシア正教に改宗して国教化【本試験H23,本試験H25ユダヤ教ではない,本試験H28ピョートル大帝ではない】【追H19】し,ビザンツ文化を受け容れ,専制君主政治をまねしました。彼は,ビザンツ皇帝の〈バシレイオス2世〉(位976~1025)の妹と結婚しています。さらに農民を農奴にして,貴族による大土地所有が発達していきます。彼の息子〈ヤロスラフ賢公〉(位1019~54)は,ロシア最古の成文法を整備し,11世紀後半にキエフに聖ソフィア聖堂を建てています。

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11世紀にビザンツ帝国【セ試行 神聖ローマ帝国ではない】は,ブルガール人【セ試行 時期(11世紀か問う)】の第1次ブルガリア帝国を滅ぼしますが,内紛や地方反乱が勃発。さらにテュルク系のセルジューク朝【京都H19[2]】の〈アルプ=アルスラン〉が小アジア東部に進入し,1071年にマンジケルト(マラズギルト)の戦いで東ローマ皇帝〈ロマヌス4世〉を捕虜としました。身代金の支払いを条件に釈放されましたが,その後の東ローマ帝国小アジアを喪失し,勝利したセルジューク朝の一派は小アジアにルーム=セルジューク朝を建国しました(1077~1308,首都コンヤ)。この時期にテュルク系のグループが小アジアに進出するようになり,小アジアイスラーム化・テュルク化(注)が進展していきます。
 セルジューク朝の進入により,東ローマ皇帝アレクシオス1世(位1081~1118年)はローマ教皇の〈ウルバヌス2世〉に救援を要請し,その結果第一回十字軍【本試験H25第四回十字軍ではない】【H30共通テスト試行 移動方向を問う】が組織されました。

 しかし,ヴェネツィア商人【本試験H12フィレンツェではない】がイェルサレム奪回をタテマエにして第四回十字軍【追H17、H19】を主導し,商圏獲得のためにコンスタンティノープル【追H17イェルサレムではない】を攻略したため,ビザンツ帝国はニケア帝国(1204~61)という亡命政権を建てました。


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 7世紀にバルカン半島北部のドナウ川下流域(右岸)でブルガール人の一派により建国されたドナウ=ブルガール=カン国(第一次ブルガリア帝国)では9世紀初頭に皇帝(ハーン)〈クルム〉(位803~814)により中央集権化が進められ,官僚にスラヴ人が用いられ「スラヴ化」が推進されました。彼はビザンツ帝国皇帝〈ニキフォロス1世〉(位802~811)に勝利し,バルカン半島東部のアドリアノープルを陥落させたものの休止。
 のち〈ボリス1世〉(位852~889)の時代に東フランク王〈ルートヴィヒ2世〉(位843~876)とローマ教会の進出に対抗するためビザンツ帝国に接近し,国家統一に利用しようと正教会に改宗【本試験H25】しました。バルカン半島においては,ローマ教会と正教会のどちらの側に付くかはその時々の政治状況により絶妙なバランス感覚が要求されたのです。〈ボリス1世〉はビザンツ帝国皇帝の〈ミカエル3世〉(位842~867)に主教の派遣を要求しましたがかないませんでした。

 皇帝は,862年に西スラヴ系のモラヴィア王国に〈メソディオス〉と弟の〈キリロス〉を派遣してスラヴ語による聖書と典礼書(てんれいしょ,儀式に関する書物)の翻訳にとりかからせていました。兄弟はスラヴ人【追H30ケルト人ではない】への布教を目指して,スラヴ語訳のためにギリシア文字からグラゴール文字を考案しましたが難解で普及せず,ローマ教会の圧力もあって失敗に終わりました。
 10世紀後半にブルガリアの〈ボリス1世〉は〈メソディオス〉の弟子を招き,ギリシア文字をベースにキリル文字【本試験H28契丹文字ではない】【追H30】が考案されました(つまり,キリル文字は〈キリロス〉(キリル)にちなんでいるものの,〈キリロス〉がつくった文字ではありません)。

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セルビアには10世紀に第一次ブルガリア帝国が西進し,皇帝〈シメオン1世〉(位893~927)に征服されました。セルビア人は正教会を信仰しています【追H27バルカン半島に定住後、ローマ=カトリックに改宗していない】【本試験H25ローマ=カトリックではない】。

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フィン=ウゴル語系ウゴル語派の騎馬遊牧民マジャール人は,ウラル山脈周辺のヴォルガ川下流域を現住地とし,9世紀頃から黒海北岸の草原地帯から東ヨーロッパへの移動を開始し,ドナウ川中流域のパンノニア平原で半農半牧の生活に切り替え,10世紀末にハンガリー王国【本試験H5クリム=ハン国ではない】【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】を建国しました【本試験H30チェック人ではない】。西方のローマ教会を受け入れ,大司教座が設置されました。

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クロアチアには常に周囲の情勢をみながら,ローマ教会側と正教会側のどちらに付くべきかの選択が迫られていました。初め部族連合が成立していましたが,879年にローマ教会により国家と認められて独立【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】。

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フランク王国の〈カール〉大帝が亡くなると,王国は3分裂。そのうち東フランク王国【本試験H8】のカロリング家は断絶し【本試験H8】,911年に有力な諸侯の選挙で王が決められるようになりました【本試験H26】【本試験H8「大諸侯」の選挙】。
子の〈オットー1世〉【セ試行】【早・政経H31論述指定語句】は,マジャール人【セ試行】を955年にレヒフェルトの戦いで撃退【セ試行  時期(10世紀か)】したことで,名声を高めました。しかし国内に目を向けるとドイツには大諸侯が多く,いうことを聞いてくれるとは限りません。
 〈オットー〉はカール大帝と同様,異民族の進入をブロックし,教皇のご機嫌をとりました。「ようやくまた守ってくれる人があらわれた!」とばかりに,教皇ヨハネス12世〉(位955~964)は,東フランクの〈オットー1世〉【本試験H19時期】【セA H30】にローマ帝国の冠を授けます。962年のことです。今後は,ドイツ王に就任した人物が,このローマ帝国の皇帝となる習わしとなっていったため,この王国は後に「(ドイツ人の)神聖ローマ帝国」【セA H30オーストリア帝国ではない】といわれるようになります。
やがて12世紀になると,この両者に叙任権闘争(じょにんけんとうそう) 【本試験H22 15世紀ではない】が勃発,〈ハインリヒ7世〉が,教皇〈グレゴリウス7世〉との間に1077年に“カノッサの屈辱”事件を起こしています。


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スラヴ人のうち西スラヴ系のチェック人は,10世紀にベーメン(ボヘミア)王国として統一【本試験H30ハンガリー王国ではない】してました。
 プラハは973年にはローマ=カトリック教会司教座が置かれています【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】。
 しかし,地理的にドイツ人の支配を受けやすく,11世紀に神聖ローマ帝国支配下に入っています。

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 もともとはベルベル人の分布地域でしたが,アラブ人が移動して以来,同化が進んでいきました。ベルベル人という民族名は,ギリシア語の「バルバロイ」(訳の分からない聞き苦しい言葉を話す人々) 【本試験H24】に由来しており,彼ら自身は「イマージゲン(自由人)」と名乗ります。

 711年にはウマイヤ朝支配下のアラブ人やベルベル人イベリア半島に上陸し,西ゴート王国を滅ぼしました。このときに上陸したイベリア半島南部の小さな半島は「ターリクの山」(ジャバル=ターリク)と呼ばれるようになり,のちになまってジブラルタルと呼ばれるようになりました。現在でも地中海の入り口にあたる重要な地点を占め,スペインの領土に囲まれる形でイギリスの領土となっています。
 その後,イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得てコルドバ【東京H11[1]指定語句】を占領し,アミールを称して後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)を建国しました(注)。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
 この動きに対し,北西部のアストゥリアス王国の王〈アルフォンソ2世〉は,797年に〈カール大帝〉に使節を派遣しています。
 フランク王国は801年にバルセロナ【本試験H8】を占領し,ここにスペイン辺境領を建てました。
 なお,814年にはイベリア半島北西部のサンティアゴ=デ=コンポステーラ【本試験H31古代ローマの時代に巡礼熱が高まったのではない】【東京H20[3]】で〈ヤコブ〉の墓が発見されたといわれ,のちに爆発的な巡礼ブームを生むことになります。


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イスラーム教徒の小王国が互いに覇権を争う中,キリスト教徒の諸王国が北部から国土回復運動(レコンキスタ【追H25】)の攻勢を強めていきます。

 1137年にはバルセローナ伯領がイベリア半島東部のアラゴン王国と同君連合の国家「アラゴン連合王国」を樹立します。アラゴン連合王国は,バルセローナやバレンシアを中心都市として,イベリア半島中央部のカスティーリャ王国,西部のポルトガル王国(1143年成立)とともに,イベリア半島ではキリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動) 【本試験H30地域を問う】【追H25】を本格化させていきました。

 また,トレドではキリスト教徒たちがユダヤ人やコンベルソ(ユダヤ人からキリスト教徒への改宗者)の強力を得て,イスラーム世界【共通一次 平1】でアラビア語【東京H10[3]】に翻訳されていた古代ギリシア共通一次 平1】の文献を積極的にラテン語【東京H10[3]】に翻訳していきました。この動きを「12世紀ルネサンス」【立命館H30記】といいます。なかには〈エウクレイデス〉や〈アリストテレス〉といった古代ギリシアの文献のアラビア語訳【本試験H12】も含み,西ヨーロッパ世界にそうした情報を伝える上で重要な役割を果たしました。

 一方,北アフリカベルベル人は〈アブー=バクル〉を中心に1056年にムラービト朝(1056~1147) 【本試験H9】を建国し,モロッコを占領して1086年にイベリア半島に上陸。
 1085年にトレドを占領【立命館H30問題文】していたカスティーリャ立命館H30記】=レオン王の〈アルフォンソ6世〉(位1065~1109)に対し,イベリア半島イスラーム教の小政権(タイファ)が救援を求めたことから,ムラービト朝が進出。

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 ムラービト朝ムワッヒド朝イベリア半島【本試験H29アナトリアではない】に進出したほか,サハラ沙漠より南にも遠征し,イスラーム世界をアフリカのサハラ以南に拡大させました。例えばムラービト朝は,アフリカのガーナ王国を滅ぼし,この地にイスラームを伝えています。

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お,西ゴート王国の首都トレド【東京H23[1]指定語句】では,古代ギリシアやローマのアラビア語訳文献が,せっせとラテン語に再翻訳されていました。ギリシア語→アラビア語【追H28】【東京H10[3]】→ラテン語【追H28】【東京H10[3]】ですから,再々翻訳といったほうがよいかもしれません。特に,トレドをおさえたカスティーリャ=レオン王の〈アルフォンソ6世〉は,学者を招いて翻訳運動をバックアップしました。
 この頃のコルドバに生まれた〈イブン=ルシュド〉(1126~98) 【本試験H6幾何学研究ではない,本試験H8元を訪問していない,本試験H10】【本試験H25パン=イスラーム主義者ではない】【追H20イブン=サウードではない,サウジアラビア王国を建設していない、H28ギリシア哲学を研究したか問う】【法政法H28記】【立命館H30記】は,〈アリストテレス〉【本試験H10】【追H20】の『オルガノン』『形而上学』『自然学』といった著作の研究を深め,イスラーム神学をより緻密なものにするためにギリシア哲学【追H28】を用いて,ヨーロッパのスコラ哲学(スコラ学) 【共通一次 平1】【追H20、H25自然哲学ではない】にも影響を与えます。

 トレドでの翻訳運動【追H28】の積み重ねは,西ヨーロッパにおける12世紀ルネサンスへとつながっていきました【本試験H6「イベリア半島イスラム文化」が,「中世ヨーロッパの文化」に影響を与えたわけではない】。
 たとえばこの頃の教皇(〈シルウェステル2世〉(位999~1003))ですら、即位前にコルドバにおもむき、数学や天文学を修めたと伝えられます。フランスやイタリアの学校でイスラーム世界に由来する高度な知識を広め、後に彼の見識を評価する神聖ローマ皇帝の支持を得て教皇となったのです【追H28リード文(第3問)】。


 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【東京H11[1]指定語句】です。フランスの教科書ではフランス読みでシャルル1世。ドイツの教科書ではドイツ読みで〈カール1世〉と表記されるこの王。現在のフランス,ドイツ,さらにはイタリアにまたがる広大な領土を支配したことから,ローマ教会に頼りにされることになります。
 まず教皇領を圧迫していたランゴバルド王国を滅ぼしました。
 北ドイツのザクセン人と戦争をして,キリスト教を信仰していなかった彼らをアタナシウス(ニカイア)派に改宗させ,エルベ川まで拡大します。この戦争はカールのおこした戦争のなかでも特に過酷なものでした。
 また,かつてフン人が定着したパンノニアに移動していたモンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされる騎馬遊牧民アヴァール人を撃退しました【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】。なお,すでにフン人はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々などに同化しており,見る影もなくなっています。

 さらに,イベリア半島では,アッバース朝によって滅ぼされたウマイヤ家の遺臣の建てた後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)を攻撃して,ピレネー山脈を乗り越え795年に複数の伯領からなるスペイン辺境領を設置しています。のちにバルセローナ伯が成長して,カタルーニャ地方の中心となっていきます(987年にカペー朝に対抗してカタルーニャ君主国として独立しました)。

 イベリア半島での戦いぶりは,騎士道物語(武勲詩(ぶくんし))『ローランの歌』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H30】にうたわれています【本試験H12『カンタベリ物語』は騎士道物語ではない】。

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 中世の騎士道物語には,他にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ブルグント人【本試験H15「インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の英雄伝説に基づく」は○,本試験H23スラヴ人ではない】の伝説に基づく『ニーベルンゲンの歌』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H2中世に英訳されていない】【本試験H23】『アーサー王物語』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H15カール大帝の活躍が描かれているわけではない】などがあり,各地を渡り歩く吟遊詩人(ぎんゆうしじん)【本試験H15】によって歌われました。

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 〈カール1世〉は急拡大した領土を支配するために,キリスト教徒のネットワークを利用しました。もともと司教の監督するエリアである司教区は,大司教の監督下に置かれていました。彼はこれを行政単位として利用したのです。支配を確実なものとなるよう,各地方に国王の役人(伯(はく))【追H28】が任命され,毎年聖俗の大物を国王巡察使として派遣しました。

 学者を招き,ローマ文化・キリスト教について研究をさせました。とくにブリタニアの聖職者〈アルクイン〉(735?~804) 【本試験H23】の研究が有名です。

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 しかし,いよいよ800年,クリスマスのミサのためにローマのサン=ピエトロ大聖堂を訪れた〈カール大帝〉に,教皇〈レオ3世〉(位795~816) 【本試験H18インノケンティウス3世ではない】は不意打ちでローマ帝国の冠を授けたんですね。〈レオ3世〉は前年に反対派により襲撃されていて,〈カール大帝〉の後ろ盾が必要だったわけです。


フランク人にはもともと,親が死ぬと,土地を子で分割して相続する風習があったため,〈カール大帝〉が亡くなったら揉めると思われたのですが,たまたま息子は一人しか生き残っておらず,〈ルートヴィヒ1世〉(フランク王在位814~840,西ローマ皇帝在位814~840,〈敬虔王〉ともいわれます)がそのまま相続した。ここまではよかったものの,治世後半に政治が乱れ,今度は3人の息子たちによる揉め事がおきてしまいます【本試験H7ローマ=カトリック教会を支持するか否かで争ったわけではない】。
 そこで,843年のヴェルダン条約【セ試行】【本試験H8】で,長男がイタリアを含む中部フランクを,弟が西部と東部を相続しました。しかし,その後弟が中部の王国を自分たちの領土に加えてしまったため,870年にメルセン条約【セ試行】【本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】という取り決めが結ばれて,東西フランクの国境は,東フランクが西に拡大する形で決着が付きました【本試験H3三分されたか党,本試験H7「東西」に分裂したわけではない。三分裂した】。


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イタリアは,フランク王国の分裂で中部フランク王国【本試験H3「イタリア」】となっていました。しかしその後875年にカロリング朝が断絶し,さらに商業の発達とともに都市国家が立ち並び,分裂状態になります。
 神聖ローマ皇帝には“ローマ”の名を冠するるだけあり,自分が「イタリア王」でもあることをアピールする者も多かったのですが,「イタリア」といっても現在の「イタリア」をイメージしてはいけません。いまのイタリアの北半分という感じです。
 ここには都市国家(たとえばヴェネツィアなど)は含まれていませんし,ナポリシチリア両シチリア王国です【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】。この王国は1130年にノルマン人の〈ルッジェーロ2世〉により建国されましたが断絶し,〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたり,フランスのアンジュー家に支配者が変わっていきました。


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ローマ教会は,自分の教会をまとめるローマ総司教だけが,キリスト教使徒ペテロの唯一の後継者「ローマ教皇」であると主張しました。
 それに対抗して1054年【追H17時期を問う(叙任権闘争開始後ではない)、H27 11世紀か問う】【本試験H25 13世紀ではない】にローマ教会と正教が相互に破門したのが,東ローマ(ビザンツ)皇帝の保護を受けたコンスタンティノープル教会(正教会)です。


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 726年には,テマ(軍管区)の長官出身のビザンツ帝国皇帝〈レオン3世〉(位717~741)が,聖像(崇拝)禁止令【本試験H29】を出し,教皇が布教のさいに〈イエス〉や母〈マリア〉の聖画像(イコン)を用いていることを批判しました。

 フランク王国の分裂後100年余りの混乱期を経て,962年にドイツのザクセン出身の〈オットー1世〉(位936~973) 【本試験H23カルロス1世とのひっかけ】が,教皇ヨハネス12世〉(位955~964)によりローマ皇帝の戴冠を受け,神聖ローマ帝国【本試験H13五賢帝とは無関係】が成立しました。

自分の所有している教会の司教を選出するだけなのに,なぜそんなに意地を張るのかと思うかもしれません。教会を所有していれば,農奴が教会に支払った地代や十分の一税【本試験H28十分の一税は聖職者が支払うわけではない】をいくらか受け取ることができます。


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一方,ローマ教皇は聖職叙任権闘争【本試験H18聖像崇拝論争,カールの戴冠,ルイ9世の十字軍とは関係ない】をめぐって神聖ローマ皇帝との関係も日増しに悪化していました。
 1059年には教皇〈ニコラウス2世〉が教皇枢機卿から選ぶよう改革し,神聖ローマ帝国の干渉をブロックしようとします。
 また,イスラーム教徒の進入を防いでくれる存在として,フランス王の臣下としてフランス北西部のに建国が認められていたノルマン人【本試験H2「ヴァイキング」】【東京H14[3]】のノルマンディー公国【本試験H2】【東京H14[3]】に白羽の矢が立てられ,1066年にはノルマンディ公国によるイングランドの征服(ノルマン=コンクェスト)を支援しました。

 そんな中,1073年に即位した〈グレゴリウス7世〉(位1073~85) 【本試験H18】【追H24フランク王国カール大帝に帝冠を授けていない】【早・政経H31論述指定語句】は,教会組織の腐敗をただす運動に着手しました。彼自身は,教会刷新(改革)運動【本試験H21】に積極的であったクリュニー修道院【本試験H21】【追H17時期を問う(8世紀ではない)、H19,H30】【立命館H30記】出身で,聖職売買【追H30】や聖職者の妻帯禁止などの改革を推進しました。この修道院を910年に建設したのはアキテーヌ公国の〈ギヨーム1世〉でした。
 〈グレゴリウス7世〉は大司教などの高位聖職者を任命する権利(聖職叙任権)が,(教会関係者ではない)世俗の権力に握られていることが問題の根源にあると考え,神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ4世〉(神聖ローマ皇帝在位1084~1105) 【本試験H13,本試験H18,本試験H22 15世紀ではない】に対しても,「聖職叙任権はローマ教皇にある。神聖ローマ皇帝が,高位聖職者叙任しているのは,聖職売買にあたる」と非難しました。

 結局,1122年には,神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)とローマ教皇〈カリクトゥス2世〉(位1119~24)との間にヴォルムス協約【早・政経H31論述指定語句】が締結され,聖職叙任権があるのは教皇だということは確認されましたが,実際に司教や修道院長に所領(封土)を与えて主従関係を結ぶ権利は,皇帝が持つことになりました。

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 ローマ教皇と,世俗の国王や皇帝との対立が表面化していく中,キリスト教の神学の世界でも,神や教会をどのようにとらえるかを巡って議論が起きていました。イングランド王国のカンタベリ大司教〈アンセルムス〉(1033~1109) 【追H9】【本試験H17】【追H21アウグスティヌスとのひっかけ】は,“信仰(信じる気持ち)のほうが,理性(理屈で考えること)よりも大切だ。つべこべ言うな。「神」と呼ばれている存在がある以上,神という存在はある(実在する)んだ!”ということを,とっても複雑な説明を使いながら説明しました。これを実在論【追H9唯名論ではない】といいます。
 「いや,「神」という言葉があってはじめて,人間は神について知ることができるわけで,そういう意味で神の存在そのものよりは,「神」という名前のほうが,人間の認識にとっては重要なんじゃないか?」と考えたのが唯名論【追H9実在論ではない】【慶文H30記】の立場で,フランスの神学者〈アベラール〉(1079~1142) 【追H9実在論ではない】が代表的な論者です。

 テュルク系の騎馬遊牧民の建国したセルジューク朝【京都H19[2]】が聖地イェルサレム支配下におき,ビザンツ帝国領内にも進出する勢いとなったことに対し,ビザンツ皇帝がローマ教皇に「セルジューク朝キリスト教徒の巡礼を妨害している」と救援を要請しました(注)。
 当時のヨーロッパは,ミレニアム(イエスの十字架上の死から1000年後)の余波で空前の巡礼ブームで民衆のキリスト教熱も高まり,イェルサレム以外にもローマや,スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラ【東京H20[3]】【本試験H19リード文,H31古代ローマの時代ではない】【立命館H30記】が三大巡礼地として注目されていました・このうち,サンティアゴ=デ=コンポステーラには,聖〈ヤコブ〉をまつる大聖堂が建設され,フランス方面からの巡礼者で賑わいました(◆世界文化遺産サンティアゴ=デ=コンポステーラ」1985,「フランスのサンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路」,1998。「サンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路:カミノ=フランセスとスペイン北部の道」,1993(2015範囲拡大)。巡礼地だけではなく,巡礼路までが世界文化遺産に登録されるという熱の入れよう)。

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 当時のローマ教皇は〈ウルバヌス2世〉(位1088~99)。1095年にクレルモン宗教会議をひらき「ペルシアから来た侵入者,トルコ人が武力でキリスト教徒を追放し,略奪を働き,町を焼き払っているのです」とセルジューク朝の脅威を訴え,キリストの兵士として異教徒に立ち向かうことを提案し,1096年に第一回十字軍【追H28】がスタートします。各国の諸侯や騎士【本試験H16サラディンではない】はコンスタンティノープルから1097年にアナトリア半島に渡ってルーム=セルジューク朝を破り,1098年にキリスト教徒の多いエデッサに十字軍国家であるエデッサ伯領を建国。さらに同年にはやはりキリスト教徒の多いアンティオキアを占領し,アンティオキア公領を建国しました。1099年にはイェルサレムを攻撃・占領し,1099年イェルサレム王国【京都H20[2]】【追H28イェルサレムを攻略したか問う】を建てました。

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 1130年には,ローマ教皇がかねて臣下にしていたノルマン人【本試験H2「ヴァイキング」】のノルマンディー公国【本試験H2】【東京H14[3]】の貴族オートヴィル家の〈ルッジェーロ2世〉(位1130~54)(注2)が,イスラーム勢力と戦って,ナポリなどのイタリア南部とシチリア島で支配権を確立し,ノルマン=シチリア王国(ノルマン朝シチリア王国両シチリア王国) 【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】を建国しました。ローマ教皇は心強い味方を得た形です。

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 12世紀後半には,シリアのザンギー朝(スンナ派)に仕えていたクルド人の軍人〈サラーフ=アッディーン〉【東京H13[1]指定語句「サラディン」】が頭角をあらわし,1169年にエジプトで宰相となって自立しました。彼は1171年にエジプトの大法官(カーディー)をシーア派からスンナ派に切り替え(注4),ファーティマ朝最後のカリフの死後,アッバース朝のカリフの名の下に新王朝(アイユーブ朝【追H28成立時期は中国の唐代ではない】)を立ち上げ,スルターン(位1171~93)となりました。

 十字軍により,地中海における人や物資の移動が活発化したことで,東方貿易【東京H27[1]指定語句】が盛んになり,イタリア諸都市が発展するきっかけにもなります。

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 当時の地中海に面するイスラーム国は,以下のような布陣です。
イラクにはアッバース朝(750~1258(1517))。
イベリア半島ムラービト朝(1056~1147) 【本試験H9】,ムワッヒド朝(1130~1269)(⇒800~1200ヨーロッパ>イベリア半島) 【追H21時期(10世紀ではない)】【立命館H30記】。
チュニジア周辺からサルデーニャ島シチリア島イタリア半島南部を支配したアグラブ朝(800~909)。
 エジプトからシリア,パレスチナにも進出したトゥールーン朝(868~905)。
 チュニジアで建国されエジプトカイロを都としたシーア派【追H21スンナ派ではない】のファーティマ朝(909~1171) 【追H21】(⇒800~1200アフリカ>北アフリカ)

 とくに,イスラーム教の勢力が押し寄せてきた前線地帯であるシチリア王国【東京H23[1]指定語句「シチリア島」】のパレルモと,イベリア半島にあったカスティーリャ王国のトレド【東京H23[1]指定語句】では,イスラーム教徒のアラビア語【東京H10[3]】文献が,中世ヨーロッパの国際共通語ともいえるラテン語【東京H10[3]】に翻訳されていきました。シチリア王国の王が〈フェデリーコ2世〉(神聖ローマ帝国の〈フリードリヒ2世〉となる人物です)であったときに,特に翻訳が盛んで,アラビア語の文献だけでなく,ビザンツ帝国の文献,さらには古代ギリシアやヘレニズム時代のギリシア語【東京H7[1]指定語句】文献も,イベリア半島コルドバ【本試験H6「イベリア半島イスラム文化」が栄えた都市か・後ウマイヤ朝の首都か問う】【本試験H30】やシチリア島パレルモで活発にアラビア語【東京H7[1]指定語句】からラテン語訳【本試験H15】されていきました。

 たとえば,古代ギリシアやヘレニズム時代の文献としては,天文学分野の〈プトレマイオス〉『アルマゲスト』,〈プラトン〉や〈アリストテレス〉【東京H23[1]指定語句】の著作,数学では〈エウクレイデス〉【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】の『原論』,〈アポロニオス〉の『円錐曲線論』,〈アルキメデス〉『円の求蹟』,医学者〈ヒッポクラテス〉【追H25平面幾何学の人ではない】の『箴言』や〈ガレノス〉の著作などです。
 アラビア語の著作としては,神学では〈ガザーリー〉(1058~1111,ヨーロッパではアルガゼルとして知られました) 【本試験H6スーフィズムを体系化したか問う,本試験H10世界地図を作成した地理学者ではない】【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う→ガザーリーは11~12世紀なので誤りだが難問である),H30ユダヤ教の理論家ではない】,数学では〈フワーリズミー〉【本試験H10】の『代数学』【本試験H10】,医学【東京H23[1]指定語句】では〈イブン=シーナー〉(ヨーロッパではアヴィセンナ;アヴィケンナ) 【東京H23[1]指定語句】【本試験H10】【追H19,H20時期】の『医学典範』【本試験H10】【追H19、H20時期】・『治癒の書』といったものがあります。


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 こうしたイスラーム科学【東京H7[1]指定語句「イスラム科学」】などの新情報の影響を受け,12世紀頃からヨーロッパ各地に大学が建てられ,キリスト教神学はスコラ(哲)学【本試験H17人文主義ではない】というスタイルに発展し,神学を中心に様々な学芸が盛んになっていきました。
 下級3学といわれたラテン語の文法【慶文H29】・修辞学・論理学,上級4学といわれる数学,音楽,幾何学天文学(あわせて自由七科といい,リベラルアーツともいいます)を修めた学生は,専門課程の神学・医学【慶文H29】・法学の3上級学部に進学することができました。「神」を疑うおそれもある「哲学」は,軽視され“哲学は神学のはしため(婢=仕える存在)”とされました【共通一次 平1:位置づけを問う】【追H20キリスト教と離れて研究をおこなったわけではない】。
 法学【追H29】としてはイタリアのボローニャ大学(1088) 【東京H14[3]】【共通一次 平1:パリ大学ではない】【本試験H17ケンブリッジではない,H23法学かを問う】【追H19,H29法学で有名か問う】,神学部【共通一次 平1:法学部ではない】としてはフランスのパリ大学(12世紀中頃) 【共通一次 平1】【本試験H17リード文,本試験H23神学かを問う】,イングランドの神学部オックスフォード大学(12世紀後半)・ケンブリッジ大学【本試験H17ボローニャ大学とのひっかけ】,医学で有名な南イタリアサレルノ大学【本試験H16医学で有名かを問う,本試験H17リード文】【追H19】などが代表です。
 大学は教会・修道院に付属する研究機関【共通一次 平1】からスタートしたもののほかに,別の由緒をもつものもあります。学生の自治団体(ギルド=ウニウェルシタス【東京H14[3]】【本試験H17リード文】)が発祥なのはボローニャ大学,教師による自治団体(コレギウム)が起源なのはパリ大学です。教師も学生も聖職者であることが基本でしたので,女性の教師・学生はいませんでした【本試験H11[2]「中世以来ヨーロッパでは伝統的に,大学が女性にも高い教育を与える場であった」か問う】。

 また,イスラーム共通一次 平1】の最新の科学も伝わり,イギリスの神学者〈ロジャー=ベーコン〉(1214?~74) 【本試験H8フランシス=ベーコンではない】【追H9『神の国』を著していない,本試験H12時期(1609年前後)かを問う】【本試験H17】は,何事も実験・観察を重視【本試験H17「経験を重視した方法論を説いた」かを問う】し,のちの近代科学の方法論の元となりました。彼はカトリックの司祭でしたが,〈アリストテレス〉などのギリシア共通一次 平1】の文献を読み漁り,実験によって事実を突き止めていくさまは,当時においては“異端”スレスレの行為だったのです。
 古代ギリシアの学問がヨーロッパにおいて“復活”した,この一連の現象を「12世紀ルネサンス」【本試験H21リード文】といいます(注) 【本試験H12「アラビア語哲学書医学書ラテン語に翻訳され,西ヨーロッパの哲学・神学や医学に影響を与えた」か問う】。

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 西フランク王国【本試験H8】では,987年にカロリング朝が断絶し【本試験H8】,パリ伯の〈ユーグ=カペー〉(位987~996) 【追H27アルビジョワ派を制圧していない】が、妻がカロリング家出身であるということから王に選ばれ,カペー朝【本試験H8ヴァロワ朝ではない】がはじまりました【H29共通テスト試行 系図】。

 カペー朝は〈ルイ6世〉(位1108~37)のときに王を拡大,それを継いだ7代目の〈フィリップ2世〉(尊厳王,位1180~1223年) 【本試験H30カペー朝創始者ではない】は,そんな弱体であったフランスの王権を強くしました。彼は第三回十字軍(1189~92)にも参加し,1190年代にはフランドル伯の領地を奪っています。


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 「フランス【追H9〈アンリ〉の出身地を問う。スペイン,イタリア,ドイツではない】の貴族なのになぜイングランドの王になれるのか?」と思うかもしれませんが,彼らには現在のような国民意識はありません。それでもフランスとイングランドで言語には当時から違いがありましたから,フランスの貴族〈アンリ〉は,〈スティーヴン〉の死後,イングランドで〈ヘンリ2世〉(位1154~89) 【本試験H18ジョンとのひっかけ,本試験H27・H30】という名前で即位します。これが,プランタジネット朝【本試験H2ヴァロワ・カペー・テューダー・ランカスター朝ではない】【本試験H17時期,本試験H27・H30】のイングランド王国です(1154~1328)。ちなみに当初から「プランタジネット朝」と名乗っていたわけではありません(〈アンリ〉の父のアンジュー伯が帽子にエニシダをつけていたからだとか)。

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 2代目の〈リチャード1世〉(位1189~99)は獅子心王(リチャード=ザ=ライオンハート)と呼ばれ,第三回十字軍に参加しましたが,捕虜になってしまい,身代金を用意して釈放されました。イェルサレムも。最期はカペー朝フランス王〈フィリップ2世〉(尊厳王(オーギュスト,ローマ皇帝アウグストゥスに由来),位1180~1223)と戦って,命を落とします。
 3代目の〈ジョン〉【本試験H3】【本試験H18ヘンリ2世とのひっかけ】は,即位時のゴタゴタによって,カペー朝フランス王〈フィリップ2世〉【本試験H3】と戦争となり,1214年のブーヴィーヌの戦いで敗れた【本試験H3勝っていない】ためにノルマンディとアンジューを失ってしまいます【本試験H3フランス内のイギリス領を拡大していない】。アンジューは,初代アンジューの領地だったところですよね。そんなに大事なところを失った挙句の果てに,貴族や聖職者らの諸侯・都市から税をとろうとしたため,彼らは猛反発。「王は承認なしに課税してはならない!」とうたったマグナ=カルタ(大憲章) 【追H28フィリップ4世が認めたのではない】【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H14,本試験H18ヘンリ2世ではない,H25・H30】を〈ジョン〉王【追H28フィリップ4世とのひっかけ】【本試験H14エドワード3世ではない,本試験H25】【慶文H30記】【慶文H30記】に突き付け,1215年【慶文H30記述】に守らせることに成功しました。王の権力を抑えるための法をつくったということで,マグナ=カルタはイングランド初の憲法(支配者をしばるための法)とされています。

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北ヨーロッパには,ノルウェースウェーデンフィンランドの位置するスカンディナヴィア【東京H6[3]】半島沿岸部などに,氷河が長い年月をかけて山合いから海に地表を削りながら移動したことで,陸地の奥深くまで入り込んだフィヨルドという入り江が形成されています。

 この地方で活動していたゲルマン系の民族のことを,ノルマン人【東京H6[3]】とか,ヴァイキング(古い北欧の言葉ではヴィーキングルvikingrといいます(注))といいます。
 8世紀末から現住地より低緯度の地域にも活動範囲を広げました【本試験H21,本試験H25アイスランドは現住地ではない】。「ヴァイキング」の語源は,「入り江(ヴィークvik)の人または子孫(-ing)」といわれます(#漫画 幸村誠ヴィンランド・サガ』)。


デンマークでは,10世紀の〈ハーラル=ゴームソン〉(ハーラル1世,958?~985?)が,実在が確認できる最古の王です。
 彼はノルウェーを平和的に支配下に置き,神聖ローマ帝国〈オットー大帝〉に敗れて洗礼を受けてキリスト教を広めました。スウェーデンの技術者によって1999年に開発されたブルートゥース(bluetooth)という無線通信の規格の名は,ノルウェーデンマークを“橋渡し”をした彼のあだ名「青歯王(せいしおう)」に由来しています【本試験H31リード文「今日,このハーラルの統一事業は,多様な電波の統一という理念と重ねられ,北欧の企業を中心に開発された無線通信規格に,「青歯王」の名が用いられている」】。

 その後,息子の〈スヴェン〉(位1013~14)はイングランドに侵攻してデーン朝を建てて,アングロ=サクソン人【東京H6[3]】のウェセックス朝を一代のみ中断させました。

 さらに〈スヴェン〉の子〈クヌーズ〉(カヌート(クヌート),イングランド王在位1016~35,デンマーク王1028~35,ノルウェー王1028~35) 【本試験H14フランク人ではない,H31イングランド出身ではない】は,イギリス【本試験H22 9世紀ではない,本試験H25イベリア半島ではない】に進出してノルウェーとあわせて“北海帝国”を形成しました。彼は,スウェーデンの一部も領有しています。

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アイスランドグリーンランド
 また,ノルウェー系のヴァイキング【追H30「ノルマン人」】は西方にも拡大をしており,870年代からアイスランド【追H30】への植民を始めました【本試験H25アイスランドは現住地ではない】。930年頃にはアルシング(全島集会)という集会制度が生まれ,豪族によって運営されていました。10世紀末にはキリスト教に改宗しています。
 北欧の伝説・歴史を伝える「サガ」と呼ばれる作品群の一つには,ノルウェー系のヴァイキング赤毛エリクソン〉(950?~1030?) が982年にグリーンランド(緑の島) 【追H26ノルマン人が移住したことを問う(マジャール人ではない)】を発見したことや【本試験H25】,アイスランド生まれ・グリーンランド育ちの息子〈レイヴ=エリクソン〉(970?~1020?)が1000年頃にヴィーンランド(ブドウの国)を発見した伝説が登場します。彼らはイヌイット系(カラーリット人)の先住民と対立しながら植民を進めていきましたが,16世紀までには滅びました。


アメリ
 おそらくヴィンランドとは,考古学的な調査によると北アメリカ大陸【本試験H25】のニュー=ファンドランド島と推定されています。つまり,15世紀末に〈コロン〉がアメリカ大陸に到達する前に,ノルマン人が先を越していたということになるのです。

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ノルマンディー公国
 また,先ほどのデーン人は北海や地中海沿岸の河川をさかのぼり,沿岸の都市に対する略奪を行うことがありました。北西フランスでは北海に流れ出るセーヌ川や,地中海に流れ出るロワール川をさかのぼり,沿岸の修道院や司教座都市が狙われました。
 デーン人の一派【本試験H2「ヴァイキング」。「フランク族」「アングロ=サクソン族」ではない】はノルマンディー【本試験H25イングランドではない】に移住し,西フランク国王〈シャルル3世〉(位879~929、単純公)との間に条約を結び、領地を得ることに成功。
 首長〈ロロ〉(?~927)はノルマンディー公としてノルマンディー公国【本試験H2】【本試験H21ノルマン朝ではない,本試験H25ノルマン朝ではない,本試験H27】をフランス王の臣下の形式をとって建国します(911年に公領として認定されました)。

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ノルマン=コンクェスト
 さらに,すでにノルマンディー公国の貴族(オートヴィル家の〈ロベール=ギスカール〉(1015~85)と手を組んでいたローマ教皇の後ろ盾のもと,ノルマンディー公で〈ロロ〉の玄孫の子〈ギョーム〉【本試験H14】が1066年にイングランド【本試験H14スコットランドではない】をヘースティングズの戦い【法政法H28記】で破ることに成功。
 征服して〈ウィリアム1世〉【追H19ウラディミル1世とのひっかけ】と名乗り,ノルマン朝【本試験H14,本試験H25ノルマンディ公国ではない】を建てました(ノルマン=コンクェスト【H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】)。
 当時ローマ教皇は,神聖ローマ皇帝叙任権闘争をめぐり争っていたため,イスラーム教徒たちの進入を防いでくれる軍事力を求めていたのです。
 なお,このノルマン人【本試験H31マジャール人ではない】による占領の模様は「バイユーの刺繍画(タペストリ)」【本試験H31】【追H29リード文(〈ハロルド〉が〈ウィリアム〉への中世を誓って国王に即位した場面では,当時不吉と考えられていたハレー彗星が登場)】に鮮やかに編まれ,当時の様子をしのぶことができます。

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ノルマン人〈ウィリアム1世〉は征服先のイングランドで厳しい検地をおこない,1085年12月以降ドゥームズデイ=ブック(最後の審判日の書)と呼ばれる土地台帳を作成していきました。
 これによりきわめて集権的で王の権力が強い【本試験H2】の支配体制を実現させ,デーン人の軍事的進入に備え,各地の領主の土地保有状況や提供することのできる騎士の数を把握しました。

また,現在の英語の語彙(ごい)に,フランス語【本試験H15】の影響を受けたものが多いのも,ノルマン=コンクェストが関係しています。牛を表す英語アングロ=サクソン系,牛肉を表す英語の語源がフランス系なのは,牛を飼っていたのは支配される側のアングロ=サクソン人,胃袋に入れていたのはフランス人だったからという説もあります。