【保存版】センター試験世界史B 全出題箇所まとめ①(700万年前~紀元後200年)

●約700万年前~約12000年の世界

アウストラロピテクス属は約400万~約200万年前の南・東アフリカの森林に生息し,伝統的には「猿人」【本試験H4ホモ=サピエンスではない】に分類されます。

 現在わかっている中でもっとも古いホモ属(ヒト属)は,ホモ=ハビリス(約240万年前~ 140万年前)で,東アフリカのタンザニアで見つかりました。伝統的に,彼らは「猿人」と「原人」の中間に分類されています。この頃から約1万年前までの間を「旧石器時代」【追H27】と区分します【立教文H28この時期にはヤギ・ヒツジの飼育は始まっていない】。旧石器というのは文字通り「古い石器」ということで,主に打製石器【追H27磨製石器ではない】が道具として作られ,使われた時期にあたります。

アウストラロピテクス属や,そこから分岐したホモ属は,石を加工して石器という道具を製作していました(最古の石器の時期には定説はありません)。打ち割って作られた石器のことを打製石器といい,打製石器が主に見られる時代を旧石器時代といいます。はじめは石の一部を打ち欠いてつくった単純な礫石器(れきせっき) 【本試験H4「石を内欠いただけでの簡単な打製石器」を猿人が使用していたと推定されるか問う】が主流でしたが,のちに“切る”“削る”“掘る”作業のために,石を打ち欠いて形を整えた石斧(ハンド=アックス)が製作されるようになりました。

170万年~7万年前には,北京原人【本試験H4狩猟・採集生活を送っていたか問う】【追H21火を使用していたとされるか問う】やジャワ原人【本試験H11:土器を使用していたか問う】の名で有名な,ホモ=エレクトゥスが登場しました。彼らは昔は「ピテカントロプス=エレクトス」として,ホモ属とは別種の「原人」【本試験H4時期(約50万年前)。アジア・アフリカ・ヨーロッパにわたる広い地域で生活していたか問う】と分類されてきましたが,現在ではホモ属の一種であるとされています。

彼らは猿人よりも身体や脳容積がひと回り大きく,ホモ属として初めてアフリカの外に移動を開始し(原人の“出エジプト”),ユーラシア大陸の広範囲に移動・居住しました。
 人類最初の“エネルギー革命”ともいえる,火の使用【本試験H4北京原人が知っていたか問う】【追H21 北京原人かどうか問う】【立教文H28旧石器時代かどうか問う】が確認されているのは,彼らの段階からです。人類は火を手にしたことにより,消化しやすいように食べ物を調理することができるようになり(料理の誕生),暖をとったり動物を追い払ったりすることもできるようになりました。
 彼らの喉や口の構造から,言語【立教文H28旧石器時代のことか問う】によるコミュニケーションも可能だったのではないかと考えられています。

そんな気候の大激変期をユーラシア大陸で生き抜いたが,ネアンデルタール人【本試験H17ラスコーとのひっかけ,本試験H19約9000年前ではない】【本試験H4時期(旧石器時代後期)】です。ヨーロッパに到達したホモ=ハイデルベルゲンシスが,ヨーロッパで進化しネアンデルタール人につながったのではないかと考えられています。
 彼らは伝統的に「旧人」【本試験H4磨製石器を使用して狩猟していない】と呼ばれるヒト属の一種で,約40万年前に出現しましたが,後からユーラシア大陸に進出したホモ=サピエンス(約20万年前に出現)に圧倒されて,約4万年前に絶滅しました。死者の埋葬【立教文H28記】の風習があったことが確認されています。

 ネアンデルタール人は,DNA鑑定の結果,現在のわれわれ「ホモ=サピエンス(ヒト)」とは別の種(ホモ=ネアンデルターレンシス)なのですが,共通点もあります【本試験H4現在の人類とほぼ同じ形質の新人であったか問う】。

アフリカに残留したホモ=ハイデルベルゲンシスから,ホモ=サピエンス【本試験H4「猿人」ではない】が進化しました。ホモ=サピエンスとは,つまり私たちの種に当たります。

「ホモ=サピエンス」とは「知恵ある人」という意味で,18世紀に「学名」を提案したスウェーデン人の博物学者〈リンネ〉【東京H9[3]】【本試験H16ジェンナーではない,本試験H29メンデルではない】【追H20ライプニッツではない、H25コントではない】が名付けました。

約10万年~9万年前にアフリカを出た人類は,地中海や西アジアに広がりました。北ルートをとったホモ=サピエンスのうち,フランスで発見されたクロマニョン人【本試験H4旧人ではない】が知られています。

先述の通り,ホモ=サピエンスがユーラシア大陸に到達したころ,そこにはすでにネアンデルタール人【本試験H4時期(旧石器時代後期)】の姿がありました。しかし彼らは“食料確保”の面でホモ=サピエンスに劣っていたため,生存競争に負け,前4万年頃までには絶滅してしまうのです。

 狩猟採集を通して自然の恵みと猛威を直接うけていた人類が,自分自身や自然に対してどのような思いを抱いていたのかは定かではありませんが,4万年前頃からオーストラリアでみられるアボリジナル(アボリジニ)【本試験H27】の洞穴壁画に登場する神話のような絵,3万年以上前のフランスのショーヴェ洞穴壁画,2万年前頃から描かれたフランスのラスコー洞穴壁画【本試験H5図版「ウマの像」。「フランスで発見された」とある】【本試験H17】や,1万8000年前頃から描かれたスペイン【本試験H31】のアルタミラ(アルタミーラ) 【本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H17ラスコーとのひっかけ,H31ラスコーではない】【追H20】【立命館H30記】洞穴壁画では,人類と動物【追H20「動物の絵が見られる」か問う】との間の生き生きとした交流が描かれています。


●前12000年~前3500年の世界
紀元前【本試験H6 B.C.とは「Before Centuryの略」ではない】12500年には,ホモ=サピエンス(人類)は南アメリカに到達し,前9000年にはその南端に到達していました。
こうして南極大陸以外のすべての大陸に広がった人類は完新世に入り地球が温暖化すると,地域によっては細石器を製作する中石器時代を経て,新石器時代磨製石器【追H27旧石器時代ではない】という新たな道具を製作する技術を生み出す集団も現れます。

温暖化にともない陸地を覆っていた氷河が縮小し,大型哺乳類も減少すると,各地の人々はその営みを環境の変化に適応させていきます。
 各地で家畜や栽培植物の集中管理(農耕・牧畜【本試験H4時期が新石器時代か問う】)(注1)も始まり,人類は狩猟・採集による獲得経済だけではなく生産経済へと生存の基盤を変化させます。


●中国
黄河【本試験H29地図が問われる】流域の人々は前6000年頃にはキビ(黍)などの雑穀の栽培に成功します。

現在の長江下流【追H27新石器時代に稲作が行われていたことを問う】,黄シナ海をのぞむ寧波(ニンポー)の近くの河姆(かぼ)渡(と)遺跡(かぼといせき,1973・78年発掘)が発掘されています。
 また、長江上流の四川盆地三星堆遺跡(さんせいたいいせき、1986年発掘)では,明らかに黄河流域とは違う特徴をもつ青銅器【本試験H19約9000年前にはまだ青銅器時代ははじまっていない】の工芸品が大量に見つかっています。

●前3500年~前2000年の世界
●東アジア

前3000年紀になると,黄河中・下流域を中心に,黒色磨研土器(黒陶【本試験H24唐三彩のひっかけ】)を特徴とする竜山文化(りゅうざん,ロンシャン) 【追H25ドンソン文化とのひっかけ】が栄えました。

●南アジア
前2500年~前1700年の間に,インド亜大陸の北西部のインダス川流域では,インダス文明【追H9バラモン教の信仰,ヴァルナ制度はない】【本試験H17ヴァルナ制は発展していない】が発展します。
現在南インドに分布するタミル語【本試験H23ウルドゥー語ではない,本試験H24ヒンディー語アッカド語ではない】などのドラヴィダ系の言語を話す人々(ドラヴィダ人) 【追H9アーリヤ人ではない】が担い手であったとみられます。
従来は,インダス文明を,大河川の治水・灌漑の必要により発展したエジプト,メソポタミア黄河の文明と同一視し「四大文明」の一つに数えることが普通でした。
 しかし,そもそも大規模な王宮や記念建築物が存在しない(注2)ことや,遺跡の地域差 (インダス川流域の上流部にある都市遺跡ハラッパー【本試験H2,本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H30地図】と下流域のモエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ) 【追H26インダス川流域か問う】【本試験H17,本試験H20ガンジス流域ではない】(注3)(世界文化遺産,1980)が有名ですが,近年ではベンガル湾に臨むロータルやドーラビーラの遺跡も注目されています) が大きいことから,王権の発達する他の文明と同列に考えることは疑問視されています。

 未解読【本試験H15,本試験H24解読されていない】のインダス文字【追H28】【本試験H15,本試験H21図版】は,おそらくドラヴィダ系の文字と見られ,神聖視されていたであろうコブ牛の像などとともに,四角形の印章(いんしょう)【追H28】に刻まれていました。コブ牛は前6000年頃の南インドで,アジアのオーロックス(牛の原種)が独自に家畜化されたものとみられます。

モエンジョ=ダーロは整然とした計画都市【追H9】で,日干しレンガが積まれた建造物には,下水の側溝が整備され,道路も舗装され,都市の中心には神殿があって,深さ2.5メートルの沐浴場【本試験H17】もあります。

西アジア
メソポタミアでは,ユーフラテス川【京都H22[2]】下流域(注1)の都市ウルクに代表されるウルク文化が,都市文明を生み出していました。担い手は民族系統不明のシュメール人【追H28ウルを建てたのはアッカド人ではない】【本試験H2ウルを建てたか問う・ゼロの観念や10進法を発達させたか問う,本試験H6】です。
ジッグラト(聖塔) 【追H25王墓ではない・古代メソポタミアか問う(「聖塔ジッグラト」の表記),H30メンフィスに建てられていない】と呼ばれる巨大な神殿(祭祀センター)も建てられました。これは『旧約聖書』に現れるバベルの塔のモデルではないかともいわれています。
 神殿には都市の守り神(守護神)呼び込まれ,神官によって収穫を祈る儀式や政治的な儀礼,交易(注2)が行われたと考えられています【本試験H12「シュメール人都市国家では,神官が政治的にも大きな力を持っていた」かどうかを問う】。古代メソポタミアでは各人に個人の守護神があると信じられていて,王にもその守護神がありました(注3)。
 ほかに,キシュやウル【追H28アッカド人の都市ではない】【本試験H2シュメール人の都市か問う】【本試験H16シュメール人が建設したか問う】という都市国家も,シュメール人によって建設されました。
シュメール人共通一次 平1】【追H30】は,粘土板(ねんどばん)(クレイ=タブレット) 【追H28】【本試験H15】【本試験H8】に楔形(くさびがた)文字(もじ)【東京H23[3]】【共通一次 平1:甲骨文字,満洲文字,西夏文字との写真判別,平1:創始がシュメール人か問う】【本試験H15】【本試験H8】【追H28、H30】を記録しました。大きな川が上流から運んだ土砂が,粘土板の材料です。
楔形文字による記録方法は,メソポタミアを中心に西アジアに広まりました【共通一次 平1:「ハム系(ママ)の諸民族に広まった」わけではない→出題当時は,「ハム系」=「エジプト人」と考えられていた】
また,ウルクでは『ギルガメシュ叙事詩』【本試験H30】という物語が発見されています。第5代ウルク王とされる〈ギルガメシュ〉が,友人〈エンキドゥ〉とともに永遠の命を求める冒険ストーリーです。その中に語られる洪水と復興のエピソードは,のちの『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)のモチーフではないかとも考えられています。

ウルクを含むシュメール人都市国家は,前24世紀後半に〈サルゴン〉(位前2334~前2279) 【立教文H28記】を王とするアフロ=アジア語族セム語派【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】【本試験H29インド=ヨーロッパ語系ではない】のアッカド人【京都H22[2]】によって滅ぼされます。

●アフリカ
「エジプトはナイルのたまもの」【追H26】【東京H13[1]指定語句「ナイル川」】という言葉があります(ギリシア人の歴史家〈ヘロドトス〉(前485?~前420?)によるもの) 【追H17、H26】【東京H22[3]】【共通一次 平1:トゥキディデスとのひっかけ(主著『ペルシア戦争史』を書いたのはトゥキディデス)】【本試験H31】。
上エジプトの政治勢力が,下エジプトに軍事的に進出して政治的に統一したとみられ,両者の境界付近にあるナイル川下流のメンフィス【追H30ジッグラトは築かれていない】を都に定めたとされています。
 なお,彼の時代には象形文字共通一次 平1】であるヒエログリフ(神聖文字) 【東京H10[3],H23[3]】【共通一次 平1】が用いられました。ヒエログリフは碑文や墓などの岩石【共通一次 平1】に刻まれたほか,パピルス紙に記録されました【共通一次 平1:「主に碑文や墓に刻まれた」か問う。「あれ?パピルスでは?」と一瞬迷っちゃうかもしれない】。パピルス紙は,ナイル川の川辺に分布するパピルス草(カミガヤツリ)を薄く剥(は)いた繊維を縦横に並べて圧力をかけ,その上にさらに縦横に並べた繊維に圧力をかけることを繰り返して作った「紙」です。葦(あし)でできたペンを,煤(すす)とアラビアゴムを混ぜたインクに付けて記入しました。
エジプト【本試験H16ヒッタイトではない】では王はファラオとよばれ,自らを神として政治をおこない,ナイル川の治水を指導しつつ,住民に租税・労働を課して指導しました。
 洪水というと危険な災害というイメージがあるかもしれませんが,「洪水があるからこそ,小麦を栽培することができる。洪水が起きるのは,神である王がちゃんと支配をしてくれているからだ」。人々はそのように納得をしていたのです。とはいえ,多くの住民は生産物や労働によって税を納める不自由な農民でした。

 なお、ナイル川の氾濫により破壊された耕地を復元するために,測地術(測量) 【本試験H2フェニキア人の考案ではない】が発達します(注1)。のちのピタゴラスの定理の元となる面積の公式も,すでに使われていました。
 また暦として正確な太陽暦【本試験H2ユリウス暦のもとになったか問う】が用いられていました。

 古王国【本試験H2都はテーベではない】は第3王朝から第6王朝の時期の政治勢力で,ナイル川下流のメンフィス【本試験H2テーベではない】を都としました。この時代は,巨大なピラミッド(王墓であったかどうかは不明)が建設された時期にあたります。
 その後,ピラミッドは一気に巨大化し,カイロ近郊のギザにある三大ピラミッド(〈クフ〉,〈カフラー〉,〈メンカウラー〉のピラミッド) 【本試験H20セレウコス朝の遺跡ではない,H31時期(新王国時代ではない)】が生まれました。
 ・〈クフ〉王…第一ピラミッド 現在146.5m
 ・〈カフラー王〉…第二ピラミッド 現在144m
 ・〈メンカウラー王〉…第三ピラミッド 現在66.5m

 ピラミッドは,古代ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉の『歴史』などをもとに,かつては「王の墓」である(注1)といわれてきましたが,王(ファラオ)の権力を象徴【本試験H31「ファラオの権力を象徴」】させるとともに,ピラミッド内部で王が再生するための施設なのではないかという説もあります。
 いずれにせよ,最大の〈クフ〉王(前2589~前2566) 【追H27クノッソス宮殿を建てていない】のピラミッドは,なんと230万個(1個の平均は2.3トン!) の石灰岩が使用されておち,当時の技術を考えると,8万4000人の労働者を1年に80日×20年間働かせるだけの権力が必要です。

 〈クフ王〉のピラミッドの東西には,貴人の墓である多数のマスタバ墳(長方形)も見られます。古王国では太陽神ラー【追H27】【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】【本試験H21時代を問う,H31古代インドではない】への信仰もさかんで,オベリスクという塔には王の偉業が刻まれました。ヘリオポリスという都市には太陽をまつる神官がおり,太陽信仰の中心地でした。神殿には列柱が建てられ,のちに地中海のエーゲ海周辺のエーゲ文明やギリシア文明に取り入れられました。
 古王国は前2120年に滅びました。
結果的に上エジプトのテーベ(ナイル中流域) 【本試験H2古王国の首都ではない】【本試験H30ニネヴェとのひっかけ】の勢力が上下エジプトを再統一し,新たに第11王朝を立ち上げました。次の第12王朝(前1991年?~前1782?)までを中王国の時期として区分します。都は後にファイユームに遷都しています。

中王国は,パレスチナやヌビア(ヌビアは金の産地です)にも進出するなど,古王国よりも広い領域を支配しました。シリアでもエジプトのファラオの名入りの品が発見されています。また,地中海はエーゲ海クレタ文明〔ミノア文明〕とも交易をしています。
 中王国の時代には古代エジプト語(古典語)で文学も数多く記されました。『雄弁な農夫の物語』や『シヌへの物語』といった物語文学が代表的です。

 この時期には,北シリアからエジプト【追H30】に,騎馬に優れた遊牧民(ヒクソス【追H30】【中央文H27記】と呼ばれました)が傭兵が導入され,エジプト人女性と結婚して移住し,ファラオにつかえる者も現れます。


●前2000年~前1200年の世界
アメリ
 ユカタン半島のマヤ地域【本試験H11地図:位置を問う】【追H25中央アンデスではない】の高地(マヤ高地)では,前2000年には農耕の祭祀(さいし)をおこなう場が出現していました。
 マヤ地域は熱帯雨林から雨季と乾季のあるサバナ気候,高山気候にいたるまで多様性のある気候をもつ地域で,各地域の特産物が交易によって集まる都市が形成されていきました。

●東アジア
黄河流域では,前1600年頃(注1)に登場した商王朝(殷(いん)王朝) 【本試験H3】【追H19】が栄えていました。

商王朝は何度も遷都をおこなっていますが,殷は王〈盤庚〉(ばんこう)により前1300年頃に遷都されたとされる都のことで,遺跡としては河南省の安陽【東京H8[3]】の郊外にある小屯(しょうとん)でみつかった殷墟(いんきょ) 【追H18】 【東京H10[3]】といいます。
 先行するスウェーデンの〈ヘディン〉(1865~1952)、イギリスの〈スタイン〉(1862~1943、ハンガリーからイギリスに帰化)、日本の〈濱田耕作〉(1881~1938)・〈鳥居龍蔵〉(1870~1953)の調査に対抗する形で、1928年に国立アカデミーによって〈李済〉(りさい、1896~1979)を中心に1937年まで15次にわたって発掘が行われました(注2)。殷墟からは甲骨文字や王族の墓が見つかっています(◆世界文化遺産「殷墟」2006)。

 王【本試験H6皇帝ではない】は神として君臨し,その地位は世襲され,多くの都市国家の貴族を従えることで成り立っていました。西方のタリム盆地方面のインド=ヨーロッパ語族から青銅器【追H27鉄製農具の使用は始まっていない】【共通一次 平1「周代に入ってはじめて作られるようになった」わけではない】を獲得したとみられ,戦車や武器に用いられました。
 城壁のある都市国家がみられるようになるのは,黄河の中・下流域です。まずは小規模な地区の統一がおこなわれ,それらが統合されて広域的な国家となっていきました。

 商(殷) 【セA H30】では,甲骨文字【東京H10[3]】【名古屋H31】【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字西夏文字との判別】【本試験H11インカ帝国のものではない】【本試験H21図版】【追H19】【セA H30】という文字が使用されていました。
 占いの儀式に基づいて,王が多くの氏族集団(共通の祖先をもつと考えているグループのこと)の邑(ゆう,都市国家) 【本試験H2】をまとめて支配していたと考えられます【本試験H21郷挙里選は行っていない】。
 宗教面では、祖先の崇拝がおこなわれていました【本試験H23仏教は殷代にはない】。人の魂は死んでしまうと“あの世”に行きますが,子孫が祈れば,子孫のために良いことをもたらしてくれると考えられ,規模の大きい家族(拡大家族)は,共通の祖先を崇拝していました。一族で一番の長老が,儀式をとりおこなえばいいので,聖職者のような階級はみられなかってようです。

 すでに青銅器【追H27鉄器ではない】が使用され,商の支配階級はこれを独占していました。王宮のある殷墟では王の墓とともにおびただしい数の殉死者が葬られており,その支配の強さがうかがえます。中国の西部に西方・北方の中央ユーラシア世界から戦車が伝わったことが,戦争を激化させることになりました。
●南アジア
インダス文明は前2000年頃から衰退を始め,地域ごとに差はありますが,前1700年頃にはほぼ滅びました。
 その原因には,前2200年頃からの気候変動や,サラスヴァティー川の消滅,森林伐採や塩害などの環境破壊説,外民族進入説など諸説あります。メソポタミアやエジプトの文明と異なるのは,大規模な軍隊の存在がうかがえる遺物が見つかっていないことです。発掘が進んでいないということもありますが,メソポタミアやエジプトの文明に比べると,平和的な文明だったとみられています。
さて,インドへに進入するには,アフガニスタンの東部からカイバル峠を通ってヒンドゥークシュ山脈へ,東南部からボーラーン峠を通ってスライマン山脈に入る経路があります。
 中央ユーラシアの草原で遊牧をしていたインド=ヨーロッパ語族のアーリア人は,インダス川上流のパンジャーブ地方【追H30】に前1500年に進入しました(インド=アーリア人【追H30「アーリヤ人」】)。彼らは先住のドラヴィダ人を征服しながら,農耕を取り入れつつ牧畜中心の生活を営みました。ガンダーリー,ケーカヤ,マドラ,プール,ヤドゥ,バラタなどの部族に分かれていました。彼らの言語は,現在のヒンディー語【本試験H24タミル語アッカド語ではない】などにつながります。

 前1500年~前1000年を前期ヴェーダ時代といいます。なぜ「ヴェーダ時代」というかというと,バラモン(司祭階級) 【東京H6[3]】の聖典『リグ=ヴェーダ』【追H28神々への讃歌の集成か問う】【本試験H7「インド神話の古い形」が現れるか問う】が,この時代について知る唯一といっていい史料だからです。
 神々への賛歌(リグ)が収められた聖典で,雷神インドラに関するものが全体の4分の1を占めます。賛歌の知識を持ち,祭祀をとりおこなったのはバラモン【本試験H9ウラマーとのひっかけ】と呼ばれる聖職者階級。この信仰を「バラモン教」と呼んでいます【追H9】。彼らにとって最も重要な財産が牛であったことは,戦争(カヴィシュティ)という単語「牛を欲すること」という意味からもわかります。二頭または四頭立ての戦車が使用され,青銅器を使用しました。自らを「高貴な者」(アーリヤ)と呼び,先住民のドラヴィダ系の人々を「黒い肌をした者」と呼びました。

西アジア
メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

しかし,メソポタミア南部には民族系統不明(注1)のカッシト(カッシート)人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】の進出が始まっていました。

現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 古来、ヒッタイトの製鉄技術は「世界最古」とされてきましたが、近年の研究ではカフカース地方(黒海カスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説が有力。研究の進歩の成果です。

 前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。

前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。

 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)。

メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。
 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)。


ヘブライ人【本試験H2ティルスは彼らの都市ではない】は『旧約聖書』に登場する〈アブラハム〉を“ご先祖”と考えていた人々で,紆余曲折を経て現代でもユダヤ人として文化を残す歴史ある民族です。ヘブライ人は他称で,自分たちのことはイスラエル人と呼んでいました。初め多神教でしたが,唯一神ヤハウェ【本試験H3ユダヤ教多神教ではない】【本試験H30アフラ=マズダとのひっかけ】【追H19太陽神ではない】 (注)と契約を結び,現在のパレスチナにあたる“約束の地”カナンが与えられ前1500年頃に移住したとされます。カナンは彼らの民族叙事詩・神の律法である『創世記』(『旧約聖書』の一部)に,「乳と蜜の流れる場所」と表現されています。沿岸部では前1500年頃からカナン人が活動していました。

 彼らの一部はエジプトに移住しましたが,前13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫である〈モーセ〉(預言者とされます) 【本試験H15・H30ともにイエスとのひっかけ】【追H21キュロス2世,ソロモン王ではない。ヘブライ人の国王かを問う】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。

シリアの内陸部では,アラム人【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない,H6】【東京H6[3]】がダマスクス【東京H6[3]】【追H28フェニキア人の拠点ではない】【本試験H6】を中心にして陸上【本試験H27海上ではない】の中継貿易で活躍しました。アラム語【本試験H15エジプトの死者の書には記されていない】【追H19】は西アジアの国際通商語となりました。
(注)「海の民」はサルディニア島シチリア島を拠点とする人々やギリシアアカイア人イタリア半島エトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。


●アフリカ
エジプトを支配していたヒクソスの王朝は,〈イアフメス1世〉(位前1550~前1525)により追放されました。
 彼を始祖とする第18王朝から第20王朝までを新王国と区分します。王朝の拠点はメンフィスとテーベの2箇所です。メンフィスはユーラシア大陸への進出基地として重要視されました。テーベはヌビアへの進出基地であるとともに,王家の出身地であり太陽神ラー【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】【本試験H31古代インドではない】と同一視されて信仰されたアメン神(テーベの都市神)の中心としてテーベも重視されました。テーベには多数の巨大記念建築物が建造され,王の権威を高め人々を動員させる役割を果たしました。

〈トトメス3世〉(前1479?~前1425?)のときには,スーダン南部のヌビアや紅海沿岸に進出したほか,シリアへの17回の遠征をおこなった記録もあり,最大領域を実現しています。
 そこでヌビア人は,紀元前900年頃,今までの都であるケルマよりも南 (上(かみ)ヌビアといい,現在のスーダン北部に位置します)に移動し,ナパタ(第4急流のやや下流側)でクシュ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】を建てました。クシュ王国は,エジプトのヒクソスの王朝と友好関係を結び,テーベのエジプト人による第17王朝を“挟み撃ち”にして対立します。

 しかし,次第にテーベのアメン=ラーをまつる神官団が政治への介入を始めると,これを嫌った〈アメンホテプ4世〉(位前1349~前1333)(注) 【追H26クレオパトラではない】【本試験H12】【本試験H27クレオパトラではない】【立教文H28記】は彼らの力を排除し,王自らを神格化させるために拠点をテーベとメンフィスのほぼ真ん中に位置するアケト=アテン(遺跡の名称はテル=エル=アマルナ) 【京都H22[2]地図上の位置】【本試験H27】にうつし,唯一の太陽神アトン【中央文H27記】のみを信仰させる宗教改革を断行しました。アメン=ラーをはじめとする従来の多神教を廃止し,唯一の太陽神アテン〔アトン〕信の仰を強制。みずからをアクエンアテン(イクナートン(アクエンアテン),アトン神に有益な者)と称しましす(都のアケトアテンは,アテンの地平線という意味)。
 彼の時代には,従来の宗教的な縛りがなくなったため,写実的なアマルナ様式の美術(アマルナ美術【京都H22[2]】【本試験H29クフ王の時ではない】【中央文H27記】)も栄えます。

 しかし,改革はたったの1代で失敗【本試験H12アトン信仰は〈イクナートン〉の死後も長く信じられていない】。彼の子〈トゥトアンクアテン〉は〈トゥトアンクアメン〉(位前1333~前1324)(注)と改名し,都もメンフィスにうつされました。1922年イギリスの〈カーナヴォン卿〉に支援された考古学者〈ハワード=カーター〉が黄金のマスクを発見し,いわゆる“ツタンカーメン”として知られています。“発掘関係者が早死にした”とか“ツタンカーメン暗殺説”など,古代のミステリーとしてしばしば取り上げられるファラオでもあります。彼の死後,王朝は混乱に向かいました。

第19王朝【追H26古王国時代ではない】の〈ラムセス2世〉(位前1279~前1212)(注) 【中央文H27記】はシリアのカデシュでヒッタイト王国【追H26】と戦いましたが,勝敗のつかぬまま条約が結ばれました。このときヒッタイト王〈ハットゥシリス3世〉(前1275~前1250)は,エジプトのファラオと,シリアの領有権について取り決め,「相互不可侵」を約束しています。さらに,ヒッタイト王は2人の娘を〈ラムセス2世〉に嫁がせることで,平和を確保しました。〈ラムセス2世〉はエジプト最南端のアスワンに4体の巨大な石像で有名なアブシンベル神殿の建設や,テーベ(テーバイ)北部のカルナック神殿オベリスクなどを建立しています。アブシンベル神殿は,アスワンハイダムによる水没を防ぐために,1960年代に国連教育科学文化機関(ユネスコ,UNESCO) 【本試験H10 1944年のブレトン=ウッズ会議で設立が決められたわけではない】が移築させています。

古代エジプトの文字はパピルス(水辺に生えるカミガヤツリという植物の一種) 【本試験H15】に書かれました。パピルスに適した書体として,前2800~前2600年頃,ヒエログリフ(神聖文字) 【東京H11[3]】【共通一次 平1】が考案されました。これを崩したのがヒエラティック(神官文字) 【東京H11[3]】,さらに崩したものがデモティック(民衆文字)です。ヒエログリフが解読されるのは,この文字が刻まれた碑文を,1824年に〈ナポレオン〉(1769~1821)の遠征隊が発見したときのことです。冥界の王オシリスの裁判【本試験H21・H24】に備え,死者を埋葬するときに棺に一緒に入れられた『死者の書』【本試験H9[18]図版ファラオの遠征,太陽暦新王国時代の王の婚礼を描いたものではない】【本試験H15】の多くは,ヒエログリフ【本試験H15アラム語ではない】でパピルス【追H28竹簡ではない】【本試験H15】に書かれています。
 文字の誕生によって,ヒトは「目にはみえない考え」を文字にすることができるようになり,文字を生み出している“自分”という存在に目を向け,さらに生み出された文字によって逆に“自分”自身の考えをも豊かにしていくようになっていきます。例えば,名言などの言葉によって励まされたり,自分の考えを整理したりということもできるようになっていきます。また,“考え方”を他のヒトと共有することで,結束を深めたり,先祖代々の知識を仲間とともに積み上げていったりといったこともできるようになっていくのです。ただし圧倒的多くの人々には文字を読む力(識字能力)はなく,専門の教育機関で書字・読字を学んだ書記に限られていました。
 また,エジプトでは太陽暦【セA H30】が用いられています。

●ヨーロッパ
 前3000年紀からエーゲ海周辺には青銅器文明(エーゲ文明)が栄えていましたが,前2000年頃からバルカン半島小アジアの中間地点に位置するクレタ島【本試験H16地図】で,おそらくインド=ヨーロッパ語系ではない人々(民族系統不明)が,クレタ文明〔ミノア文明;ミノス文明〕を生み出しました【本試験H16ミケーネ文明を滅ぼして成立したわけではない】(クレタ文明を「エーゲ文明」の中に含めることもあります)。
 彼らは伝説的な王〈ミノア〉王にちなんでミノア人と呼ばれ,オリエントやバルカン半島南部(ギリシア)を結ぶ中継交易の利をもとに各地の港を王が支配し,巨大で複雑な宮殿が各地に建設されました。
 このうちクノッソスにある宮殿【追H27クフ王が建てたのではない】【本試験H20ヒッタイトの遺跡ではない】は王の住居で,広場にある貯蔵庫には各地から生産物が貢納されており,集められた生産物は再度各地に再分配されていました。線文字A(ミノア文字)などの絵文字【本試験H16文字がなかったわけではない】が使われていたということは,これらの出し入れが記録されていたのではないかと考えられます(ただし未解読です)。青銅器文明であり,鉄器はまだ使用されていません【本試験H16鉄器は未使用】。

 遺跡がありますが城壁がない【本試験H5堅固な城塞はない】ことから,王は宗教的な権威によって支配していたとみられ,のちのミケーネ文明に比べると平和な文明であったと考えられます。
 クノッソス宮殿の王宮の壁画【本試験H5】(フレスコ画)や陶器の絵【本試験H5】には,明るいタッチでイルカ【本試験H5海の生物】の絵が描かれています。発掘したのはイギリスの〈エヴァンズ〉(1851~1941) 【本試験H5シュリーマンではない】【本試験H16クレタ文明を発掘した人物】で,後述の実業家〈シュリーマン〉【本試験H5エヴァンズとのひっかけ】の発見に刺激されて1900年に王宮を発見しています。


前2000年頃に北方から移住してきたインド=ヨーロッパ語族の古代ギリシア人(アカイア人【セ試行ドーリア人ではない】)によって,前1600年以降にギリシア本土(注1)にミケーネ(ミュケナイ),ティリンス,ピュロスなどの都市国家が建設されました。これをミケーネ〔ミュケナイ〕文明【セ試行,本試験H8文字はある】といいます。
 開放的なクレタ文明とは対照的に堅牢な城壁付きの王宮もみられ,地中海をまたいだ西アジア北アフリカのオリエントの専制国家の影響を受けているとみられます(⇒新王国(前1567~1085?)/前2000~前1200北アフリカ)。
 発掘したのは19世紀ドイツの実業家〈シュリーマン〉(1822~90)です。前15世紀にクレタ島に進入して,これをを支配し,さらに小アジアトロイア(トロヤ)にも勢力圏を広げました。クレタ文明の線文字Aをもとにして作られた,線文字B【本試験H8文字がなかったわけではない】(イギリスの建築家〈ヴェントリス〉(1922~56)が,第二次世界大戦時の暗号解読技術を駆使して解読しました)を用いていました。

 なお,アカイア人の一部はイオニア人と呼ばれるようになり,のちにアテネ(アテーナイ(注3))という都市国家を形成していきます。
 また,アイオリス人【セ試行 スパルタを建設していない】もバルカン半島北部から南下し,紀元前2000年頃にはギリシア中部からエーゲ海のレスボス島,さらに小アジア(アナトリア半島)西部に植民していきました。のちにテーベ(テーバイ)という都市国家を形成していきます。
 のちに吟遊詩人〈ホメロス〉(前8世紀末?) 【共通一次 平1:〈アリストファネス〉ではない】【追H21『神統記』の著者ではない】が叙事詩イーリアスイリアス〕』【共通一次 平1】,『オデュッセイア』で伝えるトロイア戦争は,ミケーネが小アジアトロイア(英語でトロイ)に対して起こした戦争がモチーフになっているといわれますが確かな証拠は今のところありません。

 

●1200年~800年の世界
●中央ユーラシア
もっとも古い時代の騎馬遊牧民は,前8世紀頃に南ロシア【追H25】で国家を築いたスキタイ人【京都H19[2]】【本試験H7騎馬技術を発展させた初期の遊牧民か問う,本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】【本試験H19時期】【追H25,H30中国東北部ではない】です。
●東アジア
 黄河の支流の渭水(いすい) 【本試験H6】に建国された周(前11世紀頃~前256,首都の移動とともに西周と東周に分かれる) は,だいたい前1050年頃,服属していた殷を滅ぼして【共通一次 平1】【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】,鎬京(こうけい) 【共通一次 平1】【本試験H6】【本試験H28光武帝による遷都ではない】【追H25唐の都ではない】【セA H30華北かどうか問う】を都として黄河流域【共通一次 平1:華北か問う】を支配しました。殷の最後の〈紂王〉(ちゅうおう)は「酒池肉林」を地で行く暴君とされ,周の〈武王〉【追H9「文公」ではない】に攻撃されて,自殺しました。
〈武王〉は即位すると数年でなくなったので,次に第2代の〈成王〉(前1021?~前1002?)が即位しましたが年少だったので,〈周公旦〉(しゅうこうたん,前1043?~前1037?)が補佐しました。周の制度を,殷の制度をもとにして整備したのは,彼の業績です。周の天子は血縁関係のある一族や,功臣(手柄のあった部下)に領地を与え,諸侯(しょこう)とし,忠誠を誓わせました。領地を「封土(ほうど)」といい,官職とともに采邑 (さいゆう,土地と人民)が与えられました。諸侯は国君(こっくん)として都市とその周辺を支配し,臣下を卿(けい) 【追H28元代ではない】【共通一次 平1】・大夫(たいふ) 【追H28元代ではない】【共通一次 平1】,さらに彼らが領地を分け与えた士【追H28元代ではない】【共通一次 平1】のように階層的に組織しました。卿と大夫は有力貴族階級で,世族(せいぞく)とも呼ばれます。このような土地による結びつきをもうけることを「封建」(ほうけん)といい,与えられた土地は代々受け継がれました。

●南アジア
パンジャーブ地方に半定住生活を営んでいたアーリヤ人は,前1000年頃から,もっと豊かなガンジス川への移動を開始し【本試験H21】,農耕を営むようになります。この頃,前1000年~前600年を後期ヴェーダ時代といいます。

 彼らはヤムナー川ガンジス川上流域に定着しつつ,ヒマラヤ山脈方面の森林を伐採しながら東に進んでいきました。
 乾燥地帯であるインダス川流域よりも,モンスーン(季節風)の影響を受け降雨にめぐまれたガンジス川流域のほうが魅力的だからです。
 この過程で,アーリヤ人は乾燥草原での牧畜民時代の信仰を残しつつ,先住のインド人の信仰にも影響を受け,自分たちの思想に取り込んでいくようになります。

 前1000年頃には鉄器があらわれ,前800年頃から普及します。先住民から稲作を学び,牛に犂(すき)を引かせて農業生産性を高めました。
 農業生産性が高まると,人口密度も高まり,余剰生産が生まれると,支配階級が形成されていきました。この時期には,各部族の社会が複雑化して国家を形成するようになり,ラージャン(王)が出現しました。人々を納得させるため,バラモン(司祭階級)による儀式が利用されました。軍事的・政治的に王を支えることで,支配階級になろうとした者たちはクシャトリヤ(クシャトラ(権力)をもつ者) 【本試験H26ヴァイシャではない】【追H24非自由民の呼称ではない】と呼ばれるようになります。しかし,この段階ではまだ都市も貨幣もみられません。

 やがて,前9~8世紀に,ガンジス上流のクル族内の王位をめぐる内紛が,叙事詩マハーバーラタ』【追H26イランの自然神の讃歌集ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】の伝える戦争に発展しました。
アーリヤ人のこうした祭儀をバラモン教【追H9インダス文明の信仰ではない】といいますが,火を通じた神への祈祷の方式や神々のルーツをみてみると,ペルシア人【本試験H5インド=ヨーロッパ語族か問う】の信仰したゾロアスター教【本試験H4仏教はゾロアスター教の成立に影響を与えていない】【追H9伝播経路を問う(アラビア半島からインド洋を横断してインドに伝わったわけではない),追H29中国から伝わったのではない】との共通点が認められます。
西アジア
 メソポタミア北部では,ヒッタイトの攻撃によりミタンニ王国が衰えると,支配下に置かれていたアッシリア人が自立し,アッシリア王国が再建されました。前1115年に即位した〈ティグラトピレセル1世〉(前1115~前1077)は都をニネヴェ【東京H18[3]名称と地図上の位置】にうつし,領域を拡大。征服民の強制移住政策を行ったのはこの時代です。アラム人の活動が活発化する中、アッシリアの公式記録はアッカド語(粘土板に楔形文字)とアラム語(羊皮紙にインクで)の2言語で記されるようになりました(注)【H30共通テスト試行「戦車と鉄製の武器を用いて、オリエントを統一した」とあるのはおそらくアッシリアのことであり、アテネのことではない】。
 最高神であったアフラ=マズダは善神に変化し,この世は善神アフラ=マズダ【本試験H30ヤハウェとのひっかけ】と暗黒神アーリマンが限りなく戦う場であるとみなされます。
 最後の審判【本試験H24キリスト教に影響を与えたことを問う】の際に,楽園に入れるのだという善悪二元論【H29共通テスト試行 ユダヤ教の特徴ではない】【H29共通テスト試行 神によって選ばれた民が救済されるわけではない】です。
 この「最後の審判」の考え方は,ユダヤ教キリスト教にも影響を与えたとされています【H29共通テスト試行 輪廻転生の考え方にはたたない】。
 聖典は『アヴェスター』【追H28パルティアの時代に編纂されたか問う】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない,H29共通テスト試行 『旧約聖書』『新約聖書』は聖典ではない】といいます。

 儀式の際に司祭が火【H29共通テスト試行 火を尊ぶのはユダヤ教の特徴とはいえない】をけがさないようにマスクを着用する光景は,火そのものを拝んでいるように映ったため,のちに中国で「拝火教」と呼ばれることになります。

シリア,パレスチナをめぐっては長い間,小アジアヒッタイトメソポタミアバビロニア,エジプトの新王国による争奪戦が繰り広げられていました。しかし,「海の民」によりいずれの国家も衰えると“権力の空白地帯”となったこの地域で,交易に従事したり独自の文化を発展させたりする民族が出現しました。
 内陸部のダマスクス【京都H22[2]地図上の位置】を中心にアフロ=アジア語族セム語派のアラム人【京都H22[2]】【本試験H16フェニキア人ではない】が内陸交易で王国(アラム王国)を築きました。沿岸部では,ミケーネ文明に代わって発達したフェニキア人【セ試行】【本試験H2ヘブライ人の都市ではない,本試験H6】【追H28ダマスクスが拠点ではない、H29地図(勢力範囲を選ぶ。ギリシア人の勢力範囲とのひっかけ)】がシドン【セ試行 フェニキア人】【本試験H6】やティルス【セ試行 フェニキア人】【本試験H2,本試験H6】【追H28ダマスクスではない】【本試験H16ダマスクスではない】といった東地中海沿岸の植民市を拠点に地中海交易で栄えます。地中海沿岸で栽培されるオリーブオイルは,灯りの燃料,化粧品(スキンローション),調理用のオイルとして重要な交易品でした。

 パレスチナでは,アフロ=アジア語族セム語派のイスラエル(ヘブライ)人が強大化します。彼らは前1500年頃に移住したとされ,一部はエジプトに移住しました。しかし,前13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫とされる〈モーセ〉(預言者とされます) 【本試験H15・H30ともにイエスとのひっかけ】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。〈モーセ〉は途中シナイ半島シナイ山で,神との契約を交わしたとされます(注)。
(注)このときの契約はのちに成文化され,『旧約聖書』を構成する「出エジプト記」にあります。日本語では「十戒」(じっかい)と呼ばれ,その内容は次の通り。(1) ヤハウェのほかなにものをも神としないこと,(2) 主なる神の名をみだりに呼ばないこと,(3) 安息日を記憶してこれを聖とすること,また他人に対する愛について,(4) 父母を敬うこと,(5) 殺さないこと,(6) 姦淫しないこと,(7) 盗まないこと,(8) 偽証しないこと,(9) 他人の妻を恋慕しないこと,(10) 他人の所有物を貪らないこと。

 『旧約聖書』の記述に従えば,イスラエル人は「士師」(しし,裁く人(Judge)という意味)という指導者を中心に,海岸付近のペリシテ人【東京H18[3]】(「海の民」?)やカナーン人を撃退した後,〈サウル〉(前10世紀?)が王政を開始しました。これをイスラエル王国(ヘブライ王国) 【中央文H27記】といいます。
 前1000年頃,ヘブライ人は,ペリシテ人を打ち払ったとされる〈ダヴィデ〉(位前1000年?~前960) 【東京H18[3]】と〈ソロモン〉(在位前960?~前922?) 【追H19モーセではない、H21モーセやキュロス2世ではない。パレスチナヘブライ人の国王かを問う】のときに最盛期を迎えますが,〈ソロモン〉がなくなると南部がユダ王国【中央文H27記】として分離しました。このあたりの記述については史料が乏しいこともあり,『旧約聖書』や伝承に依拠せざるをえない状況です。

●ヨーロッパ
青銅器時代に入っていたこの地域の人々は「ケルト人」【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】と総称され,前1200年頃から現在のフランスから東ヨーロッパのチェコスロバキアハンガリーにかけて共通の文化を生み出していました。これをハルシュタット文化といい(前1200年頃~前500年頃),のち前800年以降に鉄器文化に移行することになります。
 「ケルト人」は前1000年を過ぎたころにはピレネー山脈を越え,イベリア半島にも移動しています。イベリア半島には先住のイベリア(イベル)人が分布していました。

(注)以下,地中海に面する南ヨーロッパイタリア半島周辺とバルカン半島周辺に分けて整理します(イベリア半島は前出の「西・北・東ヨーロッパ」に含めます)

 イタリア半島にはすでにエトルリア人【追H21】が分布していましたが,前1000年頃,インド=ヨーロッパ語族の古代イタリア(イタリック)人が,イタリア半島に南下しました。イタリア人の中には,のちにローマを建国するラテン人【セ試行】も含まれています。

シドンからの植民者は,伝承では前814年に現在のチュニジア【セ試行シチリアではない】にカルタゴ【東京H10[3]公用語を答える(フェニキア語)】【セ試行】【本試験H18地図、H24ヴェトナムではない】【H30共通テスト試行 「共和政ローマ」とカルタゴ接触した可能性があったか問う】【追H24 3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】という都市国家を建設しました。地中海を東西に射程範囲におさめることのできる,戦略上きわめて都合の良い港を獲得した形です(◆世界文化遺産カルタゴの考古遺跡」,1979)。
 フェニキア人は地中海に反時計回りの海流があることを見抜き,各地に植民市を建設し【セ試行アフリカ北岸からイベリア半島東岸にかけての地域か問う】,ブリテン島(現在のロンドンがあるイギリスの島)のスズ(青銅器の製造に用いる)や,イベリア半島でとれる銀を地中海東部へと輸出して巨利をあげていました。

 ミケーネ(ミュケナイ)文明の崩壊した頃,西北方言群であるドーリア方言を話すドーリア人が南下しました。彼らは,ミタンニ王国ヒッタイト王国から伝わった鉄器をギリシア本土に持ち込み,前13世紀末~前12世紀初めにかけてギリシアは鉄器文化に突入することになります。この頃のギリシアでは混乱により文字の記録がわずかとなったため,“暗黒時代”(初期鉄器時代)と呼ばれます。
 前2000年以降ギリシア本土に南下していた先住のギリシア人である,アカイア人の一派イオニア人や,別系統のアイオリス人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】は,バルカン半島から小アジアエーゲ海に浮かぶ島々に移動していきました。

 戦乱の中,各地では有力者が武装して集団で定住(集住;シュノイキスモス)し,農耕地帯を含めた都市国家(ポリスといいます)【セ試行】を各地で形成し,地中海の交易活動にも従事して,前800年頃には新たな特色を持つギリシア文明の担い手となっていきます。

●前800年~前600年の世界
アメリ
この時期,ユカタン半島のマヤ地域【本試験H11】【追H30ロゼッタ=ストーンとは無関係】の文明は先古典期の中期にあたります(注)。
 神殿ピラミッドは,前700年~前400年頃から建造され始めています。

●中央ユーラシア
前9~前8世紀にかけて,中央ユーラシアの遊牧民は,青銅器製の馬具や武器を用いた文化を発展させていました。
 前7世紀にはいよいよ,黒海北岸(南ロシア)【追H25,H30中国東北部ではない】でスキタイ人【京都H19[2]】【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】【追H25】が騎馬遊牧文化を発展させました。言語的にはイラン系です。

 騎馬遊牧民は機動性が高く,戦闘が不利になった場合には騎乗をしない農牧民と違ってすぐさま退却することが可能でした。また,圧倒的な軍事力を背景に各地で商工業・農耕を営む人々をしばしば傘下(さんか)に入れ,お互いが利益となるような提携関係を結んだり,提携が破綻すれば激しく攻撃したりしました。それゆえ騎馬遊牧民の支配領域では,服属下に置いた他の騎馬遊牧民集団や,さまざまなバックグラウンドを持つ民族をも含み持つ混成的な社会が生まれました。

 スキタイ人の動きは〈ヘロドトス〉【東京H22[3]】【本試験H31】【追H21】の『歴史』【追H17ペルシア戦争の歴史を叙述したか問う、H21神統記ではない】や,当時のアッシリア王国の粘土板文書によって明らかになっています。彼にとっては,農業をせずに家を運びながら生活するスキタイ人の生活は目からうろこでした。
 スキタイ人と同じような,草原を舞台にする騎馬遊牧民文化は,中央ユーラシア全域に広まっていました【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】。現在のカザフスタンあたりまではイラン系が広がっており,それよりも東のモンゴル高原・中国の北部にはテュルク系・モンゴル系の民族が分布していました。

●東アジア
 周では王位をめぐる内紛が起きていましたが,〈幽王〉(前781~前771)が西方の山岳地帯に住んでいた犬戎(けんじゅう) 【本試験H6五胡ではない】に攻撃を受けて亡くなり,西周は滅びました。ここまでの周を「西周」【本試験H6前17~16世紀頃に成立した王朝ではない】といいます。

 この頃周の〈幽王〉の太子(廃太子され、別の場所に逃れていました)で、東方の洛邑(らくゆう) 【本試験H6】に遷都し,周を復興したのはこの〈平王〉(へいおう、前771~前720)によるもの。
 しかし、実際には周の王位をめぐる内紛が完全に収まったのは前740年頃のこと。西周の滅亡後、ただちに東に遷都したわけではないのです(注1)。中国史の約束事としてこれ以降の周を東周(とうしゅう)と区別することになっています。

 中原(ちゅうげん)を中心に,周から封建された諸侯による国家が多く並び立っていましたが,表立って周王の権威を傷つけようとする諸侯はまだ現れていません。諸侯国の領域は西周時代には「邦」と呼ばれ,都城のある「国」(或)と,周辺の「邑(ゆう)【東京H29[1]指定語句】」によって成り立っていました。都城には人々が徴発され集住されていき,西周後期には「邦国」,春秋時代には「国」と呼ばれるようになります。
 「春秋の五霸」(注2)と総称される有力な諸侯(国君)【本試験H30】は周辺の遊牧民らと戦い,たがいに宗教的な儀式に基づく「盟」(めい)を結びつつ(注3),競って周王の保護を受けようとしました。周王を大切にし,異民族を追い払う“尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)” 【東京H18[3]記述(意味)】が理想とされました。
 国君は軍事的な指導者(王)として卿(けい) 【共通一次 平1】・大夫(たいふ) 【共通一次 平1】といった支配階層を従えさせるとともに,国君の祖先神をまつる儀式をおこなう神官として,「天」や「上帝」といった神に対して働きかけることで権威をアピールしました。

 前722年からは歴史書『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』(左伝)の記録が始まりました。『春秋』は前481年までの記録ですが、「左氏伝」には前479年の記録までが記されています(注4)。
 前679年には斉の〈桓公〉(かんこう,前685~前643) 【京都H21[2]】が,中原の諸侯と同盟に加えて霸者(はしゃ) 【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】となりました。中原の諸侯にとっても最も手強いライバルは,長江流域の楚(そ)です。
桓公〉の死後は,宋(周の東方)の〈襄公〉じょうこう,(位前650~前637)が覇権を握ろうとしましたが,前638年に楚に敗れ,翌年亡くなりましたに。楚軍が川を渡っている途中にやっつけることもできたのでしょうが,敵に情けをかけたがために,結局自分が死んでしまった。“無用の情け”という意味の「宋襄の仁」という故事成語が生まれました。

 楚の勢力は増す一方で,中原諸国への進出が進むと,晋【追H9周ではない】の〈文公〉(位前636~前628)が宋を助けて,周から「霸者」と認定されました。
●東南アジア
この時期には,現在のヴェトナム北部に,ドンソン文化【追H25竜山とのひっかけ】が栄えます。担い手はオーストロアジア語族系。当時は光り輝いていた青銅器製の銅(どう)鼓(こ)【追H25灰陶ではない】が,その独特な形をしているのが特徴で,当時の支配層がみずからの権威を誇るためにつくらせ,各地の支配層に贈ることで威圧したり友好関係を結んだりしたとみられます。この銅鼓は大陸部だけでなく,島しょ部でも広範囲で発見されています。

●南アジア
 この時期のインド北西部は,前1000年~前600年の後期ヴェーダ時代の後半です。クシャトリヤ(戦士)の代表である王は,バラモン(司祭) 【東京H6[3]】に権威を認めてもらう代わりに,これを保護しました。
 バラモンは,口伝えによって儀式の秘密を独占し,別の階級との結婚を規制して秘密を守りました。アーリヤ人秘伝の正しい方法で儀式を執り行わなければ,神は起こって災いをもたらすというのが彼らの主張です。これをバラモン教【セA H30インドで成立したか問う】といいます。
 ヴァイシャは農業と牧畜を行う階級で,シュードラ【追H26インドの隷属民か問う】【東京H6[3]】は隷属民です。征服された先住民だけでなく,アーリヤ人の中にもシュードラに転落する者もいました。農業にも牧畜にも従事せず,狩猟採集生活を行っていた部族は,もっとも身分の低い賤民(せんみん)として扱われ,シュードラ以下とする不可触賤民(ふかしょくせんみん)とされた集団もいました。触ることもできないような身分の低い人々という意味です(注)。

 このような身分・階級制度のことをヴァルナ制度【追H9インダス文明の制度ではない、H28ササン朝ペルシアの制度ではない】【本試験H17インダス文明の制度ではない,本試験H26ジャーティとは違う】と呼びます。ヴァルナとは色のことで,初期のアーリヤ人が先住民の肌の色が自分たちよりも暗かったことから,色を意識した呼び名になったのです。
 ヤムナー川ガンジス川の2つの川の流れる地域のクル国,パンチャーラ国,ガンジス川中流にあるコーサラ国などが,有力な国家となりました。コーサラ国は叙事詩ラーマーヤナ』【本試験H26・H30】の主人公であるラーマの王国です。ラーマは妻のシーターを悪魔から取り戻すために,スリランカに行って帰ってくるという内容です。

 後期ヴェーダ時代には,バラモンによる儀式の独占に対する批判も起こるようになります。バラモンは形式的に儀式をとりおこないますが,それによって人々の抱えるさまざまな悩みが癒えるわけではありません。この時期には,生前の業(ごう。行いのこと)によって,来世にどんな生き物に生まれ変わるかが決まるという,輪廻(りんね)の思想【本試験H24イスラームとは関係ない】が確立されました。現在よりも死亡率の高い時代です。人間に生まれたとしても,高い階級に生まれるかどうかはわかりません。どうしたら,この永遠の輪廻から抜け出すことができるのか。その答えが,この時代の新しい思想家(ウパニシャッド哲学者) 【本試験H26時期】の説をまとめたウパニシャッド(奥義書(おうぎしょ))に残されています。

西アジア
 アッシリア王国は,ティグリス川上流部の都市アッシュル(◆世界文化遺産「アッシュル(現・イラクのカラット=シェルカット)」,2003)を中心に,イラン高原の錫(スズ)を小アジアに中継する貿易で栄え,この時期に強大化していきました【東京H18[3]公文書に記述された文字を2つ問う(アラム文字,楔形文字)】。

 前727年には〈サルゴン2世〉がイスラエル王国を滅ぼし,アナトリア半島のウラルトゥ王国(前9~前7世紀)も破っています。歴代の王は圧倒的な兵力により都市国家支配下に入れていき,〈エサルハドン〉(前681~前669)のときにはエジプトにも進出し,メンフィスを占領。〈アッシュールバニパル〉王(位前668~前627)のときにはエジプトのテーベを占領し,イランのエラム人も征服。「宇宙の王」を名乗り最盛期を迎え,首都ニネヴェ【本試験H30】からは大量の粘土板を保管する図書館が見つかっています。これはアッシュルバニパル文庫といわれ,バビロニアの宗教・叙事詩天文学・辞書に関わる著作が集められました。オリエントにおいてバビロンは,長きにわたって学術の中心地として重要視されていたのです。
 のちに天動説【本試験H12地動説ではない】【追H17】を唱えた〈プトレマイオス〉【追H17ジョルダーノ=ブルーノではない】【東京H27[3]】が前8世紀以降の暦を完成させたのも,バビロニア天文学(いわゆる「バビロニア占星術」)の成果にのっとったものです。

このようにアッシリアの支配が幕を閉じると,メソポタミアには新バビロニア王国,エジプトにはエジプト王国の第26王朝(リビア系の支配者とされています),小アジアには最古の鋳造貨幣【本試験H6アテネ,スパルタ,ペルシアではない】【追H30】(金属を溶かして一定の形に固めて作った貨幣)を使用したリディア王国【本試験H22アルシャク(アルサケス)朝パルティアではない】【追H30バクトリアとのひっかけ】,イランにはメディア王国が並び立つ,四王国分立の時代となりました。

小アジア…リディア王国(注1)
メソポタミア新バビロニア
・エジプト…エジプト第26王朝
イラン高原…メディア王国


 イラン高原のメディア王国は,前8世紀後半にイラン系により建国され,前6世紀後半にアケメネス朝〈キュロス2世〉(位前559~前530) 【追H21ヘブライ人の指導者ではない】に倒されるまで続きます。
 メソポタミア新バビロニア王国は,〈ネブカドネザル2世〉のときにエジプト=サイス王朝の〈ネコ2世〉(ネカウ2世)に勝利し,エジプトはシリアを失いました。また彼は,パレスチナ南部のユダ王国を滅ぼし,住民をバビロンに移住させました。これを「バビロン捕囚」(ほしゅう) 【追H19】といいます。

パレスチナ地方北部のイスラエル王国(北イスラエル王国)は,前722年にアッシリア王国に滅ぼされました。
 また,イスラエル王国から分離していた南のユダ王国は前586年に新バビロニア【本試験H2アッシリアによるものではない】【本試験H26】【追H29】のネブカドネザル2世(前605~前562)に滅ぼされました。新バビロニアは首都のバビロンにヘブライ人【本試験H26】を強制的に連れ去り【追H29「強制移住」】,そこにとどめおきました(前586~前538【東京H6[3]時期「前6世紀」】,バビロン捕囚【本試験H2アッシリアによるものではない】【東京H6[3]】【追H29新バビロニアによるものか問う】)。この王はバビロンに「空中庭園」を建設させたことでも有名(空中にあるわけではなく,5段のテラスに土を持って植物を栽培させたもの。世界七不思議の一つ)。
 連行されたヘブライ人たちの中には,異国の地で教会(シナゴーグ)をつくって団結を続けた者もいました。「いまは辛い目にあっているが,きっと救世主(メシア、ヘブライ語で「油をつけられた者」(注)という意味) 【本試験H3】が現れて,ヘブライ人だけを救ってくれるはずだ」という選民思想【本試験H3「選ばれた民族」】【H29共通テスト試行 ゾロアスター教の特徴ではない】を抱き,彼らは唯一神ヤハウェへの信仰を保とうとします。
 新バビロニアの滅亡後,彼らはイェルサレムに帰還しますが,一神教の信仰を維持することは容易ではありませんでした。その後,一神教を信仰する集団によって,前515年にヤハウェのための神殿が再建され,ヘブライ人の思想や習慣は『旧約聖書』【追H19マヌ法典ではない】にまとめました。

フェニキア人は,シリアの沿岸部,現在のレバノンという国の南部を拠点として,レバノン山脈レバノン杉の海上交易で栄えました。シドンやティルス【本試験H18地図】といった海港都市から,地中海はおろか,イギリスのブリテン島(青銅器の材料になるスズが産出されます)や,北欧のバルト海(木材や琥珀(こはく)がとれます),またはアフリカ方面まで航海し,各地の貴重な物産を持ち帰り取引したといわれています。地中海沿岸には植民市が建設され,ティルスを母市とするカルタゴ【東京H10[3]公用語を答える(フェニキア語)】【セ試行】【本試験H18地図、H24ヴェトナムではない】【H30共通テスト試行 「共和政ローマ」とカルタゴ接触した可能性があったか問う】【追H24 3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】が,地中海のど真ん中,現在のチュニジアにあって栄えました。レバノン杉は,エジプトでミイラをおさめる棺の木材となり,船の建造にも用いられましたが,森林伐採が進み,現在ではほとんど残っていません。
 イタリア半島は長靴の形をしていて,その長靴で3個の“ボール”が蹴られていると考えてみてください。一番南にシチリア島【本試験H16地図】,さらにその北にサルデーニャ島【本試験H16地図,19世紀似にイタリア統一した国王の統一前に支配していた島を問う】,その北がコルシカ島【本試験H16地図・ナポレオン1世の出身地かを問う】【追H24地図】です。
 シチリア島とアフリカ大陸は目と鼻の先の位置にあり,フェニキア人がアフリカ大陸側に建設した都市カルタゴは,戦略的にもとても重要な港となっていきました。文字は最初は象形文字(しょうけいもじ,物をかたどって作られた記号)から始まりますが,フェニキア語は表音文字【セ試行】【本試験H8表意文字ではない】(一つ一つが別の音をあらわし,その組み合わせで一定の発音を表す記号)のフェニキア文字【セ試行】【本試験H8】として表記され(原カナン文字【本試験H8楔形文字ではない】から改良された22文字のアルファベット),8世紀にはキプロス島を伝わり,のちにギリシア文字【セ試行】【本試験H8】のアルファベットの元になっていきます。

●アフリカ
メロエ王国【本試験H29】時代のヌビア人は,鉄鉱石を採掘しアッシリアから伝わった製鉄技術を積極的に導入します。前5世紀頃の鉄器製造の証拠が見つかっていて,メロエは「アフリカのバーミンガム(18世紀後半以降のイギリス産業革命(工業化)時代の鉄鋼都市)」とも呼ばれます。


●ヨーロッパ
ラテン人の都市国家ローマはイタリア半島中部の都市国家に過ぎず,はじめは先住民のエトルリア人の王の支配下【本試験H6ケルト,カッシート,アイオリスではない】【本試験H14時期(前4世紀にはエトルリア人の王の支配下にはない),本試験H29】【追H21】にありました。彼らの根拠地では鉄やスズがとれるため,南部のギリシア人と早くから接触があり,高い文明を手に入れました。そのため,エトルリア人はアーチ建築をはじめとする土木技術に優れ,剣闘士の競技や凱旋式,服装などとともに,のちのローマに影響を与えました。しかし,ギリシア文字からつくられたエトルリア文字は未解読で,多くはわかっていません。

 伝説によると前8世紀に,ローマを流れるティベル川【セ試行】に,捨てられた双子の兄弟が流れ着いたところから始まります。
 この〈ロムルス〉と〈レムス〉の血筋は,ローマの詩人〈ウェルギリウス〉(前70?~前19)【追H24ポリビオスとのひっかけ,H30】の『アエネイス』【追H21ポリビオスが著者ではない,H30著者を問う】【中央文H27記】によるとトロイアの貴族にまでさかのぼるとされています。2人は野生のオオカミに育てられ,あらたに見つけた都市の支配権をめぐって兄弟喧嘩がおこり,兄の〈ロムルス〉が〈レムス〉に勝利したため,「ローマ」と命名されたといいます。
 ローマはラテン語【追H19】を話すラテン人【セ試行】により建設されましたが,エトルリア人【セ試行】の王による支配を受けた期間がありました。しかし,前509年【追H26時期(前6世紀)】に彼らを追放すると,王政【追H26共和政ではない】から共和政【追H26王政ではない】になります【本試験H14時期(前4世紀にはすでにエトルリア人の王の支配下にはない)】。
 彼らはエトルリア人を経由して,ギリシア文化の影響を受けていました。政治的には,共和政,つまり,君主はおかず,所定の手続きにもとづく話し合いによって問題を解決する政治形態をとっていました。しかし,民主共和政(市民の多くが政治に参加することができる共和政)ではなく,貴族共和政(少数の貴族のみが参加する共和政)でした。
 彼らの都市は,広場(フォルム【本試験H18アゴラとのひっかけ】),神殿,城壁によって構成されていました。貴族共和政は,実権を握る構成メンバーが少ないため,貴族「寡頭」政(かとうせい)とも呼ばれます(寡頭とは,リーダー(頭)が寡(すくな)いという意味)。

 貴族は,元老院(セナートゥス)という長老会議のメンバーで,元老院は王政のときには王の諮問機関(助言をするための機関)でしたが,王の追放後にはローマの政治を牛耳るようになります。貴族はラテン語パトリキ【本試験H9】。父(パテルpater)が語源です。彼らは自らの血筋を誇り,大土地・奴隷・クリエンテス(奴隷ではないが,貴族の保護下に置かれた下層の平民。「私的な庇護民」)を所有して,平民との違いを強調しました。彼らは国家(レースプーブリカ。英語republic(共和制)の語源です)の官職に就任するための選挙で,賄賂(わいろ)や買収などあの手この手が用いられました。特に,小麦を無料で配給されていた下層民(プローレーターリウス。ドイツ語ではプロレタリアート)は,票集めのための格好の対象でした。
 平民はプレブス【本試験H29】と呼ばれる農民で,要職につくことはできず【本試験H29要職を独占していたわけではない】,貴族と平民の間の結婚も禁止されていました。

ちなみに,執政官(コンスル) 【本試験H9】【立教文H28記】は任期1年の最高官職で,貴族から2名が選ばれました。


前8世紀になると,ギリシア人各地にポリス【本試験H18アゴラとのひっかけ】が建設されるようになります。
 ポリスは,有力な貴族の指導のもと,集住(シノイキスモス;シュノイキスモス)によって成立した都市国家のことです。ポリスにはアクロポリス(城山) 【本試験H18アゴラとのひっかけ】という城砦があって,敵の進入を確認するとともに,ポリスの神々をまつる神殿が置かれ,祭祀(さいし)がおこなわれたり,公金を管理したりする場所でもありました。アテネ(アテーナイ)の場合,麓(ふもと)に向けてパンアテナイア通りがのびて,近くのアゴラ(広場) 【本試験H18アクロポリス・フォルム・ポリスではない】【慶文H29】は政治や市場の中心でもあり,民衆裁判所や評議会議場が隣接していました。

 スパルタは,テーベ(テーバイ)というボリスを支配下におさめた後,バルカン半島南西部のペロポネソス半島の先住民を,第一次メッセニア戦争(前743~前724)で撃退し,ポリスを形成しました。獲得した土地は,貴族と平民からなる市民(スパルティアタイ)に平等に分配されました。
 前685年には,先住のメッセニアが反乱を起こしましたが,第二次メッセニア戦争(前685~前668)で鎮圧されました。

 戦後のスパルタは,貴族と平民は皆平等に兵士(平等者(ホモイオイ)と呼ばれました)となり,征服地の住民(戦争奴隷)【本試験H25】からなる奴隷(ヘイロータイ(英語はヘロット)) 【追H24非自由民の呼称か問う、H28交易に従事していない】 【本試験H2アテネではない,本試験H10】【立教文H28記】の反乱をおさえるために,軍国主義的な支配体制をつくっていきました。彼らは幼い頃から男女別に共同生活・共同食事をともなう訓練が行われ(“スパルタ教育”の語源です),市民の団結のために格差が生まれないように貴金属貨幣を禁止し,鎖国政策が取られます。スパルタ【本試験H2アテネではない】の国内には,商工業に従事する周辺民(ペリオイコイ【追H26奴隷身分ではない】【本試験H2アテネにおける呼称ではない】【東京H26[3]】)が居住していました。 スパルタのあるラコニア地方では穀物の自給が可能であるため,鎖国することも可能だったのです。政治は,軍事指揮権のみをもつ2人の名目な王と,選挙で選ばれた5人の監督官(エフォロイ)と長老会が王を監視する体制がとられ,実質的には貴族政でした。

 

 一方,バルカン半島東南部のアテネ(アテーナイ)はイオニア系のギリシア人のポリスで,アッティカ半島を拠点とします。人口の3分の1が奴隷【本試験H13奴隷制は廃止されていない】で,家内奴隷・農業奴隷や鉱山での採掘労働に使われました。奴隷ではない自由民は,貴族と平民に分かれていて,平民は参政権を持たず,財産にも格差がありました。
 アテネ(アテーナイ)の家族は,子供数名と夫婦からなる核家族が普通だったようです。男の結婚年齢は30歳くらい(女は15歳前後)と高く,一夫一婦制が基本で家族の人数は少なかったようです。

ギリシア人による地中海・黒海の植民市建設がさかんになった
貧しいギリシアは交易に活路を見出す
 しかし,社会が安定するとしだいに人口が増えて土地不足が問題となり,前750年頃から約2世紀にわたりギリシア人は植民活動を活発化させました。ギリシア人は武装して船舶に乗り込み,地中海からボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を通って北上し,黒海沿岸に至るまで植民市を建設していきます(ギリシア人【東京H18[3]】の植民活動)。植民市は,栽培した穀物【本試験H6】を輸出し,各地からオリーブ油【本試験H6】やブドウ酒【本試験H6】を輸入して栄えます。

 ドーリア人のポリスであるメガラの植民者は,ビュザンティオン(ビザンティオン) 【東京H14[3]位置を問う,H18[3]】を建設しました。のちにビザンティウムコンスタンティノープル【追H30 6世紀ではない】→イスタンブルと支配者や名称が変わっていきながらも,2500年以上の長きにわたり東西交流の中心として繁栄していくことになる歴史ある都市です。
 同じくドーリア人によりバルカン半島南西部のペロポネソス半島ギリシア本土を結ぶ交通の要衝(ようしょう。重要な地点のこと)に,商業都市コリント(コリントス)が建設されました。

 イオニア人小アジア(アナトリア半島)沿岸のミレトス【本試験H6アリストテレスの活動地ではない】や,黒海沿岸を中心に植民しました。
 植民に当たってはデルフォイの神託に従い植民者の指導者や地域が決められました。母市(メトロポリス)のポリスの団結意識を表す「共通のかまど」から聖火を分け,植民市(アポイキア;娘市)のかまどに移す儀式が行われましたが,母市・娘市は政治的には独立していました。植民市の中には,早かれ遅かれ母市からの独立意識を強める所も現れます。
 ほかには,地中海と黒海の間に位置するビザンティオン【本試験H6】【東京H14[3]位置を問う】,シチリア島シラクサ【東京H14[3]】,イタリア半島の南部(タレントゥムなどを拠点とするマグナ=グレキア),フランス南部のマッサリア(現・マルセイユ) 【本試験H6】【東京H14[3]位置を問う】などが建設されていきました。

 彼らは,当時盛んに地中海交易をおこなっていたフェニキア人の文字に刺激され,ギリシア語のアルファベット(表音文字)がつくられ,商業活動で使われました(ギリシア文字)。また,前8世紀に,盲目の詩人〈ホメロス〉(生没年不詳) 【共通一次 平1】が『イリアス(イーリアス)』【共通一次 平1:『神統記』ではない】【本試験H30】や『オデュッセイア』などのギリシア語の詩を残し,ギリシア人独自の文化も深まっていきました(ホメロスの実在を疑う説もあります)。
 前700年頃には,〈ヘシオドス〉(生没年不詳) 【共通一次 平1:ホメロスではない】【本試験H7】【本試験H17ローマのウェルギリウスではない,本試験H31政治を風刺する喜劇作家ではない】【追H21ヘロドトスとのひっかけ、H29ペルシア戦争について叙述していない(それはヘロドトス)】が神々の系譜を『神統記』【本試験H7神々の系譜が書かれているか問う】【追H21、H24ホメロスの作品ではない,H25】に,植民市での農作業の様子などを『仕事〔労働〕と日々』【共通一次 平1】【本試験H15ラテン語ではない,本試験H17】に著しています。
 ほか,前612年生まれの女性詩人〈サッフォー〉(生没年不詳)は乙女への愛ををうたった抒情詩を多く歌っています。少女に対する愛情をうたったことから,彼女の活動したレスボス島(ミティリニ島)が,近代になるとに女性同性愛者(レズビアン)を意味するようになっていきました。

 交易が盛んになり鋳造貨幣も流通し【本試験H10時期を問う(図「4ドラクマ銀貨」をみて答える)】,平民の中には農産物を自分で売り,富裕な平民となる者があらわれ,自分で武器を買って戦争に参加する者も現れました。当時,兵士としてポリスを守ることができるものには,政治に参加する権利が与えられましたが,兵士になるための武具は自分で調達する必要があったのです。交易がさかんになると,商工業の発展にともない武具の価格が下がったことも,平民に幸いしました。平民は鎧(よろい)を着て,馬に乗ることができなくても,青銅器でできた兜(かぶと),胸当て,よろい,すね当て,それに盾と,鉄器の槍を持って密集隊形(ファランクス)を組めば,馬を凌駕(りょうが)するほどの立派な戦力となります。
 このような部隊を重装歩兵【本試験H2】部隊(ホプリタイ)といい,商工業に従事し国防を担(にな)う富裕な平民が貴族と対立し【本試験H10】富裕な平民が参政権を主張するきっかけとなっていきます【本試験H2貴族の権力が強化されていったわけではない】。

 

ギリシア人による自然哲学が盛んになった
万物の根源を問う論証が積み上げられた
 さて,前7世紀頃の社会の変動期に現れた,新しい考え方が「イオニア自然哲学」【追H25スコラ学ではない】です。イオニア地方【本試験H10〈タレース〉はシチリアシラクサ出身ではない】というのは,現在のトルコがあるアナトリア半島(小アジアとも呼ばれる地方)の,エーゲ海に面している地方のことで,このころ盛んに各地で交易をしていたギリシア人の拠点であり,合理的に物事を考える習慣がついていたのでしょう。また,ギリシアはオリエントの文明と違い,強大な権力を持つ宗教指導者や王がいません。ですから,自由に物事を考える気風や,説得力ある弁舌や論理的な説明が重んじられる傾向がありました。例えば,〈タレス〉(タレース,前624?~前546?) 【追H9ソクラテスではない、H17万物の根源はアトムとしたのではない、H20、H25】【セ試行 イオニアの自然哲学者か問う】【本試験H10】【本試験H13】は,万物の根源(アルケー) 【追H9ソクラテスと無関係、H25】【本試験H17ストア派ではない】を水【本試験H29】【追H17原子(アトム)ではない、H25】と考え,この世界の成り立ちを合理的にとらえようとした自然哲学者【本試験H13】の一人で,“哲学の父”と呼ばれます。西洋哲学の流れの中では「ソクラテス以前の思想家」として分類されることが多いです。哲学とは,答えのない(カンタンには出ない)問いを,自分の頭をつかって徹底的に考えることです。のちに成立するヨーロッパ世界や,のちにイスラーム教が広まる世界(イスラーム世界)では,彼以降現れたギリシアの思想家の影響を強く受けることになります。

 

アテネでは都市国家の政治参加者数が拡大され,法・政治制度が確立されていった
交易の発展を背景に,部族制が崩れる
 交易が発展して財力を得る平民も現れると,自ら武器を装備し,ポリスのために重装歩兵として戦うことで貢献するようになった平民の中から,政治に参加する権利を要求する声もあがります【本試験H6交易の発展の結果,もっぱら貴族の手中に富が集まり,諸ポリスに貴族制が確立したわけではない】。

 前7世紀に〈ドラコン〉【本試験H25スパルタではない】が,貴族の独占していた慣習法を成文化し,平民にもルールがハッキリと示されるようになりました。内容は主に刑法で,刑罰にはかなり残酷で厳しいものもありました。
 前6世紀初めには〈ソロン〉(前640頃~前560) 【本試験H18時期】【早・政経H31アテネ最古の成文法を制定していない】が,参政権をめぐる争いを財産によって参政権を定める,いわゆる財産政治(ティモクラティア) 【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期において禁止されたか問う】によって解決しようとしました。こうして富裕な平民には参政権が与えられました。役人は上位3ランクからのみ選ばれるという内容です。
 また,アテネ(アテーナイ)の発展とともに問題となっていたのは,債務奴隷【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期(民主制の完成期と類推する)において禁止されたか問う】です。このころの農民は,生産物の1/6を富裕な者におさめなければならず,支払えなければ“カタ”として債務奴隷(ヘクテモロイ)にされてしまうことが問題になっていました。〈ソロン〉はこれを禁止し,貧しい平民が増えて社会の秩序が乱れることを防ぎます。ちなみに〈ソロン〉は,〈ドラコン〉の法のうち,殺人に関するもの以外を廃止しています。

 しかし,こうした貧しい平民の支持を集め,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)によって政権を奪う政治家が現れます。その背景には民衆を巻き込んだ貴族間の激しい抗争がありました(注)。
 混乱をおさめるため、僭主(せんしゅ) 【本試験H18】【H30共通テスト試行 ポリュビオスがローマの国制のうち「元老院」について、「僭主」的であるとは表現していない(「貴族的」が正しい)】による一人支配が求められたのです。
 前6世紀中頃に〈ペイシストラトス〉(?~前527) 【本試験H18】が,隣国のメガラとの戦争で活躍し,中小農民の支持を受け,前561年以降断続的に独裁をおこなったのが有名です。独裁とはいえ,〈ペイシストラトス〉のように,人々の意見をちゃんと反映していたとプラスの評価がされる者もおり,僭主が一概に「暴君(タイラント。僭主を意味するギリシア語「テュランノス」が語源です)」というわけではありませんでした。
 神殿建築を造営したり,お祭り(パンアテナイア祭やディオニュシア祭【本試験H31リード文(アテネ南麓の劇場は酒神ディオニュソスを祀る国家的祝祭の舞台だった)】など)を積極的に運営したりして,アテネ(アテーナイ)市民の団結感を高めました。なお,この時期(前8世紀~前6世紀)につくられた像は,目は笑ってないのに口だけ微笑んでいる「アルカイック=スマイルという特徴を持り,アルカイック期と呼ばれます。
 また,彼は中小農民を保護して自作農を育成したため,彼らがのちの民主政の支持基盤となっていくことになりました。

 前508年には,〈クレイステネス〉(生没年不詳) 【東京H28[3]】【本試験H15】【追H21】は僭主が現れないようにするため,陶片追放(オストラキスモス) 【東京H8[3]】【本試験H9[17]】【本試験H15】【追H21, H30スパルタではない】の制度をつくります。当時はまだ紙がありませんでしたから(紙が実用化されるのは後漢時代の中国),記録するのに陶器のかけら(陶片(オストラコン)【追H28】【本試験H15】)【本試験H21図版。甲骨文字,インダス文字ではない】を削ったわけです。人気が加熱しすぎた政治家を,「僭主になるおそれがある者」【追H28】としてアテネ(アテーナイ)から追放できるようにしたものです【本試験H9[17]評議員・執政官や将軍を選出したわけではない】。「僭主になる恐れのある人物【本試験H9[17]党派ではない】」が投票され,6000票以上の得票者のうちの最多得票者が追放されたものとみられます。

 彼はまた,従来の伝統的な4部族制(血縁に基づく)が社会の実態に合っていないと考え,血縁を考慮しない地理的な区割り(デーモス【立教文H28記】)を考え,それを組み合わせて人工的に10部族をつくりました。こうすることで,人々が自分の部族のことばかりを考えるのではなく,ポリス全体のことを考えることをねらったのです。ちなみにこのデーモスは,デモクラシー(democracy,民主政)という英語の語源となりました。デーモスからは,人口比例で選ばれる五百人評議会を作りました。


●前600年~前400年の世界
●中央ユーラシア
 中央ユーラシアのど真ん中に位置するタリム盆地は,雨がほとんど降らない乾燥地域ですが,北を東西に走る天山山脈や,西部のパミール高原からの雪解け水に恵まれて,地下水や湧き水を利用した都市が,古くから生まれていました。このような定住地のことをオアシス,都市に発展したものをオアシス都市といいます。しかし,せっかく山ろくの地表に水が湧き出ても,ほっとくと高温と乾燥ですぐに蒸発してしまいます。そこで,山ろくから地下水路をオアシスに向けて伸ばして,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ(カレーズ)) 【本試験H5中央アジアのオアシス都市では「小規模な灌漑農業が行われていた」か問う】が作られるようになっていきました。上空から見ると,穴がいくつもぼこぼこ開いているように見えるのが特徴です。

●東アジア
この時期の中原諸国では,身分に応じた家臣とは別に,能力に応じた人材をとりたてる動きが加速しました。特に有名なのは〈孔子〉(前552?551?~前479)ですね【本試験H13ソクラテス,釈迦,孔子ではない】。

 晋では趙【本試験H15山東半島が拠点ではない】・魏・韓の三晋が,周から事実上独立を図るようになります(注2)。

 前447年,楚の〈恵王〉(前488~前429?)が,蔡(さい)を滅ぼして領土に加えたのち,宋の進出も狙いました。これに対して兼(けん)愛(あい)(家族を超えた博愛主義)【本試験H15】・非攻【本試験H17法に基づく統治ではない】を唱えた〈墨子〉【追H9孟子とのひっかけ】【本試験H17法家ではない】(前480?~前390?)の武装集団(墨家(ぼっか)【本試験H15,本試験H31法家とのひっかけ】【慶文H30記】)が阻止しています。

 前404年に趙・魏・韓の三晋が,周王〈威烈王〉(前425~前402)の命で斉を破り,前403年に諸侯と任命されました。
 この時点で,東周の前半部の春秋時代が終わり,ここから戦国時代【本試験H19五代十国時代とのひっかけ】とすることが一般的です(宋の時代の『資治通鑑』(1084年完成)など)。なお,「戦国」は,漢の〈劉向〉(りゅうきょう,前77~前6)の『戦国策』が語源です。

●南アジア
バラモン教に対する批判【追H30擁護していない】として生まれた新たな思想の一つが,ジャイナ教【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まった宗教ではない】【追H30バラモンヴェーダの権威を擁護していない】です。

ジャイナ教の開祖〈ヴァルダマーナ〉と同じ頃,バラモン教という当時の“常識”から目覚めた人物がいます。目覚めた人という意味の〈ブッダ〉です。目覚めることを,“悟りを開く”といいます。悟りを開く前は〈ガウタマ=シッダールタ〉(前566~前486頃または前464~前384頃) 【本試験H12仏教の「開祖」ではない】【本試験H13ソクラテス・釈迦・カントではない,本試験H15仏教の開祖かを問う,本試験H19時期】という名のクシャトリヤ階級でした。人間は永遠に輪廻転生するということが当たり前だったインドで,「輪廻転生の苦しみから逃れる方法」について悟った人物です。

まずは〈ブッダ〉の遺骨。仏舎利ともいうこの遺骨を,ストゥーパという塔に納めてまつりました。実は,仏像がつくられるようになるのは,〈アレクサンドロス大王〉(前356~前323)が東方遠征でインダス川流域【追H29】にまで到達したのがきっかけです。
 〈アレクサンドロス大王〉が連れてきたギリシア人が,彫刻の制作技術を伝えたのです。それが現在ののアフガニスタンにあるガンダーラ地方です。アフガニスタンは,カイバル峠でインダス川上流部とつながっている地域です。アフガニスタンには,ギリシア人の国バクトリア王国(前255~前145頃) 【本試験H8ソグド人ではない】が前255年にたてられていて,ギリシア人が植民してます。ギリシア系住民が,ガンダーラ様式の仏像【本試験H4図版(純インド的な様式ではない)】をつくる以前は,人々は,〈ブッダ〉の遺骨を崇拝していたのです。〈ブッダ〉は正しい「考え方」を追究することで,生きる苦しみから逃れる道を探したわけですが,やっぱり「物」をありがたがるほうが,わかりやすいですからね。この時期の,アフガン方面から北インドにかけての美術をガンダーラ美術【本試験H8】【セA H30ビザンツ文化の影響ではない】ともいいます。

個人の修行を重視するスリランカ(セイロン島)の上座部は,のちに東南アジアに伝わりました。中国・朝鮮・日本に伝わった北伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】と違い,南から伝わったので南伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】といい,上座仏教(テーラワーダ)【本試験H6「上座部仏教」,菩薩信仰が中心思想ではない】と呼ばれます。上座仏教は,部派仏教時代の上座部とは厳密にはイコールではないので,以前呼ばれていたように“上座部仏教”(じょうざぶぶっきょう)とは呼ばれなくなってきています。

西アジア
 パールス地方においてすぐれた騎馬戦法を発展させたアケメネス家〔ハカーマニシュ〕が強大化し,アケメネス朝【京都H22[2]】【本試験H17ハンムラビ王は無関係】〔ハカーマニシュ朝〕を建国しました(注)。
 建国者は〈キュロス2世〉(位前559~前530) 【追H21出エジプトの指導者ではない】で,メディア王国とリディア王国を征服し,さらに前539年にはバビロンに入城。さらに前538年には“バビロン捕囚”をうけていたユダヤ人を解放しました。〈キュロス2世〉は,北方のスキタイ人(ペルシア語の史料では「サカ人」)も討伐しています。
 王位を継承したのは長男〈カンビュセス2世〉(?~前522)で,前525年にエジプトを征服し,第26王朝を滅ぼして,なんと自身がファラオに即位しています。しかし,彼はペルシアに帰る途中,病死あるいは暗殺されました。
 これをチャンスとみた,アケメネス家の〈ダレイオス〉は,ペルシアの有力貴族に支持されて,王の弟を暗殺し,キュロスの家系から王位を奪います。

 こうして王位についた第3代〈ダレイオス1世〉(ダーラヤワウ1世(注2),位522~前486) 【本試験H6】【本試験H27アルシャク(アルサケス)朝パルティアの王ではない】【追H30】は,黒海沿岸から北インド(インダス川上流部)にかけて遠征し,エーゲ海の東部やエジプトを含む広大な領土を支配することに成功します。
 アム川上流部のバクトリアや,その西のマルギアナ支配下に置いています。
 彼により建設されたザグロス山脈(イラン高原南部をペルシア湾と並行に走る山脈)の中央の新都ペルセポリス【本試験H17ギリシアではない,本試験H27コロッセウムはない】にあるレリーフ(浮き彫り)には,インド人が牛を連れている姿や,バクトリア人がフタコブラクダを連れている様子も刻まれています。楔形文字を使用した碑文も各地に残っています。スーサ王宮建設碑文(ペルシア語・エラム語・アッカド語)や,即位宣言が,ゾロアスター教の善神アフラ=マズダから王位を与えられるレリーフとともに刻まれているビーストゥーン(ベヒストゥーン)碑文が知られています【本試験H15楔形文字は碑文にも刻まれた例があるかを問う】。

 広大な領土から,効率よく情報や税金を集めるために,公用語としてアラム語・アラム文字が使用されました。また,アラム語の影響を受けてソグド文字が,イラン系のソグド語の表記に用いられるようにもなりました【本試験H6ダレイオス1世は,シルク=ロードを通して東西交易に力を注ぎ,中国へ使節を送ったわけではない】。

 ペルシア人の王族・貴族はサトラップ(サトラプ,太守) 【追H24非自由民の呼称ではない、H30】に選ばれ,各行政区を軍事的に間接支配させました。行政区は21の行政区(サトラピー)に分割されていました。

 さて〈ダレイオス1世〉は,税をおさめ,兵を出すなどの言うことを聞いている限り,基本的には征服地にペルシア語【本試験H5インド=ヨーロッパ語族か問う】・ゾロアスター教ペルシア人の法を押し付けることはありませんでしたし,征服地の支配者も,サトラップの言うことを聞いている限りは,その身分は保障されました。“アケメネス朝は支配地域に対して寛容だった”と,よく説明されますが,ようするにそのほうが,支配にかかるコストがかからないわけです。
 ただ,これだけ広い地域を支配するには,「情報」や「物資」の伝達が不可欠です。例えば,地方で反乱が起きたときには,その情報をいちはやくつかみ,兵や食糧を迅速に輸送する必要があります。
 そこで,首都スーサ【東京H20[3]】から小アジアのサルディスまで「王の道」【本試験H4地図(王の道のルートと,道を整備した国の名称(アケメネス朝ペルシア)を答える),本試験H6シルク=ロードではない】が整備されました。ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉(前484?~前425?) は,全行程約2400kmで,所要日数は90日だったと伝えていますが,通常は3ヶ月かかったと考えられています。馬や使者が各地に用意され、リレー方式でスサ~サルディス間を約1週間で走破できたようです【本試験H4『歴史』の史料が転用される。「「王の道」と呼ばれるその街道には,王の宿駅や立派な旅宿が随所にある。リディアとフリギア区間は94パラサンゲス半(注*約520km)の距離だが,宿駅は20にのぼる。その先ハリス川の地点には関所と,それを守る衛所とがある。宿駅の総数は111。サルデスから都スサまでの間にこれだけの数の宿泊所があったことになる。」】。


●ヨーロッパ
 イタリア半島中部のラテン人の都市国家ローマは,初めエトルリア人の王に支配されていましたが,前509年に追放し共和政が始まりました。当初は政治は貴族(ノビレス)が独占していましたが,平民(プレブス)が重装歩兵部隊【早・政経H31「三段櫂船の漕ぎ手」とのひっかけ】の主力として活躍するようになると,護民官(トリブーヌス=プレービス)と平民会の設置を要求しました。前494年と前449年の聖山事件(せいざんじけん)という平民の反乱により護民官・平民会ともに設置されました。護民官は神聖な役職とされ,「ウェトー(Vet?,私は拒否する)」と言うことで,人々のために元老院がくだした決定をくつがえすことができました。ただし独裁官(ディクタートル)の決定は例外です。さらに,前450年頃には,十二表法【本試験H17時期(前5世紀かを問う)】【本試験H8慣習法を成文化したローマ最古の法か問う】【早・法H31】が公開されて,貴族が口伝えで受け継いできた法の独占が破られていきました。
ミレトス【追H28アケメネス朝の都ではない】【東京H14[3]】を中心とするイオニア植民市はペルシア人の進出に対して反乱を起こし,それを救援するためにアテネ(アテーナイ)とエレトリアが立ち上がり,(ギリシア=)ペルシア戦争(前500~前449) 【大阪H31】が勃発しました。

 この戦争の詳細については,〈ヘロドトス〉(前484?~前425?) 【追H29ヘシオドスではない】が『歴史(ヒストリアイ)』に記録していることからわかっています。『歴史』には同時代のギリシア以外の広い地域の様子についても記されていて,東は遊牧騎馬民族スキタイ人についてまで説明されています。

 前492年の〈ダレイオス1世〉による第一回ギリシア遠征は失敗。同じく〈ダレイオス1世〉による第二回遠征は前490年のマラトンの戦い【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ】でアテネ(アテーナイ)【本試験H29スパルタではない】の重装歩兵軍が,スパルタ軍の到着する前にペルシアを破りました。
 勝利に酔っていたアテネ(アテーナイ)市民をよそに,「やがてペルシアはもう一度やってくる。今度は海戦になるはずだ」と予測した〈テミストクレス〉(前528?前527?~前462?前460?) 【本試験H31】が,海軍の増強を主張。その財源はラウレイオン銀山で採掘された銀を使うと,堂々たる演説を行うと,前483年の民会で決議され,200隻の軍艦建造が決まりました。
 〈テミストクレス〉の予言通り,ペルシア軍はまた襲来。

第三回遠征では,前480年のサラミスの海戦【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,H31アクティウムの海戦ではない】【追H30ギリシア軍は敗北していない】でペルシア軍を破りました。ちなみに,第二回までは〈ダレイオス1世〉が指導していましたが,第三回は〈クセルクセス1世〉によるものです。

 当時のギリシア人には,デルフォイにあるアポロン【本試験H7主神ではない】の神殿で神託をうかがい,重要事項を決めるしきたりがありました。
 〈テミストクレス〉がデルフォイで占った結果,神が出したお告げは「木の柵を頼れ」でした。彼はこれを,建造した艦隊のことだと判断し,巧みな戦略で2倍の艦隊数を誇るペルシア海軍をサラミス海峡に誘い込み,壊滅的打撃を与えることに成功したのです。

 ギリシア人はポリスの違いに関係なく,オリンポス12神【本試験H25】【追H20一神教ではない】への信仰が盛んでした。主神ゼウス【本試験H7アポロンではない】をはじめ,オリエントの神々とは違い,人間の姿をしていて【本試験H25】人間臭いところがあるのが特徴です。いくつかのポリスが隣保同盟を組んで,神々を一緒にまつることもありましたが,デルフォイ【H29共通テスト試行】とオリンピアだけは,すべてのギリシア人にとっての聖地でした【H29共通テスト試行 アメン=ラー神信仰ではない,バラモンは無関係】。オリンピア【本試験H27アテネ(アテーナイ)ではない】では定期的にポリス対抗の競技大会が開かれ(古代オリンピック) 【本試験H27,H29共通テスト試行 コロッセウムでは開催されていない】,〈ピンダロス〉(前518~前438)が祝勝歌をつくっています。別々のポリスであっても同じギリシア人(ヘレネス)意識を持っていた彼らは,ギリシア語を話さない異民族をバルバロイ(よくわからない言葉を話す者) 【本試験H10「手工業に従事する人々」ではない】と呼び,自分たちよりも遅れた存在と見なしていました。


万物が,たったひとつの要素から構成されているのか(一元論),それとも複数の要素から構成されているのかということは(多元論),長い間議論の的でした。〈ピュタゴラス〉(ピタゴラス,前570?~前495?) 【本試験H10】【法政法H28記】はエーゲ海のサモス島【本試験H10シチリア島シラクサ出身ではない】出身でしたが,南イタリアに逃れて万物の根源とされた「数」を崇める教団(ピュタゴラス学派(教団))を形成しました。ピタゴラス音階(ドレミ…の音階)を理論的に生み出したのも、彼らの功績です。

 また,万物が永遠不変の変わらないものがあるとする説と,そうではなくあらゆるものは移り変わっていくとみる説も対立していました。後者は,〈ヘラクレイトス〉(生没年不詳) 【追H26】が有名です。彼は,万物の根源は「火」【追H26原子ではない】で「世界は常に移り変わりながらも調和を維持している」と説明しました。
 一方,〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)は万物は「火・空気・水・土」の4元素から成り立ち,それがくっついたり離れたりすることで,さまざまな物質が生まれるのだと考えました。それに対して,〈デモクリトス〉(前460?~前370?) 【本試験H2天文学者プトレマイオスではない,本試験H10シチリア島(シラクサ)出身の自然科学者ではない】は,4元素説を否定し,万物の根源は「原子」(アトム) 【追H26これを説いたのはヘラクレイトスではない】によって成り立っていると考えました。

ペルシア戦争後も,ペルシアはポリス間の政治に介入して,軍資金を提供することでコントロール下に置こうとしました。
 そこでアテネ(アテーナイ) 【本試験H31スパルタではない】は自らを中心にして周りのポリスを従え,交易ネットワークも支配下に置いて(注),ペルシアに対する共同防衛のためデロス同盟【本試験H31】を結成しました。
 同盟国から集められた資金をしまう金庫はエーゲ海の入り口にあたるデロス島に置かれましたが,のちにアテネ(アテーナイ)はこの資金を流用していきます。例えば,前447年から「黄金比」の比率で有名な,ドーリア式(装飾のない列柱を持つ様式) 【東京H24[3]】のパルテノン神殿【セA H30アテネで作られたか問う】【名古屋H31論述(世界遺産の登録基準をどのような意味で満たしているか)】が建設され,建築監督を務めた彫刻家〈フェイディアス〉(前465?~前425?)は,象牙と黄金で作られたアテナ女神像を,かつてはパルテノン神殿の横にあるイオニア式(柱の上部に水の渦巻きを著した列柱を持つ様式)のエレクテイオン神殿に安置しました。

 また,ペルシアとの海戦で,武具の買えない貧しい平民(無産市民)らは,三段櫂船(さんだんかいせん。3段に座席のある漕ぎ手がオールを動かし,最大時速20kmで敵船に突っ込み,沈没させることができました【本試験H6図版(ジャンク船,カラベル船,蒸気船と見分ける)】【本試験H22ジャンク船・ダウ船・亀甲船ではない,本試験H29】【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期のアテネで、「下層市民」が漕ぎ手として活躍したか問う】【早・政経H31重装歩兵部隊ではない】)の漕ぎ手として活躍しました。このことから,戦後には彼らも含めたすべての成年男性市民が民会に参加することができ【本試験H29】,多数決で直接ポリスの政治に参加することが認められました(直接民主政)。役人はくじ引きで決められ,裁判はくじ引きで選ばれた陪審員(手当が支給されました)が民衆裁判所で判決をくだしました。
 ただし,女性や奴隷,アテネ(アテーナイ)国内の外国人には参政権はありませんでした。また,将軍〈ペリクレス〉【追H21】と協力してクーデタをおこし,貴族から政権を奪った民主派の政治家〈エフィアルテス〉(?~前461)により,前462年には貴族の合議機関として残されていたアレオパゴス会議から政治の実権のほとんどを奪っています。実質上の最高職となった将軍職(ストラテゴス)は,くじ引きではなく民会における選挙で選出されました。
 任期1年,10人が選出され,再任は可能です【本試験H12「ペリクレス時代のアテネでは神官団の政治的権限が民会以上に強かった」わけではない】。こうしてアテネの成年男子による民主政は「完成」しました(つまり、女性や奴隷に参政権はありませんでした)【追H21】【大阪H31 論述(参政権の範囲の変遷について西欧近現代と比較する)】。


 バルカン半島南西部のペロポネソス半島(ラコニア地方)のスパルタ【本試験H27アテネではない】には王がいましたが,民会で話し合う前に元老院(ゲロンテス)長老と一緒に起案された事項を先に協議する必要がありました。元老院は28人の長老と2人の王で構成され、おもに司法を担当します。一方、監督官(エポロイ)という役職が王を処罰、拘禁することもできました。
 王は軍隊の指揮をとる将軍ではあるものの、その権限を行使するには実質的に長老や貴族の了解が必要であったということなのです(注1)。

 このような制度をつくったのは伝説上の王〈リュクルゴス〉(前390?~前324) 【本試験H27】【中央文H27記】と伝えられ,前6世紀中頃までに成立したとみられます(注2)。


 こうしてスパルタは,圧倒的多数を占める奴隷の反乱をおさえつつ,ギリシア最強の陸軍国となったわけです。しかしペルシア戦争では戦闘に破れ,戦後アテネ(アテーナイ)がデロス同盟【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】で勢力を伸ばしたのに対抗して,スパルタを盟主とするペロポネソス同盟【本試験H19デロス同盟コリントス同盟,四国同盟ではない】を結成しました。

 前431年にアテネ(アテーナイ)を盟主とするデロス同盟vsスパルタ盟主のペロポネソス同盟の間で,ペロポネソス戦争が勃発(前431~前404) 【本試験H31】【立教文H28記】。アテネ側をバルカン半島トラキア人が支援。
 対するスパルタ側【本試験H31】を,アケメネス朝ペルシア【本試験H31「スパルタがペルシアの支援を受けた」ことを問う】やシラクサ(アテネ(アテーナイ)と交易で対立していたシチリア島の植民地)が支援しました。

 アテネ(アテーナイ)は,市内に立てこもる作戦をとりましたが,疫病で〈ペリクレス〉将軍を亡くし,スパルタに破れます。
 このペロポネソス戦争共通一次 平1:ペルシア戦争ではない】【追H29トゥキディデスが叙述したか問う(正しい)】については,ペルシア戦争の叙述(『歴史』【追H20『ゲルマニア』ではない】【本試験H31ササン朝との戦争を扱っていない】)で知られる〈ヘロドトス〉と並ぶ歴史家〈トゥキディデス〉(前455以前~前400?) 【東京H22[3]】【共通一次 平1】【本試験H26リウィウスではない】【追H20、H29】【同志社H30記】による客観的な記録(『歴史』)が知られています。
 ペロポネソス戦争の前後,アテネ(アテーナイ)では【本試験H10この時期のポリスについて(「①ポリス市民間の貧富の差が拡大した,②土地を失うポリス市民が現れた,③ポリスの間に傭兵の使用が広まった,④ポリス市民としての意識や結束が強まった」か問う。④が誤り)】,〈クレオン〉(?~前422)のように,人々をいたずらに煽(あお)り立てる煽動政治家(デマゴーグ)が現れるようになります。

かつてペルシア戦争期に,戦闘に参加してアテネ(アテーナイ)の華々しい活躍を目撃した〈アイスキュロス〉(前525~前456) 【追H24】は,『アガメムノン』を含むオレステイア3部作など雄大な悲劇を多数残しました。しかし,アテネ(アテーナイ)の没落期を生きた〈ソフォクレス〉(前496?~前406) 【追H24】は,『オイディプス』王など,運命に縛られた人間の絶望を描き,多くの人が戦場に散っていく世相にマッチして人気を得ました。また,〈エウリピデス〉(前485?~前406) 【追H24】は,『メデイア』など,悲劇を日常的で身近な人間ドラマに仕立て上げる新たな手法を導入し,人気を博しました。喜劇作家としては『雲』『女の平和』【立教文H28記】で知られる〈アリストファネス〉【共通一次 平1】【本試験H31直接明示されてはいないが,「政治を風刺する喜劇」をつくった人はアリストファネスであり,ヘシオドスではない】【追H24三大悲劇詩人ではない】がいます【共通一次 平1:主著は『イリアス』ではない】。

 口先だけの弁論術が重視され,「人間は万物の尺度である」【追H9ソクラテスの主張ではない】と主張した〈プロタゴラス〉(前480頃~前410頃) 【セ試行イオニアの自然科学者ではない】 【追H9ソクラテスではない,本試験H17ソクラテスとのひっかけ】のようなソフィスト(話し方の家庭教師) 【本試験H13,本試験H17問題文の下線部】という職業が人気を得ました。立場によって簡単に意見を変える【本試験H13ソフィストたちは「絶対的な真理の存在」は主張していない】ソフィスト相対主義的な考え方(絶対的な答えなんてないという考え方)を批判した哲学者が〈ソクラテス〉(前469~前399) 【追H9「徳は知である」と主張したか問う】【本試験H17ストア派ではない】です。彼は,「ソフィストの連中は,自分が“何も知らない”ということを“知らない”(無知の知)【本試験H17人間は万物の尺度である,ではない】」「この世の中には絶対的な正義というものがあるはずだ。それにしたがって生きるべきだ(知徳合一)【本試験H13孔子・釈迦・カントではない】」と主張しました。

 

?
●前400年~前200年の世界
アメリ
アメリカ大陸原産【本試験H11】のトウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原では,ティオティワカンに農耕集落ができます。

●中央ユーラシア
 モンゴル高原の方面では,イラン系とみられる月氏【本試験H19時期】の勢力が強力でした。

●東アジア
春秋時代の終わり頃【追H27殷代ではない】から鉄製農具【東京H9[3]】【本試験H6】が普及しました。
 これにより耕地が増えて区画整理が進んだので、牛が前に進む力を農業に利用することができるようになります。犂(すき)という道具を使って耕させたのです。木製や石製ではなく、先端に鉄製の器具を取り付けることで、初めて実際の耕作に使えるレベルとなりました。これが牛耕【東京H9[3]】です。
 牛耕が普及したために、さらに農業の生産高がアップします【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題)】(注1)。

 生産効率が上がったことにより、宗族(そうぞく)ごとにまとまる氏族共同体によって経営されていた農地も,小家族により経営されるようになりました。
 その結果小規模な農民が増え、余剰生産物が増えるとともに,商工業もさかんになり出します。
犂(すき)の形をした布貨(ふか) 【本試験H10図版の判別「五銖銭」とのひっかけ。黄河中流域の諸国で使用されたか問う(正しい)】【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H22交鈔ではない,本試験H25】,刀貨(とうか) 【追H27「刀の形をした貨幣」が戦国時代に流通したか問う】【本試験H10図版の判別。戦国時代に入ると使用されなくなったわけではない】,円銭・タカラガイの形をした蟻鼻銭(ぎびせん) 【本試験H10図版の判別。戦国時代の楚で使用されたか問う(正しい)】,円銭(えんせん)といったさまざまな形の青銅貨幣【本試験H2時期(春秋・戦国時代か)】も用いられました。


 宗族を中心とする氏族共同体が崩れると,実力本位の価値観が高まり,従来のように身分を大切にする考え方が薄れ,ときに下剋上(げこくじょう)を唱える者も現れます(注2)。
 かつてはもっとも忠実な周の諸侯であった晋(しん,?~前369)が,前453年に家臣の韓(かん)氏【京都H21[2]秦の東方の国を答える】,魏(ぎ)氏【京都H21[2]趙の南方の国を答える】,趙(ちょう)氏にのっとられて3つに分裂し,戦国時代と呼ばれる時代が始まりました。周王の権威などどうでもよいと考える諸侯が現れるようになり,「戦国の七雄(せんごくのしちゆう)」【東京H18[3] 燕・斉・楚・秦・韓・魏・趙から3つ選ぶ】【本試験H17藩鎮ではない】と一くくりにされる有力国家が,たがいに富国強兵を推進して相争う時代がやってくるのです。山東半島【本試験H15】を拠点とした斉【本試験H15山東半島を拠点としたのは趙ではない】の臨?(りんし),現在の北京周辺の燕(えん)は遼東半島方面に郡を置き,防備を固めています。

*

儒家
 このうち中国の歴史において後々に大きな影響を残すこととなるのが、〈孔子〉(前552?前551?~前479) 【名古屋H31】のはじめた儒家(礼(れい)や仁(じん)を重んじれば国はおさまるという思想を唱えた派) 【名古屋H31】でした。
 氏族共同体の崩壊にともない,新たに「孝」(こう,親によく従うこと)や,「悌」(てい)(兄や年長者によく従うこと)といった家族道徳【本試験H15】をしっかりし,礼楽(儀式と音楽)をしっかり行うことで,個人→家族→国がしっかりおさまるのだ(「修身斉家治国平天下」(しゅうしんせいかちこくへいてんか,『礼記』の言葉))と説きました。儒家は,死後の魂や鬼(鬼神)を信じず,神秘的な考えを疑う“ドライ”な面も持ち合わせています。

 儒家の「礼」は目上の人(親や兄など)を敬う心ですが,それは人為的な考え方にすぎず,ありのままに自然の道理(法則)に従ったほうがよい(無為自然(むいしぜん)【本試験H16孟子ではない】)と考えたのが,〈老子〉(実在は不明)・〈莊子〉(生没年不詳,戦国時代中期)の道家です。
 一方,まごころを家族だけに注ぐのは,心が狭い。誰に対しても愛を注ぐべきだと主張した〈墨子〉(生没年不詳)による墨家(ぼっか) 【本試験H31法家とのひっかけ】 【追H9孟子とのひっかけ】でした

 また,儒家の説は直接の弟子の次の世代になると,さらに新たな要素も加わって発展していきました。例えば,〈孟子〉(もうし,前372?~前289) 【追H9兼愛・非攻を説いていない・「法による統治,信賞必罰,君主権の強化」を唱えていない】【本試験H16】は,人には生まれながらにして仁(じん)や礼が備わっていると考える性善説【追H9「本性は悪」という説ではない】【本試験H16】をとりました。

 

荀子〉と法家
 それに対して,〈孔子〉の有力な弟子(孔門十哲)の一人である〈子(し)夏(か)〉(前507?~前420?)の門弟である〈李?(りかい)〉(生没年不詳)は,成文法をまとめた『法経』六篇をあらわし,刑法を制定することによる社会改革をめざします(注3)。

 彼の影響を受けて〈荀子〉(じゅんし,生没年不詳。前4世紀末?生まれ) 【追H9孟子とのひっかけ】は性悪説(人間は外部からの強制力がなければ悪いほうに流れてしまうという考え)【追H9性善説ではない】をとり,礼を国家の統治原理としつつ,法による支配の重要性を説きました。
 〈李?(りかい)〉の法は,秦で〈商鞅〉(しょうおう,?~前338) 【本試験H12始皇帝の政策顧問ではない】【本試験H14時期(秦代),本試験H16内容,本試験H17時期】によって九篇の律(りつ)として実践され,秦は強国にのし上がります。この改革を変法(へんぽう)【本試験H17時期】といい,法の専門家グループは法家(ほうか)【東京H16[3]】【本試験H17墨家とのひっかけ】と呼ばれるようになります。〈商鞅〉の律は,のちに漢の律,唐の律に受け継がれるので重要です(注)。
 法家の思想はのち〈韓非〉(かんぴ,?~前234),〈李斯〉(りし,?~前210) 【本試験H12始皇帝の政策顧問。商鞅とのひっかけ】【本試験H25荀子ではない】に受け継がれていきます。「法の規制によって国を強くしよう」という考え方です。法家の思想は,氏族共同体が崩れ小家族を単位とする小農民が増加する中で,君主が一方的に強い権力を発動して官僚や軍を用いて領域内の人々を支配するためには都合のよいものでした。

 

その他
 ほかにも以下のような人たちがいます。
・「孫氏の兵法」で知られる兵家の〈孫武〉(そんぶ,春秋時代)。
・戦国時代の斉で活動し,陰陽五行説【本試験H16】により天体の運行と人間生活が関係していると説いた〈鄒淵〉(すうえん) 【本試験H16孟子ではない】ら陰陽家(いんようか)。

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 なお,〈屈(くつ)原(げん)〉(前340~前278頃) 【本試験H3長恨歌の作者ではない】によって『楚辞』【本試験H14『詩経』とのひっかけ】【追H19】という情感豊かな詩歌集がつくられたのは,戦国時代の楚(そ)においてです。

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 戦国の七雄の一つで諸国のうちもっとも西方に位置していた秦は,縦横家をブレーンに採用し,外交戦略と軍備増強によって,燕・斉・楚・魏・趙・韓をつぎつぎに倒していきます。
 前4世紀中頃には,従来の戦車にかわって,数万人規模の歩兵が戦場に用いられるようになっていました。前5世紀~前4世紀頃から,騎馬文化の影響を受けた【本試験H12黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化の影響を受けたか問う】匈奴(注) 【本試験H3遊牧民であるか問う】や東胡につながる遊牧民が,モンゴル高原から南下するようになり,遊牧民の騎馬技術を習得するようになります。例えば,趙は〈武霊王〉(位前325~前298)のときに,騎馬遊牧民匈奴に学び「胡服騎射」を取り入れています。
 一方,北方の各国は騎馬遊牧民【追H30ウズベク人ではない】の進入に備え,長城【追H30】と呼ばれる防壁を建設しました。

〈政〉【本試験H6】は,前221年に咸(かん)陽(よう)【京都H21[2]】を都として中国を統一すると,「王」や「天子」という従来あった称号では満足せず,「皇帝」【本試験H6周の封建制・漢によって用いられるようになったのではない】という称号を採用し,〈始皇帝〉【本試験H3中国を統一した時期に封建制が始まったわけではない,本試験H12大運河は建設させていない】と名乗りました(前211~216, 映画「始皇帝暗殺」(1998中国・日本・フランス)は始皇帝暗殺未遂事件を描きました)。

 なぜ「皇帝」という称号をつくったのかについては異論もありますが,皇帝とは「煌々(こうこう)たる上帝(中国で信仰されていた宇宙神)」のことであり,天の命令を受ける「天子」では満足しなかったと考えられます(注) 【本試験H6殷の君主の称号ではない】。
(注)西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会,1983。「天子」の称号は漢の時代に儒家の影響を受けて復活します。「皇帝」は臣下である王侯向けに用いられ,「天子」は天地鬼神(死者の霊魂と天地の神霊)と国外の諸国や蛮夷(ばんい,漢民族以外の民族)に対して用いられた称号であったとされます。ですから「天子」の称号は,今後東アジアが中国の君主によって結び付けられていく際に,重要な象徴となっていきます。

 彼は諸国で異なる基準を採用していた度量衡を統一し【本試験H19武帝ではない】,貨幣も半両銭【本試験H10図版(始皇帝がこれにより全国の貨幣を統一しようとしたか問う),本試験H12始皇帝の政策か問う,本試験H12始皇帝の政策か問う】【本試験H22五銖銭ではない】【本試験H24】(注1)に統一,漢字【東京H28[1]指定語句】も統一して小篆(しょうてん)という書体をつくらせました【共通一次 平1:春秋戦国時代に国により文字の形に違いがあったか問う】。
国古代史家)の解説を引きます。
 郡県制【本試験H3漢の高祖の制定ではない,本試験H12郡県制ではない】【追H21秦代か問う、H28節度使軍閥化した時代ではない】を施行して,県を36(のち48)設置し役人を中央から地方に派遣し,法家を採用しました【本試験H13法家を弾圧していない】(注1)。

 さらに『史記』によると,「詩書を焚(や)いて,術士を?(あなうめ)にした」とあります。
 「術士」とは〈始皇帝〉に「不老不死になれる」といって金をだましとった方士という人々を指していて,「自分に逆らうと,こんな目にあう」ということを示すために,思想書を焼き反対派を虐殺しました。このときに儒家も弾圧にあったので【本試験H13儒家を擁護していない】,〈始皇帝〉が亡くなった後,「自分たちだけが狙われて,さんざんな目にあった」というストーリーに変わり,後世に伝わったとみられます(焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)) 【追H27漢の高祖ではない】 【共通一次 平1:漢字の略字化運動ではない】【本試験H23前漢ではない,H29曹操(そうそう)が行ったわけではない】(注2)。

 さらに,前5世紀~前4世紀から南下を始めた匈奴【本試験H12「黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化」の影響を受けたか問う】【本試験H13吐蕃ではない】や東胡の進出にも対処して,戦国時代に各国が建設していた長城を修築しました【本試験H13】【早・法H31】(注3)。現在の万里の長城は,のちに明(1368~1644) 【本試験H9】の皇帝が修復させたものです。


 彼は前220年から滅ぼした6か国を含む地方を渡り歩き,前219年には泰山(たいざん)で天と地に自分が支配者になったことを報告する封禅(ほうぜん)という儀式をおこないます。さらに,不老長寿を願う儀式も行い,服用した水銀が体調に影響を与えたともいわれます。

 しかし秦の厳しい負担(戦争や土木作業)に耐えかねた農民【本試験H14】の反乱(陳勝【東京H28[3]】・呉広の乱【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H22・H27,本試験H30漢ではない】)がきっかけで,たったの15年で滅びます。彼らのスローガンは「王侯将相いずくんぞ種(家柄)あらんや」(王・貴族・将軍・官僚の何が偉いんだ!)です【慶文H30李自成の乱のスローガンではない】。
 宮殿の阿房宮の火は3ヶ月燃え続け,墓地の驪山陵に副葬された品々は30万人で1ヶ月運んでも終わらなかったほどだといいます。〈始皇帝の陵墓〉近くからは,兵馬俑(へいばよう) 【本試験H9[20]図版・南越国王・漢の武帝・唐の玄宗の陵墓の附属施設ではない】【本試験H24,H28,H31「始皇帝陵の近くで」出土したか問う】というテラコッタでできた多数の等身大の軍人・家畜像が埋葬されているのが発見されています(注4)。
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反乱勢力のうち,〈項羽〉(こうう,前232~前202) 【本試験H21】と〈劉邦〉(りゅうほう,前247~前195) 【本試験H21】【追H18】が,協力して秦の残存勢力を滅ぼしました。
当初は楚王の〈項羽〉が強い勢力を持っていましたが,部下の諸侯からの不満が高まり,その諸侯らを率いた庶民出身の〈劉邦〉(りゅうほう)との一騎打ちに発展。前202年に「四面楚歌」の故事で有名な垓下(がいか)の戦いで〈項羽〉を敗死させた〈劉邦〉が,〈高祖〉(位 前202~前195)として皇帝の位につきました【H29共通テスト試行 年代「前202年」(グラフ問題)】。

 国号は漢,都は長安【本試験H21】です。漢は途中で一度滅び,復活するので,前半の漢を前漢,後半を後漢といって区別します。

●東南アジア
北ヴェトナムでは,前4世紀頃から,雲南(うんなん)地方と北ヴェトナムにドンソン文化【本試験H21】という青銅器・鉄器文化が生まれました。雲南地方の文化が,メコン川を通じて北ヴェトナムに伝わったと見られます。
 ドンソン文化に特徴的な独特な形をしている銅鼓【本試験H21図が出題】は,祭りや威信財として使われたと見られます。威信財というのは,みんなを「すごい」と思わせることのできる物のこと。持ち主は,それによって人々に権威をアピールしたのです。スマトラ島やジャワ島など,島しょ部(ユーラシア大陸以外の東南アジアのこと)でも見つかっています。

 北ヴェトナムでは,前257年に甌?(アウラック)国が文郎国を併合したという伝説がありますが定かではありません。ハノイ近くにその首都の遺跡が残されています。

 しかしこの頃から,中国の進出が始まりました。
 前214年に秦が今の広州に南海郡,ヴェトナム北部に象(しょう)郡,内陸に桂林郡を設置しました。

 しかし秦が滅びると,今度は前203年に南海郡の軍人の〈趙佗〉(ちょうだ,在位前203~前137)が桂林郡(けいりんぐん)と象郡(しょうぐん)を合わせて南越国【京都H21[2]】【追H20滅ぼした人を問う】を建てました。


●南アジア
 〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)が西北インドに進入し,インダス川を渡ると,十六大国の一つガンダーラ国を滅ぼしてしまいます。〈大王〉は部下の反対により,それ以上の進軍を諦めて帰ってしまうのですが,その混乱のさなかでパータリプトラを倒して,王位に就いたのはナンダ朝マガダ国の武将である〈チャンドラグプタ〉(位前317~前293?) 【追H28】【本試験H9[12]アショーカではない】 です。彼は,混乱状態にあったインダス川流域を征服し,ガンジス川流域とインダス川流域を史上始めて統一しマウリヤ朝【本試験H18バクトリアを滅ぼしていない】【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのではない】を建国し,都をパータリプトラ【追H28】【本試験H16フランス植民地ではなかった,本試験H21ムガル帝国の都ではない,H30地図が問われた】に置きました。

 さて,〈チャンドラグプタ〉(?~前298?,在位 前317~前298) 【本試験H9[12]アショーカではない】は,ギリシア語の記録にはサンドロコットスという名前で登場します。だいぶ印象が変わりますが,どちらもインド=ヨーロッパ語形の言葉ですね。チャンドラとはインドの「月の神」のことで,ろうそくという意味もあります。チャンドラとキャンドルという言葉,なんとなく似ていますよね。彼はじつはシュードラ(奴隷)階級出身といわれますが,これはバラモン教以外の宗教を優遇したため,彼を低く見る言い伝えが残ったとも考えられます。彼の宰相〈カウティリヤ〉(前350~前283)は,政治についての『実理論』が有名です。
 マウリヤ朝の最盛期は〈チャンドラグプタ〉の孫〈アショーカ王〉(位 前268~前232頃) 【本試験H4アショーカ王のころには仏像は製作されていない,本試験H9[12]】【本試験H15ダルマに基づく政治を目指したかを問う,本試験H17中国から仏教が伝わったわけではない,本試験H21玄奘の訪問先ではない,H25,H31】のときです。99人の異母兄を殺して王に就任したともいわれています。ローマが第二次ポエニ戦争をしていたころ,インドでもやはり領土拡大の戦争の真っ最中で,〈アショーカ王〉はデカン高原北東部のカリンガ国と戦争して,多大な犠牲を払ってこれを征服し,間接統治をしました。こうして,南端をのぞく全インドの支配が確立されたのです。少なくとも4つの州が置かれ,マウリヤ家の王子が太守として派遣されました。

 〈アショーカ王〉はこの戦争後,仏教【本試験H25】の教えに耳を傾けるようになり,その影響を大きく受けるようになります。『阿育王経』によれば,8つに分けて治められていたブッダの遺骨(仏舎利)を取り出して,あたらしくストゥーパ(仏塔)を建てて,84,000に分けたといわれます(そんなに分けられるんでしょうか…)。また,第三回仏典結集【本試験H4仏典結集か問う】を開催させたり,王子〈マヒンダ〉(前3世紀頃)をセイロン島(現在のスリランカ)に派遣し,シンハラ王国(前5世紀?~1815)の王も仏教を信仰するようになりました【本試験H4多くの布教師を周辺の国々に派遣したか問う】。
 今後セイロン島【本試験H4「スリランカ」】は上座仏教【本試験H4「上座部仏教(小乗仏教)」】の中心地となっていき,【本試験H16大乗仏教ではない】のちに東南アジアの大陸部(ビルマ【本試験H4】やタイ【本試験H4】)に広まっていきます。

 〈アショーカ王〉は,仏教に基づきながらも宗派を超えた倫理である法(ダルマ【本試験H15】)を発布して,各地に建てた柱や国境付近【本試験H31ガンジス川流域ではない】の岩壁に,言語は当時の俗語(プラークリット語)で、文字はカローシュティー文字(西北インド)やブラーフミー文字で刻まれました。アフガニスタンの東部では、短文ではありますがアラム語・アラム文字,ギリシア語・ギリシア文字で彫らせました(注1)。
 それぞれ,石柱碑【本試験H9[12]図版 チャンドラグプタ,アレクサンドロスカニシカ王によるものではない】【本試験H31】(柱頭にライオン像のあるものはインドの1ルピー札のデザインになっています),磨崖碑(まがいひ)といいます。

 「ダルマ」というのは,「生き物を殺してはいけません。父母に従いなさい。僧侶やバラモンを尊敬しなさい。年上の人や師を尊敬しなさい」などという“不戦主義”がその内容です。

 なおブラーフミー文字は,現在のインドの文字の多くやチベット文字【本試験H9】【本試験H15図版・インドの文字を基につくられたかを問う】,東南アジアの文字(ミャンマー(ビルマ)文字【本試験H15図版(解答には不要)】,タイ文字【本試験H15図版(解答には不要)】,ラーオ文字【本試験H15図版(解答には不要)】,クメール文字【本試験H15図版(解答には不要)】)に影響を与えています。

 

西アジア
 大王が急死するとその帝国はたちまち分裂し,後継者(ディアドコイ)たちによって,
メソポタミアイラン高原の大部分にセレウコス朝シリア【本試験H4】【本試験H18時期】【追H25マケドニアに滅ぼされていない】【立教文H28記】
・エジプトにはプトレマイオス朝エジプト【追H28時期は中国の唐代ではない】【本試験H4】【東京H18[3]】
マケドニアにはアンティゴノス朝マケドニア【本試験H4セレウコス朝プトレマイオス朝と合わせヘレニズム3王国というか問う】が建国されました。

 セレウコス朝シリアからは,前247年頃アルシャク(アルサケス)朝パルティア(前247?~228) 【東京H14[3]】【本試験H4王の道を整備していない】【本試験H18大秦国王安敦と無関係,本試験H24チャンパーではない,本試験H27】【セA H30モンゴル高原ではない】が自立しました。アルシャク(アルサケス)朝パルティアは,〈アルサケス〉(ギリシア語ではアルサケース,中国では「安息」と音写,前247~前211)によってカスピ海南岸のパルティア地方から発祥しました。
 はじめはギリシア風のヘレニズム文化を受け入れましたが,のちにパルティアの独自の文化を発展させていきました。パルティア人の馬にまたがり,後ろに退却しながら弓を射るスタイルを,ローマ人は“パルティアン=ショット”と呼び恐れました。
 ローマと隣接していることから,ローマ帝国【本試験H22アンティゴノス朝ではない】とメソポタミアアルメニアをめぐって争い,東西の中継貿易で栄えました。パルティア人の側の史料にとぼしく,研究者は同時代のローマの歴史書を手がかりに王名をたどっています。都はティグリス川【京都H22[2]】【早政H30】河畔,現在のバグダードの南東にあったクテシフォン【京都H22[2]問題文】【東京H14[3]アクスム王国と同じくインド洋で活動し,インドの物産や中国から運ばれてくる絹の購入を巡って競い合ったアジアの国の首都を答える】【本試験H27,本試験H30】【早政H30問題文】に置いています。

●アフリカ
プトレマイオス朝は支配の正統化を図るため,ギリシア文化や王立研究所【追H29】のムセイオン【本試験H2天文学者プトレマイオスによる創設ではない】【追H29プトレマイオス朝による創設か問う(正しい)】【慶文H30記】における学術研究を奨励するとともに,港湾を整備しファロスの灯台などの巨大建築物を造営しました。


●ヨーロッパ
 イタリア半島北部にはエトルリア人都市国家群があり,南部にはギリシア人の都市国家群がありました。中部の共和政ローマは,この時期にフェニキア人のカルタゴポエニ戦争【東京H8[3]】【本試験H7】【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】を戦い,領域を広げていきます。

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 イベリア半島の沿岸部は,北アフリカフェニキア人の植民市カルタゴの勢力圏に入っていました。前264~前241年のポエニ戦争【東京H8[3]】でカルタゴ共和政ローマに敗れ,シチリアを失うと,カルタゴの貴族バルカ家〈ハミルカル=バルカ〉(前275?~前228)らは,前237年にイベリア半島の拠点(カルタゴ=ノウァなど)の建設や鉱山開発に乗り出します。しかし,その息子〈ハンニバル〉【本試験H6時期(アウグスティヌス存命中ではない)】【追H24『ガリア戦記』を記していない】が第二次ポエニ戦争(前218~前201)でローマに敗北すると,イベリア半島共和政ローマ支配下に入りました。戦争中の前205年には属州ヒスパニアが置かれ,しだいに内陸部にも進出し南部のグアダルキビール川沿いにコルドバが建設されました。

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戦争によって獲得した新しい土地の多くは公有地とされましたが,実際には一部の有力者が自分のものにしてしまう(占有する)例がみられるようになっていきます。彼らはそこで多数の奴隷を働かせる,ラティフンディア【追H28中世西ヨーロッパではない】【本試験H13マニュファクチュア,イクター,コルホーズではない】を営み,収穫物をローマ内外に輸出して巨利をあげました。また,相次ぐ戦争により平民(プレブス)には大きな負担がかかり債務を負う者も発生し,貴族(パトリキ)との経済格差が開いていました。

 前367年には,リキニウス=セクスティウス法【本試験H8平民の地位を向上させたか問う,H9これ以前にコンスル職は貴族の独占であったか問う】【本試験H14時期(前4世紀かを問う)】で,公有地を占有(せんゆう。事実上,自分のものにしてしまうこと)することの制限,執政官(コンスル)のうちの1名を平民(プレブス)から選ぶことが定められました。この法により土地の占有は「制限」されましたが「禁止」されたわけではなく,執政官に就任して貴族との結びつきを深めた平民(プレブス)は新貴族(ノビレス)にとして新たに土地を占有するようになっていきました。
 前356年には独裁官,前351年には監察官,前337年に法務官が,平民にも就任できるようになったのですが,実際にはこれらの官職は平民身分の新貴族(ノビレス)によって支配されるようになり,事実上,平民会も元老院の“言いなり”の状態でした。そこでプレブスは「市外退去」(セケッショ)の作戦をとり,前287年に貴族(パトリキ)に対して平民会の決議が元老院【追H30平民会ではない】の承認なしにローマの国法となることが認めさせました。これを,ホルテンシウス法【本試験H24ギリシアではない】【本試験H8平民の地位を向上させたか問う】【追H21内容,H28共和政ローマか問う(正しい)・平民の地位が向上したか問う(正しい),H30】【立教文H28記】といいます。

 このホルテンシウス法の直前,前272年にはギリシア人の植民市【本試験H27】(マグナ=グレキア)のあったイタリア半島南部を占領し,タレントゥム【本試験H16ギリシア人の植民市「タラス」だったかを問う】を獲得し,半島が統一されました。前4世紀末から建設が開始されたアッピア街道【東京H20[3]】【早・政経H31商品の流通を目的として建設されたわけではない】は,さらに南のブルンディシウムまで伸びる舗装道路で,“街道の女王”とうたわれます。

 貴族と平民間の身分闘争は,これで幕を閉じたようにも見えますが,実際には富裕な平民(新貴族;ノビレス)にしか執政官に就任することはできませんでした。官職は無給(給料が出ない)ですから,経済的に余裕がなければ就任は難しいのです。

 さて,これからローマはいよいよ地中海への進出を本格化させ,フェニキア人を3度のポエニ戦争【東京H8[3]】【本試験H7】【本試験H15シチリア島ポエニ戦争のときのエジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】で滅ぼし,地中海を取り囲む外国領土を獲得していくことになります。
 イタリア半島の外の領土を属州(プローウィンキア) 【東京H29[1]指定語句】と呼びます。広い帝国を州に分けて総督に支配させる方式は,アケメネス朝のサトラップ(太守)とよく似ています。

 第一回ポエニ戦争(前264~前241)のときにカルタゴから獲得したシチリア島【本試験H7ガリアではない】【本試験H15エジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】が最初の属州です。こうして得た,属州の土木事業や徴税請負人として活躍し,富裕になった新興階級をエクィテス(騎士身分)といいます。誰に徴税を任せらていたかというと,元老院議員です。元老院議員には外国との交易をしてはいけない決まりがあったため,代わりに別の人に担当させて,利益を吸い上げたのです。

 ローマは第二回ポエニ戦争(前219~前201)で,スペインを本拠地とするカルタゴ人の将軍〈ハンニバル〉(前247~前183?182?)【本試験H30】【追H18『ガリア戦記』とは無関係、H24『ガリア戦記』を記していない】によるイタリア進入を阻止しました。

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 〈ソクラテス〉(前470?469?~前399)の愛弟子の〈プラトン〉(前429~前347) 【本試験H13】が「この世に絶対的な理想があるとして,そのことを人はなぜ知ることができるのか?」という問いに対する答え(イデア論【追H9(空欄補充)】【本試験H13】)を展開しました。また『国家論』【本試験H13】において,「民衆に政治をまかせると,失敗する。選ばれた少数の徳(=良い資質。アレテーといいます)を持つ人だけに,政治を任せるべきだ」と解きました。これを,哲人政治といいます。しかし,実際には,民主主義が暴走すると衆愚政治に,哲人政治が暴走すると独裁政治に発展しがちです。どちらのほうが望ましいのかということは,この後,長い年月をかけて議論されてきましたが,西洋において必ずといって参考にされ続けたのが,〈プラトン〉の『国家論』でした。彼は,当時交易で栄えていたギリシア人の植民市〈ディオニュシオス2世〉(在位前367?~357?)に招かれて哲人政治を実践しようとしましたが,失敗しています。
 〈ソクラテス〉は著述をのこしませんでしたが,〈ソクラテス〉が登場する著作を〈プラトン〉が多く残しました。
 なお、ローマ医学に多大な影響を与えた医学者〈ヒポクラテス〉【追H25平面幾何学を集大成した人ではない】は同時代の人物とみられます。

 

◆〈アリストテレス〉の学問研究は,オリエント周辺の学問に後世まで大きな影響を及ぼした
アリストテレス〉が,あらゆる知を総合する
 〈プラトン〉の学園(アカデメイア【本試験H21リード文】。アカデミーの語源です)に入門したのが,〈アリストテレス〉(前384~前322) 【本試験H2,本試験H6ミレトスで活動したわけではない】【本試験H13】で,彼はとにかくオールジャンルを研究し,当時の知識の“すべて”を体系化【本試験H13「諸学問を体系化させた」かを問う】させたといっても過言ではありません。
 代表作『形而上学』(けいじじょうがく)では,化学・物理・天文・生物に関する知識がまとめられました。

 前4世紀中頃にはテーバイ(テーベ) 【同志社H30記】が,長期にわたるスパルタの支配を脱しました。将軍〈エパメイノンダス〉(?~前362)のもとで前371年にレウクトラの戦いでスパルタを破り強大化しますが,のちアテネ(アテーナイ)も復活するなど,ポリス同士が争う中,前4世紀後半にはポリスを形成しなかった北方のギリシア人のマケドニア王国が,〈フィリッポス2世〉(位前359~前336)のもとで強大化しました。前341年には“馬を愛するトラキア人”といわれ,ギリシア人から恐れられたバルカン半島東部のトラキアを征服。
 前338年にはカイロネイアの戦い【本試験H17アクティウム・サラミスの海戦マラトンの戦いではない,H31】【追H25】で,テーベ(テーバイ) 【追H25】とアテネ(アテーナイ) 【追H25】の連合軍を撃破し【本試験H31アテネ・テーベは勝利していない】,スパルタ以外のギリシアのポリスをコリントス同盟(ヘラス同盟) 【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】としてまとめて支配します。

これはどういうことかというと,各ポリスは自治を続けることができる代わりに,マケドニアの軍隊が駐留して監督し続けるというものでした。ポリスというのは,そもそも外敵の進入を防ぐために集住(シュノイキスモス)することでできたものですから,このコリントス同盟によってその大切な特徴が失われてしまったということになります。
 こうしてマケドニアの〈フィリッポス2世〉【追H25】はギリシアのポリスを,スパルタを除き支配することに成功しましたが,その後急死しました。

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 父の死を受け王位を継いだ〈アレクサンドロス3世〉(位前336~前323) 【本試験H4王の道を整備していない】は,小アジア(アナトリア半島)に向け東方遠征を開始しました(#漫画『ヒストリエ』は彼に仕えた書記を主人公としています)。
 バルカン半島東部のトラキア全土を平定し小アジア(アナトリア半島)に上陸。前333年にイッソスの戦い【本試験H30】でアケメネス(アカイメネス)朝ペルシアの〈ダレイオス3世〉(ダーラヤワウ3世,在位前336~前330)を撃退【早・政経H31敗死させたわけではない】して,エジプトを征服。さらに前331年にアルベラの戦いで,ペルシアを滅ぼしインド北西部にまで進出し,各地にアレクサンドリア【本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】と命名した都市を建設。短期間で大帝国を築き上げました。

 しかし,大王はバビロンに帰還した後,宴(うたげ)の最中にハチに刺され,それがもとで32歳でこの世を去りました。遺言は「「最強の者が帝国を継承せよ!」。遺言通り,その広大な領土は後継者たちの過酷なぶんどり合戦となり(ディアドコイ戦争),結果的に〈セレウコス〉,〈アンティゴノス〉と〈プトレマイオスが〉,それぞれシリアからペルシアにかけて,マケドニア【本試験H22アルシャク(アルサケス)朝パルティアと戦っていない】,エジプトを統治する体制となりました。

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アレクサンドロス〉大王の東方遠征の結果,地中海世界の経済・文化の中心はプトレマイオス朝エジプト【本試験H10】のアレクサンドリア【京都H22[2]】【本試験H10ヘレニズム文化の中心地か問う,本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】をはじめとするオリエント世界に移りました。
 〈プトレマイオス1世〉が,自分が〈アレクサンドロス〉の正統な後継者であることを示そうと努めます。アレクサンドリア【本試験H4カイロではない】【本試験H16カイロではない,本試験H26】に王立の研究所【追H29】(ムセイオン【本試験H2天文学者プトレマイオスの創設ではない】【本試験H25】【追H29プトレマイオス朝による創建か問う】。ミュージアムの語源です)が建てられ,古代のあらゆる知識がおさめられていたという大図書館が建てられました。
 ムセイオンには以下のような学者が集められます。

・地球の全周(子午線の全長)【本試験H23】【本試験H8】【追H17ストラボンではない】を計算して図書館長となった〈エラトステネス〉(前276?~前194?) 【本試験H2医学研究者ではない】【本試験H23】【追H17】【慶文H30記】

シチリア島シラクサ出身【本試験H10】の浮力【本試験H2】・てこの原理・球体の求積で知られる〈アルキメデス〉(前287?~前212) 【本試験H2,本試験H10】

・平面幾何学【本試験H8天動説ではない】【追H29】のテキスト『原論』で知られる〈エウクレイデス〉(英語ではユークリッド,生没年不詳だが前300年頃に活躍) 【本試験H2,本試験H8】【追H17、H25ヒッポクラテスではない、H29平面幾何学か問う】それまでの数学を体系化し,平面幾何学を大成しました【追H17医学ではない】。

・地動説(太陽中心説) 【本試験H8平面幾何学ではない】を唱えた〈アリスタルコス〉【本試験H27】が知られています。

ちなみにスパルタも前331年にマケドニアに対する反乱に失敗し,その後は衰退の一途をたどります。
 思想では,ポリスの中やギリシア人だけで通用する“井の中の蛙”のような考え方ではなく,世界市民主義(コスモポリタニズム) 【本試験H10ヘレニズム文化に関連するか問う】という全人類に通用するスケールの大きな思想に広がっていきました。狭いポリスの中で政治的な議論をする風潮よりも,個人的な内面を大切にする傾向は,〈ゼノン〉(426?~491) 【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】によるストア派(禁欲【本試験H3ヘレニズム時代か問う,本試験H10】を重んじる思想) 【本試験H10ヘレニズム文化の中で生まれたか問う】【本試験H17問題文の下線部】や〈エピクロス〉(前341~前270) 【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】によるエピクロス派【本試験H3ヘレニズム時代か問う】(精神的な快楽を重んじる思想)にあらわれています。特にストア派は,のちにローマ帝国時代にかけて一世を風靡(ふうび)し,紀元後2世紀には五賢帝の一人〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉【本試験H3】【本試験H17】は(後期)ストア派の思想家として,自分の信条などを記した『自省録』【本試験H3キリスト教的な倫理観があらわされた著作ではない】【本試験H17】をのこしています。
 ヘレニズム時代のギリシア彫刻として有名なのは,両腕を失った状態で発見された「ミロのヴィーナス」や,トロイア戦争を題材とした「ラオコーン」が有名です。

このヘレニズム【東京H7[1]指定語句】【本試験H10】という言葉は,19世紀のドイツの歴史家〈ドロイゼン〉(1804~84)によって提唱された歴史用語で,暗黙のうちに“すぐれたヨーロッパのギリシア文化が,オリエントの文化に良い影響を与えたのだ”という前提に基づいたものでした。


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●前200年~紀元前後の世界
●中央ユーラシア
中央ユーラシア東部のモンゴル高原で,騎馬遊牧民として初期に勢力を持っていたのは,匈奴(ションヌー,きょうど) 【本試験H12匈奴に文字はない】【本試験H18唐・北宋の時代ではない,本試験H19時期】や東胡(トンフー,とうこ)・月氏(ユエシー,げっし) 【本試験H19時期】の3大勢力です。

初め,匈奴は東胡と月氏匈奴を支配していたのですが,秦の〈始皇帝〉即位の直後である前209年に匈奴の王となった〈冒頓単于)(ぼくとつぜんう、?~前174,在位 前209~前174) 【京都H20[2]】 【本試験H16,本試験H30】【追H25西晋を滅ぼしていない】【早・法H31】のときに強大化します。冒頓は,「バガトゥル」(勇士)の音訳と見られます。「単于」(ぜんう)【本試験H3ハン(汗)ではない,本試験H12(注を参照)】は「広くて大きい」という意味で,「天の子」と称して壮大な儀式を行い,天の神を最高神としてあがめる北アジア遊牧民・狩猟民たちを納得させました。〈冒頓単于〉は,東の東胡を滅ぼし,西の月氏(げっし)【本試験H16】や北の丁零(ていれい)を撃退します。東胡はのちに,烏桓(うがん)や鮮卑(せんぴ)となります【共通一次 平1:匈奴が文字を使用していたか問う。もちろん使用していない】。

このようにして,匈奴は,現在のモンゴル高原を中心とする広い範囲を勢力下におきました。他部族からは「皮布税」などを徴収していました。
 匈奴【本試験H13吐蕃ではない】の〈冒頓単于〉は,前215年に秦の将軍〈蒙恬(もうてん)〉(?~前210,筆の発明者とされます【共通一次 平1:文字は「筆を用いて紙にかかれること」が秦代に普通になっていたか問う。「紙」はまだ一般的ではない】)の30万の軍によってオルドス地方(黄河が北にぐるっと曲がっているところに当たります)からの撤退を余儀なくされました。しかしその後,秦がたったの15年間という短期間で滅亡したすきを狙い,中国への進入を再度こころみます。

 前200年,匈奴【本試験H4北アジアを支配していたか問う,本試験H7】【本試験H28突厥ではない】は40万の兵で中国の前漢に攻め込みました【本試験H3漢と激しく戦ったか問う】。このとき前漢【本試験H7】の皇帝となっていた〈劉邦(高祖【本試験H7】【セA H30煬帝とのひっかけ】)〉(前247~前195,在位 前202~前195)は,32万の軍勢とともに白登山(はくとさん)で,〈冒頓単于〉に包囲されるという大ピンチに陥ります。武将が冒頓単于の皇后に賄賂をおくったことで,あやうく難を逃れましたが,多くの兵士が凍傷で指を失ったといわれます(白登山の戦い) 【早・政経H31敗北し、和親策をとったことを問う】。

 

●東アジア
秦が滅び,前202年に〈劉邦〉(前202~前195)が楚の〈項羽〉(前232~前202)を倒して,前漢王朝(前202~後8)を建てました。〈劉邦〉の死後の称号は〈高祖〉(位前206~前195)です【本試験H29】。都は長安に置かれ,長安周辺の15郡では中央から官吏を地方に派遣して郡県制を実施するとともに,封建制も35郡で実施する郡国制【追H27前漢の代か問う】【本試験H16州県制ではない】がとられました【本試験H29】。秦のときに,郡「県」制による厳しい地方支配が失敗したことを,教訓にしたのです。
 税を徴収する対象となったのは,人口のほとんどを占める小規模な自営農民でした(注)。農産物で納める田租(でんそ),銅銭で納める人頭税・財産税の算賦(さんぷ),ほかに労働力を提供する徭役・兵役,市場での取引に課す市租がありました。
(注)渡辺信一郎『中国古代社会論』青木書店,1986。

 次の〈景帝〉(前157~前141)は,土地を与え臣下にしていた諸侯【東京H29[1]指定語句】権力の力が強まることをおそれ,その支配権を削減しようとしました。前154年に,それに抵抗する呉楚七国の乱【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H26黄巣の乱とのひっかけ,H31時期(漢代か問う(正しい))】が起きますが,鎮圧後に実質的に郡県制に変更して中央集権体制を確立しました。彼のときには,〈高祖〉の功臣として高い位を与えられていた「劉邦集団」に属する特権階級(さまざまな出自の人々が含まれていました)が,新しい官僚層に取って代えられる動きもありました(注)。
(注)福永善隆「前漢前半期,劉邦集団における人格的結合の形成」『鹿大史学』64・65巻,p.11~p.22,2018.3。

 第7代(カウントの方法によっては第6代)の〈武帝〉(前141~前87) 【本試験H15節度使を設置していない】【追H30魚鱗図冊とは無関係,洪武帝とのひっかけ】【H27京都[2]】は,中央集権国家づくりを強力にすすめていきます【本試験H19洛陽に遷都していない】。
 まず年号(元号)をつくり,諸侯にも同じものを使わせました。また,青銅貨幣の五銖銭(ごしゅせん)が発行されました【本試験H22半両銭ではない,H29東周の時代ではない】。
 また,全国を州に分けてその長の刺史(しし)に,郡の太守・県の県令・長を取り締まらせました。そして,地方長官に将来官僚として使えそうな地方の有力者を推薦させる制度(郷挙里選(きょうきょりせん)) 【本試験H4唐の官吏は「郷挙里選制」によって選ばれ地方豪族出身者が多かったか問う,本試験H11「各地方で有力者が集まって投票を行い,官吏を推薦する制度」ではない(注)】【追H29九品官人法とのひっかけ】を本格的に実施しました。科目には,人間性を見る孝廉(こうれん),学問を見る賢良や文学がもうけられました。
 また,五経博士という職に〈董仲舒〉(とうちゅうじょ,前176頃~前104頃) 【追H9司馬遷,班固,鄭玄ではない、H19『五経正義』を編纂したのは孔頴達】を任命して教義を統一させ,彼の提案により儒教を国家の教学としました(それが〈董仲舒〉によるものだったのか,また儒教が国教といえる扱いとなったのは紀元前後ではないかという異論もあります) 【共通一次 平1】【本試験H13訓詁学を確立したわけではない】。五経【本試験H14『論語』は含まれない】は,『春秋』,『礼記』,『詩経』【本試験H14リード文の下線部・屈原の詩は収録されていない】【追H30魏晋南北朝時代ではない】,『書経』【京都H21[2]】【本試験H14リード文の下線部】,『易経』から成ります。
 〈武帝〉は豪族の大土地所有をやめさせるため,限田策(げんでんさく)を提唱しましたが,実施はされませんでした。ちょうど同じ頃共和政ローマでは〈グラックス兄弟〉が似たようなことをしています。漢の経済的な基盤は,5~6人の小家族による農業経営から成っており,彼らを保護する必要性が認識されていたのです。

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また〈武帝〉は積極的に領域の拡大を図ります。

 西方:タリム盆地のオアシス諸都市を服属させることに成功。

 南方:秦から独立して政権を築いていた南越国【追H20滅ぼしたのが武帝か問う(後漢光武帝,呉の孫権,唐の太宗ではない)】を滅ぼしヴェトナム北部へ進出。

 東方:朝鮮半島にあった衛氏朝鮮【本試験H13】【追H21後漢光武帝が滅ぼしたのではない】【慶・法H30】(前2世紀に漢人〈衛満〉(えいまん)【本試験H30】が建国していた)を滅ぼして,前108に楽浪(らくろう)【本試験H13】・真蕃(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の朝鮮四郡を設置【本試験H3武帝は,匈奴を倒し,その後これを分裂させたわけではない】。
 しかし,〈武帝〉の死後まもなく,臨屯と真番は前82年,玄菟は前75年に,住民の抵抗もあり廃止されました。

 広い範囲のさまざまな民族を支配する仕組みが,こうして中国でも確立したわけです。文化を共有する彼らは「中国人」「漢民族」としての意識を高めるようになり,〈武帝〉の代には歴史書史記』【追H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)、H28『資治通鑑』とのひっかけ】【本試験H7時期(倭の五王朝貢した時期ではない)】【本試験H31】【名古屋H31世紀と王朝を問う】が紀伝体(きでんたい,テーマ別の形式)【本試験H14編年体ではない】【追H21紀伝体か問う】【中央文H27記】【名古屋H31】により漢字で書かれ,〈司馬遷〉(しばせん,前135?~前93?) 【本試験H9後漢の歴史までは著していない】【本試験H31『史記』を著したか問う】【追H9董仲舒のひっかけ、H19】により編纂されました。伝説上の黄帝から前漢【本試験H9後漢までではない】の〈武帝〉に至るまでの歴代皇帝に関することは「本紀(ほんぎ)」に記されています【本試験H14始皇帝に関する事績が本紀に書かれているかを問う】。
 漢字のメリットは,読み方は地域によって様々でも,特定の字に特定の意味があるため,意味さえわかればコミュニケーションがとれるという点にあります。

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 〈武帝〉【本試験H18光武帝ではない】の時代には,世界史上重要な一歩を踏み出した人物が現れます。西域に派遣された〈張騫〉(ちょうけん,?~前114) 【京都H21[2]】【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】 【本試験H4前漢の人物か問う,本試験H12張角ではない。大秦国に派遣されたのは甘英】【本試験H21,H24】です。

この新たなルート“シルクロード”を安全に行き来するには,モンゴル高原を拠点に北方の遊牧民たちを支配下に置いていた匈奴をなんとかしなければなりません。そこで〈張騫〉は,大月氏【本試験H24時期】と結んで匈奴を“挟み撃ち”にすることで,東西交易路の支配を狙いました。大月氏との同盟はなりませんでしたが,匈奴に敗れて西に逃げた月氏を追い,その途中にあったオアシス都市を従えることで,安全に通過することのできる東西交易路を切り開きました。これ以降,タリム盆地のオアシス都市,天山山脈の北の烏孫(うそん)【本試験H20キルギスに滅ぼされていない】,さらに西の康居などをおさえるために西域都護(さいいきとご)【本試験H15節度使ではない】が置かれました。
 オアシス都市には,タリム盆地中央部の北にあり最盛期に10万人を越えた亀茲(きじ,クチャ)や,疏勒(そろく,カシュガル),沙車(ヤルカンド),玉(ぎょく)【早・法H31】の産地の于?(うてん,コータン;ホータン【早・法H31】)などがありました。いずれも乾燥地帯であり,河川やオアシスも小規模だったので,必然的に小規模な都市国家となりました。
 さらに〈李広利〉(?~前90)を大宛(だいえん,フェルガナ) 【本試験H3『史記』大宛列伝の抜粋をよみ,大宛が定住農耕民であることを読み取る】に派遣し,汗血馬(かんけつば)という名馬を手に入れようとしました。

 〈武帝〉【追H20】は越(ベト)人の南越王国【追H20】を滅ぼし,9郡を設置しました。その南端の日南郡は,現在のフエと考えられています。

一方,軍事費が増えて国家財政は苦しくなると,〈桑弘洋〉(前152~前80)の提案で,塩【追H27茶ではない】【共通一次 平1】【本試験H18】・鉄【共通一次 平1】・酒【共通一次 平1:茶ではない】【本試験H19,本試験H28砂糖ではない】の専売【追H27前漢であって後漢ではない】が実施されました。
 また,中小農民の生活安定を図るべく,物価の調整と安定【本試験H19】のために均輸法・平準法【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H24】【追H21秦代ではない,H30殷ではない】【H27京都[2]】が行われました。均輸法は,価格が下がっている時期に物資を国家が買っておき,価格が高騰した時に市場に販売するもの。


●朝鮮
朝鮮半島には,亡命漢人の〈衛満〉(えいまん)による衛氏朝鮮が,臨屯(イムドゥン;りんとん)や真番(チンバン;しんばん)を支配下に置き拡大していました。当初は前漢も黙認していましたが,〈武帝〉は衛氏朝鮮を滅ぼし,衛氏朝鮮のあった場所に楽浪郡(らくろうぐん) 【京都H20[2]】【本試験H7時期(前漢代か問う)】【追H25秦が置いたのではない】【H30共通テスト試行 時期(「1402年」・「楽浪郡の設置」・「豊臣秀吉が送った軍勢の侵攻」の並び替え)】を置き,沃沮(オクチョ;よくそ)から高句麗にかけての地域には玄兎郡(げんとぐん)を置き,さらに臨屯郡(りんとんぐん),真番郡(しんばんぐん)【本試験H15時期(前2世紀),H29共通テスト試行 光武帝による設置ではない】の四郡(合わせて楽浪四郡と呼びます)を設置し,直接支配を目指しました。

●南アジア
その後,前145年頃にアフガン系の遊牧民であるトハラ(大夏) 【本試験H18マウリヤ朝ではない】がバクトリア王国を滅ぼすと,とり残されたガンダーラ地方のギリシア人の中には仏教に改宗する者も現れました。
 さらに,そこに中央ユーラシアから大月氏が南下してきます。大月氏は,前2世紀後半に匈奴【本試験H7月氏ではない】に敗れた月氏【本試験H19時期】【本試験H7匈奴ではない】が,西方のバクトリアに移動して大月氏と呼び名を変えたものです。その大月氏が配下にしていた5つの諸侯のうちの一つ貴霜(クシャーナ族)が独立し,勢力を増し,紀元後1世紀には北インドに進入することになります。

南アジアの最初の王朝は,前1世紀に成立したサータヴァーハナ朝(前1世紀~3世紀) 【追H20時期(14世紀ではない)】です。

西アジア
この時期のローマは第二次ポエニ戦争(前218~前201) 【本試験H14時期(前4世紀ではない)】で、北アフリカの現在のチュニジアに拠点を置くカルタゴと、地中海の交易の覇権をめぐり争っていました。
 その後ローマは第三次ポエニ戦争(前149~前146年)で,カルタゴを最終的に滅ぼします【本試験H22】。

 同じ頃,前148年にはマケドニア戦争で,マケドニアも属州としています。カルタゴマケドニアの両方の地で活躍した〈スキピオ〉(小スキピオ,前185~前129)は,マケドニアで捕虜となった〈ポリュビオス〉(ポリビオス,前204?~前125?) 【追H21『アエネイス』の著者ではない】【東京H22[3]】【H30共通テスト試行 『歴史』から引用】【同志社H30記】を保護しました。〈ポリュビオス〉)はローマ史を書きながら政体の移り変わり(循環)について考えた『歴史』で知られます。彼はローマの国政には、コンスルという王政的要素【H30共通テスト試行】、元老院という貴族【H30共通テスト試行「僭主」ではない】的要素、民衆という民主制的要素【H30共通テスト試行】が存在しており、これら三者が互いに協調や牽制をしあってバランスをとっていると論じました。

 新たに獲得した属州は公有地でしたが,貴族(パトリキ)や騎士(エイクテス)などの有力者はこれを占有し,奴隷にはたらかせて小麦や果樹を栽培して大儲けしました。彼らが占有した大所領のことをラティフンディア【追H28中世西ヨーロッパではない】といいます。
 属州からブドウやオリーブといった安価な産品がイタリア半島に流れ込むようになると【本試験H7】,広い土地を持たない中小農民【本試験H7「ローマ軍の主力をなしてきた人々」】【追H25】は価格競争に負けて没落【本試験H7】【本試験H21】していきました。
 中小農民は,ローマの重装歩兵の主力【本試験H21】【追H25騎兵ではない】であったため,彼らが没落したことでローマ軍も弱体化していきます。都市には土地を失った者(無産市民)が流れ込み,彼らに穀物や娯楽を与える有力者が,力を付けていくようになります。また,ローマ周辺の公有地は借金の返済のために売られて私有地となり,土地を買い集めた富裕層(ふゆうそう)と中小農民との格差は開くばかりでした。

 そんな中,〈グラックス兄弟〉(兄ティベリウスは前162~前132,弟ガイウスは前153~前121)が改革をしますが【本試験H2富裕な階層の利害を代表するわけではない】【本試験H14時期(前4世紀ではない)】,貴族と無産市民との対立は止まりません。

元老院の貴族と結んだ有力者グループを閥族派といい,民会の人々と結んだグループを平民派といいます。有力者は,貴族や貧民に武具を支給して味方につけ,自分のプライベートな武装集団(私兵【東京H29[1]指定語句】)を組織し,各地で起こる暴動を鎮圧しつつ,勢力を拡大させていきました。私兵には退役すると征服地が分け与えられ,ローマ市民権も与えられました。特に,前1世紀には,閥族派の〈スラ〉(前138~前78) が,平民派の〈マリウス〉(前157~前86)と権力をめぐり激しく衝突しました。

 前91~前88には「同盟市」に位置づけられた諸都市がローマ市民権【本試験H2】を求めて反乱を起こし(同盟市戦争【本試験H2ローマ市民権を要求して結束したか問う,本試験H7属州内諸都市ではない】【東京H29[1]指定語句】),前88~前64年には,東方のポントス王〈ミトリダテス6世〉による小アジアにおける反乱が勃発し,長期間にわたる戦争となりました。
 そんな中,前73年に剣奴の〈スパルタクス〉【追H26】が反乱を起こし(前73~前71),多数の奴隷【追H26コロヌスではない】とともにイタリア半島を縦断してローマは大混乱に陥ります。反乱後は奴隷の待遇は改善に向かい,奴隷制をゆるめて小作人制が導入されるようになっていきます。

 これらの危機に対し,鎮圧しているのは有力者の子弟で,有効な手が打てない元老院は支持を失っていくのは当然です。
 それに対し,有力者がめざす目的は,ローマの政治の主導権を握ることでした。そのために邪魔な存在である元老院を抑える必要がある。そこで,閥族派の〈ポンペイウス〉(前106~前48) 【本試験H6元老院と同盟したスパルタクスを打倒していない,本試験H9オクタヴ(ママ)ィアヌスとの共同統治ではない】が平民派の〈カエサル〉(前100~前44) 【本試験H6,本試験H7】【H30共通テスト試行「共和政期末の内戦を勝ち抜いたかに見えた」が、ローマの国政を「壊そうとしているという疑いをかけられ、暗殺されてしまった」人物を答える(オクタウィアヌスではない)】 が,コンスルの経歴を持つ富豪で軍人の〈クラッスス〉(前115~前53) 【本試験H6】を誘って,裏でローマの政治を動そうと団結しました(〈クラッスス〉はスパルタクスの乱を鎮圧した指揮官です)。
 この3者の提携関係をのちに,第一回三頭政治といいます。平民派の〈カエサル〉は財務官(クアエストル)や法務官(プラエトル)など,名だたる官職を経験したエリート軍人。前59年には執政官(コンスル)に上り詰めています。

 前58年に,〈カエサル〉(前100~前44) 【本試験H6元老院に接近していない】【本試験H31『ガリア戦記』を記したか問う】は,ガリア地方(現在のフランス) 【本試験H7ローマの全市民に市民権を与えていない,『ゲルマニア』を書いていない】に遠征して,小麦がたくさんとれるこの地方を属州とする手柄をたてました。この地方に分布していた人々の様子は,事細かに『ガリア戦記』【本試験H7『ゲルマニア』ではない】【本試験H31】【追H18ハンニバルとは無関係、H24ハンニバルによるものではない】に記されています。

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 前53年にアルシャク(アルサケス)朝パルティア【本試験H6】との戦争への遠征中に〈クラッスス〉(前115~前53) 【本試験H6パルティアに遠征したのはポンペイウスではない】は,メソポタミア方面のカルラエ(現在のトルコ南東部)で戦死し,第一回三頭政治が崩れます。絶妙なバランスを保っていた三人の三角形は崩れ,残された2人による1対1の対立になってしまいました。

 〈ポンペイウス〉が前48年にエジプトで暗殺されると,〈カエサル〉に歯向かう者は誰もいなくなりました。前45年にはインペラートル(将軍)の称号が与えられ,自らを“神”と崇(あが)めさせるようになり,誕生した月もその名をとって〈ユリウス〉(英語のJulyの語源)と呼ばせました。暦の制定にあたってはエジプトの太陽暦をローマに導入し,自ら名をとってユリウス暦【本試験H2太陽暦から発達したか問う】【本試験H23グレゴリオ暦とのひっかけ】とし,従来のメソポタミア由来の太陰太陽暦(たいいんたいようれき)に代えました。


 さて,〈カエサル〉【本試験H15ポンペイウスではない】亡き後のローマでは,〈オクタウィアヌス〉(前63~後14) 【追H26】【本試験H17ローマ法大全を編纂していない】【H30共通テスト試行 暗殺されていない(カエサルとのひっかけ)】とカエサルの部下〈アントニウス〉(前83~前30) 【追H26ハドリアヌスではない】【本試験H4プトレマイオス朝を滅ぼしていない,本試験H6レピドゥスではない】と,政治家の〈レピドゥス〉(前90~前13) 【本試験H6アントニウスとのひっかけ】 【本試験H15クラッススではない】が,正式に「国家再建3人委員会」に任命され,政治を立て直そうとしました(第二回三頭政治【追H26】)。国家はいま緊急事態であるとして,共和政を維持しようとするグループを弾圧し,国家権力を強めようとしたのです。
 〈オクタウィアヌス〉の父〈ガイウス〉は,そこまで名門の家柄ではありませんでしたが,母が〈カエサル〉の姪(めい)でした。つまり,〈カエサル〉は〈オクタウィアヌス〉にとって大伯父(おおおじ)にあたります。早くから〈カエサル〉に才能を見出され,相続人に指名されたのでした。〈オクタウィアヌス〉はイタリア半島以西,〈アントニウス〉は東方の属州,〈レピドゥス〉は北アフリカを担当としましたが,その後すぐに内乱となり,反旗をひるがえした〈レピドゥス〉を失脚させた〈オクタウィアヌス〉と,〈アントニウス〉との一騎打ちになりました。当時,〈オクタウィアヌス〉を擁護し,〈アントニウス〉を「独裁者になるおそれがある」と批判したのは,雄弁家として名高い〈キケロ〉(前106~前43) 【本試験H17ローマ建国史は著していない】【追H29『ガリア戦記』を著していない】【法政法H28記】です。

 一方,〈アントニウス〉【本試験H4オクタウィアヌスとのひっかけ,本試験H6レピドゥスではない】【本試験H29】は,プトレマイオス朝エジプトの女王〈クレオパトラ7世〉(前69~前30) 【追H26アメンホテプ4世ではない】【本試験H4,本試験H6「エジプトの女王」,本試験H12アレクサンドリアを建設していない】【立教文H28記】と関係を深め【本試験H15「協力関係」にあったかを問う】,ローマの属州を与えてしまいますが,結局前31年にアクティウムの海戦【東京H13[1]指定語句】【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,本試験H29,本試験H31サラミスの海戦とのひっかけ】で〈オクタウィアヌス〉【本試験H31テミストクレスではない】に敗れました【本試験H29勝っていない】。アクティウムというのは,エジプト沖ではなくて,ギリシアペロポネソス半島沖です。

アントニウス〉は〈クレオパトラ〉とともにここに海軍を集結させていたのですが,緒戦で「負けた」と判断した〈クレオパトラ〉が戦線を離脱し,〈アントニウス〉も慌ててそれを追いかけると,取り残された海軍は〈オクタウィアヌス〉軍によって全滅してしまいました。アレクサンドリアに逃げた〈アントニウス〉には,“女を追いかけて逃げた”という悪評の立つ中,〈クレオパトラ〉が死んだという話を聞き,前30年に自殺を図ります。最期は,実は死んでいなかった〈クレオパトラ〉の腕の中で迎えたと言われています。その〈クレオパトラ〉も,前30年にコブラの毒で自殺しました。こうして,プトレマイオス朝エジプトは滅び【本試験H4】,〈オクタウィアヌス〉による地中海統一が成し遂げられたのです。地中海はローマの内海となり,“我らが海(マーレ=ノストルム)”と讃えられました。

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エジプトからローマに凱旋した〈オクタウィアヌス〉(前63~前14、77歳という長生き)は,内乱中に手にしていた軍隊の指揮権をいったん元老院(=国家)に返したものの,前27年に元老院アウグストゥス(尊厳者) 【追H27時期を問う】 【本試験H3,本試験H6】という称号を彼に与え,多くの属州の支配を任せたので、再び軍隊の指揮権を確保しました。アウグストゥスの称号はつまり,死後は神として礼拝される存在になるということです。

しかも,大土地所有をする名だたる有力者の集まる元老院を敵に回すのは,現実的ではありません。そこで,アウグストゥス(亡くなったら“神”になる神聖な存在)が,あくまで元老院と協調して広大なローマの領土を支配する元首政(プリンキパトゥス) 【本試験H3ドミナートゥスではない】という体制が成立したのです【本試験H9「名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重するものだった」か問う】【H29共通テスト試行 ローマ皇帝(アウグストゥスからネロまで)の系図】【追H25テオドシウス帝のときではない】。

 ただ,ローマの地方支配はゆるやかで,行政の大部分は自治の与えられた地方の都市に任せられていました。ローマは中国と比較しても役人が少なく,公共建築や土木請負や徴税請負などは民間に請け負われていました。ケルト人の定住都市に軍団を駐屯(ちゅうとん)させることでロンディニウム(現在のイギリス・ロンドン) 【本試験H2ローマの都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】,コローニア=アグリッピナ(現ドイツ・ケルン),ウィンドボナ(現オーストリア・ウィーン) 【本試験H2ローマの都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】,ルテティア(現フランス・パリ【東京H14[3]】) 【本試験H2ローマが建設した都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】など,現在にまで残る都市が建設されました。

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第一回三頭政治のメンバーの一人だった〈ポンペイウス〉(前106~前48) 【早・法H31】が,前64年にセレウコス朝を破り【追H25セレウコス朝マケドニアに滅ぼされたのではない】【早・政経H31クラッスス、マリウス、キケロではない】,前63年にハスモン朝を支配下に置きました。

 こうしてパレスチナにまで勢力範囲を広げた共和政ローマは,直接パレスチナを支配せず,ユダヤ人の〈ヘロデ大王〉(前73~前4?) に間接統治をさせ,ヘロデ朝を築かせました。ローマの後ろ盾を得た〈ヘロデ大王〉の厳しい支配の中で,ユダヤ人の中からは様々な意見が生まれます。そのような中で,〈イエス〉(前6?4?~後30) 【本試験H12キリスト教の始祖かを問う】【本試験H19時期】がベツレヘムで誕生したのです。

●アフリカ
 紅海は,地中海とインド洋を結ぶ重要な「水路」です。前120年頃,エチオピア高原の北部アクスム【東京H14[3]】を都としてアクスム王国が建てられました【東京H14[3]「ローマの勢力が後退した機をとらえて,紅海からインド洋へかけての通商路を掌握して発展したアフリカの国」の首都を答える】【本試験H24ザンベジ川の南ではない】。
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エチオピア高原はコーヒーの原産地【本試験H11アメリカ大陸は原産地ではない】でもあり,カッファ地方がその語源。

●ヨーロッパ
しかし前58年~前51年のガリア戦争で,共和政ローマの政治家・軍人〈カエサル〉(前100~前44)により全ガリア【セA H30ルーマニアとは無関係】地域がローマによって征服され,属州となりました。
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イベリア半島は第二次ポエニ戦争(前208~前201)中に共和政ローマの属州【東京H11[1]指定語句(イベリア半島史について)】(ヒスパニア属州)となり,ローマは次第に半島内陸部にも進出していきました。

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●紀元前後~200年

●日本
中国の後漢(ごかん)王朝の〈光武(こうぶ)帝(てい)〉最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【H29共通テスト試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【H29共通テスト試行 史料】に「建武中元二年,倭の奴国・・・光武賜ふに印綬を以てす」と記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【H29共通テスト試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【H29共通テスト試行 図版と史料】。

●東アジア
前漢末期(前202~後8)において,讖緯説(しんいせつ)【本試験H16】という思想を用いて実権を握ったのは外戚の〈王莽〉(おうもう,漢字の「モウ」の「大」の部分は本当は「犬」,前45~後23) 【京都H21[2]】【追H9前漢のあとをうけた王朝か問う,本試験H12,H30王建とのひっかけ】【本試験H16】です。
 これは「天のお告げは,目に見える形でどこかに現れる」という当時強い影響力を持っていたに考えです。人間の世界が天との関わりを持つという考えは前漢五経博士董仲舒〉(とうちゅうじょ)によっても天人(てんじん)相関説(そうかんせつ)として唱えられてはいました。儒教を解釈するには『五経』だけでは足りず,天の思し召しを解読する技術も必要だということです。彼は,井戸の中で見つかった石に「自分が皇帝になれ」と書いてあったと主張し,皇帝に譲位を迫って新王朝を建てました。
 〈王莽〉(位8~23,莽の「大」の部分は厳密には「犬」) 【京都H21[2]】【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】【本試験H16,本試験H28則天武后ではない】の建てた新【本試験H4則天武后の周とのひっかけ】【本試験H14秦ではない,本試験H16】は,周【本試験H14,本試験H26明ではない】の時代の政治を理想とし【本試験H12儒教を排斥したわけではない】,現実離れした政策で民衆の支持を失い,農民による赤眉の乱(せきびのらん) 【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H27】【追H25隋ではない】が起こりました。

 これを鎮圧した豪族出身の〈劉秀〉(りゅうしゅう,光武帝(こうぶてい),在位25~57年) 【H29共通テスト試行 楽浪郡を設置していない】でした。
 前漢の皇帝の〈景帝〉(位前157~前141)の末裔といわれます。〈劉秀〉は25年に中国を統一して漢を復興し(後漢),都は?陽(らくよう,漢は五行思想で“火”の徳を持つとされたので,さんずいの付く洛陽(らくよう)の“洛”の字が避けられました) 【京都H21[2]〈張衡〉「東京賦」の東京が洛陽であることを答える】【本試験H2地図上の位置を問う(長安との位置ひっかけ),本試験H4明ではない,本試験H9長江下流域ではない】【本試験H22地図(長安ではない),H28 鎬京ではない】【追H19】に移されました。
 豪族【追H28】とは,地方で大土地を所有している人々で,すでに前漢の半ばから現れていました。豪族によっては本当に“大”土地で,山や川も持っているし,家畜も飼っている。一族を率いて農業だけでなく職人に物を作らせたりして自給自足的な経営をしていました。農民には自由民だけでなく,隷属民である奴婢(ぬひ) 【追H28「没落した農民を、奴隷や小作人として使役した」か問う】も含まれ,豪族によっては奴婢を百人も千人も持っている。さらに,領地内の人々を保護する見返りに彼らを兵隊として組織する。つまり,私兵(しへい)【東京H29[1]指定語句】です。だから豪族はやがて国家の言うことを聞かない軍事集団に成長するおそれだってあるわけです。
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光武帝〉の子が仏教の儀式をおこなっていたように,すでに中国には紀元前後に西域から仏教が伝わっていたとみられます【本試験H23殷代には伝わっていない】【追H19時期】。

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 最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【京都H21[2]記述(説明)】【H29共通テスト試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【H29共通テスト試行 史料】に記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【H29共通テスト試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【H29共通テスト試行 図版と史料】。
 儒教では,皇帝に仕え『春秋三伝異動説』などを著した〈馬融〉(ばゆう,79~166)と,その弟子の〈鄭玄〉(じょうげん,ていげん,127~200) 【本試験H7】【追H9董仲舒とのひっかけ】による訓詁学共通一次 平1:考証学ではない】【本試験H7】【本試験H13董仲舒による確立ではない】が大きな成果をあげました。訓も詁も,「意味」という意味です(訓読みの訓はこれが語源です)。焚書坑儒によって失われていた儒教の文章や,その読み方の解読作業がすすめられたのです。なにせ古いものだと周の時代に書かれた文章ですから,800年ほど前の文章になるわけです。日本で800年前というと鎌倉時代の古文ですよね。読み方がわからなければ,違う解釈が生まれてしまうので,官学(官僚になるために必要な学問。国家公認の学問)としてはふさわしくありませんよね。
 さて,後漢【本試験H3前漢ではない】の時代に〈班超〉(はんちょう、B?n Ch?o、32~102) 【追H28ビザンツ帝国に使者を派遣していない】 【本試験H4,本試験H12「後漢では,班超が西域都護となり,西域経営を推進した」か問う】【本試験H14,H24ともに時期】が西域に派遣され【本試験H14ビザンツ帝国に使者を送っていない】,クシャーナ朝を撃破し,西域の都市国家を制圧して西域都護【本試験H12】【本試験H24】としてこれらの支配をまかされました。

 97年には,〈班超〉の部下の〈甘英〉(生没年不詳) 【本試験H4前漢の人物ではない,本試験H12】がローマ(大秦国)【本試験H3遊牧民ではない,本試験H12張騫ではない】に派遣されました。このころのローマは五賢帝時代(90~180年)にあたります。〈甘英〉は安息(アルシャク(アルサケス)朝パルティア)を通ってシリア(条支国)まで向かったと言われますが,結局引き返しました。中継貿易で利益をあげていたアルシャク(アルサケス)朝パルティアの妨害ではないかとされています。

 ちなみに〈班超〉の兄である〈班固〉(32~92) 【京都H21[2]】【追H9董仲舒のひっかけ、H24資治通鑑を著していない】【本試験H17孔頴達とのひっかけ】は,父〈班彪〉の構想を受け継ぎ正史(せいし)として『漢書』(かんじょ)を紀伝体の形式で【本試験H30編年体ではない】〈明帝〉(位57~75),〈章帝〉(位75~88)の下で編纂(へんさん)し〈班固〉の死後に妹の〈班昭〉(45?~117?)が完成させました。後漢の王朝を“正義”として,前の時代の前漢・新までの歴史書を書いたというところが,筆者の自由な主観が認められた『史記』とは異なる点です。中国ではこの『漢書』をもとに,後の王朝によって正史(“正しい”歴史)が編纂されていくようになりました。
 166年には,ローマ帝国五賢帝の最後を飾る〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝〉(位161~180)の使者を名乗るものが,ヴェトナム中部の日南郡【本試験H27】に来航しました。彼らが名乗ったのは「大秦国王安敦」(だいしんこくおうあんとん) 【本試験H4マルクス=アウレリウス=アントニヌスか問う】【本試験H18アルシャク(アルサケス)朝パルティアの使節ではない,本試験H27】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】という名前。真偽は不明ですが,アントンはアントニウスっぽい!?ということで,この頃インド洋から中国にいたるまでの交易ネットワークが存在したことが推測できます。

 また,後漢の時代には,宦官の〈蔡倫〉(さいりん,生没年不詳) 【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】【東京H17[3]】【慶商A H30記】が,製紙技術を改良し,当時の皇帝〈和帝〉に献上しています。従来は,板や竹をひもでくくって巻き上げた木簡や竹簡【追H28「死者の書」が記された媒体ではない】が用いられていましたが,かさばりますし,削りとって改ざんすることが可能なことが問題でした。

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 〈桓帝〉のときに「わるいのは宦官だ」と,外戚や豪族がみずからを「清流」と称して,宦官200人余りを逮捕しました。これを党錮の禁 (とうこのきん;党人の禁錮,166年と169年)【本試験H8 3世紀のことではない】【追H24時期(晋が呉を滅ぼした年、九品中正の制度創始との並べ替え)】といいます。
 このときに訓詁学(くんこがく)者の〈鄭玄〉(じょうげん) 【追H9董仲舒とのひっかけ】も牢屋に入れられています。儒学者ら批判的な知識人は“清流”(せいりゅう)を称し,宦官勢力(=“濁流”と称されました)の腐敗に抵抗しました。
 政治が混乱するなかで,「蒼天已死,黄天当立」(蒼天すでに死す,黄天まさに立つべし)をスローガンとする黄巾の乱(こうきんのらん) 【本試験H6紅巾の乱ではない】【本試験H22,H29共通テスト試行 時期(グラフ問題),本試験H31後漢で起きたか問う】【慶文H30李自成の乱とは無関係】がおきて,混乱のさなかに滅亡します。

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36万もの農民を率いたのは〈張(ちょう)角(かく)〉(?~184) 【本試験H12張騫とのひっかけ】【本試験H22時期,本試験H26朱全忠ではない】【中央文H27記】のはじめた宗教集団の太平道(たいへいどう) 【本試験H2道教の源になったか問う】 です。豪族による支配が強まり,生活の基盤を失った農民たち。何もしてくれない皇帝の支配から逃れ,罪を懺悔(ざんげ)して教団に入れば助け合いの精神で食べ物を分け合い,呪術(じゅじゅつ)によって病気を治したり,辛い生活の中にも幸せを感じたりすることもできる。太平道は困窮した農民たちを魅了し,勢力を増していたのです。
 なお,四川(しせん)や陝西(せんせい)などの西部では,〈張陵〉(ちょうりょう,生没年不詳)が五斗米道(ごとべいどう)を起こしていました。農民に米5斗(=500合。90リットル相当)を差し出させ,まじないで病気を治療して信者を増やし,〈張陵〉を天師とする宗教国家を形成しました。215年に〈曹操〉に降伏しましたが,のちの道教(天師道→新天師道→正一教と名前が変わる) 【セA H30朝鮮で成立していない】の原型です。

 最後の皇帝の〈献帝〉(位189~220)はわずか8歳で即位。身の危険を感じた皇帝は,魏を建国していた〈曹操〉(155~220)を頼ります【本試験H29曹操焚書・坑儒は行っていない】。
大土地所有者が各地にはびこっている以上,「資産のあるやつから,ある分をとる」ほうが現実的だったからです。でも,豪族は税をとりに来た官僚の立ち入りを実力で阻止することも多く,自分の土地が特別な土地(荘園(しょうえん) 【本試験H6「荘園」は「辺境防衛に携わる人々に賦与された土地」ではない】)であると主張するようになっていました。

●東南アジア
まず,ヴェトナム南部のメコン川下流で,扶南(ふなん,1世紀~7世紀) 【追H9時期】【本試験H16時期・カンボジアに興ったとはいえない,本試験H25】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が成立しました。マレー半島からベンガル湾にかけての交易ルートを握って栄えます(注)。
 外港であるオケオ(オクエオ) 【本試験H22ピューの都ではない,本試験H25扶南の港かどうか問う・地図上の位置を問う】からは,ローマの金貨,インドの神像,中国の後漢時代の鏡が出土しています。

ヴェトナム中部の日南郡からは,チャム人【共通一次 平1:,モン,クメール,タミルではない】が独立し,中国側からは林邑(りんゆう,192~19世紀)と呼ばれ,南シナ海の交易ルートを支配します。この頃,南シナ海でも季節風を利用した交易が導入されるようになって,人や物資の移動が活発化したのです。ヴェトナム中部のフエ付近にあった日南郡は,東南アジアの交易の中心地となります。

 さらに,中国の文献によると,2世紀末にヴェトナム中部沿岸の港市をチャム人が統一。中国側の文献では林邑という名で現れますが、チャム人【共通一次 平1:モン,クメール,タミルではない】【本試験H5】【追H25クメール人ではない】の側からはチャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1「ヴェトナム中・南部に拠点をおいて,古来,海上貿易で栄え,南下するヴェトナム人との間で抗争をくりひろげた民族」を問う】【本試験H4タイではない,本試験H5真臘ではない】【本試験H24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】【追H25クメール人ではない】と呼ばれています。

●南アジア
 紀元後1世紀に大月氏の一族、または、大月氏支配下の土着の有力者であったクシャーナ人の〈クジューラ=カドフィセース〉(前1世紀前半~1世紀後半)が王と称して、他の4諸侯を統一し,ガンダーラ地方を支配しました。彼は自分の像を刻んだ銅貨を,インド=ギリシア人にならって発行しています。
 その孫〈ウィマ=カドフィセース〉(位1世紀後半~2世紀初め)が北インド中部に進入して建国したのが,クシャーナ朝【本試験H10この王朝で新たに広まった宗教を問う。ゾロアスター教ジャイナ教マニ教ではなく,大乗仏教】というのが定説でした(『後漢書』では〈ウィマ〉は〈クジューラ〉の子となっています)。また、その後即位した〈カニシカ〉(カニシュカ)王は〈クジューラ〉→〈ウィマ〉の王統とは別系統であるという説が支配的でした。

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〈ウィマ=カドフィセース〉の子,〈カニシカ(カニシュカ)〉王(位130~155?または78~103?) 【本試験H9アショーカではない】【本試験H15仏教を保護したか問う】【追H30アクバルとのひっかけ】は,都をプルシャプラ【追H30アグラではない】として,ガンジス川中流域(または下流域まで)の北インド一帯を支配しました。

一方彼は,第四回仏典結集【本試験H15】がインド北部のカシミールで開かれると,これを援助しています。

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 クシャーナ朝では,ローマ,ギリシア,イラン,インド,中国などさまざまな文化が融合されたことでも知られ,特にインド文化とギリシア文化【本試験H23イスラームではない】が融合したガンダーラ美術が栄えました【本試験H10ヘレニズム文化の美術がガンダーラ美術の影響を受けたわけではない。その逆】【本試験H14時期(クシャーナ朝時代)】。すなわち,ギリシア彫刻の影響で,仏像が製作されはじめたのです【本試験H4時期(アショーカ王の次代には仏像は製作されていない)】。

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 クシャーナ朝のライバルは,南インドデカン高原【本試験H28】で栄えたサータヴァーハナ朝(前1世紀~後3世紀【本試験H4時期(1世紀頃か問う)】【本試験H28時期】【追H20時期(14世紀)】)やパーンディヤ朝で,どちらもドラヴィダ系の王国です。

 デカン高原サータヴァーハナ朝では,1世紀中頃に季節風を利用した航法が発見されると,アラビア半島との交易の担い手として栄えました。南端部のチョーラ朝【本試験H31】(インド南東部のカーヴェリー川流域。前3世紀頃~後4世紀頃)の宮殿では,ギリシア人が雇われ,ローマの金貨が積み込まれていました。ちなみにこの時期のチョーラ朝は,9~13世紀のチョーラ朝と区別し,古代チョーラ朝ともいいます。
 1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【本試験H4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。

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 別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【本試験H4引用された箇所】。
 上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。

 また,2~3世紀に大乗仏教という,新しい仏教の考え方が成立します【本試験H19マウリヤ朝のときではない】。もともと仏教は,出家をして修行によって,個人的に解脱(げだつ,悟りを開くこと)することを目標とするものでした。
 しかし,前1世紀頃から「出家をせずに家に残っている人(在家)たちにも,解脱のチャンスを与えるべきだ」という考えが起こります。彼らは,従来の仏教(部派仏教)は,まるで小さい乗り物(ヒーナヤーナ,小乗) 【本試験H23大乗仏教は部派仏教からの蔑称ではない】のようだと批判し,在家にもチャンスをひらく新たな仏教を大きな乗り物(マハーヤーナ,大乗)と呼びました。こうした説を唱えた大衆部(だいしゅぶ)に属する人々は,「悟りを求めて努力すること(ボーディ=サットヴァ(菩薩))」を大切にしました。努力とは,自分を犠牲にしてでも,この世のあらゆる存在を救おうと頑張ることを指します。でも,普通の人にはそんなことは難しいので,そういう努力をしている存在として,新たなキャラクターを創造しました。それが,弥勒菩薩(みろくぼさつ,マイトレーヤ)や観音菩薩(かんのんぼさつ,アヴァローキテーシュヴァラ)です【本試験H12「白蓮教は,弥勒仏が現世を救済するために現れると主張した」という文章の正誤判定】【慶文H30李自成の乱とは無関係】。

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 大乗仏教【本試験H10クシャーナ朝の下で新たに広まった宗教か問う】【本試験H21上座仏教ではない,本試験H23上座仏教からの蔑称ではない】を完成させたバラモン出身の〈ナーガールジュナ〉(中国語名は〈竜樹〉(りゅうじゅ),150頃~250頃) 【本試験H21】は,仏教思想に“空(くう)”の思想を加えて大胆にアレンジし,『中論』を著しました。

西アジア
現在のイスラエルの北部にある「ナザレ」という地に現れたのが,〈イエス〉【本試験H12キリスト教の「開祖」かを問う】【本試験H15モーセではない】です。『新約聖書』によると,母〈マリア〉は父〈ヨセフ〉との婚約時代に聖霊(多くの場合「精」霊とは書かない)によって身ごもり,イェルサレムの南にあるベツレヘムの馬小屋で〈イエス〉を出産したということです。

〈イエス〉の弟子たちは,〈イエス〉の考えを後世に残す活動(伝道)をはじめます。彼らのことを使徒(しと)といいます。最後の審判は近い,と言っていたわけです。時間がありません。〈ペテロ(ペトロ)〉(?~64頃)や〈パウロ〉(10?~67?) 【本試験H3】が有名な使徒(イエスの教えを伝える人)ですね。イエスの教えは,「今気づけば,最後の審判まだ間に合う!」という「良い知らせ(福音(ふくいん))」といい,〈パウロ〉を含む4種類の福音書【本試験H3】が『新約聖書』に収録されました。
 〈パウロ〉はもともとパリサイ派の熱烈な信者で,キリスト教を迫害した側の人間でした。しかしのちに回心して,小アジアマケドニアなど,ローマ帝国内のユダヤ人以外の人々に対しての伝道をすすめました。「イエスが十字架にかかったことで,すべての人間の罪はゆるされた」というキリスト教の中心となる考えは,〈パウロ〉がまとめたものです。
 『新約聖書』【本試験H23ユダヤ教徒聖典ではない】というのは,使徒の布教の様子を記した記録(『使徒行伝』(しとぎょうでん) 【本試験H3】)や多くの手紙(書簡),そして『黙示録(もくしろく)』という世界の終わりを描写した謎めいた予言などから構成され,2~4世紀に現在のかたちになりました。〈パウロ〉が,各地のキリスト教の拠点(教会)との間でやりとりした手紙の多くも,『新約聖書』に収められています。

 しかし,皇帝や伝統的な神々(ギリシアのオリンポス12神や東方のミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】)に対する礼拝をこばむキリスト教の人々は,歴代のローマ皇帝から危険視され,特に後64年の〈ネロ帝〉(位54~68)のときの迫害(〈ペテロ〉,〈パウロ〉は殉教しました)と,〈ディオクレティアヌス帝〉(位284~305)のときのいわゆる“最後の大迫害” 【追H28ローマ市民権を全自由民に与えたわけではない】 【本試験H25バーブ教を迫害していない,H26】が重要です。キリスト教徒の中には,ローマ人があまり近寄らなかった地下の墓地(カタコンベ;英語でカタコーム)【本試験H21国教化とともにつくられたわけではない】【本試験H24】や洞窟で密かに集団生活や礼拝を営む者もいました。

1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【本試験H4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
 冒頭部分はこんな感じです。
アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを“ヒッパロス”と呼ぶようになったそうだ》(意訳)

 別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【本試験H4引用された箇所】。
 上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。

●アフリカ
エジプトでは,プトレマイオス朝の女性のファラオ〈クレオパトラ7世〉(位 前69~前30) 【本試験H10時期を問う】は共和政ローマの政治家〈カエサル〉【追H21】,のちに〈アントニウス〉と提携し,生き残りを図りました。しかし最終的に〈アントニウス〉の政敵〈オクタウィアヌス〉とのアクティウムの海戦(前31)に敗北すると,〈アントニウス〉,〈クレオパトラ7世〉はともに自殺し,前30年にプトレマイオス朝エジプトは滅び,ローマの属州となっていました。


●ヨーロッパ
 〈アントニウス〉を倒した〈オクタウィアヌス〉(位 前27~後14)は,前27年に元老院からアウグストゥスの称号を授与されましたが,プリンケプス*1
 ユダヤ人に対して支配を強化したため,ユダヤ戦争が起きたのも彼のときです。

 4人目の〈アントニヌス=ピウス〉(位138~161) の時は,帝国に大きな混乱もなく,まさに「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」【東京H8[1]指定語句】を実現させた皇帝です。
 その妻の甥で,〈アントニヌス〉の養子となった〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉(位161~180) 【本試験H4大秦国王安敦として中国に知られたか問う,本試験H8】は,ストア派哲学の著作ものこした通称「哲人皇帝」で,『自省録』【追H24ハドリアヌスではない、H27アウグストゥスとどちらが古いか】【本試験H8ギリシア語で書かれていない】を著しました(剣闘士を描いた映画「グラディエーター」は彼の治世が舞台です)。彼の使者を名乗る一行が,166年に現在のヴェトナムのフエに到達したと,中国の歴史書が記しています。ローマ帝国はインド洋の季節風交易【追H26この交易が始まったのは9世紀後半以降ではない】にも参入し,中国(秦(しん)の音訳から「ティーナイ」と呼ばれていました)からは絹がはるばる伝わり,ローマ人の特権階層の服装となっていました。ローマからは,ローマン=グラスというガラスが盛んに輸出されました。なお,皇帝〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉につかえた医師〈ガレノス〉(129?~200?) 【追H20時期(〈ガレノス〉を知らなくても〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉の侍医ということで時期がわかる)】の研究は,その後イスラーム医学やヨーロッパの医学に影響を与え続けました。

 この時代にはギリシア生まれの〈プルタルコス〉(46?~120?) 【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】【追H21,H24,H29タキトゥスではない】【同志社H30記】が『対比列伝(英雄伝)』【追H21,H24プルタルコスの著作か問う、H29】【早・法H31】【中央文H27記】という,ギリシアvsローマの“有名人対決”という企画モノの伝記をのこしました。

*1:市民の)第一人者【本試験H3ドミヌス(主人)と呼ばれていない】【追H24非自由民の呼称ではない】【東京H29[1]指定語句】「第一人者」)を自称していました。「元老院」の筆頭議員という意味です。ですから,元老院が存在することで,はじめて〈オクタウィアヌス〉も権力をふるうことができるわけです。

さて,数多く与えられた称号の中でもオクタウィアヌスは「プリンケプス」という称号を選んで名乗り,「皇帝といっても,ローマの一市民に過ぎない」という点を強調しました。そこで,彼の統治を,元首政(プリンキパトゥス) 【本試験H3専制君主政(ドミナートゥス)ではない,本試験H9】【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】といいます。

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 コロッセウム【東京H28[3]】【本試験H27ペルセポリスにはない,H29共通テスト試行 オリンピアの祭典とは無関係】【追H25中世に建設されていない】(ローマにある円形闘技場。実際には188×156mなので楕円形に近く,5万人収容)や,ギリシア風の劇場,戦車の競走場なども多数作られ,都市の貧民に対する「パンとサーカス」(食料と娯楽)の提供は,人気取りとして皇帝や有力者にとって欠かせないものとなりました。

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 〈リウィウス〉(前59?~後17?) 【本試験H17キケロではない,本試験H26】【本試験H8「リヴィウス」】【追H21カエサルではない】に『歴史(ローマ建国史;ローマ史)』【本試験H17,本試験H26世界史序説ではない】【本試験H8】【追H21】の編纂を命じ,ローマ建国から〈アウグストゥス帝〉までの歴史を書かせました。
 多くの名作を生んだ〈アウグストゥス〉【本試験H8】【セA H30コンスタンティヌスとのひっかけ】の治世は「ラテン文学黄金期」といわれます。「征服されたギリシア人は,猛きローマを征服した」の名言をのこした抒情詩人〈ホラティウス〉(前65~前8) 【本試験H8『アエネイス』を書いていない】が有名です(ただし,ギリシア文化がローマ文化よりも優れていたという話には,後世のヨーロッパ人が誇張したストーリーという面もいなめません)。
 〈ウェルギリウス〉(前70~前19) 【本試験H17『労働と日々』ではない】【本試験H8ホラティウスではない】【追H21ポリビオスではない】はトロイア戦争に題材をとった長編叙事詩『アエネイス』【本試験H8】【追H21】を,〈アウグストゥス〉の命により書き上げました。「ナルシスト」の語源になったナルキッソスのエピソードなどが治められた,ギリシアローマ神話がテーマとなっている『変身物語(転身譜)』や『恋の技法(愛の歌)』で有名な〈オウィディウス〉(前43~後17)もこの時代の作家です。
 ほかに,ギリシア人の歴史家・地理学者〈ストラボン〉(前64または前63~後23) 【追H17地球の外周の測定をした人ではない】 【法政法H28記】は,『地理誌』や歴史書(現存せず)を記しました。

クラウディウス帝〉の妻の連れ子が後を継ぎ,〈ネロ帝〉(位54~68) 【本試験H8家庭教師の人物セネカを問う,本試験H10時期を問う】として即位しました。ストア派【本試験H8】の哲学者〈セネカ〉(前4?~後65) 【本試験H8】をブレーンにつけて政治をはじめましたが,のちに暴君(ぼうくん)となります。

 さて,〈ネロ〉は哲学者〈セネカ〉を陰謀に加担したという疑いから,自殺に追い込みましたが,彼自身も属州総督の反乱が原因で,自殺しました。
 79年にはヴェスヴィオ山が大噴火し,ふもとの都市ポンペイは火山灰に埋もれ,16世紀陶に偶然発見されるまで街の様子はタイムカプセルのように保存されることになります(◆世界文化遺産ポンペイ,エルコラーノ,トッレ=アヌンツィアータの考古地区」,1997)。
 このとき『博物誌』【本試験H2天文学者プトレマイオスではない】を著した〈プリニウス〉(23?24?~79)は,市民の救出と調査に向かうも,火山ガスにより亡くなってしまいました(#マンガ ヤマザキマリプリニウス」)。

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◆「五賢帝」の時代にローマは“パクス=ロマーナ”(ローマの平和) 【本試験H3】を迎える
最大領域に達したローマの社会は変質に向かう
 その後,しばらく混乱が続きましたが,ようやく安定期に入ったが96~180年の「五賢帝」(Five Good Emperors) 【本試験H3,本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【本試験H13神聖ローマ帝国とは無関係】時代です。息子や家族を次の皇帝に指名するのではなく,優秀な部下を自分の養子にする形で次の皇帝に任命したために,優秀な皇帝が5人連続で輩出されたのだとされています。
 この時期を「人類史上もっとも幸福な時代」と『ローマ帝国衰亡史』【東京H22[3]問題文】で評したのは18世紀イギリスの歴史学者〈ギボン〉(1737~1794)でしたが,実際には領域の拡大,開発の進展により,ローマ社会は確実に変質へと向かっていました。“領土が増える”ということは,それだけ維持コストがかかり,領土拡大戦争が終われば奴隷(=労働力)の調達も滞ることにもなります。また,“市民が国家を守る”という原則も,領域の拡大によって次第に崩れていきます。

 では,いわゆる「五賢帝」を確認していきましょう。
 1人目〈ネルウァ〉(位96~98)の統治は不安定で,後継者を指名した後に亡くなっています。

 次の〈トラヤヌス〉(位98~117)の時代は、ローマ帝国の領土が史上最大となったときです【本試験H3最大領土となったか問う,本試験H6 2世紀初めのローマ帝国の領域を別の時代の領域を示した地図から判別する】【本試験H30】【追H24領土が最大となった】。ダキア(現ルーマニア) やメソポタミアに領土を拡大し,アルシャク(アルサケス)朝パルティアとも戦いました。ただし,アイルランド(ヒベルニア)【本試験H20アイルランドは獲得していない・地図】やスコットランド(カレドニア)の支配にはいたっていません。この2人の時代は自由な雰囲気のもとで,政治家の〈タキトゥス〉(55?~120?) 【本試験H15】【追H20トゥキディデスではない、H25『ガリア戦記ではない』】【H27名古屋[2]】が,ライン川の東・ドナウ川の北のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々について記録した『ゲルマニア』【本試験H7ガリア戦記ではない】【本試験H15ガリア戦記ではない】【追H20・H29『対比列伝』ではない、H25『ガリア戦記』ではない】【H27名古屋[2]】や歴史書の『年代記』など多くの著作を残しています。〈タキトゥス〉は,婿(むこ)として嫁いだ先の義理の父〈アグリコラ〉(40~93,ブリタニア遠征をおこなった)の伝記『アグリコラ』【早政H30】も執筆しています。

 3人目の〈ハドリアヌス〉(位117~138) 【追H24『自省録』を著していない】のときに,ブリタニア(現在イギリスがある島)にケルト人に対する防壁として「ハドリアヌスの長城」を建設します(◆世界文化遺産ローマ帝国の境界線」,1987(2005,2008範囲拡大